『堕ちる魂』
——あの日から、どれだけ時間が経っただろう?
一瞬しか経っていないようでいて、永遠にも等しい時間を渡ったあとのようにさえ思える。実際どうなのかを確認する手立てはないのだが。
一度瞬きをすれば辺りは、見渡す限り結晶に広範囲を侵食された大地が広がっていた。イクスの立つ一帯はある意味枯れ果てた大地、と言えるものだ。
この光景はまやかしだ……実際のイクスは今大地に立つことも叶わない。しかし、頭ではわかっていても少なくとも自分の目に映っている——と感じている——荒廃した大地がそれを許さない。呆気にとられるイクスの背中に、前触れもなくぞくりと得体の知れない悪寒が走った。
(何だ……今の)
イクスが疑問を抱くのと同じくして、目の前の結晶に映り込んだ彼の姿がぐらりと揺らぐ。そしてイクス自身にも強烈な眩暈が襲い掛かった。
「うう……っ」
たまらず目元を抑えながら片膝をつくが、眩暈は治まる気配を見せないどころか酷くなって行く一方で、イクスの見る世界は回り揺らぎ目に映る全てがひどく歪んだ見たこともない光景が広がる。
(アニマ酔い……?いや、でも……そんなはずは……)
予想を超えた状況に身を置かれながらも、思いのほかイクスは冷静だった。自身の覚えた違和感の正体、それに注力していたために感情をまるでどこかに置き去りにして来たかのように冷静でいることが出来たのだ。
それでも息を荒げ、眩暈に耐えることに精一杯で、そのうち思考する集中力は続かなくなっていく。一向に回復の兆し一つも見えてこない状況に、疑問より先に苦痛を抱いていることを強く意識しはじめたイクスにとって事態にに希望を持てそうな要素は皆無だ。
さらに追い討ちと言わんばかりに、目の前の結晶に映るイクスがにやりと見たこともない醜悪な笑みを浮かべた。
「な……!」
さすがにそれまで冷静さを保っていたイクスも、考えの及ばなかったことに次々と襲い掛かられ、にやりと笑うもう一人の自分に最後に残った自身を律するリミッターが吹き飛ばされる。それでも言葉にならない声が漏れるのみ、驚きと眩暈はそれほどまでに彼の思考の回転を失わせてしまっていた。
結晶の中のイクスは相変わらず醜悪な笑みを浮かべて、思考が止まり息をするのがやっとという状態で片膝をついたままのイクスを見下している。同じ出で立ち、同じ顔のはずなのだが、悪意に満ちた瞳は世界全てを呪っているのではないかと思われるほど闇のみを映していて、おおよそ同じ姿を持っているとは思えないものだった。
「お前……は……」
絞り出された声は掠れ、言葉を一つ発することすらおぼつかない有様だが、それでもイクスは問いかけずにはいられない様子で独り言のような言葉を落とす。
答えが返ってくることはなかったが、その代わりに辺りには黒い霧のようなものがたちこめてくる。それの影響ですでに歪んだイクスの視界は瞬く間に黒へと覆われていく。なにも分からなくなった黒い空間でよろめきながら立ち上がるイクスに、対面するもう一人の彼は醜悪さを増した笑みとともに手を伸ばした。
その手はゆっくりゆっくりと伸ばされ、やがて結晶からぬるりと外へ出ると呆然としているイクスの眼を塞ぐようにして量のこめかみをぐいと掴む。
「!!」
一度掴まれたはずのこめかみの辺りには手の代わりに、今あるものよりさらに黒い霧がたちこめて、ついにイクスの視界を安全に奪い光の差し込むことのない闇が彼を包んだ。
(何が、起きてる……?)
嫌な予感しかしない状況で、しかも一番酷い状態よりマシではあってもめまいも収まっていないと来ている。それに加えて、視界は文字通り一寸先は闇のみ……不安が募るのも当然だった。
「くっ」
唐突にイクスの全身に痛みと不快感が駆け巡り、たまらず両膝を折り地面へと崩れる。
自分の身に何が起きているのか分からない、ただただ全身が何かに侵食されているという漠然としてはいるものの、確信だけは持つことが出来た。感覚とそれに伴って全身が悲鳴をあげ、絶え間なく身体に激痛が襲ってくる。
「あああああ!!」
なけなし程度に回復していた思考も痛みの前には無力でしかない。激痛、不快感、それに加えて呼吸しているにも関わらずどんどんと息苦しさが増して、苦痛に拍車をかけていく。
絶えることない苦痛に呼応して反射的に口から発せられる叫びは、到底耐え切れるものではない苦痛を受け続けていることを如実に表していた。
(なんだこれ!いやだ!気持ち悪い!)
全身を何か得体の知れないものに侵されていく絶望にも等しい感覚は、ひたすらイクスに苦痛と恐怖を与えて彼を疲弊させていく。叫び続けたイクスの目は見開かれ、しかし何を見るでもなく空を仰ぐのみであり苦痛の果てに瞳孔が開ききって光の宿らない瞳から、無意識のうちに涙がこぼれ落ちていた。
それでも止むことのない苦痛の波は、イクスに襲いかかり続けていて抑えることも押しとどめることも叶わない彼には、どうすることも出来ず翻弄されるばかりの永遠にも思える時間が続く。
身体の奥、芯にまで侵食が及び全身の感覚が徐々にうつろい始めるなか、反射行動で叫びを上げるのみの人形と化したイクスに残るのは恐怖ばかりだった。
(こわい、たすけて、こわい、たすけて)
叫ぶ声すら枯れて絶えはじめたころ、身体の中にこれまでとは全く違う感覚が突如として生まれる。何故かは分からなかったが、きっとこれで自分は別の何かになってしまうのだろうと思っている自身がそこにいた。そしてもう一方ではいまの自分が消えてしまうことへの恐怖と絶望を抱いている自身も確かにいて、その二つの意識がせめぎ合うようにして並び立つ。
恐怖と諦めが混ざり合う中、これまでで一番背筋が粟立つほどのまさしく嫌な感じが全身を震えさせた。その次の瞬間には自分ではない別の何者かに変わっている、存在が喰われて自分の身体が自分のものでなくなっていく感覚を強く覚え、不快なものの塊のようなものを受けて呼吸ももうろくにできない、
「あああああ!!ああ!!うあああああ!!」
最後のまるで断末魔の叫びとでも言わんばかりの声を残し、イクスの意識はぷつりと消えた。
『堕ちた魂と絶望の精』
月の出ない夜、漠然とした正体の見えない不安を覚えたコーキスは一人、睡眠を望むこともせず不安を忘れようとまだ慣れたと言うには程遠い読書に精を出していたときのことだ。
漠然と居座っていたふあんかんは、大きくそして無視できないものへと時間が経てば経つほどに膨らんでいく。
すっかり夜も更けた頃になると、件の漠然とした不安はついに確信に変わる。
「マスター!」
コーキスは全身の感覚でイクスの身に何かが起きていることを感じ取っていた。どうなっているのか、何が起きているのかは分からない。しかし、間違いなくイクスの身に良くないことが起きているということだけは確かだった。
マスターたるイクスの存在の揺らぎがはっきりと分かる。存在そのものが危ういのではない、精神と言うべきだろうか……意識が揺らいで正体不明の恐怖がコーキスを支配した。
「うぅ……っ」
息が苦しくなる、もしかするとイクスの感じたものが流れ込んできているのかも知れないと、そう思えてきてコーキスの全身が恐怖に震え、軋むような痛みは彼の呼吸をさらに詰まらせる。
「あ……う……」
息苦しさはコーキスにまともに声を発することすら許さなかったが、思い切り力強く手を握りしめると無理やりにひとつ息をした。
(俺しっかりしないと……!マスターを助けるんだ!)
身体の動きはいつもより明らかなほど格段に鈍いもので、なんとか緩慢な動きを続けるのがやっとではあったが、コーキスは気合と根性を発揮させて体制を立て直す。
もう一度深く息をして、身体にも気持ちにもほんの少しではあるが余裕が生まれてホッと胸を撫で下ろさずにはいられない。それでも主に今、コーキスを突き動かさんとするものは焦りと不安、そして恐怖とネガティブな感情のみがひしめきあっている。前向きを貫けるほど楽観できる状況はどこにもないと直感し、イクスの姿を思い起こしながらコーキスは精神的な苦痛に表情を歪めた。
(マスター……!)
イクスの元へ行かなければ。全身の感覚がもれなくコーキスに義務を告げ、行動することを急かすように疼く。
頭で考えるよりも先に本能が急げと叫び、たまらずすっかり寝静まっている拠点を抜け出して一人コーキスはイクスの気配をたどって走り出した。
進めば進んだ分だけイクスが近くにいると確かに感じられる。その一方で進み近く分だけイクスの身に起きたこともはっきりとしてきて、恐怖は底なしかつ天井なしに広がっていく。現実をこの目でまず確かめなければと言う使命感がコーキスを突き動かしていた。
ただひたすらに走り続けるコーキスの周りの様子は、明かりのない暗闇が支配するばかりのものだったが、鏡殻変動で生じた無数の決勝に覆われているばかりだ。コーキスは目にこそはっきり映らずとも、辺りの様子と気配で魔鏡に関する影響が強く、そして周辺のアニマの性質が奇妙な変異を起こしていることを感じ取って小さく身震いする。
(この辺りはおかしい……何が起きているんだ?)
理解のつかない状況と、想像も及ばぬ得体も知れないものに底知れぬ恐怖はさらに深まっていくばかりだ。
それでも足を止めることなく走り続けたコーキスの目の前が唐突に開ける。どうやら広い場所に出たようだが、相変わらず辺りに光はなく気配のみが頼みの綱だった。
先とはうって変わって一歩また一歩と慎重に、コーキスは様子をうかがいながら前に進み始める。歩を進めるたび、コーキスの背筋に寒気が走り、嫌な予感に拍車をかけた。
より一層の怖気が走った次の瞬間、唐突に人の気配が正面に出現しコーキスは反射的に体勢を低く落として武器に手をかけつつ身構える。
「コーキス……?コーキスなのか?」
気配のみを感じさせる声の主は、闇の中に完全に紛れていて姿をうかがい知ることは出来なかったが、コーキスの耳に届くその声は聴き間違うはずなどないもので最悪の事態を想定していた彼にとって事態を混乱し混迷を極めていた。
「マス……ター……?」
小さく呟いたコーキスの困惑した果ての声は闇の中に紛れる相手に確かに届いたようで、呼びかけに答えるようにゆっくりとコーキスの前へとその姿をあらわす。姿形はまごうこと無く、コーキスのマスターであるイクスのもので少なくとも側から見る限りでは彼はイクスであろうと思われた。
コーキスの感覚ではイクスの存在は揺らいでいて、しかし目の前にいるイクスはコーキスの知る姿に見えることが、とんでもなく彼を混乱させ目の前にいるイクスを本物だと信じたい気持ちと心のどこかで偽物なのではと疑ってしまう気持ちがぐちゃぐちゃに混ざってしまっている。
「コーキス!良かった、会えて……元気だったか?」
「えっと……」
「どうしたんだ、早くこっちにきて顔を見せてくれよ」
嬉しそうな声色でイクスは言葉を続けて、そしてコーキスに手招きしていた。困惑とともに疑いの視線をイクスに向けながら、ゆっくりゆっくりとコーキスはイクスに向かい歩み寄っていく。
「おいで、コーキス」
イクスの声に吸い寄せられるように歩いていくコーキスだったが、目の前に立ったその瞬間にハッとする。イクスの目は虚ろなもので、コーキスの知るものとは似ても似つかなかったのだ。
「お前、誰だ!」
慌てて後ろに跳びのきながら、先と同じく体勢を低くして武器に手をかけ身構えた。
「すごいすごい、気付いたのか。さすが鏡精ってところかな!」
そう言って笑い声をあげたイクスの表情は冷たく悪意にあふれ、彼の周りに集うアニマのことごとくが変質してまるでアニマが敵意でも持っているかのように思えるほどだ。
(どうして、どうして気付かなかった……!)
コーキスは目の前にいるイクスから発せられる睨め付け、そして観察する。彼からはまるで以前とは別の存在にでもなってしまったようなへんかしか感じ取ることが出来ず、コーキスの表情は無意識に歪みそれを隠すように彼は下を向く。コーキスの全身には絶望と後悔が渦巻いていた。
「その顔が見たかったんだ!もっと見せてくれコーキス!」
「……やめろ」
「どうしたんだ?コーキス、早く顔を見せてくれ!」
「偽物が!マスターの声を、姿を、使うな!」
コーキスは声を荒げると、即座に手をかけていた剣を握り直して抜き放ち地面へと突き立てる。無機質な音が響き渡り、二人の間を通り抜けた。二人は無言で相対す、一方は冷徹にして醜悪な笑みを浮かべて相手を見下し、また一方は怒気を含む刺すような視線をもって見上げながら睨みつけるのみだ。
「ははは!」
先に声を上げたのは、イクスの姿をした何者かだった。高らかに笑い声を上げて、コーキスをやはり見下しているその瞳に奥には虚無が広がっている。
「何がおかしい……」
「これを笑わず何を笑えと?コーキス、お前が偽物と言ったこれは変質を遂げたイクスそのものだ。笑えるってものだろ?」
これ、と称して自身の身体を示しながら嘲るような視線とともに鼻を鳴らした彼は、イクスの姿をしてはいるが中身はやはり別物に違いなかった。
「だから今みたいにして傷がつけば、それは大事な大事なマスターの傷になる。気をつけるんだな」
さらりと恐ろしいことを言ってのけるイクスの姿をした何者かは、にんまりと満足げにしかしそれでいて目の前のコーキスを見下しながら下劣に笑う。
その様子にコーキスは悔恨の念を抱きながら、噛み切ってしまうのではないかというほどの力加減で下唇を噛みしめた。
「マスター……」
「やはりいい顔をするな。憎むがいい!恨むがいい!もっと、もっとな!」
イクスの皮をかぶったそれは、コーキスの様子に恍惚とした表情を浮かべて満足そうに笑う。その姿もその行動も、全てがコーキスには許し難いものだ。
「お前、マスターに何をした」
「大体のことは察しているんじゃないのか?」
怒りに震えるコーキスに投げつけられるのは、見ないふりをしていたかった現実への入口だった。この現状にすら見ないふりをしようとした自分にも心底苛立ちを覚えながら、視線に溢れ出すほどの怒りを乗せてコーキスはまっすぐ目の前に立つ醜悪な者を睨みつけ続ける。
しかし次の瞬間、コーキスの視界がぐにゃりと歪み彼の平衡感覚を狂わせた。何が起きているのかもわからないまま、ぐらりと歪んでそのまま地面に倒れ込んでしまいそうになるのを必死に踏ん張って、なんとか踏みとどまったコーキスの目には目の前にいるイクスの姿をした何者かの姿にダブってぼんやりと残像が映る。その残像は少しずつ鮮明になっていき、にわかには信じがたいことだがイクスに近い姿を形成し始めた。
(マスター……?幻かな……でも……)
今、目に写っているのは幻か否か、それすら判断に迷いながらコーキスは幻でも構うものかと必死にイクスらしき残像に手を伸ばす。緊張の糸が解けてしまい深く考えることすら億劫に感じられ、ただひたすらに手を伸ばしこの手が届いたなら何かが好転するのではないかと、すがるような淡い期待とともに伸ばす手がイクスに届きかけた時、耳に直接響いてくる『危ない!コーキス!』という声によってコーキスは静止した。
その声はコーキスのよく知るイクスのものであり、目の前に立つイクスの姿をした何者かとは違うように思われるものだと確信できる。しかし、その次の瞬間には視界の歪みも残像もイクスの姿も消えてしまっていて嘆くように問いかける声を上げた。
「マスター!マスターなんだろ!どこにいるんだ!」
問いは虚しく空を切り、代わりに浴びせられたのは剣の柄を用いた情も容赦もないみぞおちへの一撃あり、たまらずそれまで倒れこむことなく持ちこたえていたコーキスもその場に膝と手をついてうずくまる。
「かはっ……」
「気をつけろと言ったはずだ。指一本でも触れてみろ、次はどうなるかな。しかし、幻覚でもみたか?哀れな鏡精だ」
露骨なまでに蔑みの色を乗せた視線でコーキスを見下しながら、侮蔑の表情をたたえてゆっくりと手元の剣を抜くと刃を煌めかせた。
「さようならだ。手駒が必要になったときは呼んでやろう。その時のお前はもう、今のお前とは別の者だろうがな!」
言葉を発した後、虚無に染まった瞳がコーキスを捕捉し、コーキス自身も自分という存在が消えることに恐怖して身体を縮めたときだ。相対する二人のものとは異なる気配に、剣は手に構えたままイクスの姿をした何かは、その虚無の視線をぎろりと気配の主へと向ける。
「イクス……なの?」
そこには呆然と立ち尽くすミリーナの姿があった。
『堕ちた魂の帰還』
イクスの姿をした何者かは構えた剣を動かすこともなく、それどころか微動だにせず彼とコーキスよりも更に離れたところに立ち尽くすミリーナを睨みつけている。
「ミリーナ様……?」
純粋に今、目の前にミリーナが現れたことを不思議に思いながらコーキスは彼女の名前を呼ぶのと、イクスの姿をした何者かが舌打ちをしたから闇に溶けるようにその姿を消したのはほぼ同時だった。
向けられていた殺意が消え去ったことに安堵しながらも、唐突に起こった出来事はコーキスを呆然とさせる。そのコーキスの姿を見つめながらミリーナはひたすらに困惑するばかりだった。
「ミリーナ様、どうしてここへ?」
「……」
「あなたとイクスに近いけれど、異なるアニマを同時に感じたからよ」
「そう……だったんですか。すみません……」
「どうして謝るの?」
問いかけるミリーナの声にコーキスは一度目を伏せると、沈痛な面持ちを浮かべながら再びミリーナのことを見つめ、口を開く。
「俺……皆に、ミリーナ様に何も言わなかったから」
「そうね、話してくれるのが一番だったと思うわ。でも、コーキスがそれが一番良いと思ってやったことなんでしょう?」
「……はい」
「なら、胸を張っていいのよ」
コーキスを宥めるようにゆっくりとミリーナは言葉を紡ぎ、ふわりと柔らかな笑みを浮かべてからコーキスの頭をそっと撫でた。
「……」
「でも、こうなってしまった以上、話はきかないといけないわね。ゆっくりでいいからさっきあったこと、話してもらえるかしら」
先程から浮かべている笑みに相応しい、柔らかな声でミリーナはコーキスにことの顛末を語ることを促す。その姿にイクスの姿をした何者かを目にしたときの困惑は、影も形も見受けられなかった。
「はい……分かりました」
口調こそいつもの明るさはなく、重々しさすら感じるほどのものだがコーキスは確かにミリーナの言葉を承知すると、彼が先程まで目にしたこと少しずつ語り始める。信じられないような出来事がコーキスの口から語られミリーナの瞳は驚きに見開かれた。
「……そう。話してくれてありがとうコーキス」
事の顛末を聞き終えると驚きの表情を浮かべながらも、ミリーナは毅然とした様子で礼の言葉を述べる。そのまま考え込んでしまい、すっかり黙り込んでしまったミリーナへ視線を配りながらコーキスは言葉を発することなくゆっくりアジトへと引き返しはじめた。
「コーキス、聞いて起きたことがあるの」
そろそろアジトへ到着する頃になってミリーナが、はっきりとした口調でコーキスに呼びかける。
「なんですか? ミリーナ様」
「さっきの、イクスのことなんだけれど」
「はい」
コーキスは身体を強張らせ、緊張した様子を隠すこともせず、恐る恐るミリーナへと視線を向けた。
「コーキスから見た、正直な印象……感じていることを教えて欲しいの。何でも良い、気になったことを聞かせて?」
「うーん……」
問いかけられた言葉に、腕を組んで唸り声をもらすコーキスを見はただ真っ直ぐ見つめる。
「多分、偽物じゃない……けど中身は偽物なんだと思います。リビングドールと近い状態かもしれません」
「身体はイクスのものだけど、中身……魂は別の何者か。ということね」
「はい」
コーキスの答えを噛みしめるようにミリーナはひとつ頷くと、口元に手をあて視線を落とし考える様子を見せた。そう時間の経たないうちに、視線上げてコーキスを真っ直ぐ見つめるとゆっくり口を開く。
「コーキスの言う通り、さっきイクスはリビングドールと同じような状態になっている考えていいと思うわ。あの口ぶりからしても別の存在であることは間違いないでしょうし。それと、コーキスが今もここで通常通り活動が出来ているということは、イクス自身の魂は消えていない。身体の奥底に押し込められているのかも知れないわ」
ミリーナの言葉にコーキスは一心不乱に耳を傾ける。
「俺にもマスターが消えてないのは分かります。あとは助けるだけです……必ずマスターのことを助けてみせます!」
決意に満ちた真っ直ぐな瞳は、今は見えぬイクスへ向けられていた。
「えぇ」
力強いコーキスの言葉に、負けぬほどの決意を隠すことなくミリーナは大きくひとつ頷く。
「もし、今、言った通りイクスの魂が主導権をにぎれない状態なのなら、偏って不足しているアニマを本来必要なはずの量へと戻すことで状況が変わるかも知れないわ」
「え……えっと……すみません、ミリーナ様。どういう?」
「そうね、簡単に言うと……足りないアニマを補えば、今は前に出てこれないイクスの魂が前に出て来られるかも知れない……というところかしら」
先よりも噛み砕いたミリーナの言葉に、コーキスは納得した様子で手をひとつぽんと打った。
「多分、今のイクスあいろんなアニマが集まった状態になっているんじゃないかしら。だからイクスに本来必要なアニマを補うことで何かが変わるかもと思うのだけれど、これはあくまで仮説を前提にした話だから、確証がない以上確実な手とは言えないし、今の状況はまだまだ不明瞭というのが正直なところよ」
さらに言葉を重ねるミリーナの瞳は、不安げに揺れている。反対にコーキスはミリーナの様子に影響されることもなく、先程と変わらず迷いひとつない決意の気持ちに満ち溢れた表情を浮かべていた。
「可能性が少しでもあるならやります、マスターを絶対に助けます!」
気合いと気迫に満ちた声で、はっきりとその意思を示す。
コーキスの言葉にミリーナは頷くと、連れ立ってアジトへと入って行く。いつ訪れるか分からないイクスの姿をした何者かと再び相対するときのため、備えを万全にしなければと心に刻みながら。
コーキスがイクスの姿をした何者かと相対してからしばらく。かりそめの平和がアジトを包んでいた。そしてその見せかけだけの平穏は突き崩される。コーキスの背筋にぞくりと寒気が走った。
(来た!)
確証がある訳ではなかったが、直感でコーキスはそれを感じていた。件のイクスの姿をした何者かが、あの日と同じように現れたと思うと居ても立っても居られなくなる。
次の瞬間には、コーキスの足は勢い良く地面を蹴りアジトの外へと向かっていた。
「コーキス」
呼び声を背中に受けて、コーキスは恐る恐る振り返る。向けた視線の先には、ミリーナと彼女の肩に仁王立ちをしているカーリャの姿があった。
「どこへ行こうとしているんですか!」
「カーリャ先輩、ミリーナ様……」
「一人で行くつもりね?」
ミリーナの言葉にコーキスは言葉を返さなかったが、逸らした視線と心苦しさを感じさせる表情が全てを物語っていた。
「だめですよコーキス!」
怒りを滲ませながら声を荒げるカーリャに、視線を向けるコーキスの表情は暗い。重いが揺るがぬ決意が見てとれた。
「そんなの、許さない……です」
コーキスの変わらない表情に、カーリャの勢いが削がれていく。
「心配してくれてありがとな、カーリャ先輩。ミリーナ様も……ありがとうございます」
先と変わらぬ決意の表情のまま、礼の言葉を述べてから困った様子で頭を掻いた。
「俺、この間と同じやつを感じて……マスターだって思ったらいても立ってもいられなかったんです。今も震えが止まらないけど、あいつと決着をつけてマスターを取り戻すのはきっと俺の問題なんです。だから……行かせてください!」
コーキスの他の誰も巻き込まないという決心が強くこもった言葉は、カーリャをそしてミリーナをも黙らせる。彼の言葉にミリーナは、苦笑してから承知の意を口にした。
「ミリーナ様!」
不服の色を隠す気もないカーリャの怒声にも応えず、ミリーナはもう一度その口を開く。
「絶対にイクスと二人で帰ってきて……約束よ」
不安と心配が混ざり合う切ない声に、コーキスは息を呑むが力強く首を縦に一度降ってみせた。それが今、彼に出来る精一杯のことであり、それを現実にすることがこれからの彼がすべき全てだ。
「ちゃんと帰ってくるんですよ? 必ずですよ!」
カーリャはミリーナの声に全てを感じ取り、表情こそ不服を訴えていたが言葉はコーキスの背中を押すものだった。
「ありがとう……いってきます!」
二人の言葉に後押しされ、そして二人に見送られながらコーキスはアジトを背にして歩き出す。彼の表情には悲壮なほどの決意と、そして折れぬ覚悟が浮かんでいた。
アジトを後にしたコーキスは、ぞわりと背中に寒気を感じながら歩き続けていた。よりおぞましい気配を感じる方へと歩を進め続けていると、前回の時と同じような魔鏡結晶が多くアニマは幾重にも混ざり合って淀みの強い場所へと出る。
(この前の場所もこんな感じだったな)
コーキスは全身の感覚を研ぎ澄ましながら、イクスの姿をした何者かの姿とその気配を必死に探った。またも先日と同じようにかげから唐突に気配が出現し、コーキスは剣に手をかけながら現れたイクスの姿をした何者かに突き刺すような視線を向ける。
「ついにだ。やっとこの日が来た」
「オレも待ってたぜ……マスターを返してもらう」
「ふ……出来るものなら、やってみろ!」
イクスの姿をした何者かは、嘲るように冷ややかな笑い声とともにコーキスを見下してから、もう一度その口を開いた。
「我らの恨みを、今日こそ晴らす時だ」
呪いともとれるその言葉に、コーキスは怯むことなく先程よりも鋭い視線を向けながら、剣を握る手にさらに力を込める。相対するイクスの姿をした何者かも、同様に県へと手を伸ばしてニヤリと吐き気のするような笑みを浮かべた。
二人はほぼ同時に剣を静かに抜き放つと、じりじりと間合いを図り合う。永遠のようでいて一瞬のようでもある間のあとで、二人は素早く剣を構えて打ち合った。金属のぶつかり合う硬く高い音が辺りに響く。
コーキスの表情は決死そのもので、奥歯を噛み締めて目の前の打ち合いについていくのがやっとだった。相対してイクスの姿をした者は表情に圧倒的な余裕が浮かび、打ち合いの身体の動きひとつにしてもコーキスよりも格段上であることが一目瞭然だ。言うなれば猫と鼠ほどの歴然とした力の差が二人の間にはあった。
イクスの姿をした者の振るう剣には、迷いも揺らぎも何一つもない。ただただ無情なほど真っ直ぐに冷酷で、それでいて無慈悲な剣尖がコーキスを襲い続ける。そのうちコーキスは襲いかかる剣尖を凌ぐだけでやっと、といった状況へと追い込まれていく。それほどまで、二人の実力差は絶望的かつ決定的であった。
「拍子抜けだな、鏡精。これで終わりにしよう」
冷たい声とともにコーキスのみぞおちへ剣の柄を打ち込み、その衝撃に仰け反る形になる彼をそのままに今にも手から離れそうになっている剣を正確に弾き落とす。
「つっ!」
その身に受けた衝撃にコーキスは堪らず地面に膝をつき、それを逃すことなく彼の首には剣先がぴたりと突きつけられた。コーキスの見上げた視線の先には、歪んだ笑みで彼を見下すイクスの姿をした何者かの影がある。その冷たい視線はコーキスへの憎悪の色に染まり、彼を視線で持って刺し貫かんとでもしているかのようなものだった。
コーキスは自分自身の不甲斐なさを嘆くことさえ許されない状況に、相手をも上回るほどの殺意すら感じられそうな鋭い視線を向ける。
「……まだだ。絶対に、諦めない!」
自身を奮い立たせんとするような怒声を張り上げ地面に手をつくと、そのまま体勢を変えて体当たりを仕掛けた。コーキスに突きつけられていた剣先が首筋をかすめて、うっすらと傷を作るが彼の捨て身とも思える気迫を帯びた体当たりに、イクスの姿をした何者かは思わず後ずさる。しかし、コーキスの体当たりの勢いを避けることは叶わず押し倒される形になった。
イクスの姿をした何者かは大慌てで上にのしかかるコーキスを振り払おうとするが、体当たりの後にしがみつき抱きしめるような格好になった彼を退かせることは叶わない。
「帰ってきてくれ、マスター!」
「やめろ、離せ!」
「離さない! 絶対に!」
振りほどこうと必死にもがくイクスの姿をした何者かに、ただそれ以上に必死にコーキスはしがみつき食らいつく。するとコーキスの全身が淡く光を帯びて暗闇に満ちた周りをほんのりと照らしはじめた。光の正体はアニマ、淡く虹色の光を発してさらに多くそして大きく浮かぶ。
——ミリーナに『足りないアニマを補えば、今は前に出てこれないイクスの魂が前に出て来られるかも知れない』と聞いた時、コーキスには一つの策が浮かんでいた。確信や確証はなにひとつもない、行き当たりばったりなものではあったのだが直感的に突破口になり得るものだと感じているものだ。
最初の邂逅のとき、コーキスはイクスの姿をした何者かの動作に疑問を抱いていた。何故か直接コーキスに触れないようにしている、まるで触れてはいけないもののようにすら思えるほど。もしも、それが事実なら直接触れることで何かが変わるかもしれないと、ならば捨て身でもなんでも奴にしがみついてやればいいと思ったのだ。
直接触れていれば自身のアニマを多少流し込むこともできるだろう、それがミリーナの言う足りないアニマを補うことにも繋げられればとそこまで考えた時に、決心は決まっていた。
イクスの姿をした何者かはうわごとのように、やめろと繰り返し声を発しながらコーキスの腕から逃れようと試みるが、がっちりと抱きしめられていて振り解くことは叶わない。その間にもコーキスから浮かび上がった虹色のアニマは、イクスの姿をした何者かの中へとどんどん吸い込まれていく。
「ぎゃあああああ」
それはまるでまるで断末魔の叫びだった。その叫び声とともにコーキスの中で暴れのたうち回り、ついにはがくりと力なく身体は崩れ落ちる。その様子にコーキスはついにその腕の力を緩めて、もう一度しかと抱きしめ直して耳元で『マスター』とだけ呟いた。
「……コーキス?」
驚いて弾かれたように顔を離したコーキスの目の前には、瞳を開いたイクスの顔が確かにある。イクスの表情は全てを承知している様子で、申し訳なさそうに眉を下げたものだった。
「マスター! 本当にマスター、なんだよな……」
安堵と不安が入り混じった視線とともに言葉を吐き出すと、返事の代わりにしっかとイクスはコーキスのことを抱きしめる。
「もう大丈夫、ありがとう。あと、ごめんな?」
「マスター……本当に良かった、マスター」
「会いたかったよ、コーキス」
「オレも! すごく会いたかったよ。……おかえり、マスター!」
「うん、ただいま」
イクスを呼びながら泣きつくコーキスを、なだめるように抱きしめたその手で背を撫でながらイクスは柔らかく、そして喜びに満ち溢れた笑顔を浮かべていた。
