至る闇の先

戦いにおける得物とは、一番扱いを得意とする物という意味だ。
しかし、だからといって得物以外のものが使えないということでも決してない。
少なくとも左雨行孝という人間は、得物に対してこだわりはあっても、それ以外のものが使用できないということは全くなかった。
彼は仕事において日本刀を所持し、そのことを許可されている警察官ではある。
だがそれは、仕事に従事している時のみに限った話だ。
行孝たちの仕事は時間を読むことが出来ず、残業や時間外業務も発生しやすい。と言って、非番の日がないということも決してなかった。
法律との縁が深い職業ゆえに、最低限の法は守られる。行孝としては休日があろうがなかろうが、非番が失われようが知ったことではなかった──むしろ不測の事態への対応がし辛いところもあって非番は好まない──が、彼にも等しく休息することは求められていた。
行孝にも当然、生活というものがある。
当人としてはそんな雑然とした物事そのものが面倒で、億劫でたまらないのだが、人間として生きていくためには仕方のないことだ。
昼間に外出すると、無限に吹き出す苛立ちと無駄な体力の消費の激しさが先に立ちすぎるため、日が落ちてから人混みを避けながら行動をする。
どう見ても不機嫌極まりないぶすくれた表情は、他人を寄せ付けることなど当然ない。
一人、太陽が姿を隠して夜を迎えた街中を行孝は歩いていた。
普段であればまっすぐ歩いて、自宅へと戻るだけの道。
しかし今日は、違った。
行孝の感覚が俄かに緊張でひりつく。
気配は歩く道の、一つ奥。街の影、暗がりとも言える部分だ。蠢く闇はその奥に、とてつもないものを抱えているように思われた。
「……ちっ」
あからさまな舌打ちをひとつ落として、行孝は道の奥を睨みつける。
手元には得物などない。しかし、見つけてしまった以上は放置するというつもりもまたなかった。
この手のものは放置すると、害をなす。それは行孝の職業柄としても全くもって得策ではない。それどころか、職務怠慢だ。
つまり察した以上、選択肢などなくこの状況から対処を行わなくてはならない。
露骨に不愉快といった表情を浮かべながらも、視線は闇の奥を鋭く見据えた。
行孝は一歩足を踏み出すと、そのまま闇に向かって真っ直ぐに駆けていく。まるでそれしか知らないかのように。

行孝が足を向けた先は文字通りの暗闇だ。
街灯の光など届かず、周りに明かりを灯した建物などない。
全ては暗闇、夜空の月と星だけがうっすらとだが光となってかろうじて状況を察することが出来る。その程度の明かり以外はここに光源らしきものは皆無だった。
それでも行孝の足取りには全くもって一切の迷いがない。
確信を持って足を動かし、闇の奥へ奥へと歩を進めていった。
すると唐突に行孝の背筋を何か、良くない気配がぬるりと通り抜けていく。
不愉快そうに眉を顰めた行孝は、次に舌打ちをひとつ落とした。どう考えても歓迎できない嫌な気配に干渉されて、嬉しいわけもない。
最初に感じたものと同質のものなのか、そうでないのかもまだ見極められられないこともあり、行孝はより一層表情を不機嫌に歪めた。
もちろんながら、進める足を止めることもなければ、警戒を怠るようなこともない。
神経を鋭く尖らせて周囲の気配を窺いながら、一番濃く気配を感じる方向へと真っ直ぐに足を向ける。
ここから少し奥、建物の間に出来た裏路地は建物の端へ辿り着くことで曲がり道のようになっていた。その奥には建物と建物と間のぽっかりと穴が空いたような空間が広がっているらしい。
おそらくそこが、目指す場所だった。
行孝の瞳が一層鋭く、歩く道の先を見据えている。彼は取り立ててワーカホリックという人種ではないが、現状従事している仕事については天職だと信じて疑わない。
人ならざるものを視る能力を有しそれを祓う仕事をしている行孝だが、それこそ自身が目指した仕事であり自分が望んだ仕事そのものだ。
警察組織というものに所属していることも、この天職と思しき仕事を手にするために他ならない。
だからこそ、一瞬は面倒だという感情であったり気怠さを感じるようなことがあったとしても、それは本当に一瞬だけだ。結局のところそれを越えて余りあるような仕事への圧倒的な自負と自信が行孝を突き動かす。
変わらず歩を進めていく行孝だが、そろそろ角へと至ろうかというところでピタリを足を止めた。
大きく息を一つ吐いたあと、行孝はぐるりと辺りを見回す。何かを探すように一周視線を動かしてから、再び舌打ちを落とした。
今、行孝の手元には得物どころか武器となり得る道具すらもない。
劣勢も劣勢。極めて劣勢だった。
それどころか、戦う土俵にすら立てやしない。
だが、だとしても。
行孝は、気配のする方へと向かうこと以外を是とするつもりは全くなかった。ここでその気配に背を向けるなど、彼の中の全てが許さない。許せるはずがなかった。
半ば無策とも言える状況の中、行孝は気配の位置を把握して再び足を踏み出す。
自分はやれる、そんな自負は彼の足を迷いなく進めさせた。
直角に折れる建物と建物の隙間、そしてその向こうには口を開けた穴のような空間。
そこには闇が広がっている。
しかし間違いなく、そこには、何かがいた。
行孝は眉間に皺を寄せ、不快感を表情にこれでもかというほどに滲ませる。
次の瞬間、行孝は全力で地面を蹴った。鈍い音が場に響く。
闇の奥からぬるりと何かが伸びて、行孝を捕捉すると真っ直ぐに彼を目掛けて飛んだ。こちらからはひゅんと軽くそして鋭い音が響いた。
このまま真っ直ぐの軌道では行孝が不利であるのは明白だ。ギリギリのところで上半身をずらす格好で闇の奥から飛んだ何かを躱した行孝は、強引に身を翻して手を伸ばす。
手を伸ばしたその先には壁があり、その壁には百八十を優に越え百九十にも迫ろうかという長身よりも少し短い鉄材が立てかけられていた。
行孝が乱暴にそれを掴み取ると、掴まれるに至らなかった鉄材ががらがらと音を立てて地面へと倒れる。
しかしそんなことに構うことなく、行孝は握った鉄材を思い切り振った。
ぶんと風を切る音がしたあと、闇から伸びた気配が後退する。行孝も動きを止めると現状を目と感覚で観察した。
そこには確かに何かが在り、何かが行孝のことを捕捉している。おそらくそれは、ここで待っているのだ。
食糧が飛び込んでくるのを。罠を仕掛けて、狩りを楽しんでいるのかもしれない。
異形は自身を捕食者とし、それ以外の存在を被食者と定義しているのだろう。
行孝からすると、そういった輩は人であろうと人外であろうと、反吐が出るほどに嫌悪すべきものだ。
思考するだけで行孝はその想定そのものに舌打ちをして、闇の奥に戻った異形の気配の根源を睨みつける。
普通の人間にはまず視えることのないだろうものを、行孝はただただ見据えていた。
彼の紫色の瞳には確かに異形が映る。
何としてでもそれを仕留めてやろうと、行孝は真っ直ぐ前を見たまま鉄材の端を地面に立てて構えた。
鈍い音でコンクリートの地面が鳴る。
鉄材を杖のようにして握る手に力を込めると、さらに鋭い視線を闇の奥へと向けた。
一度は伸びてきた何かは、異形の一部であることだけは確かだろう。しかもそれは明白に敵意を持って行孝へと向かってきた。
どんな想像を繰り広げても真実と裏づけるだけのものには辿りつかないが、肌から身体の芯まで染みて全身を凍りつかせるような敵意だけは間違いないものだ。
文字通り行孝はそれを肌身、骨身で感じたのだから、それだけは間違いなく真実だった。
もう何度目か、吐き捨てるような息と共に舌打ちを落とした行孝は、不敵に笑う。
──だから、どうした。
敵意上等、寧ろ大歓迎だ。そうでなくては張り合いがない、拍子抜けというやつだった。
どうせやるなら派手に打ち合って、その上で仕留める。というのが行孝の思うところだった。
大した自負かつ自信であり、ある意味では傲慢とも思われる思考だったが、それだけの実力が行孝には確かにある。
地面に突き立てていた鉄材の端を雑に足で蹴ると、くるりと回転させて構え直しながら行孝は力強く地面を蹴った。
もちろん、向かう先は闇。その奥だ。
じろりと鋭い視線を向けた闇の奥から、再び何かがずるりと伸びてくる。しかも行孝の移動を速度を優に越える速さでだ。
だが行孝はそれにたじろぐでもなく、もちろん狼狽えるでもなく、その紫色の両の目で向かってくるそれを見据えた。
そして手に持っていた鉄材を勢い良く振るうと、鈍い音ともに行孝を捉えようとした闇の延長がその軌道を変える。
次に行孝は手首を返す動きで鉄材の向きを闇の奥へと変えながら、そのままやはり真っ直ぐにつき進んだ。ただでさえ暗い場所だが、闇のある方へ向かって突き進んでいく手前、それ以上に光は届かなくなっていく。
光が届かないことそのものが道理という状況ではあったが、自然に光が届かなくなっていく以上に明確に光を遮断されて行っているような、そんな不自然な闇が行孝の視界と感覚を支配していった。
しかし、それがどうしたというのか。
この目に映るものが全てではない。
この感覚こそが真実だ。
行孝は動きを止めない。ただただ真っ直ぐ、それこそ愚直なまでに真っ直ぐに、闇を貫かんと進む。
再び大きく振るった鉄材を握る指先に伝わる感覚は、確かに何かを捉えたことを告げた。
大きなものではなく、確信を持つというには不足だが、状況の変化と異形の所在を確認するには十分だ。
この状況に至ってもまだ、異形は闇の奥からその姿を見せようとはしない。それは単なる臆病のようにも思われたが、しかしそれは何か策があってのことのようにも感じられる。
これもまた判断するには難しい、材料の足りないものだった。
どちらにせよ、行孝が目指す異形は行動に慎重を期すタイプであることは確かだ。
迷いのない真っ直ぐな行孝の戦法とは相性がいい。
行孝の口角がほんの少し上に持ち上がる。それは純粋な笑みと呼ぶには純粋さに欠ける、不敵さをはっきりと滲ませたものだった。
そしてすかさず、行孝はさらに鉄材を大きく振るって大凡見定めた〝敵〟へと先を向ける。
目には映らない何かの感触が、行孝の手を伝った。
「そこ」
不敵な表情はそのままに、行孝は一切の迷いも容赦もなく感触のあった方向に重ねて鉄材を振るう。
先ほどよりもはっきりとした手応えと、それに反応したのだろう低い呻き声のようなものが響いた。
「僕から逃げられるワケないでしょ?」
今度は嘲るように笑って、行孝はさらに追撃する。鉄材を振るった先からはついに鈍い音も響き、呻き声のようだった異形の反応が叫びに近いものにまで変化した。
それでも、闇の奥にある存在感を伴った気配は全く消える気配がない。
次には闇の奥からこれまでの比ではないほど多くの腕のようなものが伸ばされ、その全てが明確な殺意を持って行孝へと向けられる。
それらの気配に、行孝は一度動きを止めてから鉄材を再び地面へと突き立て、構えた。
「ふぅん……? やれるもんなら、やってみなよ」
あまりにも直球な挑発の文句を口から紡ぎ出し、再び不敵に嘲笑する。その姿からは余裕すら見てとれた。
四方八方から異形の腕のようなものが伸ばされ、様々な軌道を描いて行孝の方へ向かい疾走を始める。
普通の人間にこんなものが向けられることがあったならば、ひとたまりもない。
だが彼は──左雨行孝は、偉業を祓い屠ることを生業とする者だ。
こんな状況にはいくらでも遭遇してきたし、いくらでもすり抜けて、対抗して生きてきた。
確固たる自信がそこにはある。
地面についていた長い鉄材をぐるりと回転させて、殺意と共に向かってくる異形の腕らしきものの大半をまずは払い落した。それこそ露払いでもするかのような軽さで。
もちろん他にも別の軌道で行孝へと向かってくるものもあるが、それもまた返す動きや次の回転の軌道で見事に全てを地面に落としていった。
薄暗い通路に落ちていくのは、文字通り闇から生み出された腕だ。そして結果として本体と切り離されることとなり、それは存在を保つこともできずに地面に落ちては消え、落ちては消えていく。
しかしこれを続けては、不利になるのは行孝だ。この場所は彼の異形の掌握する場所であり、入り込んできたか行孝よりも数段のアドバンテージを有するのだ。
だが、さすがの行孝も無策というわけではない。ここに入り込み、仕留めるだけの展望は持ち合わせがある。
得物もなく、手には有り合わせの鉄材一本のみ。しかしそれで、それだけで行孝にとっては十分なのだ。
身を隠す者の大方は潜んだ先に何かを持つ。
それこそ弱点や急所を持ち合わせているからこそ、月明かりの下へその人ならざる身を晒さない。
あまりにも単体で保有する能力が強大すぎて、という可能性も否定しきれはしないのだが行孝の感覚がそれを否定する。
その直感は行孝にとって絶対のものであり、信頼と信用に値するものだ。
で、あるならば。
あとは、踏み込むのみ。
再び行孝は地面を強く蹴った。前に進む推進力を得た身体は、目指す先へと駆け出す。
「これで終わり」
今まで異形に発したどの声よりも冷ややかに、どの声よりも冷淡に、行孝は言葉を吐き出した。
そのとき彼の身体はすでに闇へと迫り、先ほど異形が叫びを発した急所にも等しいものを叩くに至る。
再びのけたたましい音。
油断すれば気の狂ってしまいそうなそれにも、行孝は動じない。
手元の回転で勢いを増した鉄材が、何度も何度も外れることなく異形のことを攻め認識しきれないでいた闇が剥がれて落ちた。
がん、と鈍い音が鳴る。
もう叫びも枯れ尽きていた。
気配が変わる。
ここには紛い物の闇はなく、人を取って喰らうような異形もない。
行孝は冷ややかに、何かがいたはずのその場所を冷たく見下ろしている。
当然ながらそこには何もなく、何も存在していない。
だが彼には薄っすらと存在する残滓が視えていた。
「……馬鹿じゃないの?」
それは嘲りであり、見下しであり、侮蔑だ。
相容れない存在の領分を侵してしまったものへの、愚かさへの否定。それ以上でもそれ以下でもなかった。