鏡写しし他が姿

鏡は真実を映し出すとも、虚像を生み出すともされる。
そのいずれもが己と、それとは別のもう一方の存在についてをしめすのだ。どちらが本物か──それが惑わされるようなその姿は、写し取られたものと実在するもので。
ときに意志を揺らがせば、立場が逆転することも有り得る。
全ては〝本物〟であること、存在する価値と証を持つために。

 

オスカーはある日、自宅の鏡に映った自分の顔に息を飲んだ。
心あたる表情とは全く異なるものを浮かべ、にやりと自分に不敵に笑む鏡の中のそれは、背筋にぞわりとする何かを感じさせた。
ゆっくりと瞬きをしてみると、それはまるで嘘のように消え去って、鏡の中の自分はいつもと変わらず同じ表情を浮かべている。
勘違い、だったろうか。
そんな疑問を抱きながら、オスカーは自室へと戻っていく。
首を傾げながら自室への扉を開けば、そこには信じられないような光景が広がっていた。
自室が、全面鏡の言うなればミラーハウスのような状態に変貌を遂げていたのだ。
目を擦っても、頬をつねっても、状況は変わらない。
どうやら夢てはないらしかった。
「……どういう、こと?」
ぼそりと呟いたオスカーの声にくすくすと笑う声が重なる。
驚きと共に一面を見回してみたところで、やはり全てが鏡に覆われている場所でしかない。それどころか入ってきた入口すら消え去っている。
『ここからは出られないよ』
幾重にも折り重なった声が嘲笑うようにして言った。
『ここは鏡の檻。もう二度と外には出られない』
「何が目的なの?」
声の主がどこなのか、どうしたいのか、何一つも見えてはこない中でオスカーはつとめて冷静に問いかける。
しかし返ってくるのはまたしても折り重なった笑い声ばかり。
「何かおかしい?」
少しムッとした様子でオスカーが尋ねると、笑い声はさらに大きくなった。
そして先ほどまでとは違う声が言葉を紡ぐ。
『おかしいと言うよりは滑稽、かな』
その声は嘲笑うような音を鳴らし、オスカーに対してはっきりとした言葉を向けた。
オスカーはその声の主はどこにいるのだろうと疑問を抱きながら、視線をなんの気なしに正面へと向ける。そこには当然、自分の顔が映っていた。
ただし、それは一瞬だが確かに目にした不敵に笑っている顔だ。
自身の顔に反射的に触れながらオスカーは、己の表情を必死に確認する。この表情は自分のものでは無いはずだと、そんな不安を打ち消すためにただ必死に。
「そんなにおかしい?」
鏡の中の自分が笑う──嗤う。
『だってもう戻れないのに、そんなことを心配するなんて……滑稽でしかないじゃない』
歪に口元を歪めて、あまりにもそれは凶悪なものに思われた。己の顔を使った怪物とすら言える鏡の内の存在は、同じでありながらも何一つ同じものではない。
オスカーはつとめて冷静に、鏡に映る自分に言葉を向ける。
「勝手にこんなところに閉じ込めて、説明もなく笑うのはさすがに失礼じゃない?」
笑い声が、鏡の部屋を瞬く間に満たした。冷たくも愉快さをたたえ、嘲るようでいて憐れむような笑い声にオスカーはほんの一瞬眉を顰める。
『確かにそれは言う通りかも。じゃあ、きちんと教えてあげるね』
鏡の中のオスカーが冷たい視線と共に、そう言って一呼吸置いた。
『で、絶望して?』
次に鏡の中に浮かんだ表情はどうしようもなく邪悪で、どうしようもなく他人を不快にさせるものだ。オスカーとしては自分にもそんな顔が出来るのかと、一周ほど回って感慨を抱いてしまうようなものだった。
「オレと同じ顔で酷いこと言うね?」
『当然だよ。そうしたら、こちらが表になれるんだ』
切実に鏡の中の同じ顔をしたそれはオスカーに訴えかける。
『俺と、交代してよ』
彼の悲願、切望、懇願が伝わってくるが、オスカーは表情ひとつも変えやしない。
「……キミとオレが交代して、ミオのこと大事にしてくれる?」
『もちろん』
「本当に?……そんなにも自分のことしか考えてないのに?」
ぴたり。鏡の内と外で静寂が等しく場を支配する。
怒りに震えている様子で、鏡の中の存在は下を向き拳を握りしめた。
『ここに一人、誰にも振り向かれないでどうして誰かのことなんて考えられるっていうんだ』
これまでよりもかなり強く荒げられたその声は、目の前のオスカーを刺し穿つことのみを目的としているように真っ直ぐ向けられる。
「……言いたいことはそれでおしまい?」
『何を』
オスカーはたっぷりと一呼吸を置いてから、普段の穏やかさからは想像もできないような鋭さと緊張を帯びた表情を浮かべて口を開いた。
「本当に自分のこと、自分の方を見てほしいとそれだけを望んで求めているようなキミにミオのことを任せられるはずがない」
紡ぎ出された言葉は淡々と、表情同様に鋭いものだ。
『自分のことを大事にもできないくせに、他人を大事になんてそんな理想論を』
「ミオを大事にするのは、オレにとって当たり前のことだよ」
鏡の中から独善的な声と同じ顔とは思えない我欲にまみれた顔から言葉を吐き出されるが、それを遮ってオスカーは言い放つ。
「それを理想論なんて、キミはオレの顔も声も持っているけどオレとは似ても似つかない何かだ」
はっきりとそう断じられる言葉は、この部屋の中を満たす鏡たちに亀裂を生じさせた。世界に同じものと定義されているらしい彼らは同時に存在することは叶わない。
『否定するの? キミはオレなのに?』
「さっきも言ったよ、似ても似つかない何かだって。キミはオレじゃない」
再び断じるオスカーの声は亀裂の入り始めたこの部屋をさらに崩壊へと進ませ、鏡の中の同じ顔をした存在は表情を歪めた。
『やめて、消えたくない』
「……ごめんね。オレはオレとして生きていくことを……ミオと一緒に生きていくことを諦めるつもりはないから」
その一言に呼応したかのように、部屋全体に亀裂が走りついには崩れ去る。
もう鏡に映っていたもう一人の自分からの声は聞こえない。
そこにはいつもと変わらない部屋と、オスカー自身がいるだけだった。