カテゴリー: novel

お転婆大魔王とうわさの生き物

──ねぇ、知ってる? 吸血鬼のこと。

それは人間にとって隣人であり、同時に得体の知れない存在だ。
基本的に人間に吸血鬼が目立って存在を主張することはない。概ね敵対することもなければ、大半の場合はどこにいるかわかりもしないようなものだ。
それでも最近、昔から語り継がれてきた怪談話の一部には吸血鬼が関わったものが存在しているらしいという話が飛び交い、それ以外でも噂話の話題として頻繁に登場するようになった。
それもこれも吸血鬼の活動そのものが活発になってきているらしいという、根拠があるのかないのかもわからないような話が理由だ。とはいえ、血を吸われたなどという話が飛び出してくる頻度は格段に上がっているため、あながち全てが偽りというわけでもないのだろう。
あれこれと噂を耳にしながら、バイト先で幸幸小雪はどこか落ち着かない様子で周りを見回してきた。
黙っていても聞こえてくる噂話、バイト仲間たちから告げられる話、どれもこれもが吸血鬼のものばかりだ。
小雪は元来、目立ちたがり屋な性分である。
そんな彼女が今まさに目立つものとして認識しているのが、吸血鬼という存在だった。
これだけ噂になって、話題に上る頻度の高いものであるならば小雪としては興味を抱かざるを得ない。
「幸幸さんの近くには吸血鬼っぽい人とかいる?」
問いかけてきたのはバイト先の同僚だ。噂話を好む彼女は、小雪にも多くの噂話をもたらしてくれる。
「まさか。いるわけないじゃないですか!」
小雪は問いかけられた言葉を豪快に笑い飛ばした。この言葉に裏はない。心当たりなど微塵もなく、いっそ清々しいくらいだ。
彼女には弟や妹など家族には事欠かないが、それもまた世間一般から見てもありふれた家族の一つと言って差し支えないだろう。
ここ最近の傾向より多少人数が多いという程度のことでしかない。
それくらい残念なほどに潔く、小雪の身の回りは〝普通〟が満ちていた。目立ちがり屋の彼女が、口惜しく感じてしまうほどには〝普通〟が満ち溢れていて、それはもう退屈を感じさせるほどに。
小雪のそんな正直で、それでいて複雑な想いはバイト先での何の気ない会話によってさらに膨らむことになった。

「なぁ、吸血鬼の噂って聞いたことある?」
そんな風に言葉を紡いだのは小雪だった。
当然独り言などではない。
彼女の隣にはぼさついた髪を揺らして歩く一人の男性の姿があった。
それぞれの右目の下、左目の下にあるほくろが妙に左右対称感を醸し出すが、そこ以外は非対称どころの騒ぎではない。
そもそも彼と並ぶと小雪の決して身長の高くないことがよくわかるほどなのだ。そんなはっきりと、そして歴然とした身長差のある二人ではあるが、小雪はそれを特に気に留める様子もなく、尋ねた言葉に対する返しを待っていた。
男性──橘暁は、小雪の隣を歩きながら少し考えるような仕草を見せる。
「吸血鬼、ねぇ。噂は特に最近、聞くことは多い気がするけど……それがどうかした?」
「やっぱり最近よく聞くよな、吸血鬼の話。けど噂ばっかりで、実在してるのかがはっきりしないだろ?」
そこでだ、と小雪は瞳をきらきらと輝かせながら暁の方へと視線を向けた。
反して暁は呆れを含んだ視線を小雪の方へと向け、次には肩をすくめる。
「小雪ちゃん、また何か思いついちゃった? 今度は何やらかそうとしてる?」
「やらかそうとは何だ!」
不服だ、という様子で小雪は声を荒げてから、じろりと鋭い視線を暁の方へと向けた。
そんな視線を一身に受けながら、暁はひとつ頷いてから口を開く。
「で、その実在しているかも分からない吸血鬼を、小雪はどうしたいわけ?」
「どうもこうも、その吸血鬼やらを見つけ出してとっ捕まえればアタシ、有名になれるよな!」
今度は勢いよく声を弾ませ、前のめりにずいと小雪は暁の方へと詰め寄った。
「ふーん……小雪は吸血鬼を捕まえて有名になりたいんだ……」
詰め寄られた暁は興味があるのかないのか、ただただそう呟いて小雪を見つめる。
この勢いを発揮し出した小雪を止めることは骨の折れることだ。付き合いがそれなりに続いている暁としては、それは火を見るよりも明らかなことであり、加えて止める理由も特にない。
「当たり前だろ! だから暁、一緒に探しにいくぞ!」
暁の何とも言い難い様子など視界には入っていないのだろうか、小雪は先ほどと変わらず瞳をきらきらと輝かせながら、満面の笑みを浮かべていた。
整った顔立ちであるにも関わらず、その表情は魅力的な女性というよりはわがまま放題の大魔王といった様子なのはどうしたものだろう。
しかしそれもまた暁にとってはいつものことだ。彼女のそういった様子は今に始まった話ではなく、その気質に結果として様々なことに巻き込まれる結果となっている暁としては、今更とすら評してしまうことができる。
それが暁と小雪の関わりだった。
相変わらずきらきらと瞳を輝かせたまま返答を今か今かと待ち望んでいる小雪に対して、暁は笑顔と共に言葉を返す。
「小雪ちゃん楽しそうだねぇ、頑張ってその吸血鬼とやらを探しな〜」
ひらひらと手を振って否定でもこう程でもない言葉を返せば、小雪は不服そうに口を尖らせた。
「言っただろ、一緒に! だからな」
この大魔王様は、同行者にもう暁を見定めてしまっているらしい。
またこれもいつものように、だ。
「はいはい、お供しますよ小雪様」
暁がそう返せば小雪は満足げに笑った。
これもまた既定路線の姿であり、こんな形に腰を落ち着けることもまた普段と変わりない。
小雪は何度も満足を示すように頷いてから「吸血鬼を探す旅に出るぞ」と鼻息を荒くした。
「いや、バイトは?」
「あっ……」
いきなりの挫折だ。小雪は頭を抱えて立ち止まってしまう。
どうやら、小雪は見切り発車で吸血鬼探しの旅に出るという閃きについてをそのまま話していたようだ。
暁としてはそんなところだろうとは踏んでいたが、あまりにも鮮やかな有様に思わず吹き出してしまわずにはいられない。
「笑うな」
「小雪、次のバイトいつ?」
「シフトは確か……明後日」
「じゃ、それに間に合うようにするか」
こうして急遽、手軽な旅行の感覚で小雪たっての希望による吸血鬼探しの旅が実施される運びとなった。

 

世の中というものは時として面妖なものだ。
得体の知れない吸血鬼、なんてものが存在をなんとはなしに主張していたり、その割に噂話ばかりが先行して詳細などというものは雲を掴むよりも遥かに難しいものだったりする。
しかし小雪はそんな状況を悲観するようなこともなく、それどころか己の野望を達成するということのみにしか興味がないようですらあった。
暁が小雪の家を訪れると彼女はすっかり準備万端で、いまかいまかとその時を待ち望んでいる。言ってしまえば楽しみにしていた遠足を待ちきれない子供のような状態だった。
「出発するぞ、暁!」
ような、どころかまるっきり遠足を待ちきれない子供だ。
「あーはいはい」
呆れきったように肩を竦めながら、暁は既に自宅を飛び出して先へ進みたくてうずうずしている様子の小雪に視線を向ける。
いまかいまかと出発を待ち望む姿は、二十歳を迎えた成人女性のものとは到底思えないものだった。
そんなはしゃぎきった様子の小雪のあとを追いかけ、暁は彼女の隣へと並ぶ。
「で、行先は決まってるのかな? 小雪ちゃん」
からかうような言葉と共に悪戯じみた笑みを浮かべる暁に対して、小雪は自信満々に胸を張った。
「同じ轍は踏まない、というやつだ! アタシだって日々成長しているんだからな」
内容も告げぬうちから勝ち誇ったように笑う。もしかしたら、傍から見る分にそれはどうしようもなく荒唐無稽かもしれないのに、だ。
「へぇ、聞かせてもらおうか?」
「もちろん!」
高らかに歌い上げるかのように小雪は言葉を紡ぐ。
「吸血鬼の専門家ってやつがいるらしい」
そんな何とも眉唾物くさい言葉を自信満々に口にしたかと思えば、場所やら何やらの調べはついているらしくもっともらしい言葉が躍り出てきた。
「なるほど……?」
暁はその言葉、その内容にどこまで信憑性があるものかと思考せずにはいられない。
だが、結局のところ小雪の満足のためにも行くしかないということは間違いなかった。
「というわけだ。まずはそこで話を聞くぞ」
当然ながら小雪はそんな暁の様子を考慮することなど一切なく、真っ直ぐに己の調べた道を突き進もうと動き出す。
結果から言えばそうすることが一番だ。彼女の満足はもちろん、提示された内容以外に行動の指針とできそうなところを暁は特に持ち合わせてはいない。
上機嫌に歩き出す小雪を追いかけながら、暁はたまらず苦笑した。

乗り物に揺られ、小雪の調べた〝吸血鬼の専門家〟の居場所へと二人は向かう。
噂の中の存在、現実味のない生き物、そんな吸血鬼の実在を確認しようということが目的なのだが、小雪の様子はまるで宝探しでもしているようだ。
乗り物を降り、しばらく歩いた先に小さな家が一軒あった。
現実離れしたまるで物語の中にでも迷い込んでしまったかのような場所で、孤立した一軒の住宅は小じんまりとしていながらもしっかりとした佇まいをしている。
小雪は逡巡すらすることなく、その建物の方へと歩いた。
当然ながら暁もまたその後ろから続いて歩いていく。
「すみません! 吸血鬼の専門家に話を聞きにきた!」
あまりにも不躾だった。
さすがの大魔王の振る舞いは、暁を小さな焦りを抱かせるが扉は開かない。
「留守かな?」
小雪は首を傾げながら扉の取っ手を握る。
すると、ばきと鈍い音が鳴って取っ手は外れて落ちてしまった。
面倒というのは小雪と一緒に行動している日常茶飯事だ。物事は拗れがちで、シンプルな事象すらも複雑化させてしまう。
だがそれを落ち着いて見守るような余裕は暁にはまだ持てない。せいぜい落ち着いているふりをしながら、小雪の様子をうかがう程度が関の山だ。
この状況にさすがの小雪も表情を引き攣らせる。
状況、具合がよろしくないことは一目瞭然だ。家主がこの場にいないことが不幸中の幸いと思えてくるほどに。
「お前たち、そこで何をしている」
だが、幸運というのはそう簡単にそして確実なものとしては訪れない。
小雪と暁の背後に声の主は立っていた。
「吸血鬼の専門家だな」
この状況では一般的な人間なら出てこないだろう言葉を、小雪は平然と口にする。こういった言動や行動が状況を悪化させることは目に見えて明らかではあったが、暁としてもこの状況を止められる手立ては全くと言って良いほどに思いつかなかった。
そもそも恐らく家主であろう人物から見ると、小雪は家をこじ開けようとしていた悪い人間であり、暁はその仲間と認識されていることは間違いないだろう。
ならば暁が止めに入ったところで、焼け石に水だ。それどころか火に油を注ぐような状況になるかも知れない。
すでに最悪に等しい現状を、さらに地獄や奈落の底へと叩き落とすようなことは、暁としては自分のためにも小雪のためにもしたくなかった。
「帰れ」
「それは困る」
だが、家主と小雪の会話はどうにも状況が好転しそうには思えない。
「うちの家に無理矢理入ろうとしていたやつが何を」
家主の言葉に小雪は自身が外してしまった扉の取っ手を見つめ、流石にばつの悪そうな表情を浮かべた。
「これは不慮の事故だ。吸血鬼の話を少し聞かせて欲しかっただけだからな」
小雪としてはそれは正真正銘、真実でしか無いのだが家主としては開き直りと偽りにしか聞こえないことは想像に難くない。
流石にこれは口の出しどきかと、暁はようやっと口を開いた。
「疑われるのは仕方がないと思うんですけど、話だけでもお願いできませんか?」
見るからに怪訝そうな表情を浮かべながら、それでも暁の言葉を否定したり遮るようなことはしない。
「……少しだけだ。終わったらすぐに帰ってくれ」
家主は人間性自体が悪いわけではない様子で、譲歩の姿勢を示してくる。
「ありがとうございます」
努めて謙虚な姿を見せる暁に対して、小雪は口を挟まないでいた。暁としてはそれは好都合ではあったのだが、何の意図があるのかははかりかねるものだ。
だが小雪は口を開くわけでもなく、家主もいる手前で声をかけることも出来はしなかった。
「で、吸血鬼の話ということだが……何が聞きたいんだ」
そう言った家主は、不遜そうに小雪と暁の方へ交互に視線を向ける。
「吸血鬼は噂を聞くばかりで詳しいことがわからない、そこをまず知りたい。後はどこにいて、何をしていて……」
「待って小雪ちゃん、それは聞き過ぎだから」
一切遠慮を見せることなく要望を口にする小雪に対して、家主の視線は冷たい。
暁は大慌てで小雪に釘をさすが、当人はというとどこ吹く風といった様子で飄々とした表情を浮かべるばかりだ。
家主の方は大きくため息を落としてから、次には肩をがくりと落とし小雪の方を見つめた。それは呆れと諦めの色をはっきりと映しており、どうやら小雪の問いに何かしら答えるつもりはあるらしかった。
「……実在する吸血鬼は、童話やらで出てくるものとは大きく違うことがある」
そんな語り出しから始まった家主曰く、吸血鬼は口の中の牙と血を摂取しなければ最終的には生きていけないということ以外は、人間と変わりがないという。陽にあたろうとも、聖水をかけられようとも、ニンニクや十字架を使用されようとも、人間に対する影響以上のことは発生しないと。
この特性があるが故に、人間の中で生活をしていても余程のことが起こらない限りは判別がつかない。血を手に入れる方法は多岐にわたるため、これを辿ることも難しいというのだ。
「これで満足か」
詳細に小雪の問いに答えた家主は、どこか不満げな表情で吐き捨てた。
これ以上は何かを告げるつもりもないらしい家主から聞くことのできた情報は、結果として吸血鬼というものは人間と遜色ない存在であり、判別も難しいということだ。
つまるところ、何一つ進展したことはない。
強いて言うなれば、わからないということを確認したというのみだった。
しかし小雪の目から見ても、暁の目から見ても、現状これ以上の情報を手に入れる望みは皆無だ。この場にいても家主の怒りを煽り、苛立ちを募らせる以外のことは何もできないだろう。
「迷惑おかけしてすみません、ありがとうございました」
暁が浅く頭を下げ、小雪もそれに倣って頭を下げた。
結果としては騒ぎを起こすばかりにとどまってしまったが、それでもとりつく島もないというほどの拒絶の対応を取られなかったことは、小雪と暁としては良かったところだ。
この場を離れながら、小雪は暁に囁く。
「思ったより、何もわからなかったな」
暁は思わず苦笑した。

二人は見知らぬ街を歩く。
もちろんその目的は観光などではない。
暁は手元で端末を確認しながら、小雪もまたその様子を確認しながら歩いている。
目的は拠点となる宿探しだ。
安価である程度の機密性があり、そして二人が別々の隣り合った部屋で夜を過ごせること。
最後の点については暁が頑として譲らなかった。
小雪はその点は取り立てて気にもしていない様子で、暁がそこまでこだわる理由がわからないというところではあったが、彼がこだわることを否定する理由もまたない。
そんなこんなで現状の先にあげた条件を元に宿探しを進めているというわけだった。
「そんなに難しい条件でもなさそうだがな」
吐き捨てるようにして小雪は言う。
そんな彼女に暁は苦笑してから「施設そのものが少ないみたいだよ」と言葉を返した。
実際二人の歩いているのは、いわゆる辺鄙と評するにふさわしい場所であり、宿そのものが少ないことは歴然としている。そもそも建物自体が少ないのだから当然と言えば当然だった。
幾らかの検索と電話を経て、やっとの思いで見つけたのは小さな宿だ。
要望は全て叶えられてこそいるのだが、何せ部屋が小さい。そして壁も薄く耳をそば立てれば隣の部屋の生活音の大半は筒抜けだろうことに気がついたのは、部屋に通されてからだった。
暁はあからさまに表情を曇らせてはいたが、背に腹は変えられないという気持ちもあるのか、不服は口にせず「小雪ちゃんはそっちね」とだけ声をかけて隣の部屋へ引っ込んだ。
小雪としてはそんな暁の様子がどうにも不可思議に思えて、荷物を置くなり隣の部屋に耳と意識を向ける。
直感的に何かがある、そう感じさせるには十分すぎる状況だったからだ。
小雪が耳を澄ましてみると、隣の暁の部屋からはがさがさと音が聞こえてくる。おそらく鞄の中身を出すか整理するか、そういった音なのだろうことは想像に難くない音だったが、そんな急いで自分自身の荷物を改める理由がよくわからなかった。
喉でも乾いていたのだろうか、そんなことを考えながら相変わらず小雪は隣の部屋へ耳をそばだてる。するとまるで示し合わせでもしたかのように喉の鳴る音が耳に届いた。
「……なんだ?」
小雪は思わず首を傾げるが、壁越しで音しか聞こえない以上は確認のしようがない。
これは何の確証もない小雪の直感が告げるものでしかないが、暁の行動をきちんと見ておかなくてはならないとそう感じていた。
少しの間、小雪は思考する。
だが悩むだけでは何も変わりはしないと思考する方向を変えた。
その場に立ち上がると、一才の躊躇なく小雪は隣の部屋をノックもせずに開け放つ。鍵もない部屋の扉はすんなりと開け放たれ、奥には当然ながら暁の姿があった。
しかし、一つだけ小雪が想像していなかった状況がある。
それは暁の手に握られたもの──半分ほど中身の減った輸血パックだった。
反射的に小雪の体と表情がこわばる。
「お前……それ……」
思わず口を開いた小雪に、暁は困ったように苦笑した。それはいつもの様子と変わらないものに思える。
ただ、暁の手に握られている輸血パックだけが違和感を発していた。
「……そっか、見つかっちゃったか」
やはり苦笑しながら暁はつぶやく。その様子からは諦観が強く強く伝わってきた。
「吸血鬼……なのか……?」
「そ、小雪ちゃんの探してた吸血鬼」
「なん、で……」
呆然としつつも問いかける小雪に、暁はごめんねと言ってやはり苦笑する。
小雪からすると青天の霹靂とでも言うべき状況だ。
自分の探していた吸血鬼が暁だなんて、想像すらしていなかった。
しかし考えてみると人間の中に紛れて、牙と血を飲むこと以外は何も変わらない人間の中に入り込んでいる吸血鬼が、暁ではないということはどこにも担保されていなかった。
小雪がただ、暁がそうであるはずがないと高を括っていたにすぎない。
かくして予想外に小雪は吸血鬼に行き合うことになった。
家族の次に身近な存在の正体を明かす形で。

『呪い屋』と億劫なる乙女

この世には、人を呪う店があるという。 その店で呪いを依頼した相手は、必ず呪われて魂すらもこの世に残らない。 ──本当にそうすることは、正しい選択なのだろうか。
プロローグ

人を呪わば穴二つ──使い古された戒めの言葉だ。
人間はどう生きようとも妬み、辛み、妬み、嫉み、僻みといった他社にまつわる感情を捨てきれない。そんな節のある生き物だ。
どうしても自分自身より自分以外の存在に対して何かを求めてしまう。
そのことそのものは肯定されるべきものとは手放しで言えたものではないが、同時に完全に否定されるものでもない。
それゆえに、そんなマイナスな感情を帯びた願いを、祈りを成就させるための場所というものは過去から現在に至るまで多く存在していた。
ここにも一軒、存在を知るものの前にだけ姿を現すとまことしやかに囁かれる場所がある。全ての〝呪い〟を完遂させ、成せぬことなどないという所謂〝呪い屋〟だった。
今日も店には客が訪れる。
取り立てて禍々しい何かを持つでもなく、浮いてしまうような何かがあるというわけでもなく、街中の人混みに立てば埋もれてしまうくらいのごく一般的な姿をした女性──彼女こそが客人だった。
彼女は視線を右往左往させた後、意を結した様子で扉の取っ手に手をかける。握って回せばがちゃりと音がして、扉は簡単に開くことができた。
少し古びた木の扉は音を立てて開きながら、客人である彼女のことを出迎えてくれる。
中に広がっていたのは世間一般の住宅と称される場所とは別物で、想像もつかないようなアンティークナ内装に彩られた部屋だった。
「お客かの?」
仰々しい口調にしては可愛らしい声が問いかける。
彼女の目の前に立つのはダボついた濃紺一色のワンピースに、いやでも目にとまるピンクの髪を持つ少女だ。
「え……っと……」
彼女は思わず口籠る。目の前の少女が先の声の主なのかと考えると口調の仰々しさが気に掛かり、別人の可能性を考えると目の前の少女の正体についての疑問が襲いかかるような状況だ。
それによって彼女はすっかり混乱をきたしてしまい、何の言葉も発せずにいるというわけだ。
「呪い屋に何かご用かの?」
少女は困惑するばかりの女性に再び問いかける。
その言葉に控えめながら少女は頷いた。
「はい……呪って欲しい人がいるんです。友達を」

 

二 其は店の主たるもの

迎えられた店は見た目と反して無骨な様々なものを少女の瞳に映す。
呆気にとられている少女に対して、彼女自身よりも幼い――ように見える――店主らしき人物は口を開いた。
「友達を呪いたい、とな?」
いかめしいくちょうは店主らしき人物の姿と全く合致することなく、違和感を与える。
「……はい」
少女がひとつうなずくと、店主らしき人物は小さく唸った。
「まぁ、まず座るとええ」
そう言うと店主らしき人物は少女にソファをすすめる。
一目では何か判断のつかない様々なものに取り巻かれながら、真ん中にソファはあった。
一般的な家庭に、一般的な部屋の中に置かれていたならばそれなりに存在感のある大きさである。
しかしこの店の中にあっては普通など目安にすらならない。
得体の知れない呪具のよなものあ、あからさまにおどろおどろしい様相の素材、それらはソファを取り囲みながらそれだけでは飽き足らず、所狭しと様々な場所で存在を主張していた。
ソファに腰を下ろしはしても、少女としては全然全く落ち着けるはずもない。
うろうろと所在なく視線を彷徨わせては、見てはいけない恐ろしいものと向かい合ってしまったという様子で目を伏せる。勇気を振り絞り、もう一度視線を上に持ち上げたところでやはり目前に広がるのはこの店の異様かつ恐ろしい呪具と思しきものばかりであり、結局はその視線を落としてしまうということを繰り返していた。
「ほれ」
そう言って店主はソファの前のテーブルにカップをひとつ置く。
少女は不安げにカップをのぞき込むと、店主が笑った。
「茶じゃ。怪しいものではない」
言葉の通りカップにはお茶らしきものが淹れられている。それでも不安を拭えず少女は口をつける前に、くんとにおいを確認してみるが彼女にもなじみのある茶の香りが確かにしていた。
一口、含んでみれば口の中には甘さすら感じる柔らかな香りに満たされて、気が付けば緊張と恐怖に支配されていた気持ちがほどかれて穏やかなものへと変化している。
「おいしい……」
少女は無意識のうちに言葉を口からこぼしていた。
「そうじゃろう?」
店主は少し得意げな表情を浮かべると、胸を張りながら少女の前のもう一つのソファに腰を下ろす。床につかない足が店主の姿をやはり子供に相違ないことをありありと伝え、少女に改めて困惑を抱かせる。
本当にこの人が自分の探し求めていた〝呪い屋〟なのだろうか。
何度目かの同じ疑問が少女の中を支配する。その疑問をまるで見透かすかのように笑った店主が口を開いた。
「さて、今度こそ仕事の話をしようかの」
その言葉を区切りにして店主の持つ雰囲気ががらりと変化する。それまでは少々茶目っ気があり、子供じみたところもまるで隠そうともしない。奔放と言ってしまえばそこまでではあるが、そんな言葉で片づけてしまうにはあまりにも幼さばかりを感じさせる姿があった。
だが今はどうだ。
それまでの幼さは見た目以外、見る影もない。
まとう雰囲気はぴりと緊張を帯び、真っ直ぐに少女へとむけられるしせんには確かな自信と誇りが感じられた。
「もう一度話をさせてすまんが、友達を呪いたいと?」
「はい」
「間違いはないようじゃな。では、詳しい話を聞かせてもらおうかの」
続けて促される言葉を受けて、少女は神妙にひとつ頷いて見せた。

三 愛しきは憎しに変わり

呪いを求めた理由は衝動的だった。
少女はどうにも幼いころより、他人と比べて一歩後ろに下がってしまうところがあった。それゆえに自身の要望を口にすること、己の望みを主張するという言動に苦手意識を抱き続けている。
だから、という訳ではないのだが妙に他者に固執してしまうところもあり、本人の意図せぬところで劣等感を埋めるよう必死な行動をしてしまうというところもあった。
おいて行かれたくない。
少女の正直な気持ちはそこに尽きる。せっかく一緒にいてくれる人を見つけたのに、おいて行かれたまた一人ぼっちに逆戻りだ。
そんな負の感情が少女を突き動かす。
最初は良かれと思って。だがそのうちそれは、伝わって当然とわかってもらえるものと錯覚を起こし始めるのだ。
とんだ勘違いだともわからぬままに。
「最初はね、堪えられたの」
しょうじょは淡々と告げた。それはそうだ。ずれていく感覚を認めてしまえば、次に自身のいる場所は十中八九奈落の底である。
「けど続かなくなっちゃった」
「それでわざわざ店を探して、ここまで来たと。そういうわけじゃな」
店主の言葉に少女はひとつ頷いて見せた。
「話をすることは望まんのか?」
「もう……出来ないよ」
店主の問いに対し、少女は首を横に振る。
もう試した後の話であるのか、ただ諦めてしまったがゆえの話なのかは少女は語らない。
「せめてあの人……友達と仲良くしている人と引き離して、私はそれだけで」
「ふむ」
店主がまたひとつ頷く。思案する様子を見せると、そのまま口を閉ざしてしまった。
「お願いします。友達が、あの子が一人になっておちていくように呪ってください」
少女は必死に懇願する。店主を見つめ、頭を下げてはまた目の前の様子をうかがうことを繰り返した。
それでも店主は、口を噤んだまま動きもしない。
そしてゆっくりひとつため息を吐いた。

四 我よ、それは在るべき姿か

人間というものはひとりでは生きられない。
どんなにか一人で生きることを、一人でいることを望み続けたところで叶いはしないのだ。
結局のところ人間は人間とかかわりを持たなければ、生きるということそのものが大前提となる。
それなのに、人間は争いいがみ憎しみあうことをやめられない。
だからこそ〝呪い屋〟なおという仕事が成立する。
人間は一人では生きられないが、比べてしまうこともやめることが出来ない。比べてしまう以上は、自身が生き残るためにどんな汚い手を使うことになろうとも目的達成をあきらめない。
「……にんげんとは面倒な生き物じゃのお」
店主はあきれた表情を浮かべてからつぶやくと、大きな息を吐いた。
必死に要望を口にしていた少女からしてみると、店主がどうしてこんなことを言うのか分からない。あまりのわからなさは腹立たしさすら感じさせるほどだ。
「そんな言い方、しなくてもいいと思います」
「気を悪くしたのならすまんの。じゃがこちらからすると、小さなことを気にして大変なことじゃなとおもってしまうものでな」
店主の言葉は少女をさらに苛立たせる。
重ねられた言葉は偽りがない。ないからこそ
どうしようもなく腹立たしい。
言ってしまえば、自身の悩みは小さくただ面倒なものだと切って捨てられたようなものだ。腹のひとつも立って当然というものだった。
だが同時に、少なくともこの店主の精神的な面については、どうやら人間とは違うものらしい。そう察してしまって少女はぞっとする。
ソファを囲む謎の呪具のようなものたちがこちらを一斉に見て狙われている、そんな錯覚に襲われて少女は慌てて一度まぶたを閉ざした。
「呪うこと自体は構わん。ただし、そのことで公開をしてもこちらはもう何も出来んぞ?」
手を出すのは一度飲み、そんな宣告を少女はまぶたを閉じたまま聞く。最後の確認を告げる声も、言葉そのものもずしりと重く響いた。
本当にいいのか、このまま進んでしまっていいのか。
その問いかけは少女を大きく揺らす。
「……どう、思いますか?」
「どうも何もないのう」
助けを求めて伸ばした手は、残酷とすら思えるほどの勢いで落とされた。
考えてみると当然ではある。そもそもの思考や在り方が根っこから異なっているのだ。わからないと、案に言っている店主がその回答を口にしてくれるのではという希望はあまりにも楽観的が過ぎる。
「これは自分で決めることじゃろう?」
追い打ちもまた、容赦なく残酷だった。
「とは言うても、せっかくここまで来たんじゃ。どうするにしてもやりたいことに協力はしてやろう」
店主はにんまりと笑って見せる。
その姿以外にはもはや可愛げや子供っぽさを感じるものは一切なくなってしまった。実際その通りなのだから、偽りひとつないことではある。
「その友達と友達のこと、もう一度しかと考えてみるがええ」
ぱち、一度だけ瞬きをすると少女の周りの景色が一変した。そこは呪い屋ではなく彼女の部屋だった。

一度は夢だったろうか、そう思ったのだが少女の手の中にあったものがそれを否定する。
手のひらにのせても小さく感じるそれは、何かの骨のように見えた。
しょうじょは驚き、反射的に手にあったほねらしきものを放り投げる。
『投げるとは失礼な娘じゃな』
しょうじょの部屋に声が響いた。聞き間違えるはずがない、呪い屋の店主のものだ。
「ど、どこに……!」
『今、放り投げた骨じゃよ』
店主の言葉を受けて、少女は今しがた自身の放り投げたものを凝視する。
耳を澄ませてみると確かに店主の声は、そちらから聞こえているらしい。
おっかなびっくりといった様子で少女は、件の骨を拾い上げ「これ……ですか?」と確認の声を発した。
『そう、それじゃよ』
再び今度は手元から聞こえてきた声に、少女はまた拾ったばかりの骨を取り落としてしまいそうになる。
何とかそれを回避して、処女は店主が目の前にいるわけでもないのに姿勢を正して呼吸を整えた。
「すぐに呪ってくれるんじゃないんですか?」
それとももうすべては終わった後なのだろうか――とも考えたが、すぐにそれはないだろうと浮かんだ考えを打ち消す。
もしもすべてが終わっているのならば、この店主が接触をはかってくるとは考えにくかった。
『言うたじゃろ。もう一度しかと考えてみるがええ、とな』
確かに言われたが、まさかそのあとすぐに放り出されるとは想像できるはずもない。
沈黙の後、骨から再び声が響く。
『どうするか決めたら話しかけてくるがええ。相談や話を聞くこともしてやらんではないが、あまり頻繁に呼ぶではないぞ?』
そう言われても、と少女は思案してみるが何をどう考えるのが良いものか、皆目見当もつかない。
呪うことそのもの、というと根本からの問題だ。
果たして自分は冷静に判断が出来ていたのだろうか、というところからの問題ともいえる。
時計を見てみると、短針は八の数字を指していた。
「いいかげんに起きなさい! 遅刻するわよ⁉」
階下から女性の鋭い声が届いて、少女はびくりと肩を震わせる。
「起きてる!」
主張する声を張り上げながら、今度は端末の方へ眼をやるとどうやら午前八時らしかった。
そして女性――少女の母親の声から察するにはあまりあるが、今日は平日で少女は学校へ行かなければならない状況なのは明らかだ。
場合によっては仮病なりで休んでしまうことも出来たが、それも先の大声の反応を返した後では厳しい。
少女は身支度を整えるといつもの朝を通り抜け、学校へ向かうべく家を出た。
裕津というものは、良くないものを引き寄せがちだ。
今の少女も例に漏れることなく、その状況をいかんなく発揮させようとしていた。
「あ、おはよー!」
届いた声に少女ははじかれようにして、くるりと振り返る。
そこには件の友達――と、その友達の姿があった。

五 友よ、それは偽らざるものか

「おはよう」
声を返しながら少女の気持ちは凍り付く。
一番会いたかった人間と、一番会いたくなかった人間がそこにそろって立っていた。
いつものように。
すっかり普段の光景になってしまった二人の並んだ姿は、やはり少女に悔しさや憎さなどのマイナス感情を抱かせた。
二人はまるで対であり、陰と陽ともいえるほどの対極差を感じさせる。だがそこがうまくはまるのだろう、気が付けばあっという間に二人は仲良くなっていた。
――私の方が、先だったのに。
汚い感情が顔をのぞかせる。
知っているのだ、これがただ嫉妬から来るだけの、醜くそして愚かな思考であるということは。
分かっているのだ、こんなことを考えたところで意味なんてないということは。
友達の隣にいるもう一人は、少女にあいさつのひとつもしようとしない。隣の人間以外はその瞳に映らないのだろう。
その盲目さが少女は嫌いだった。
それを可愛いと喜ぶ大好きな友達が嫌いだった。
矛盾であることは承知の上だ。
けれど苦手の塊のような人間が自分の居場所をかすめ取っていったような感覚は、どうしても拭い去ることが出来ない。
それを許している友に少女は勝手に幻滅し、勝手に裏切られたような気がしていた。
すべては身勝手、しかし感情は止まらない。
暴走し踊り狂うかのように、感情はあっちへこっちへと大きく動く。
何とかそんな感情を押し殺しながら、少女は笑った。
「先に行くね」
もうこの場にはいたくない。それだけは確かなことだ。
「一緒に行こうよ」
友達なんだから、という彼女は笑顔だった。
しかし隣の人物はそうではない。
消えろ、邪魔だ。とでも言いたげに憎々しい表情を少女へとむけた。
「ううん、ちょっと用事があるから」
少女はそう言葉を返し、足早にこの場を後にする。
きっとあの子は笑っているのだろう、そう思いながら。

そこからはまるで世界が色を失ってしまったように、全く楽しいことなどなかった。
彼女らを避けて、こそこそ行動する自身のことが少女は間抜けで愚かで滑稽に感じられるばかりだ。
こんな状況で何を考えればいいのだろうか。
朝と同じことを己に問いかけながら少女は一人、後者の隅で母親から渡された弁当を口に運ぶ。
件の友達以外、特に付き合うこともしなくなっていたため、少女には一人で昼食をとる以外の選択肢がない。
人付き合いというものは、局所的に行ってしまうと替えが利かないということを今さらながらに思い知る。
少女は世の中の厳しさにさらされているような気分で、ただ悶々としながら弁当をただひたすらに口へと運び続けた。味はあまり感じられない。
ため息を何度も吐きながら食事をしていると、聞こえてくる声があった。
「ウケるよね、ちょっと声をかけてあげただけでさ」
あざけるように言うその声の主を少女はよく知っている。
少女が好きゆえに憎さを募らせる友、その人のものだ。
ただし聞いたことのないような冷ややかなその声に、少女はただ嫌な予感を覚えた。

六 我よ愚かなり

だが、だがしかしだ。
全く知りもしない友の姿は、様子は、声は、少女を強く惹きつける。
怖いもの見たさ、などという言葉があるがまさしくそれに他ならない。
本当は見なくても良いどころか見るまでもないほどに分かりやすく、嫌な予感しかしないものであろうとも。
少女は姿を隠したまま、彼女の声に耳を傾けた。
「あの子、あたしのこといつも持ち上げつつ引き立ててくれるのは良いんだけどちょっとこう……ウザいんだよね」
悪びれる様子もなくあっけらかんと告げる声は、冷たい嘲りを含む。
「……わかる。もじもじしてさ、声かけても気にしてませんけどって感じで強がっちゃってる感じも無理」
応える声もまたやはり少女には覚えのあるものだ。少女はごくりと息を呑む。
「だよねぇ」
友達と思っている女の普段より何倍も下品な笑い声は、応えた声の主のいやらしい笑い声と混ざり合って廊下に響いた。
もう出ていく理由は、ない。
少女にはこの話題にされている〝あの子〟は自分なのではないかという疑念が、渦巻くばかりだ。
しかしそれを確信を持ったものに変えたくはない。あんなにも大好きで信じていた友達は、自分のことを好きでいてくれたわけではないらしいという、もうそれだけで胸が押し潰されそうだった。
「⚫︎⚫︎⚫︎、いいかげんウザいしムカつくわ」
⚫︎⚫︎⚫︎、それは少女の名前だ。聞き間違えたくともそうはいかない。
憎さを勝手に募らせていた、そう思っていた友達当人の方がよほど少女よりも負の感情を募らせていたことは確かだった。
──嗚呼、なんて。
──愚かしい。

七 其は断ち切るに値する

昼休み以降の少女は、憂鬱の代わりに諦めのみを胸に抱いてただただ存在をしているのみだった。
何の感情もなく、ただそこに在るだけ。
絶望ですらなかった。
授業を終えると脇目もふらずただ真っ直ぐに少女は自宅へと帰る。それしかなかった。
自室にこもって、彼女は気付く。
こんなにも衝撃的で、ショッキングな出来事であるにも関わらず、涙の一つも出やしないということに。
――私って、そんなに薄情だったの?
そんな事実のほうがよほどショックで、少女は一人ベッドに顔を伏せる。
しかし件の骨のことを思い出して、弾かれたように身体を起こすと「店主さん、聞こえてますか?」と声を発した。
『なんじゃ。不躾じゃの?』
少しばかり不機嫌そうな声が室内に響く。
「お願いがあります」
落ち着きを払って静かに少女は言った。
『ふむ、どうするか決めたということかの?』
「はい」
答えのあとしばらく、静寂のみが部屋を満たす。まるでそこには誰もいないと感じさせるほどの静けさだった。
『して、どうするんじゃ?』
静寂を破ったのは店主の声だ。
「やっぱり、あの子を……あの子達を呪ってください」
『……いいんじゃな?』
「はい」
躊躇いはない。
少女は決意の表情を浮かべていた。

──これで、おしまいにしよう。

八 さらば友だった者よ

『……承知した』
店主の声はことのほか穏やかに響いた。
瞬きをすると、そこはもう少女の部屋ではない。あの呪い屋の客間だった。
「えと……あれ?」
「二度目であろうに。慣れんか」
「さすがに無理です……」
不服そうな店主に対して、少女はがっくりと肩を落としながら言葉を返す。
「まぁええ」
店主は心底わからないという表情を浮かべながらも、この流れを自ら断ち切った。
「本題じゃ。あの子達、と言うたな。誰と誰のことか名前をこれに記すがええ」
テーブルの上に差し出されたのは観るからに胡散臭い一枚の紙だ。なにが胡散臭いのかと言うと、紙そのものが茶色がかって変色してしまっていると言うところがひとつ。加えて名前を書けと指された枠のすぐ近くに書いてある文言が「何があってもやり直しは効かない。一度のみ有効」となっていると言うところがふたつ。
これらは詐欺にこれからあうぞと宣言されている、そんな気分にさせられる。
「……これに、ですか?」
「これ以外に何がある」
疑心のままに問いかけた少女に、店主は当然という顔で言葉を返した。
「……わかり、ました」
苦々しい表情のまま、少女は結局のところ言われるが通り差し出された神に二人の名を書き記していく。
すると記された名前はひとりでに浮き上がり、空中をふわりふわりと浮遊し始めた。
驚きに少女が目を丸くしているなか、当たり前のように店主は名前たちを手の内へと収める。
それらを店主は煮えたぎる鍋の中へと放り込むと、。少女がわからない言語を唱えた。
鍋の中身がぐつぐつと煮える音と店主の唱える何かしらのみが部屋を満たす。少女はただ息を潜めて様子を窺っていた。
脳裏には共と思っていた彼女のこれまでの言葉や表情が浮かび、最後には昼休みに聞いた言葉が蘇る。同調するもう一人の声も一緒に蘇り少女はもういてもたってもいられず、鍋から顔を背けた。
──どうしてあの子のことが、あんなに好きだったの。
優しくしてくれたから。
──どうして私と仲良くしてくれなくなったの。
本当は嫌と思われていたから。
──どうして、私は。
もう忘れてしまえばいい、そう考え直すと心が少しだけ軽くなった。どんなに考えても当人が不在である以上答えなんて出やしない。
あの瞬間の下劣な言葉と笑い声が耳に残って離れてくれそうにないが、それもいつかは薄れて消えていくだろう。
「これで、終わりじゃ」
気がつけば店主は何かしらを唱えることをやめていて、少女の目の前に表情ひとつ変えずに存在していた。
「あの子たちはこれで……」
「呪いを受けた。その後にどうなるのかは当人たち次第じゃな」
あっけらかんと言ってのけてから、店主はさらに言葉を続ける。
「では、この縁もここまでじゃ」
店主の声は妙にはっきりと少女の中に響いた。
「え、でも私……」
「金はとらん」
少女が問おうとしたことを先回りして店主は返す。
「そうじゃな……強く生きよ、折れずにな」
その言葉を最後に少女の意識はぷつりと途絶えた。

エピローグ

少女の生きる世界は狭い。
これと言って状況は大きな変化を見せなかった。
大義的な意味においては。
少女の体感としては大きな変化が起きていた。
件の二人が手のひらを返したように、あからさまに少女に対していい顔をし始めたのだ。とは言っても一定の距離を置かれながらではあるのだが。
表面上、邪険にされずに済んだことは少女としては大きかった。
だがそれでも彼女の心の奥には二人の残酷な言葉が突き刺さったままだ。
と言っても、二人が心を入れ替えたとでも言わんばかりの改心ぶりを見せているのは悪くない気分だった。
反省してくれたならそれでいい。
そんな気持ちがどこかにあったのも嘘ではないのだ。
昔のように戻ろうだなんてもう思えないと言うところもあり、波風立たずそれなりに平和が保てていると言うのは彼女にとっては大きな変化かつ、僥倖なことだった。
彼女は新しい世界に向けて足を踏み出している。
今まで関わりを持たなかった別の人間と関係性を構築しようと今必死なのだ。

『強く生きよ、折れずにな』

あの店主の言葉は効き目抜群だった。
自分自身を変えるきっかけとなった、子供のような姿をした決して子供ではないあの店主とは二度と顔を合わすことはないだろう。
それでも少女は、少女ではなくなってもずっとあの店主の言葉を胸に、そして感謝の念を胸に、生きていくのだ。
相変わらず生きづらいこの世界で。
己の罪と、己の不足を確かに感じながら。

届かないものよ

君の声は遥か遠く。
笑ってくれないか、そう願っただけだった。
それなのに、君の姿も声も全てが遠くにある。
こんなにも思っているのに、何ひとつも届きはしない。
伸ばした手は空を切り、誰にも何にも届きはしないままだ。
もう君と会えなくても、君に認識されなくてもいい。

──だから、ただ、笑っていて。

虚しきはその姿

不思議なものだ。
何かが少し変わるだけで、それまで気にもかけなかったものに意識が向く。
まるでそれが、それだけが害悪と言わんばかりに糾弾し出すようなことだってあるのだ。
受け取るものも声を出すものも、等しく全ては自身のフィルターを通して物事を観測する。
冷静さは個々によれど、公平性など夢物語だ。結局のところ人は自分の望む形にものを見る。
悪者にしたいものを悪に、不快に思うものに弾圧をどうしても求めずにはいられない。そういう生き物なのだろう。
不思議で、虚しく、愚かな、愛しい生き物。
それこそが人間だ。
吐き気がする。
けれどそれこそが汚くも美しい。

カラパレ「花菖蒲」

「──僕を信じてもらえるだろうか」
彼の青空のごとく鮮やかな瞳は、真剣そのものだった。
信じなかったことなど、出会ってこの方一度だってない。いつだって最善を尽くし、死力を尽くし、自分だけでなく誰かのために全力な彼だからこそ、共にいた。
そんな彼からの言葉を信じないなんて、あるはずがないのだ。
「もちろん」
口からは自信に裏打ちされた言葉を発しているにも関わらず、瞳には涙が溢れる。
これは彼のやりたいことへ続く道、そのために今しばらくは離れることになるということを頭では理解しているのだ。
けれど、感情は純粋に彼と離れることを〝寂しい〟と感じている。
彼は最愛の人だ。当然、会えぬ日々は寂しくてつらくてたまらない。
そのことを察したのだろう。優しく彼は瞳に溜まっていて涙を拭い取った。
「つらい思いをさせることを、どうか許してほしい。しかし必ず、戻って君をもっと幸せにすると約束するから……笑ってくれないか」
「……はい」
その決意と願いを受けて、微笑む。きっとこれが最善で、最良の選択だと信じて。
変えた表情に応えるように、彼が恭しく手をとってから手のひらとそして指先に軽く口付けた。
「次に会える時を楽しみに頑張るよ。また、連絡する」
そう言って彼は今までの真剣な表情とは打って変わって、まるで子供のように純粋で屈託ない笑顔を向ける。
別れ際、天つ空に映えるその姿は希望の象徴のようですらあった。

この手はきっと

少し先に生まれた自分。だがそれだけで、長子とされて厳しい日々があった。
だがそれがどうしたと言うのだろう。
先に生まれたからこそ、後に生まれた家族を守ることが出来るのだ。
必死で厳しい日々は、手を伸ばし届かせるための準備だった。
これで平穏を守ることが出来るのならば安いものだとすら思う。
伸ばした手が届かないかもしれない。
そんな恐怖は少ないに越したことはないのだ。大切な人を守るには、全てをこの手に乗せて決意を見せつせていかなければならない。
まだやれる、この手が届くなら。

いついかなる時も立ち向かう者

いつだってなにかに立ち向かう時は自分一人きりだ。
当然と言えば当然の話ではある。自分の問題に立ち向かうのは自分ただ一人だ。それ以上でもそれ以下でもない。
彼女はそれでも、折れぬように倒れぬように、そこに立つ。表情は負けられない決意も背水の思いを感じさせた。
目には見えずとも、自分の行為は誰かのためになるものだと信じているのだ。
不安にもなる、虚無を感じることもある。だが、それを否定することは決してない。

──だって私は、独りなんかじゃない!

尊き音は空に溶け

弦を弾き音色を確かめる。慣れた手つきで楽器の隅々に至るまでを確認し、彼は満足そうに頷いた。
幼い頃からならい続けたバイオリン。はじめこそ思うように音が出ず、もうやらないと何度も親に主張したものだったが、今ではもうそんなことも無い。
奏でる音も全ては思うがまま。
次はどんな音は奏でようか、考えるだけで胸が高鳴る。自分は本当に音楽が、そしてバイオリンが好きなのだと痛感するばかりだ。
タイミングを図り、息を吸い込む。
今日は大切なモノに送る音に決めた。愛しくそして焦がれる思いを音に乗せる。
音は空へと舞い上がり、羽ばたくように響き渡った。そして次には溶けるがごとく消えていく。
きっと君に届くだろう。この音も、この思いも──届くだろう。

カラパレ「翡翠の翅」

随分遠くまで来たものだ。
いつか僕に感情をくれたあの子はとうにこの世にはいない。僕に何かを食する楽しみをくれた老人もだ。
悲しみにくれたあの日からどれほどの日がたったのだろう。人ではない僕には実感がわかない。
いや、これはただの言い訳だ。
寂しい時間を数えるのが嫌だった。みんなが居なくなったと思い知らされるのだ。
どうして自分は一緒に逝けないのだろう。
僕の機能が止まってしまえばと願うのに、どうしてか丈夫でそして頑丈な身体が今は疎ましい。
それでも、彼女の──ミサの願いを叶えるべく今日も今日とて駆動する。

「世界を沢山見てね。私の見れなかった綺麗なものを、沢山見て」

残酷な願いは甘ったるい砂糖菓子のような存在感を放ち、淡く紅茶のような残り香とともに僕の中に存在していた。
何度も何度も振り返る。
そして彼女の願いを見つめるのだ。
無下にすることの出来やしないその願いを。

あの日はきっと向かい合っていた

あの日、確かに恋をしていた。
好きだよと言えたら良かったのだけれど、その一言が言えないままだ。
ずっとずっと、言えないままで来てしまった。

今日は君の結婚式。
片や自分はただの参列者だ。
そう、言えないまま気がつけば大切な人は知らない誰かと共に人生を歩むと、選択を下していた。
滑稽だ。
自業自得の苦しみは、じわじわと首を絞める。
おめでとう、そしてさようなら。

溢れてもなお君が好き

気持ちが溢れる、そんな体験をしたことがいくらあったろうか。
彼は目を細めた。その表情は穏やかで柔らかいものだ。
大切な人がいる。たまらなく愛しくて、たまらなく幸せな気持ちにしてくれる人だ。
〝大切〟の意味を知るのに時間はかかってしまったが、彼女が笑顔になるだけで自分は嬉しくなるのだと知って、彼女の存在に落ち着きと癒しをもらっているのだと知って、気持ちは自然と口からこぼれて落ちる。
──君は、どんな顔をするだろう。
彼の目の前に立つ彼女はみるみるうちに頬から耳に至るまで真っ赤に染め上げた。
それでも彼がこぼした言葉に嬉しそうに微笑む。
その姿をも愛おしく、彼もまた微笑んだ。

カラパレ「ミルフィーユ」

「わぁっ、見て見て!」
弾む声が隣で響き、声の主がそのいちごのような色の瞳をキラキラと輝かせながら指差す。
語りかけられた相棒とでも言うべきか、そんな存在である彼はつられるように指さされた先を見た。
「仔猫?」
目に映っているのは確かにふわりと柔らかそうな子供の猫以上でも以下でもない。しかし、予想していなかった存在に驚きの声が落ちた。
「うん! かわいい!」
いつも以上に表情をくるくると変えながら、彼は仔猫のもとへ近づいていく。猫の方は緊張や警戒をしている様子もなく、近づいてきた手を受け入れてされるがままになっていた。
「すごいな……僕はあまり動物には好かれない方だから、驚きだよ」
それは心からの関心の言葉だった。
「そう?」
応える声は目の前の状況を当然として、疑いのひとつも感じてはいないようだ。あまりにも違う目の前の存在がどうしようもなく尊くそして愛おしいものに思えてならなくなっていく。
心の奥がほんのり温かくなるような、そんな感覚。
見上げてくる彼と、仔猫の視線を一身に受けながら普段はあまり表情を変えることのないもう一人の彼の表情がたまらず緩んだ。