人の転機というものは、唐突に訪れる。それを手にするかしないかは個々によるが、予期しないことが転機へ繋がることは往々にしてあることだ。
神来社八雲の新たな転機は、ある日の夕刻の迫る頃に訪れた。やはり突然に。
その日の八雲は自身の事務所で書類やら資料やらの整理に勤しんでおり、黙々と作業をこなし続けていた。
昼間、まだ太陽の高い頃から集中して作業をしていたが、ふと時間を確認すべく視線を時計の方へと向けた時だ。それまでの集中が途切れたせいだろうか、不意に八雲の耳に動物の鳴き声が届いた。
にぃ、にぃ、にぃ。
舌足らずな声はどうやら猫のものらしい。
八雲は音のする方向を探って、事務所の窓へと近づいていく。とはいっても彼の事務所は二階にあるため、確認のために窓の下を覗き込む形になった。
この事務所がある建物は、雑居ビル群の中にあるものだ。建物そのものも周りの例に漏れずビルであり、両隣にもビルが隣接している。そんな状況であるため、窓のすぐ向こうには隣のビルの壁が聳えていた。
しかしそんな建物同士は近いが当然、密着をしているわけではない。僅かではあるが建物と建物の間には隙間が存在し、隙間と地面が交差する場所はコンクリートでかたどられた溝がある。
その溝のあたりに視線を向けると、小さな黒い塊が存在していた。
にぃ、にぃ、にぃ。
鳴き声はその黒い塊──ではなく幼い黒猫と思しきものが発しているらしい。
必死に鳴き続けるその声は、悲壮さなどは全くなく。ただただ寂しそうに八雲には感じられた。
親猫は近くにいるのだろうか、そんな警戒をしながらも放っておくこともまた出来ずに八雲は事務所から一階へと移動する。
建物と建物の隙間はぎりぎり人が一人通れるほどの幅しかない。それでも通ることが可能ならばと、八雲は身体を横向きに変えて建物の間へと入り込んでいく。
一歩ずつ進むたびに鳴き声は大きく、はっきりと聞こえてくるようになった。八雲の感覚に他の生き物の気配は感じられない。
緊張はそのままに八雲はゆっくりと進み続けた。
すると、溝の中──とはいってもここに水は流れていないため、ただのコンクリートだ──に、すっぽりと小さな黒い物体がはまっているのが見て取れる。
どうやら嵌って出られなくなってしまったらしい。
見てみると、溝の隙間ぴったりに小さな黒い物体は挟まってしまっていた。
「えっと……」
鳴き声から感じられた様子よりも随分と切羽詰まった状況で、八雲は逆に面食らう形になる。
想定黒い子猫は、状況が全く理解できていないのか、もしくはとんでもなく鈍感なのか、それは定かではないが現状を深刻には捉えていないようだ。
──野生向きじゃなさそう。
どんな生き物にも個体差があり、野生で図太く生きていける個体かそうでない個体かにまず分かれるが、八雲の目の前の生き物は間違いなく後者らしい。これはもしかすると、親猫に置き去りにされてしまったのかもしれないとすら思えてくる。
それにしてもこんな場所にはまり込んでしまっているというのは、さすがに健康状態に懸念を抱かずにはいられない。
八雲は触れるつもりではなかったその生き物に手を伸ばすと、壊れ物にでも触れるように恐る恐るゆっくりと抱き上げる。
溝に詰まって身動きの一つも出来ない、そんな状況に陥っていた割にはすんなりそこから子猫を救い出すことが出来て八雲はそっと安堵した。
やはりというか当然ながらその黒い塊は、生後間もないだろう小さな黒猫で。八雲に持ち上げられるとやはり鳴いた。
「にぃ」
先ほどまでよりも心なしか嬉しそうな声だ。
「……君、人見知りとかしないの?」
「に? にぃ」
八雲が苦笑を浮かべて問いかけると、まるで言葉がわかっているのではないかという様子で鳴き声を返してくる。さすがに猫の言葉を翻訳することは八雲には出来ないが、それでもこの猫は「何が? しないよ」というようなことを言っているように思えた。
怪我をしているのかしていないのか、定かではなかったので──少なくとも痛がっている様子がないことだけは確かだったが──近くの動物病院へと駆け込んだ。
猫を運ぶようなキャリーなどもちろん持ち合わせがないため、事務所へ戻って貴重品などを手に取るとき一緒に鞄を掴んで慎重に子猫を仕舞い込んでからだ。
もちろん息は出来るようにと鞄の口を閉めずに連れて行ったが、動物病院で迎えてくれた職員は笑い声を溢した。
「鞄に入れてこられた方は初めて見ました。捨て猫ちゃんですか?」
「多分そうだと思います。怪我をしてるか確認をして欲しくて」
「わかりました。詳細は先生にお話しください、ご用意します」
「はい」
最低限の手続きを済ませて待つ。
こんな夕方、しかもかなり日が沈みかかっている中で対応をしてもらえることに感謝をするばかりだ。
鞄の中の子猫に指を伸ばしてやれば、嬉しそうにじゃれついてきた。本当に警戒心のかけらもない猫だと八雲は苦笑する。
「神来社さん、どうぞ」
先ほどの職員に声をかけられて、子猫の入った鞄と共に導かれた診察室へと入った。
そこには人の病院と大差ない診察室の様子があり、獣医が腰掛けている。
初老といったところだろうか、獣医としての経験はそれなりにありそうな男性が好感のもてる笑顔で出迎えてくれた。
「こんばんわ、どうぞこちらへ」
そういって八雲を近くへと促す。そこには椅子と診察台のようなものが置かれており、そこに連れてきた診察対象の生き物を乗せる必要があることはすぐに察することが出来た。
八雲はすぐに鞄の中に手を入れて、子猫を優しく掴むと診察台へと乗せる。
大暴れしたり逃げ出したり、そういったことの発生を危惧していたが、子猫は動じないどころか何が始まるのかワクワクしている風ですらあった。
──この猫は大物かもしれない。
そんなことを考えながら、八雲が椅子に腰を下ろすと獣医はすでに立ち上がっていて、診察が始まった。
「この子のいた状況をお聞かせいただけますか?」
問われて八雲は建物と建物の間の溝に挟まっていたことや、気付いた限りの状況を事細かに獣医へと伝える。
獣医は八雲の話を聞きながら、子猫を入念に診察し優しく撫でた。
「大丈夫、この子は健康です。ただ、お聞きする限りでは親猫が戻ってくる可能性が否定できません。一晩様子を見ていただいて、明日になったら愛護団体にご相談いただければいいと思います」
「あの、怪我は……」
説明に対して八雲は気になっていたことをおずおずと尋ねる。
「傷らしいものはありません。大丈夫ですよ」
優しい笑顔を浮かべて獣医ははっきりと述べた。そうして断言されることは、何よりも安心できることで八雲はほっと胸を撫で下ろす。
「今後も預かられるということであれば、またうちに来てください。そうでなければ愛護団体にそう伝えていただければ、あちらで対応をしてくれるかと思いますので」
「わかりました、ありがとうございました」
再び八雲は鞄の中に子猫を収めると、再び必要な手続きをして動物病院を後にした。
事務所へと戻りながら、今日は恒人の家へ行くと言っていたことを思い出して八雲の表情がほんの少し曇る。
しかしこればかりはどうしようもならないことだと、思い直してからまずは事務所への道を急いだ。
親猫の様子を確認しなければならないというのならば、事務所で一晩を過ごさなければならない。であるならば、今晩は恒人の家へ向かうこと自体が不可能だ。
八雲は事務所へ帰る道すがら適当に見繕った段ボール箱を、事務所の床に置いてタオルを敷くとそこに子猫を置いてやる。
箱の中を元気に歩き回っている様子を横目で確認しながら、恒人へとメッセージを送った。
この一連の出来事は朱央恒人にとっても転機となる。
しかしまだこの時は、ことの全貌を彼は知らない。
仕事が終わり、自宅へ戻ったところでちょうど八雲からのメッセージを受け取った。
『ごめん、今日行けなくなった』
シンプルな言葉に申し訳なさそうな表情のスタンプが添えられている。
『気にすんなよ。何かあったんだろ?』
そんな言葉を返しながら、端末の画面を見つめる恒人の表情は分かりやすく落ち込んでいた。
頭では分かっていても、会えると思っていた恋人と会えないというのはなかなかに辛いものがある。
『猫、拾っちゃって』
そんな言葉と共に送られてきた画像には八雲の手のひらに収まった黒い子猫が映っていた。
これは確かに離れられない、納得してしまうとともにこの理由にどこかで安堵する。そして同時に、八雲が猫を放っておけるはずのない優しさを持っていることを再確認して嬉しくなった。
恒人は我ながら現金なものだなと、少々自嘲してしまうが先ほどよりも辛さや寂しさと言ったものは和らいだようにも思える。やはり単純なのかもしれない。
『それは仕方がねぇな』
楽しげな様子のスタンプをひとつ添えて恒人はメッセージを送信すると、端末を机の上に置いた。
ふと、思う。
写真に映っていた猫を八雲は引き取るのではないか、と。もしもそうなったなら、これまでと同様のペースでは八雲と会えなくなるのかもしれない。
その考えは何の根拠もない漠然とした不安ではあったが、根拠がないからこそ拭いきれないものでもある。
実際、八雲の自宅は仕事場である事務所を兼ねた場所であり、恒人の家には客人として訪れているにすぎない。これまでなんとなしに続けてきた確定的な明言のない行動は、唐突に終わりを迎えるのかもしれない──などと取りとめもなく考えてしまう。
恒人は不安を払拭するどころか膨張させながら、その日は一人眠りにつくことになった。
八雲の方はと言えば子猫に振り回されててんやわんやだ。手のひらに乗せ包んで事務所へ戻りがてら、近場にあったダンボール箱を持ち込む。箱の中にタオルを敷いてそこへ子猫をそっと降ろした。
子猫はうろうろとしながら箱の中を確認し、その間にもずっと「にぃ」と鳴き声をもらす。
どうにも落ち着かない子猫の姿に、八雲の方も落ち着けない。病院で簡単に猫の世話について教わっては来たが、いかんせん道具も知識も不足している。
視界の端でずっと子猫を確認しながら、自分自身のことや子猫のために必要なことを整えていた。
だがすぐに箱から外へ出ようとしたり、何かを主張するように鳴き出したりと、子猫の行動によって逐一動きを止められてしまう。
どうしてか八雲の方に子猫は寄って来ようとして、箱から外へと出ようしてしまうのだ。八雲が少し移動しようものならば不安げに鳴くのだから、本当にどうしようもない。
「仕方ないなぁ」
一人八雲は小さくぼやいてから、子猫を抱き上げて来客用のソファへと移動する。そのままソファへと腰を下ろしてから、子猫を腹部あたりにそっと乗せて撫でてやった。
この子猫は全く人間に対して警戒というものをしない。
最初に建物の間から八雲が抱き上げた時もそうだった。まるで抵抗らしい抵抗をしない。世界には悪意などないと思っているかの如く、子猫は自身に対してくる存在に対して須く全幅の信頼を置いているようですらあった。
病院に連れて行った時にしても、病院スタッフや獣医に対しても威嚇行動を行う様子は一切なく、むしろ懐いていきすぎて困っているというほどのものだ。
そんな子猫は、八雲の腹部に乗せられるとすんなりとそこに居座る。それどころか、ぴすぴすと独特な寝息を立てながら寝始めた。
「寝た……」
子猫が寝てしまったということは、このまましばらく八雲は動くこともままならないということになる。しかしそのことを差し引いても八雲は、子猫に対して愛おしさのようなものを感じていた。
腹に乗せた小さくも確かな温もりと重みを帯びた存在を感じながら、いつしか八雲の意識もまた夢の中へと落ちていく。
眠る直前に八雲が思考したのは、今日はばたついた一日だったなという感想だった。
にぃ、にぃ、にぃ!
八雲の意識は子猫の鳴き声を受けて浮上する。
ちらりと窓の方へと視線を向けてみると、まだ太陽は空にその姿を現してはいない。それでも東側の空は少々だが白んできており、そう遠くないうちに夜明けがやってくる程度の時間であることは見てとれた。
今度は子猫の方へ視線を向けてみると、眠りに落ちる前と変わらず八雲の腹の上にいて、必死に何度も何度も鳴き声を上げている。
「どうしたの? お腹減った?」
手を伸ばして撫でてやると子猫は嬉しそうにしているが、それでも鳴き声での主張を止めることはしない。
「ちょっと待ってね」
八雲は子猫を抱き上げてから自身も立ち上がる。そしてタオルを敷いたままにしてあった箱に子猫をそっと入れると、病院で教わった通りにミルクの用意をし始めた。
粉タイプのものを病院の行った時に譲ってもらっており、粉とお湯の量を測って溶くと甘い香りが漂ってくる。それを、やはり病院で譲ってもらった哺乳瓶に入れて箱の方へと向かった。
子猫はミルクの香りを感じるのだろう、そわそわと箱の中で落ち着かない様子だ。八雲が近づけば、再び鳴き声を発して主張を繰り返す。
落ち着きのない子猫を優しく撫でてから腹ばいにさせると、哺乳瓶の吸い口をそっち上から差し出した。
すると子猫がパクりと吸い口に食いついて、勢いよくミルクを飲み始める。子猫が健康で問題のないことを確認し、八雲は安堵せずにはいられない。
自分の助けた一つの命が元気でこの世に存在しているということは、とても嬉しいことだ。普段の仕事にしても、見ず知らずの誰かであろうともその命を失わせずに済んだという事実は何よりも喜ばしいことだった。
子猫はミルクを飲み終えると、空腹が満たされて満足したのだろう。そのまま眠りに落ちた。やはりぴすぴすと独特の寝息を立てながら。
その様子を確認してから八雲は病院で教わった通りに動物愛護団体へ連絡をする。
交わした話を要約すると警察へ届出を行う必要があること、届出から三ヶ月後は八雲が継続的に保護を実施する必要があること、期間経過後に正式に猫を飼うことができる、ということだった。
連絡の折に八雲ははっきりと、保護した子猫は最後まできちんと面倒をみたいということを告げた。それは保護をした人間の責任だろうというところも確かにあったが、それ以上にこの子猫に対してすっかり愛着が湧いていたのだ。
もしも親猫ともども飼い主がいるというのならば仕方がないが、そうでないということならばこの緊張感のない子猫と一緒にいたいと八雲は心からそう感じていた。
連絡を終えた八雲は時間を確認する。日が昇ってからそれなりに時間は経っているが、それでもまだ午前の括りを脱してはいない。
八雲は端末を握り直すと、今度はメッセージの送信画面を開く。送信先は恒人、どうしても彼に頼みたいことがあった。
『急にごめん。ちょっとお願いがあるんだけど』
短くそれだけを送信すると恒人の返信を待つ。
とは言っても待つ、というほどの時間も空かず恒人からの返信が返ってきた。
『どうした?』
八雲は内容を文字にしようとして、思い直す。端的に文字で頼むことは簡単だが、今回はそれではよくないように思えた。
『ごめん、電話するね』
メッセージに既読がついたことを確認するなり、八雲は恒人へ通話の発信をする。
「もしもし、恒人? ごめん、急に」
『いや、まだ大丈夫だけど……どうしたんだよ?』
電話口から聞こえる恒人の声はありありと困惑の色を帯びていた。それはそうだろう、事情もわからないままにお願いがあるとだけ言われて困惑しない方がおかしいというものだ。
「さっきも送ったけど、お願いがあるんだ」
『うん』
「昨日、子猫拾ったって話したでしょ?」
『ん? ああ、あのお前の手のひらに乗ってた猫』
「そう」
恒人の声にさらに困惑の色が深く滲む。八雲が何を話したいのか、その真意が全く想像がつかないといった様子だった。
「あの子、飼おうと思うんだ。それでね……」
『……うん』
恒人の脳裏に昨晩も掠めた不安が再び訪れる。
会う時間が少なくなってしまうかもしれない。
いざ、次にそう切り出されたとしても恒人に止める理由も権利も何もなかった。漠然と不安で、ただただ寂しさを感じていて、どうして直接見てもいない子猫に自分は複雑な気持ちを感じてしまっているというのだろうか。
そんな恒人の不安をよそに、八雲は次の言葉を紡ぎ始める。
「事務所で飼うのも、ちょっと厳しいのかなぁって思って……その……」
八雲にしては珍しく、紡ぎ出される言葉の歯切れは悪い。
『八雲?』
たまらず恒人は先を促す意味も込めて八雲の名前を呼んでしまう。呼ばずにはいられなかったと言う方が正しいのかもしれない。
「恒人の家の空いてる部屋を一つかしてくれないかな……? あ、大丈夫。面倒はちゃんと俺が見るから」
ようやく本題を口にすることが出来たからか、電話口からでも安堵と達成感のようなものが伝わってくる。
恒人としては完全に予想外の言葉で面食らった格好だ。しかも面倒をちゃんと見る、とはまるで子供が親に対してペットを飼いたいと懇願するときに常套句のようだった。
堪え切れずに恒人は吹き出してしまう。不安を抱えていた自分自身の的外れな馬鹿馬鹿しさも相まって、吹き出してからの笑いは止まるどころか加速する一方だった。
「恒人?」
状況の飲み込めない八雲が疑問の声色を向ける。それでも恒人はしばらく笑いが止まらなかったが、何とか深呼吸で区切りをつけて八雲に謝罪の言葉を口にした。
『悪い、そう来ると思ってなかった。構わねぇよ、部屋なら余ってるから』
「ありがと。これからいろいろ寄ってからそっちに行くから、夜になると思う」
『着く前に連絡くれ、部屋は片付けておくから』
「うん、分かった。じゃあ切るね」
そう言って八雲は通話を終える。電話から最後に聞こえた恒人の声は、安堵しつつ嬉しそうに感じられた。
そこからの八雲は大変だった。届出のために近場の警察署へ足を運び、そして病院で再診察の上で家に連れ帰ることに問題はないと確認をし、病院で教わった道具や消耗品一式をペットショップやホームセンターを回って買い込んだ。
あれよあれよという間に時間は過ぎていって、すっかり日は暮れてしまっていた。こんなにも鮮やかに休日が消えていくとは思わなかったが、有意義ではあったなどと八雲は思考する。
大きな荷物を抱え、手には小さなペット用のキャリーケースを持っていた。
最初は子猫をカバンの中に入れて連れ歩いていたが、ペットショップを訪れた折にキャリーケースを入手してそちらへ移した結果だ。
──こんなに買い物をしたのは初めてかもしれない。
八雲は移動しながら漠然とそんなことを思考する。これまで仕事に関係のない個人的なものについては、大量に買い込んだりいわゆる浪費をした経験は全くない。
子供の頃から大人になって今に至るまでずっとだ。
まさか初めてのまとまった出費が自分自身ではなく猫のために発生するなど、かつての自分は想像出来なかったことだろう。
大量の荷物をなんとか捌きながら、八雲は恒人に事前に用意しておいたメッセージを送信した。内容はこうだ。
『もう少ししたら着くよ』
約束した通りの連絡だった。キャリーに移された子猫は、よく寝ている。
──この子、大物ってやつなんじゃない?
少なくとも度胸の座った猫であることは確からしかった。
しばらく歩くと、通い慣れた恒人の住む家の近場に到着する。道の端へ寄ってから今度は通話のために端末を開く。
呼び出すとすぐに通話が繋がった。
「あ、恒人? もう家の近くなんだけど、荷物多いから出てきてもらってもいいかな?」
『わ、分かった。待ってろ』
恒人が返答の後、すぐに通話を終えると八雲は端末をしまって家の方へと視線を向ける。ややもせぬうちに恒人は玄関から飛び出してきて、何度か視線を彷徨わせた。
そして八雲の姿を認めると、すぐに駆け寄ってくる。
「すごい荷物だな」
恒人の言葉に八雲は笑って口を開いた。
「うん、こんなにたくさん買い物したの初めてかも」
「だろうな……どれ持てばいい?」
「えっと……」
八雲は挟み込んでいた大き過ぎない荷物をいくらか恒人に渡して、自分は残りの荷物と子猫の入ったキャリーケースをしっかりと持ち直す。
「これだけでいいのか?」
「うん、大丈夫」
「そっか」
そう長くもない家までの道を行き、八雲は恒人とともに朱央家の玄関の敷居を跨いだ。
もう何度も数えきれないほど訪れているこの家に、宿泊するためのもの以外を持ち込むのは初めてのことで八雲はそこはかとなく緊張を覚える。
だが、恒人はそんな八雲の様子に気がつくこともないままに「こっちの部屋な」と言って、あらかじめ掃除を済ましたのだろう部屋へと先導していった。
多くの荷物の中から、猫が飛び出していってしまわないようにする柵や、寝床など一通りを二人で黙々と設置する。
「俺、猫飼ったことないんだけど」
「大丈夫、俺もないよ。だから動物病院の先生にいろいろ聞いてきた」
そう言って八雲は今日、再び訪れた動物病院で教わった子猫と生活するにあたっての注意事項などを恒人に説いた。楽しげに語る八雲の様子を恒人は横目で眺めながら、作業を進めていく。
もちろん八雲も手を止めることはない。そうしてすっかり猫仕様へと変貌を遂げた和室の中に子猫を放そうと、キャリーケースを覗き込めば相変わらずの爆睡具合だった。
ケースの扉を開いてみれば、ぴすぴすと間抜けな寝息が聞こえてくる。
その様子を確認し、恒人はついつい吹き出してしまった。
「こいつ、爆睡じゃねぇか」
「そうなんだよ。人に怯えたりも全然しないし」
「野生の生き物っぽさはないな」
「うん。全然」
膝が当たるほどの距離で隣り合って腰を落とし、二人してケースを覗き込む。中の様子を窺ってみるが状況は相変わらずだ。
その時、ふと恒人が口を開く。
「そういえば、こいつの名前は決まってるのか?」
こいつ、猫、そんな呼び方をいつまでもするわけにもいかないだろうと、そんな気持ちで恒人は八雲に問いかけの言葉を向けた。
「今日、病院に行った時にね……仮でも飼い主になるんだから名前は必要ですよって言われたんだよね。診察カルテ作るのにもいるって話だったし」
「おう、それで?」
「黒猫だから……クロにした」
八雲の淡々とした返答に、恒人はまたしても吹き出してしまう。あまりにも安直で、そしてあまりにも彼らしい名付けだと思ったが、それがどうにも笑えてしまった。
「……真剣に考えたんだよ?」
「分かってるって、悪い」
謝罪の言葉を口にしながらも恒人はやはり、くつくつと込み上げて止まらない笑いを堪えている。八雲にもそれははっきりと伝わっており、むすっと不機嫌そうな表情を恒人へ向けた。
「だからごめんって」
「別に? 俺、何も言ってないよ?」
恒人の言葉に反応する八雲はどう見ても不機嫌かつ不貞腐れているのだが、それを彼自身は認めるつもりはないらしい。
そんなやりとりをしばらく続けていると、二人が前にしていたケースの中で子猫──クロがゴソゴソと動いた。
「お。起きるか?」
興味を帯びた視線をケースの方へ向け、恒人は期待を言葉にして紡ぐ。
すると黒い塊のように丸くなっていたクロがゆっくりとケースの外へ歩いて出てきて、にぃと小さく鳴いた。
「おはよう、クロ」
八雲の声に応じるように、にぃと再び鳴いてから鼻をひくひくと動かしながら辺りを見回した。
「分かってはいたけど、本当に小さいな」
しみじみと感じ入るように恒人は呟いて、周りをきょろきょろと見回しているクロをじっと見つめる。恐る恐る指をクロの方へ差し出してみると、再び鼻を動かして指の匂いを確認し始めた。
しかし次の瞬間には指をぺろりと舐めるものだから、恒人は驚いて目を丸くしてしまう。全く人間に対して警戒らしいものをする気配すらない。クロの認識の中に悪意というものはないらしかった。
「お前、疑ったりとかないのか〜?」
答えの返ってこない問いかけをしながら恒人は、向けていた手でクロのことをぐりぐりと撫で回す。
「ほんと、びっくりするよね……拾ってから何度も野生がないなって思ってるし、これはこれで大物ってやつなのかなって思ってる」
「確かに大物だな。しかもかなりの」
八雲は肩をすくめてから笑うと、クロの鼻先をつんとつついた。そうされてもクロは驚くどころか、自身の鼻をつつく指をぺろりと舐める。
そうしてひとしきり人間たちに甘えてから、クロは部屋の中の探検を開始した。まだ覚束ない足取りで、柵の設置された入口のところまで走って鼻を何度も動かしてから壁に沿って歩いていく。
八雲と恒人は二人でクロの様子を見守った。それはすごく愛おしい時間だと、二人は二人して思う。
自然、互いの方へ視線を向けてぶつかった視線に笑った。するとクロが笑い声に反応し、室内の冒険をそうそうに切り上げて駆け寄って来る。
「どうしたの? クロ」
「なんだ、声が気になっちまったか? ごめんな」
二人から揃って言葉を向けられたクロは、にぃと鳴いたあとに八雲と恒人が腰を下ろしている二人の間に向かって突進した。そのまま二人の足の間でぐりぐりと頭を擦り付けて、何かを主張する。
「遊んで欲しいのかな?」
八雲はそう言って指を差し出すと、コロコロと床に転がってじゃれつき始めた。道具などなくても猫とはこんなにも動くものに反応するのかと、驚くばかりだ。
「さっきまで寝てたのに、急に元気だな」
恒人が楽しげに笑ってから、八雲同様に指を差し出してみる。するとクロは二人の指に対してじゃれつきはじめた。
そのじゃれつく動作は指の動きに対して一呼吸ほど遅れたものであり、クロが少なからず鈍臭いことを如実に伝える。
八雲と恒人はお互い見合わせて、何度目だろうか吹き出した。
「こいつ鈍臭いな〜」
「そうだね、本当に」
相変わらず指でクロと遊びながら、二人は言葉を交わす。クロはと言えば、こちらも相変わらず指に一呼吸遅れてじゃれついていたのだが、急に何かを思い出したかのようにハッとした。
そして再び二人の足の間にぐりぐりと頭を擦り付け始める。
「あれ、違ったのかな?」
「な、なんだ?」
再び困惑する恒人に反して、八雲は何か察するところがあったらしい。触れ合っていた互いの足に少し間が空くように位置を変えた。
するとクロは頭をすり付けがてら、出来たばかりの隙間に身体を入れると長めの尻尾を上向きにして上機嫌にその場に収まってしまう。
「え、これがしたかったのか……?」
「みたいだね」
やはり困惑しきりの恒人に対して、八雲は笑った。幸せそうに、笑った。
それにつられるようにして恒人も笑う。
こんなにもただただ幸せに時間を共有する日が来るとは、かつての八雲にも恒人にも想像できなかった。
しかし今はこんなにも当たり前に、幸せは互いの目の前にあり隣に存在する。
それを確かに噛み締めながら、この幸せな瞬間を与えてくれた艶やかな黒い毛を持つ子猫に感謝を抱いていた。
