晩から潜入捜査をするにあたり、朝一番に我妻の元に宇髄からの連絡が飛び込んだ。それも朝日が昇りすぐ、日の出とともにというタイミングにだ。
『おい、我妻。昼には事務所に顔出せよ、いいな!』
必要なことだけを告げた宇髄の連絡はすぐに途切れて、そのまま何事もなかったような静寂が、我妻と彼の自室を包む。
叩き起こされる形になった我妻は、寝ぼけ眼を擦りながら昼前に目覚まし用のアラームをセットすると、そのまままた眠りの世界へと落ちていった。
自分自身で設定しておいた、けたたましいアラーム音が耳元で鳴る。
我妻はびくんと小さく身体を震わせて、音に反応してからのろのろと端末に手を伸ばした。やっとのことで音を止めると、我妻はベッドの上で大きく伸びをする。
深呼吸をしてから、ゆっくりと上半身を起こすと人と一通り凝った身体を動かしながら、ひとつあくびをした。
宇髄の電話のことを思い出し、我妻はほんの少しだけ表情を歪める。おそらくは潜入のための衣装を合わせるのだろうことは容易に想像がついたが、そのこともまた彼をうんざりとさせていた。女装のための衣装合わせである。
それでも我妻は事務所に向かうしかない。まだ覚醒しきらないままの重たい身体を引きずって、動き始める。
口から今度はため息が溢れるが、それでも緩慢ながらも動き続け、顔を洗い歯を磨きそしてスーツに身を包んだ。潜入ばかりしていたせいか違和感ばかりがついて回るが、事務所へ顔を出すのだから仕方がない。
我妻はそれとなく身綺麗な程度には全身を整えると、しばらくは戻ることができないだろう部屋を最低限の荷物とともに後にした。
昨日、竈門と通った道を我妻は一人歩く。少し気まずく、それでいて少しだけ懐かしさも感じたことを思い出してしまい、我妻は反射的に舌打ちをすると自身の行動に今度はため息を吐いた。
自分は何をしているのか。つい、そんなことを考えてしまう。無意識のうちに竈門のことを考えてしまっている、そのことが我妻自身どうしても解せなかった。
そりが合わない、そう思うことが多い一方で竈門との仕事の上で行動を共にする機会は少なくない。それ故なのか、ふとした時に竈門のことを思い出すことが我妻の脳裏でよく起こるのだ。彼自身としては〝合わない〟と感じている手前、竈門のことを思い出してしまうこの状況は解せないことでしかなく、若干の腹立たしさを覚える。
仕事をする上では決して無理でも嫌でもない。だが、ふとした瞬間に合わないと感じてしまう。相性が良くないのだろうと我妻は常日頃から思っていた。
そんな取り留めもないことを考えながら、それでも足は事務所へと向かう。秋の気配が深まりつつある道は今日も色鮮やかだ、少し重たさの残る足取りで、そのうち我妻はいつもの事務所へ至った。
すると、多数の女性職員の姿が見受けられる。何が起こったのだろうかと考えているうちに、彼女らが我妻を取り囲んだ。
「え……っと?」
間の抜けた我妻の声は素通りして、まるでなかったことのように女性職員たちはぐいぐいと彼を事務所へ引き摺り込む。
「早く来てください」
職員たちのうち一人が我妻の腕を掴みながら言った。ほんの少しだが苛立ちを含んだ声は、我妻の動きを急かすには充分なものだ。
彼女らに急かされ続け、押し込まれたの大きな会議室だった。
初めこそ何が起きようとしているのか核心自体は持てずにいた我妻だが、この場へ至るまでには状況についてすっかり予測がつくに至っている。これはやはり潜入時に行われる衣装合わせだ。家を出るときには思い至っていたことに、すっかり失念してしまっていたが、これは半ば決まり事のようなもので――状況に応じるため必ず、というわけではなかったが――潜入するにあたっては必要なことである。形から入る、などということもあるが潜入はまさしくそれだ。
そして今回、我妻の目の前に並んでいるのはどれもこれもが女装を施すためのもの。華やかで煌びやかな衣装たちは、お世辞にも動きやすそうとは言えないものばかりだ。
別段この衣装決めの時間を苦に思ったことは今までなかったが、今回ばかりはそうも言えない。望まぬ女装は、本人が思うよりもずっと彼自身を意気消沈させていた。
されるがままになっている我妻に、女性たちはこれでもない、あれでもないと服をあてがってはやめ、さらにあてがってはやめるを繰り返す。それは所謂メイド服であったり、ダンスパーティにでも行きそうなドレス、学生服なんてものまで登場し、口こそ開かないが捕まえる側が犯罪じみていることを滑稽と思わずにはいられない。
これでもかと、まるで着せ替え人形かのように扱われて、我妻はすっかり疲れ切っていた。そのげんなりとした様子は、側から見れば分かりやすく明らかなものだったが、女性職員たちには残念ながら全く持って伝わっていない。
何時間にも及ぶ着せ替えと、それに加えて簡易的にではあるが行われる化粧の繰り返しに、我妻だけが虚無感を覚えていた。
この状況を女性職員たちは面白がっているのだろう。やれこれはどうだ、これならどうなるとやりたい放題だ。仕事だからで片付けるには度が過ぎていて、楽しまれているのだろうことは明白だった。
だが、やはりされるがままの我妻には、目の前で行われているその全てをぼんやりと見つめるくらいしか出来ることがない。
面倒だという気持ちと、早く終われば良いと願いを抱くばかりだったが、昼頃にこの場にやってきたはずなのに室内の壁にかけられた時計はもう夕刻を指していた。
脱線にも等しい女性職員たちによる我妻のファッションショーの結果、彼の衣装には最終的に選定されすぐに準備がなされる。我妻は正直なところ、いつこれが選定されることになったのか、この場にいるにも関わらずよくわかっていない。だが女性職員たちは口々にチャイナドレスと口にしていて、次の着替えをと望まれなくなったところから、衣装が決まったということだけは理解できた。
着せられたチャイナドレスは真っ黒なものだ。赤など派手な色に金の柄が入っているもいのが彼の中で印象深かったこともあり、我妻は驚きを隠せなかったが、あまり目立たずシックな雰囲気だけは悪くないと思えた。
肩から腕にかけては透けるシフォン地の柔らかな布が用いられる、上半身はシンプル。そして意外にも、スリットが横ではなく前面に来ていたことだ。彼から見て、右側の足のちょうど真ん中にスリットがあり、その少し変わったデザインは女性職員をも驚かせていた。
全身――足元まで、だ――黒でまとめ、頭には地毛と同じ金髪のロングヘア仕様のウィッグを被せられる。その出立ちに合わせた化粧に整えられた顔は、きつ過ぎずそれでいてはっきりとした表情を印象付けていた。
この化粧によって特に変貌を遂げたのは彼の目元だ。細く長く伸びた睫毛と美しく煌めくアイメイク、そして彼の目の下に深く刻まれている隈もすっかり存在を隠されていたところだ。これは我妻自身も驚きを隠せないものだった。
「うわ、すげ……これで……終わり?」
尋ねる我妻の声に、女性職員たちは頷きながら口々に似合っていますね、よかった、とても良いと思いますと言葉を彼に向ける。女装である以上、どうしても額面通りには言葉を受け取りにくいが、貶されているわけではないという点では我妻を安堵させた。
鮮やかな黄色のストールを一枚手渡され、我妻はそれを羽織りながら駐車場へと向かう。女性職員たちに見送られる自身の姿に違和感が先に立ってしまい苦笑してしまったが、それでもこの先に待ち構えている潜入捜査という仕事に表情を引き締めた。
駐車場に用意されていた車へすぐ乗り込むと、あっという間に事務所を後にして目的地に向けて走り出す。竈門とこの後に合流すれば潜入開始だ。
「我妻さん」
後部座席に座る我妻に、助手席に座る職員が声をかける。
「はいはい?」
返事をした我妻に、助手席の職員は店へと竈門と共に入り込む手筈と、仮住まい、それらについての詳細を語り始めた。
店へ向かう道すがら竈門と合流した上で、まずは正面から店へ入る。店に入るのは確実に、そして万全にその全てが整えられていて、その通りに動けば問題ない。そこからは我妻と竈門にしてみればいつも通り、情報を探り裏をとって現場を押さえて犯人を確保する。これこそが我妻に求められていることだった。
「以上です、大丈夫ですか?」
一通り説明を終えた助手席に座った職員がちらりと後ろを振り返る、我妻に確認の言葉を向ける。
「ん、オーケーオーケー」
片手をひらひらと振って我妻は笑った。慣れたものだ。
そしてややもせず、車はブレーキをかけてゆっくりと止まる。
「では、ここで」
そう声をかけられ、我妻はゆっくりと車を降りた。少しヒールのある靴がコツンと音を立てる。慎重に歩き出すと道路を挟んで反対側に人影が見えた。黒い上着に白いシャツ、そして黒いパンツを身につけたバーテンと思しき整った出立ちは、日が落ちて暗さを帯びたこの場所でも目を引く。顔立ちも遠目で分かるほどの良さで、そのことも含めて尚のことその人物の存在は目を引くものだった。
我妻はその人影を目にして。チッと露骨に舌打ちをする。その後、すぅっと大きく息を吸い込むと大声を張り上げた。
「おい!」
人影はその大声に反応すると、周りを気にしながら道路を横断して我妻の元へと駆け寄ってくる。それは竈門だった。
「なんでお前は! そんなまともな服着てるわけ⁉︎」
血管の一本も浮き上がってきそうなほど声を荒げて、我妻は全力で不服を表す。
「俺に準備されていたのがこれだったからですね」
「そうだろうね!」
飄々と言葉を返す竈門に、我妻はまたしても大声を張り上げた。だが、ウェーブのかかった金髪に適度に化粧で飾られた我妻の姿では、凄んだところでたかが知れている。
実際、竈門もあんぐりと口を開け驚いた様子を見せたまま、身動きひとつもしない。機械でいうところのフリーズ、そんな様子だった。
「俺は! 二人揃って女装するって! 思ってたんだよ! なのにどうしてそっちはバーテンなの⁉︎ 全くもって納得いかないんだけど!」
大声かつ早口で捲し立てる我妻からは、分かりやすく嫉妬の感情が溢れていて、竈門はつい苦笑してしまう。
「情報を得るには、別の角度からものを見る方が良いと思いますけど」
「わかってるけど! お前がこういうのよりそっちが向いてんのも、お前の言ってることも! よぉく、わかるんだけれども!」
冷静な竈門と、少しも冷静さを取り戻せない我妻という両極端な様子は見る者がいたならば、どうしようもなく滑稽に見えるものだ。しかし当人たち――特に我妻にしてみると――真剣かつ深刻なものである。
「あ〜……納得いかねぇ……」
みるからに言葉通りの感情を全身に纏いながら、絞り出すように声を吐き出した。そしてぎりぎりと歯軋りまで始めて、口惜しさばかりを滲ませる。
竈門は我妻の見目とは全くそぐわない姿に、ただただ苦笑することしか出来ない。
「笑ってんじゃねぇよ、全く!」
申し分なく納得のいかないことを捲し立て、それでも足りないと口を尖らせる。
鼻息荒く、怒りも嫉妬も隠す気配がない我妻を、竈門は変わらず苦笑とともにただじっと見つめていた。内心のところ、黙っていれば綺麗な人に見えるのにと上の空なことを考えながら。けれどこれでは埒があかない。
「我妻さん、店に行きましょう」
竈門は口を開くと、店へ向かって歩き出す。彼の言葉はもっともであったし、ここで立ち止まることで何か利になるとは微塵も思えなかったが、我妻はそれでも状況が腑に落ちない。
「全く、なんだってんだよ!」
吐き捨てる言葉と共に我妻もまた歩き出す。目の前には竈門の背中があった。いつもであれば大したことはない歩くそくどであるはずだが、慣れないヒールがいつも通りの動作を阻む。そのことすらも口惜しい。
「我妻さん?」
「何」
「大丈夫ですか?」
「何がよ」
竈門の言葉に主語はなく、我妻からするといまいち話が伝わらない状況は、さらに彼を苛立たせた。
「足が……」
ゆっくりと速度を落として我妻の隣に竈門が並ぶ。
「べっつに! これくらい!」
「なら良いですけど」
いつもより少し丁寧に扱われた気がして、我妻はそのことに対して感じた若干の嬉しさを自分の中からかき消すように、ぶっきらぼうかつぞんざいに声を発する。竈門は重ねて何かを言いたげではあったが、ぐっと堪えて立ち止まる。
続いて我妻も立ち止まった。二人が肩を並べて見つめるのは目的地、潜入先である店だ。ここでまた、新たな仕事が始まるのだと二人の気持ちは自然と引き締まる。
「我妻さん」
竈門が隣に並ぶ我妻を呼んだ。
「うん、行こうか」
我妻が応えると、竈門がうなずく。
二人はこの場での潜入捜査へ、足を踏み出した。
竈門はバーカウンター、我妻はホール、それぞれで接客を担当するように全てが整えられていた。出迎えた店の人間が、決まりきった口上のように事前に知らされている内容そのままに話をするのは、不思議であり面白くもある。
当日からさっそく調査を開始し、仮住まいとバーを往復する日々が始まった。しかし今回はいつもとは違う様相を呈する。二人でことに臨む時は短期的な行動が大半で、その折にはすぐ解決への糸口が得られるなど進展があることが多い。
だがそれがさっぱりだった。噂はある、ただそれだけなのである。探しても探しても証拠の一つも出て来やしない。痕跡の一つだって見つかりはしないのだ。
半端な噂話だけが一人歩きしていて、それを必死に追いかけたところで何も見えぬままに、それはぷつりと途切れてしまう。
店の中での仕事をこなし、店や周りに溶け込みながら何も掴めない毎日は二人に焦りを感じさせていた。
「くそ……どうしてだよ」
まだ開いていない店の裏手で二人は顔をつき合わせている。急を要すること以外は前日のことを店の開店前に定例報告のような形で共有することにしていた。
竈門はどちらかの部屋で行った方がと提案していたのだが――機密的にも本来ならばその方が好ましいだろう――我妻は頑なにそれを拒否したのだ。今までの潜入の折にも、一度たりとも我妻が自身の個人的なところや部屋の内部への立ち入りを受け入れたことはない。
冗談で同室で暮らすかなどと言ってくる割に我妻のパーソナルスペースは距離が広いのだ。竈門はいつもその塩梅について首傾げてしまう。何ともアンバランスな人だと、そんな風に思わずにはいられない。
それはさて置き、もう何度目になろうかという報告も、このタイミングで行うあたり収穫がないことは間違いなく、やはり焦りや苛立ちを募らせてしまう。
先程、悔しさの滲む言葉を吐き捨てた我妻にしてみても、現状の変わらなさに閉口している竈門にしても、等しく焦りは募るばかりだ。
結局のところ、何の進展もないという状況を確認するのみにとどまり、いつも通りがっくりと肩を落とす。
しかし、そのままではいられない。今日も店は開きその中で役割をこなさなくてはならないからだ。嘘と偽りばかりで単純に店に勤めるわけではないが、形としては店で働く者である以上、役割は果たさなければならない。
「そろそろ、行くかあ」
明らかにうんざりと言った様子で、我妻は言葉を落とす。
「……はい」
竈門は間と共に返事をすると、考え込むように視線を落とした。
二人して店の表へと回ると、少し前までは静かだった店の周りが慌ただしく動きを加速させ始めている。建物の並ぶ隙間に見える空からは太陽の気配はすっかり薄くなり、夜の訪れを告げていた。この街の活気溢れる時間はこれから、太陽が姿を消して光が失われたあと、人工の光が街を覆ってからが本番である。
ここは夜の街。闇と人工の光、その中に集う蝶や花とそれを食らおうとする者たちの集う場所だ。
二人の潜り込む店とて例外ではない。慌ただしさを増し、人が動くことこそこの街にそぐう形で生き抜いている証拠だった。
店の前には、すっかり先程までの苛立った様子が嘘のように爽やかに顔をあげる我妻と、地面に視線を落としたまま考え込んでいる様子の竈門の姿が並ぶ。
両極端な様子の二人だが店へと入ればそれもまた変わり、それぞれの持ち場へと向かっていった。店の入り口すぐに配置されたバーカウンターに竈門は入り込んでいく。
「おはようございます」
定着しているはじまりの挨拶をもう一人のバーテンへと投げかけた。
「お、きたな。竈門」
気さくな声が返ってくる。竈門は彼に対し、癒しを感じずにはいられない。自身の置かれた状況は否応がなしに緊張を強いられる。そんなピリピリとした日常の中にあるささやかな癒しこそが彼だ。しかも一番関わる時間が長いのだから、これは気軽な言葉の一つも交わせようというものだった。
「竈門が良く聞いてくる、変な噂はありませんかってアレ……」
「はい!」
「元気だな……そうアレ、他の人にも聞いてみたけど微妙な反応ばっかりだった。ごめんな」
「そう、ですか……いいえ、ありがとうございます!」
特に成果のないこと確認することとなってしまった話を終えて、竈門はほんの少し肩を落とす。だが、すぐに気を取り直して、目の前の仕事をこなし始めた。
竈門は嘘をつくことが下手だ。極端なまでに。それでもこの潜入の仕事を続けられているのは、真面目さゆえ正直さゆえに他人からの信頼を得られるその人間性に由来する。
他人に対し屈託のない笑顔を向け、真摯かつ真面目に対応する姿こそが竈門の武器というわけだった。
だがそれは、時として上手く働かないことがある。如何に周りと上手くやっていけたとしても、彼の行動範囲に求めるものを知る人物がいない場合だ。
今がまさにそれである。こうなると竈門に出来ることは範囲を広げることしかできない。だがそれにはリスクもある。本来は慎重かつ冷静にことを運ぶ方なのだが、今の竈門にその余裕はない。
理由はやはり、先の我妻の報告だ。毎日、毎日、何もない。何も得られない。そのことは思いの外、竈門のことを追い詰めていた。
何とかしたい、潜入の目的となっている悪をどうにか暴きたいという正義感も相まって必死さばかり募る。
まるで両輪とも空回りをしてしまって、進むこともままならなくなってしまった自転車のようだった。そうこうしている間に開店の時を迎える。人が大挙してくるということはないが、それでも閑散とは言わない程度の客が入り口から入ってきた。カウンターへ来る者、ホールの客席へ向かう者とそれぞれだ。
女装バーという性質上、客は男性が多い。だが女性がいないということもなく、時には女装スタッフに女性客が入れ込むなんてこともある。竈門から見ると何とも不思議な場所だった。
「一杯、頼むよ」
竈門の前に伊とりの男性客が腰を下ろす。
「いらっしゃいませ、何になさいますか?」
つとめて落ち着いて竈門は目の前の客を出迎えた。客は淡々と注文を告げ、ホールの方を見つめる。その様子はどこかそわついていて、首を左右に動かして何かを探しているようにも思われた。
「どうかされましたか?」
竈門は問いかけながら、注文されたカクテルのグラスを差し出す。淡い乳白色の液体の満ちたグラスの淵には、小さな氷の結晶にも似た塩がつけられていた。
「いや、ちょっとね」
客はばつが悪そうに答えながら竈門の差し出したグラスを受け取ると、ぐいと煽る。グラスの半分程度の酒を残して、客はふぅと息を吐いた。その瞳はやはり右往左往していて、相変わらず落ち着きがない。
「何かお探しですか?」
「いや……ちょっと人を、待っていてね」
「そうなんですね。待ち合わせですか?」
「そうなんですよ」
竈門の目の前の男性客は困ったように笑いながら、問いかけられた言葉に応えた。
「俺で良ければ協力しますよ、店のことなら少しは役に立てると思いますし」
にこやかに竈門が申し出る。客は少し悩むそぶりを見せてから、曖昧に微笑んだ。
「お気持ちだけいただいておきますね」
竈門の魂胆は残念ながら果たされず、しゅんと明らかにがっかりとした様子を見せる。客は竈門の分かりやすい表情に、今度は分かりやすく苦笑した。
「けど……」
「あなたはいい人だ」
食い下がろうとする竈門に、客の方が先手を打つ。もうこれ以上、言葉を重ねることは許さないという、彼自身の穏やかな様子に反してはっきりとした拒絶を表していた。
竈門はどうすることも出来ずに口をぱくつかせて、しかし言葉は発せない。
「けれど、いい人だけでは物事上手く行かないこともあります」
客は言葉を続ける。グラスに半分残っていた酒を一気に飲み干すと、すっとカウンター席から彼は立ち上がった。
「ありがとう、お代はここに置きますね」
慣れた手つきでカウンターテーブルにぴったりの金額を置くと、竈門にくるりと背を向ける。するとつい、竈門は手を伸ばして男性客を引き止めようとしてしまう。どうすることも出来ないのだが。
「俺には!」
それでも必死に竈門は客を引き止める。あまりの剣幕に堪らず客も振り返った。客の目に映る竈門の姿は、余裕など少したりともない焦りと苛立ちを抱いた人間以外の何者でもない。
「どうしても成さなければいけないことがあって! 貴方の協力を仰ぎたいんです!」
張り上げる大声は店中に響き渡り、店員も客も等しく足を止める。ただ一人を除いて。
かつんかつんと店の奥から足音が響く。周りが無音に近しい状況の中で、足音はやけに大きく聞こえた。足音の主はウェーブのかかった金髪を揺らし、堂々たる足取りでカウンターの竈門の前に立った。
「ちょっとツラ貸せ」
「けれど!」
「いいから!」
竈門の言動と行動をとどまらせたのは他でもない、我妻だ。半ば彼につまみ出されるように表に出された竈門は、子供じみた不服を表す表情とともに我妻を睨む。
しかしその勢いなど微々たるもの我妻は見るからに怒りに震えながら、竈門のことを睨みつけた。
「お前、何のつもりなわけ……?」
開かられた口から発せられた声は低く、落ち着きがあるようでいて見た目同様に怒気をいかんなく帯びたものである。
「何のつもりって何ですか……」
見るからに不服な表情を返しながら竈門は、我妻を真っ直ぐに見つめて口を尖らせた。
「がんがん自分から強引に、無駄に攻め込んで、危うくバレるところだったろ!」
「そんなことないです!」
「そんなことあったね!」
売り言葉に買い言葉という状況に、止めるもののいない白熱具合は、とまる気配がない。
「ふざけないでいただきたい!」
「そっくりそのままお返しするわ!」
「何がですか!」
「だからバラそうとしてただろっての!」
互いの声を互いで打ち消し合う様子は、側から見ていてもはっきりと見苦しさを覚える。
「さっきのやつ、聴こえてたんだよ。焦ったのか知らないけどさぁ! そのご立派な正義で共倒れになったりとか、世話ねぇんだわ![#「!」は縦中横]」
力の限り怒鳴り散らす我妻の声と、彼の見目があまりにもかけ離れていて、見るからに不思議な光景が広がっていた。
「焦りもするでしょう! 何も! 本当に何もでないんですよ⁉︎」
竈門の声は心なしか震えていて、彼もそして我妻も目を逸らすことなく睨み合う。
「はぁ……ま、気持ちはわからなくもないけど。焦っても仕方がないじゃん?」
「我妻さんは焦らないんですか! いつもならもっと……!」
「そりゃ焦るわ!」
竈門の言葉に覆い被せられた我妻の叫びは、先ほどよりもさらに怒りの感情を帯びていた。
「けど潜入って、いつもみたくとんとん拍子で行けることばっかりでもないだろ! むしろ今まで運がよかっただけなんだわ」
声を荒げて我妻はそう続けたあと、大きく息を吐いて心を落ち着けると再び口を開く。
「落ち着かないと。俺も、お前も、な」
竈門にも、そして自分自身にも言い聞かせるように、ゆっくりそしてはっきりと我妻は言った。
「……そう、ですね。戻りましょうか」
「そうだな」
二人はやっと落ち着きを取り戻して、店の中へと戻っていく。直前の出来事についてを二人して弁明しつつ今晩も何も収穫はなかった。
すっかり季節は赤や黄色が色鮮やかだった頃を通り越しつつある。紅葉した葉たちは、樹の上よりも下に落ちたものの方がすっかり多くなり、景色にも空気にも寒々しさが混ざりつつあった。
今日、我妻の姿は事務所の宇髄の部屋にある。店へ行く前に上への定例報告を行うためだ。
「今のところ進展なし、ってことだな」
「……そうですね」
久々のスーツに袖を通した我妻は、疲れ切った顔と覇気のない声で、宇髄の問いかけに答えた。
「どうした、いつになく疲労困憊じゃねぇか」
宇髄の声はからかうというよりは心配の色を強く帯びている。
「そりゃあそうですよ……こんな長いことあいつと一緒に潜入したことなんて初めてで。面倒ばっかりですもん」
我妻がうんざりと言った面持ちで応えると、露骨にため息をひとつ吐いた。
「そうかよ」
笑いを噛み殺しながら宇髄は頷く。我妻の苦言は止まらない。内容は潜入の成果が上がらないことよりも、竈門についての言葉が大半だ。
重なる苦言は降り積り、宇髄はついに相槌すらも打てなくなっていく。それほどまでに我妻の言葉の間は詰まり、山積みになった苦言がただひたすらに重なっていくばかりだ。
「おい、我妻」
このままではとまる気配もないだろうところで、ようやく宇髄が半ば無理やりに言葉を挟む。
「何ですか! まだ俺の話は終わってないですよ!」
「わかってる、わかってるよ!」
「じゃあ何で止めるんだよっ」
ついには敬語まで抜け落ちてしまった我妻が、それでも宇髄に食らいついた。
「言って何かが変わるのか?」
宇髄の言葉に我妻の勢いがとまる。
「言うにしても竈門に話す方が建設的だと俺は思うね」
そう続けられた宇髄の言葉は、我妻を完全に閉口させるには充分すぎた。
「お前の方もしんどいのはわかってるつもりだ。元々、情報の少ない案件だったしな。でも、そこを何とか……頼むわ」
これが落とし文句だ。我妻は項垂れると、一つただ頷いた。
「もう少ししたら、あっちに戻ります」
「おう、よろしくな」
「……はい」
全ての宇髄の言葉が腑に落ちたわけではないが、頭で強引に納得はしている。含みこそあれど、これ以上の文句も愚痴もなく我妻は引き下がった。この瞬間も当然ながら仕事だが、我妻の今の本当の仕事はこの後だ。
彼は宇髄の部屋を後にする。部屋に残された宇髄は、我妻の立ち去った扉を見つめながらため息を吐いた。
我妻は宇髄の部屋を出てそのまま、事務所の潜入衣装担当の元を訪れる。不足はないが、潜入の長期化の懸念から手持ちの服の種類を増やす相談をしたかったのだ。
「すみません」
「あら、我妻さん。お疲れ様です」
「お疲れ様です。ご連絡していた件で伺ったんですが」
先日、我妻をあれよあれよという間に女装の服に着せ替えさせた女性職員のうちの一人に声をかけると、彼女はぽんと手を打ち立ち上がる。
「こちらへどうぞ」
女性職員は席から立ち上がると、スタスタと慣れた足取りで部屋を移動して行き、我妻は彼女に続いた。
とある部屋へ入った女性職員は、ぱちりと明かりをつけるスイッチを入れると真っ暗で何があるのかもわからなかった目の前の景色が一変する。
ずらりと並ばられた衣装たち、それは見たことのないものから、以前潜入の檻に使用していたものまで、その多くが収められている部屋だった。
「色違いを揃えてみたんです」
そう力説した女性職員の言葉通り、我妻の支給された衣装と同様の形をしたものの色違い形違いのものがずらりと並ぶ。赤、青、緑、白。もちろん黒もあって、我妻は少しだけ心がほっとした。
「派手すぎるのはちょっと……」
「けれどバリエーションがあった方が良い気がしません?」
「いやぁ……うーん……」
女性職員は瞳を輝かせ、我妻は一歩後ずさる。しばらくこの今にも押し切られそうな状況が続いた。
「試して行きません?」
「……えっと、サイズは同じ……ですよね?」
「え? そうですけど」
「じゃあ、全部! 持って行くんで!」
何とか我妻は女性職員に主張する。女性職員は黒を多めに、しかし準備した全色をちゃっかり我妻に持たせたのだった。痛いほど眩しい視線を受けながら、衣装の置かれていた部屋を後にする。
「はぁ」
大きくため息をつきながら、我妻は大量に衣装を抱えて歩き始めた。まさか替えの衣装を受け取るのにこんなに疲れるとは思いもせず、我妻はがっくり肩を落とす。
すぐにでも店へ行かなければならない。我妻は姿勢を正すと潜入をつづ蹴ている店に向けて歩き始めた。
久々のスーツの動きやすさを噛み締めながら、それももうすぐ終わりだと思うと、ついまた大きなため息を吐く。
嫌だなぁと思わず口から重たい声が溢れた。それでも嫌だからと避ける訳にも行かない。
憂鬱さを感じるのは捜査の状況が芳しくないこともあるが、竈門との折り合いの悪さもある。元々彼と相性が悪いのはよくわかってはいるが、それにしても今回は酷い。
今までも幾度となく組んで仕事はしてきた。だが、そりは会わずともそれなりに上手くやってきたとは自負していたのだ。それが今回は輪をかけてうまく行かない。
信じたくないと思わずにはいられないほど、今回は全てが立ち行かなくなっていた。いつも以上に長丁場、それでいていつも以上の難航具合は竈門と我妻の精神をすり減らさせていることが原因なのは間違いない。
何せいつも以上に揉め、背を向け、言い争いを繰り返している。想定を超えた状況に腹立たしさともどかしさばかりが募る。
悔しく思えてくるようなほどいつもと違う状況に陥って、我妻自身もまたつい先日の竈門のように苛立ちと焦りを覚えていた。
苦しいほどの焦りは、先ほどの宇髄の言葉を受けて落ち着きを見せている。それでも本当の意味で落ち着いたという訳ではない。時間ばかりが無常に過ぎ去っていくのはやはり耐え難いものがある。解消するためには事件の解決が不可欠で、そのためには竈門との和解及び協力が必要だった。
今度はもう少し落ち着こう。我妻は先日、自身で口にした言葉を持って今度は己に冷静になるようにと念じた。
我妻の姿は店の前にある、いつもの入り口から中へと入るとすんなり奥へと進んでいく。荷物を控室のテーブルに置き、備え付けられたパイプ椅子に腰を下ろした。椅子の軋む音が部屋に大きく響く。それ以外は静かなものだった。
はぁ、とため息をついてから借り受けてきた衣装たちを広げて、我妻は唸り声を漏らした。女性職員の準備した色の違う衣装を見比べてみると存外どれも良いように思えてくる。
一度は腰を下ろした椅子から立ち上がると、尾徐に白地に青い柄の入ったドレスを手に取って、部屋に備え付けられている姿見の前に立った。
「悪くはないかも?」
もう大分とドレスに対するマイナスな感情は払拭されつつあるらしい。存外乗り気な様子で外の色も合わせていく。
緑色に黒や金の刺繍が施されたもの、鮮烈なほどの青に少し際どさの増すラインを帯びたもの、赤に金色の装飾の煌びやかなものと、どれも黒のものとは趣の違いがあって目新しい。
「ふぅん」
漏れる声はまんざらでもないと言う感情の色を帯びている、悪くはない、そんなふうに思った時だ。
「……何やってるんですか? 我妻さん」
心底呆れている、そんな声が部屋の中に確かに響いた。声の主は、当然ながら竈門である。
「……!」
我妻は竈門の気配を全く感じられておらず、声で初めて存在に気づいた。
「我妻さん?」
「早くどっか行け!」
「居座っていたのはそっちでしょう⁉︎」
「いいから行けよ!」
我妻は理不尽な勢いで竈門を控室から追い出すと、肩で息をしながら何とか冷静さを取り戻そうとつとめる。
つとめるだけで上手く行くなら苦労はないのだが、出来ることがそれしかないのだから仕方がない。どうしようもなく悲しさと虚しさが押し寄せてくるが、我妻はその感情に対しては必死に見て見ぬふりをするようにしていた。
顔を合わせればきつく当たってしまう。これは普段であれば現状への苛立ちということになるのだろうが、今回はそうではない。
これは我妻の理不尽の所業だ。そのことは彼自身の中ですでに明白で、それでもなおこうせずにはいられない。理不尽と身勝手、そして我儘からくる行動であり言動だった。
「あいつ一体何なんだよ」
それでも一人、毒づかずにはいられない。口を尖らせながらも、チャイナドレスのうちの一つ、今日借りてきた赤いものを選び取った。そのうち竈門に対して申し訳なさばかりが先に立ち始めて、我妻はいそいそと着替えを始める。
もうすっかり慣れたもので、手間取ることもなくチャイナドレスを着終えるとうっすらと化粧を施し、ウイッグをかぶってしまえば完成だ。
おそるおそる控室から廊下へ続く扉を開いてみると、当然ながら隠しきれない苛立ちを見せて、しかし律儀に扉の前で待っている竈門の姿を認めた。
こういうところが律儀かつ真面目なのは竈門の性分だ。その点については変わりないところを確認できて、我妻はほっと胸を撫で下ろす。そして自身がほっとしている姿に解せないと若干眉を顰めてから、扉を開け放った。
「我妻さん」
「何よ」
「そういうのやめたほうがいいと思いますよ」
扉の前に立ったまま竈門は吐き捨てる。
「何を考えているのか、何をしたいのかさっぱりわかりません」
そんな言葉とともに控室の前から立ち去っていった。取り残された我妻は唖然としたまま竈門の後ろ姿を見送ったが、ややもせぬうちに怒りが込み上げてくる。
「訳わかんね!」
込み上げるまま、その怒りを吐き出すと我妻は部屋の扉を勢いよく閉めた。バタンと大きな音が鳴り響く。きっと後で誰かに八つ当たりはやめるように言われてしまうだろうと、そのことを想像するだけでまた苛立ちが募った。
ほんの少し前まで竈門に対して若いや協力が必要であるということや、落ち着こうなどと考えていた我妻はどこへやら。すっかり鳴りを潜めて、反射的に精神が荒れ狂う。結局いつも通りだった。
その日、煌びやかな赤のチャイナドレスで着飾った我妻は、すっかりついた固定客や新規の客に至るまで好評を博した。
実際、鮮やかな赤と金髪はよく似合い引き立てあっていたし、いつもと変わらぬ鍛えられしっかりと筋肉のついた脚がちらりと覗くスリットは、見る者をすっかり虜にしてしまう魅力がある。
しかし当の本人は、いつもと比べてどこか不機嫌さを帯びており、取り繕う努力は見えたが隠しきれない怒りがたまに溢れ、周囲を驚かせていた。
それでも仕事をこなし、情報の収集――なお空振りだ――もこなした我妻は、一通りを終えて席を離れた我妻の姿は店の外にある。
仕事前の控室での出来事が脳裏をちらつき、我妻は顔を顰めてからチッと大きな舌打ちをした。腹立たしい、ただただ腹立たしいのだ。
「はー……、無理」
息をするように不服の声が漏れる。このあまりにも合わない塩梅は、おかしいのではとすら思えてくるものだ。
もう少しは上手くやれているという自覚があっただけに尚のこと不可思議だった。
一方の竈門はというと、仕事場であるバーカウンターで深い溜息を吐いて肩を落としていた。
「なんでだ……全く……」
竈門もまた不服の声を漏らす。いつも以上に全てがうまく行かないという焦りは、相変わらず彼の中に燻っていた。多少は冷静さを取り戻してこそいるが状況が変わりないということもまた事実だ。
どうにも立ち行かない現状に、竈門はひとつ大きな溜息を吐いた。
それでも容赦なく日は過ぎ去っていく。今日もまた、何も目ぼしい情報は得ることができなかった。
しんどい、辛い、苦しい。そんな感情が竈門をそして我妻を満たしていく。ネガティブなものばかりで占められていく感情は、どうしようもなく不愉快で気持ちの悪いものだ。
基本的には夜の店で潜入操作を続けながらあてがわれた店での役割をこなし、それぞれが任意のあんばいで報告を兼ねて本職の職場に顔を出す。そんな日々が続いていた。
手がかりひとつも掴めぬなか、この生活を送り続けることは精神が目に見えてすり減り続ける行為のように思えた。
それほど二人は焦り、そして緊迫している。この終わりの見えない状況、疲弊を招く毎日に、心は否応がなく荒んでいった。
我妻はこの現状にうんざりだと感じ、竈門もさすがに嫌になってくると鬱屈とした感情を溜め込んでいく。
毎日、店へ入る前に行う定時報告すらも億劫で、しかし怠るわけにもいかずに対面する彼らの様子は日に日に冷たく無感情になっていった。
気がつけば季節は紅葉の頃をすっかり終えて、冷たく凍える風が吹き付ける色のないものへと姿を変えている。
それほどの時間を持ってしても解決していない難攻不落さをほこるこの事件には、嫌気のひとつもさすというものだ。全く状況は変わらない。悔しいほどに何ひとつ変わりはしなかった。
今日もまた仮住まいから竈門と我妻が毎日の定期報告を行うべく店の裏手へ向かう。
すっかり冷たくなった外気から身を守るべく、竈門は深くくすんだ緑色のモッズコートを、我妻はベージュのロングコートを着込んでいた。
二人とも本来の職場に寄る予定はまだ先で、すんなりと店の裏手に二人の姿が揃う。
「で、どうよ」
乱暴な口を開いたのは我妻だ。竈門としてはすっかり目慣れたものではあるが、薄すぎず濃すぎない化粧にウェーブのかかったロングの金髪、そしてすっかり着こなされたチャイナドレスは、口を開かなければ女性とすら見間違えそうな姿だ。
「特に共有するようなことはないですね」
目の前の我妻に何の反応も示すことなく、竈門はいつもの丁寧な口調でありながら心なしかぶっきらぼうな様子で言葉を返した。
二人の口からは大きなため息が漏れる。この店に潜入捜査に入り込んでからずっとのことだ。何かひとつでもと思うのだが、何故か足取りが途切れたり、デマをつかまされて知っていたりとそればかり。
真実に手を伸ばしても、その手は空を切り、届くことのない状況ばかりが続いていた。だがそれだけ巧妙に何かを隠そうとしている、という事実もまた確かにある。それが時間をかけることで少しずつ、朧げではあるが何かの気配が形を帯びて見え隠れしているということでもあった。
時間をかけてじっくりと、そうすることで見えてくる真相もある。彼らはようやっとその境地に辿り着きつつあった。
「我妻さん?」
「なに」
「これだけ巧妙に隠されているんです、何もない方がおかしいと思いませんか」
竈門の言葉に我妻は不敵に笑う。
「当然」
「ですよね。俺たちはずっと店がモノを渡すための場所として利用されているのではと考えていましたけど、そうじゃないかもしれない。ここからは、しっかり協力しあっていきましょう」
「……はぁ。そうだな、これが仕事。だもんな」
「そういうことです」
二人は視線を合わせてほんの少しだけ口角を上げた。それは少しの自信と少しの虚勢が混ざり合う。
きっと何とかなる、今日は何故かそんな気がした。
何もない、ということが逆に違和感を生むことがある。
その違和感の正体は今、我妻の中にはっきりとあってあまりにも潔白すぎる様に対する疑いだ。長期の潜入、その中においてあまりにも怪しい話がなさすぎる。垂れ込みがあったとはにわかには信じ難いほどにだ。
今し方まで店の裏手で竈門と話していた、何もないということへの疑い、巧妙な手段を持って偽装された何かがきっとあるという確信めいたもの。それが、見えはせずとも気配がある。
我妻はそんな気配を確かに感じながら、今日も店のホールへ向かった。カツンカツンと床を蹴るヒールの音が響く。黒のヒールを颯爽と踏み鳴らす我妻の足取りは、初日よりも格段に軽やかだ。
開店し客の入ってくる店の中を悠々と歩く。すっかり馴染んだその動作は、我妻に少なからず複雑な思いを抱かせたが、それ以上に定着した常連客から引く手数多な呼び声は彼にちょっとした優越感と満足感を与えていた。
今日はどこから話を聞こうか。そんなことを考えながら歩いていると、見覚えのない客と目が合う。その客は決して派手な風貌でも着飾った様子でもない。
しかしどこか、目を引く。否、その目は意思強く何かを訴えかけているようだった。
我妻は真っ直ぐ、その客の席へと向かう。にこりと微笑んでからその隣へと腰を下ろした。
「こんばんわ」
「こっちに来てくれて嬉しいよ」
「だって視線が熱烈だったから」
客は我妻の言葉にまんざらでもないという様子で笑い、腰掛けている座席で居住まいを正す。
「初めてこの店に来たんだ」
「見たことない顔だなと思ったらご新規さんだったの」
我妻の口調はいつもよりも柔らかい。それは見た目と合わせてという意味でもあるが、それ以上に柔和な人当たりで問いかけた方が、情報が聞き出しやすいという策でもあった。
「うん、この店前から気になっていてね」
「ありがとうございます」
こんなありきたりな言葉を交わしながら、この人物を見定めようと我妻の感覚は全力で稼働していた。何ひとつ捉え損ねることのないようにと、自身の持てる全てを研ぎ澄ます。
こうして我妻は情報を探る、いつも通りに。これが彼のやり方だった。いつだってどこでだって、変わらずこのやり方を貫く。それゆえなのかは分からないが、我妻の情報把握と収集については他の追随を許さない。
竈門とは別の形で、容赦なく情報を得ていくのが我妻だった。
口から紡ぎ出されるのは他愛のない言葉たち。それは会話をするには申し分なく、客は実際のところについては知るよしもない。
しばらく会話をしてからの話だ。我妻がついていた客が徐に口を開いた。
「あんまりいい噂ではないんだけれど……」
狙い通りの話題転換だ。我妻は「どうかされました?」と不安げな様子を見せて問いかけながら、内心はほくそ笑む。それを想像もしていない客はさらに口を開いた。
「何だか最近、この辺りでクスリの噂を耳にしてね」
「へぇ、それは怖いなぁ」
当たりだ。我妻は読みの当たったこの状況に浮き足立ちそうになる気持ちを、ぐっと押さえながら客との会話を続ける。
「何だかうまく隠されていて、突然話を持ちかけられるって聞いたんだよ。そんなふうにはなりたくないよね」
「本当ですね。その話、本当に怖いから用心のために詳しくお聞きしておきたいなぁ」
ここぞとばかりに情報を引き出すべく、目の前の客に詳細を招き寄せる言葉を口にした。
「ここだけの話にしてよ?」
そう言ってから目の間の客が話し出したのは、店の裏で竈門の話していたところに近しく、彼は絶句する。我妻からしてみると読みが外れた、というやつだった。
我妻が目の前の客から聞いた話はこうだ。
その薬は店で取引されている、というよりは店ぐるみ、もしくは店側の何者かが協力しているらしい。
欲しがっている人間をこの店にそれとなく集めては、取引を行なっている――とそういうのだ。
ある程度の期間、この店に潜入してこそいるが今のところ内側についてそういった噂や情報はない。一度、洗い直す必要がありそうだった。
「もちろん内緒にしとくよ。教えてくれてありがと」
そう言って客のグラスに、ボトルに残った酒を注いでやる。客の男は満足そうにグラスをあおった。
「また来てくださいねぇ」
我妻は先程の客を笑顔で見送る。彼の背中が見えなくなるまで見送ると、踵を返して竈門の働くバーカウンターまで一直線に向かった。
竈門はカウンターについている客と談笑していたが、やってきた我妻にちらりと視線を向ける。二人の視線がぶつかると、言葉はないが竈門がひとつ小さく頷いた。
ややもせず、店の裏手には我妻と竈門の姿が揃う。
「どうしたんです、我妻さん」
「ここ最近の中では有力な情報を聞いた」
我妻の言葉に竈門の表情が驚きに満ちた。
「本当ですか!」
「声がでけぇよ」
「……すみません。それで? どういう情報なんです?」
期待に満ちた視線を向けてくる竈門に対して、我妻はにやりと不敵に微笑んでから口を開く。彼は少し前に聞いたばかりの客からの情報を、すらすらと語った。
「なるほど。ここに来てから一番の有力な情報、ですね」
「だろ?」
「確かそろそろ……」
竈門が顎に手を当て思案しながら口を開く。彼の言葉の意図は、もう間も無く店の売り上げの締め日がやってくると言うことだ。
つまり、金銭が動く。それは裏で動いたものも共に動き出す可能性があるのだ。そこでボロが出るなら儲けもの、そうでなくとも何か小さくとも手がかりひとつでも見つけられれば上々だろう。
「ああ。ここは張るしかねぇよな」
竈門の言葉の意図を察して、我妻が言葉を継いだ。互いが頷き合う。ここに意思の疎通が果たされた。
ここからは裏を取るべく張り込むのみだ。現場を押さえなければならない。今この瞬間からが勝負だ。
「じゃあ、今日は店が終わってすぐに、またここでな」
「はい」
再び顔を合わすタイミングを定めて、二人はまた店へと戻る。勝負は店が閉店する頃、きっと何かは起こるはずだ。
「我妻さんに謝らないといけないことがあるんです」
そう呟いたのは竈門だった。
店の閉店処理を終え、一旦は仕事を終えたのだが二人の本当の仕事はこれからだとなった時、竈門は我妻に向けて口を開いたのだ。
我妻は竈門の言葉にちらりと視線を向ける。
「今回、すごく俺……失礼なことをしてしまって。本当にすみません」
「あ〜……」
竈門の言葉にあまりにも思い至ることが多すぎて、我妻は言葉を濁さずにはいられない。
「それは……俺も、大人気なかったし……その、ごめん」
我妻は途切れ途切れの言葉で、渋々といった様子もにじませながら詫びの言葉を口にした。発せられた渋々の言葉に苦笑しつつも、竈門の口からは苦言は紡がれない。
今回は取り立てて今までよりも、お互いがお互いに苛立ちを募らせていた節があり、竈門はもちろん我妻も少なからず申し訳なさを抱いていた。
だからこそ、渋々ながらも我妻も謝罪の言葉を口にし、竈門もまたそんな彼の姿に苦言を呈さない。文字通りお互い様と言うやつだった。
二人の姿は店の裏手で様子を窺っている。冷たい風が吹き付ける中、彼らは上着を着込んでいるが身体の芯から凍えるような寒さに震えていた。
「寒いな……」
「そうですね……」
我妻も竈門もひとつ身震いをしてから、大きく息を吐く。吐き出された息はまだ朝焼けの訪れる前のほんの少しだけ明るさを帯びた夜空に、白く舞い上がりそのまま消えた。
「俺、何か買ってきます」
竈門はそう言って、大通りの方へ向かって歩いていく。我妻は一人その場で周りの気配を窺って、気を張り続けていた。
一度は離れた革靴の音が、もう一度戻ってくる。そして我妻の隣に戻ってきた。
「戻りました。我妻さん、これでよかったですか?」
戻った竈門は我妻に缶をひとつ差し出す。缶にはカフェオレと書かれていて、文字を確認して我妻はひとつ頷いてみせた。
「よかったです。味の好みとか知らないので合わなかったらと緊張しました」
「確認していけばよかったじゃん」
「あ……」
「そういうとこ抜けてるよな」
竈門から受け取った缶を両手で包んで暖をとりながら、我妻は笑う。割としっかり者の印象が強い竈門だが、ふとしたところが抜けていたり、たまに我慢が効かないところがあったりもする。そこが今は無性に微笑ましく思えた。
言葉を受けた竈門は、はにかんで頭を掻く。照れ臭そうにしながらも、嫌そうな様子は一切なく、この操作が始まってから随一の和やかな空気が彼らの間に満ちていた。
だが、あたたかい飲料を手にしたところで、彼らに吹き付ける風が止むわけではない。寒さは増す一方で、竈門と我妻それぞれの全身に容赦無く冷気を与えていた。
取り立てて我妻の服装は寒さを直接的に感じさせる。右足の前面部に入ったスリットからは直接外気が入り込み、スカートからちらりと見える足は素足だ。寒くない方がおかしいという話だった。
「さっむいわ……」
我妻の口からは耐えきれなかった気持ちが言葉になって溢れる。それは無意識のうちの言葉だったが、確かに竈門の耳に届いた。
「それだと寒いですよね……」
きょろきょろと視線を彷徨わせる竈門だが、目当てのものは見つからなかった様子で、心なしかがっかりとしながらも、次の瞬間には我妻に身体を寄せる。
「えっ、なに……」
「こうしたら少しは暖が取れるかなと。俺、兄妹にも言われるくらい体温高めなので」
悪気もなければ、含みもない。竈門の様子に我妻は驚きの表情を浮かべながらも微笑む。その気持ちが今は素直に嬉しかった。
この場には確かに緊張感がある。だが、それと同時に確かに、ほんの一瞬のことなのかも知れなかったが、安心感があった。
それは我妻にとっても竈門にとっても、だ。
このほっと安堵するような感覚に、今まで――特に今回の潜入捜査では――そりが合わないという理由でぶつかり合いを繰り返してきたが、それが何かほんの少しだが変わるような気がした。
「こんな感じなら悪くないなぁ」
そう吐き出したのは我妻だ。
「我妻さん?」
竈門は我妻の呟きに首を傾げる。そのあとすぐに納得したようにひとつ頷いた。
そうですね、と竈門が今度は同意の言葉を口にすると小さく笑う。我妻も竈門にうっすら口角を上げて応えた。
あたたかな空気がこの場に満ちたが、次の瞬間にはぴりりと電気のような緊張が二人を貫く。
少し離れたところに今までの潜入の間には覚えのないような、それでいてどこかで見たような気がしなくもない。そんな若干の既視感を覚える人物が立っていた。その人物はスーツを着込んでいて、大きなカバンを持って店へと近づいてきていたのだ。
二人は直感で感じ取る。彼は異質だと。
側から見れば夜の街に働く誰か、その程度にしか思われないかもしれない。だが竈門と我妻のように夜の街のその裏側を知ることような人間からすると、わかってしまうのだ。
その、異質さを。
顔を見合わせながら、謎のスーツの男の行動をつぶさに見つめていた。
スーツの男の向かうのは真っ直ぐに竈門と我妻の潜入している店、浪漫である。そしてその裏口から、一人の人間が出てきた。
「あれ、誰だっけ……?」
我妻がぼそりと疑問の声をこぼす。見覚えはあったが、印象に残ってはいない。彼の中ではそれが唯一確かな認識だが、それもまた定かであるとは言い難かった。
「あの人、確か事務所の奥にいる人です。名前は忘れましたけど……」
「ああ、言われてみればいたな……」
竈門の言葉に店の奥で目立たない人間が一人いたことを思い出す。挨拶をしても会釈しか返ってこない、取り立てて言葉を交わすこともない、印象としては限りなく地味。そんな人物だった。
今にしてみれば彼は明らかに周りと距離を置いていて、意識的に存在感を消していたようにも思えてくる。
店側の人間とスーツの男が接触を果たした。その様子を二人は息を殺して見守る。現場を押さえる、それが一番必要なことだ。その瞬間を見逃さないという緊張が二人の間を駆け抜けた。
「俺がスーツの人につきます」
「了解。じゃ、俺は店の地味野郎だな」
互いの役割を確認し、静かに頷き合う。その先に言葉はいらない。あとは息を殺し、その瞬間を待つ。それだけだった。
時間が長く感じる。一秒すらも永遠と思えるような、そんなゆっくりとした時間はぴりりとした緊張に満ちていた。
竈門と我妻が死角となる場所から見つめる中、視線の先の二人は何か言葉を交わしている。竈門には話をしているようだ、というくらいにしかわからないが、それでも我妻の方は静かにその声に耳を澄ませていた。
我妻の人並み外れた聴力はこの程度の距離などものともしない。きっと彼の耳には竈門の聞き取れるもの以上のとてつもなく膨大な音が届いているのだろう。
双眸を閉じ、全ての感覚を聴覚に傾けるその姿は、いつもの口の悪さや半端な様子からは想像もつかないような真剣な姿に、竈門は何故かどきりとしてしまった。
ふるふると首を振った竈門の肩を我妻が突く。
「今だ」
静かで、緊迫した声が我妻の口から放たれた。その声が合図となり、その場から躍り出るようにして二人は飛び出す。
駆け出した二人に、怪しさあふれる密会者たちは当然の如く驚きを示した。それはそうだ、想像を越えたところから第三者が登場したのだから。当然という話だ。
そんな驚く二人を尻目に飛び出した竈門と我妻は、決めた通りの役割でそれぞれに向かって駆け出す。
我妻が地味野郎と称した店の従業員である男へと向かい、逃げようとする後ろ手をぐいと掴んだ。
「!」
驚きの息が漏れるが構うこともなく、我妻は容赦無く壁に相手を叩きつけると、冷たく笑う。
「まさかあんたが売人とは思わなかったわ」
そう言い放ちながら、壁をガンと強く蹴った。衝撃が壁を伝って押し付けられた壁から男へと伝わる。我妻の履いたヒールの先が壁の素材をほんの少し削り落としてぱらりと落ちた。
声にならない音が男の口から溢れ落ちる。それは緊張からくるものであり、同時に辛酸を嘗める屈辱からくるものでもあった。
「正直、地味すぎて俺の記憶には残ってなかったもん。こんな大それたことするタイプだったとはね。これは店ぐるみの話なわけ?」
「な……なんの話……」
「とぼけんな!」
ごつん、と我妻が再び壁を蹴る。またしてもその衝撃で壁材が剥がれて落ちるが、それに構うことなく我妻は男を睨みつけながら顔を寄せた。肩下まである金髪が揺れる。だが、その優雅な様子に反して我妻の表情は険しく、そして怒りに満ちていた。
「お前らの話は全部聴かせてもらった。二人がクスリのやりとりする橋渡しをしているこも、一度や二度の話じゃないことも全部!」
その怒声はこの店の裏手に響き、反響し、我妻が押さえつける男を深く絶望させる。もう逃げられないと観念したらしく、がっくりと身体を脱力させた。
「……わかった、全部話すよ」
我妻はにんまりと笑う。そして、話せと雑に促した。
その一方、飛び出したあとスーツの男を追った竈門の方はというと、我妻の順調さに反して苦戦していた。
スーツの男は驚くでもなく、慣れた様子で逃げていく。引き離されてしまいそうになるのを必死に竈門は食らいついた。
道は直線、スーツの男の背中がはっきりと見えている。これ以上引き離されないためにはどうするべきか、竈門は必死に走る足を動かしながら頭を回転させた。
これしかない、そんな考えがひらめき竈門は足にぐっと力を込める。次には思い切り前方へ向かって蹴り出すと、全身が前へと飛び出した。
「逃がすか!」
声と共に竈門はスーツの男にしがみつく。男の方からしても、竈門のこの行動は全く予想外で避けることも出来ないまま押し倒される形で転倒した。
スーツの男からははっきりとした舌打ちが聞こえてくる。彼が持っていた大きなカバンが竈門が体当たりをした勢いで手を離れ、前方に重たい音と共に転がった。
竈門には嗅覚だけではっきりとわかる。これが二人が探しているものだと。そして同時に、このスーツの男が店で顔を合わせたことがある客であったことも。
あの日、竈門にいい人だと言い切った客。どちらの姿が変装なのかはわからないが、なんにせよ、変装を施していて他人を欺こうとしていたことだけは確かだった。
いい人だけでは上手く行かないことがある、バーカウンター越しの言葉が蘇る。その言葉の意味がこの行為である、と言うことが悲しくて悲しくて仕方がない。それでも今は彼を止めなければと、下唇を噛み締めながら全身に力を込めた。
スーツの男も竈門も、カバンの方へ必死に手を伸ばす。位置関係からは竈門が不利だ。しかしそれをひっくり返す第三者が登場する。
黒いヒールの靴をガツンと鳴らし、それは乱暴にカバンを踏みつけた。しっかりとしかし無駄のないしなやかな肉付きの脚はスリットからはみ出していて、一切の容赦がない。
そう、その第三者は他ならぬ我妻だ。
「これは渡さねぇよ」
街灯の光を背に受けて、ただでさえ暗い店の裏手にあって彼の表情は取り立てて見えにくい。だが竈門にははっきりわかる。こういう時の我妻は驚くほどに凶悪な、味方でなければ後悔の念すら抱くような顔をしているのだ。
「我妻さん!」
竈門の呼び声に応えることなく、我妻はその足でカバンを蹴り上げるとまるで彼の手に吸い込まれるように落ちる。
淡々と中身をあらためて、我妻はそのうちのひとつを取り出してみせた。
「これでまだ、逃げようっての?」
取り出したのは、袋に詰められた白い粉。スーツの男が焦った様子で自分の背後を振り返る。その視線の先にうっすら浮かび上がるのは、手錠をかけられすっかり縛り上げられ身動きの取れない店の従業員の姿だ。彼自身は観念している様子で、がっくりと項垂れるばかり。抵抗の素振りは微かにも感じられなかった。
その姿を目にしてスーツの男もまた愕然とする。竈門に押さえつけられたまま地面に這いつくばっていたその身体を脱力させた。事実上の降参の証だ。
竈門はスーツの男の様子を確認してから、掴んでいた後ろ手にそのまま手錠をかける。
「確保」
時間を確認し、はっきりと言葉を口にした。
「やっとだなぁ」
安堵の息を漏らしながら、我妻は自身の端末を取り出す。これで連絡を上げればこの仕事はついに終わりだ。
「宇髄さん? 捕まえましたよ、すぐ人をよこしてください」
淡白なやり取りを終え、我妻はすぐに通話を終えるとコートのポケットに端末を押し込む。あとは人員がやってくるのを待つだけだ。
スーツの男を我妻が先に捕らえた従業員の男の近くに繋ぎ止めると、竈門はその近くに壁に背中を預ける。
「今回は長かったですね……」
安堵と疲れの入り混じった言葉に、我妻も「そうだな」と短く同意の言葉を返した。
我妻は端末をしまったのとは反対のポケットに手を入れ、中から缶を取り出す。それは先ほど竈門から受け取ったカフェオレの文字が記されたものだ。
まだ開けていなかった缶のプルタブを起こして、一気にあおり飲み干す。最後にほっと息を吐くとほんの少し口角を上げてから、竈門の隣に立ち彼と同じように壁に背中を預けた。
「これ、ありがとな」
「いえ」
「なんでこれにしたの?」
「……我妻さん、甘いものが好きそうだなって。勝手なイメージですけど」
竈門の言葉に我妻は、そういえば捜査で一緒になることこそ多いが、好みの一つもろくに知らないのだなぁと思い至る。
「それ、合ってるよ。俺、甘いもの好きでさ……眠気覚ましも本当はブラックの方がいいんだろうなって思いながら、カフェオレとか飲んでるタイプだから」
「そうなんですね。俺は逆です。あまり甘いものは……得意ではないですね」
我妻の言葉に答えた竈門のコートのポケットから取り出された缶には、はっきりブラックコーヒーと記されていた。
「そんなとこまで真逆って、笑えるわ」
吐き捨てるような我妻の言葉に、竈門は小さく微笑む。
「真逆なら、自分の知らないものを知ることができますね」
「お前、ポジティブだね」
竈門の笑顔につられるように竈門も笑みを浮かべた。
遠くでサイレンが鳴る。みるみる音が近づいてきて、けたたましさを増したかと思うと今度は目の前で静かになった。
次にたくさんの足音が響く。多くの人の気配、それは早々に我妻を経由して宇髄が寄越した人員たちに間違いない。
我妻と竈門の視線がぶつかる。お互いの視線は解決を喜んでいるが、ほんの少しだけ寂しげでもあった。
「我妻さん!」
近づいてくる気配から声が飛ぶ。
「こっちこっち」
竈門から視線を移しつつ、片手をあげてひらひらとさせながら我妻は存在を主張した。
「あとは任せるわ」
我妻の言葉を受け、口々に了承の旨を述べながら捕らえられた二人を連行していく。
あっという間に喧騒が去っていくと、そこに取り残されたのは竈門と我妻二人だけだ。
「帰るか」
「そうですね、帰りましょう」
今日が最後となる仮住まいに二人は歩き出す。その足取りは軽く、疲れは感じさせない。
「はぁ〜、お疲れ! やっとこの女装生活ともおさらばだぁ!」
大きく伸びをしてから竈門に笑いかける。彼の姿はきらきらと輝いて竈門には映り、事件が解決したという爽快感も重なって自然と笑顔を返していた。
「また組むこともあると思いますけど、その時は遅刻ギリギリとかわがままとかはやめてくださいね?」
「は? 感じ悪っ! 最後の最後で気分悪いわ」
「でも我妻さんいつもそうじゃないですか!」
「あ〜! 聞きたくない聞きたくない! せっかくのいい気分が台無しだろ!」
竈門の言葉をきっかけとして、これまでの息のあっていてかつ和やかだった雰囲気が一変する。いつも通りの二人に戻り、険悪さとギスギス感、そして互いが互いを合わないと感じている不協和音とも評せるような言葉の掛け合いが続いた。
まさしくいつもの通り、そんな二人に戻ってしまう。だがそれでいいのかもしれない。ほんの少し抱いてしまった浮ついた何かを気の所為にできるのだから。
だが、それだけでは終わらせてくれない。
我妻は自身の背後をくるりと振り返る。別に誰がいるわけでもない、その気配も残滓も何も感じられない闇を我妻は見つめた。
「我妻さん? どうかしました?」
「いや……変な音がしたような、気がして……」
竈門には何も感じられず首を傾げるが、我妻は何度も闇の向こうを見ようとするように視線を彷徨わせる。
「気のせい、だよな……」
そう呟く我妻の声色は重たい。しかし、竈門にはそれを肯定することしかできなかった。無責任かもしれない、そう思っても彼を安心させたくてただひたすらに「大丈夫」と「気のせいですよ」を繰り返す。
後ろ髪引かれるような様子でありながらも、我妻はようやく頷いて歩き出したのだった。
我妻が視線を彷徨わせたその奥に、彼らを見つめる一人の男が立っている。闇に溶け込むような真っ黒の上下を着て、口元を隠した顔には冷たい怒りが浮かんでいた。
じろりと鋭い視線を二人に向けていたが、それはあまりに遠く届きはしない。だがそれを気に留める様子もなく、その男は目を細めた。口元こそ隠れて見えないが、きっと歪んだ嗤い顔なのだろうと想像できるその表情は、下劣そのものだ。
「平和なのは、今のうちだ」
くぐもった声でそう呟くと、男は踵を返して竈門と我妻とは反対方向に歩いていく。彼の背後には後ろ暗い何かが蠢いているようだった。
──お前たちはまだ知らない。もう歯車は動き出し、止められないところまで来ているということを。
人影は心なしか軽やかな足取りで闇を進む。暗躍という言葉がよく似合う、そんな姿は人の目に触れることはない。
それはいつの間にやら闇に溶け、存在さえも掻き消えてしまう。まるでそこにははじめから誰もいなかったかのように、違和感のひとつも、残滓すらも残らない。
しかしそれは、まごうことなく次の不穏への道だった。
