そこにあるのは圧倒的な威圧感と圧迫感。そして存在を根底から脅かすほどの恐怖だった。
生来の感覚が由来し、和真の視界にそれらの根源が映ることはない。だが、そんな和真であっても明確に認識できるそれは、強く上位の異形なのであろうことを感じさせた。
その証拠のように隣に立つ行孝は、刀の柄にてをかけて臨戦態勢に移行している。
何かがいる──それは尋ねるまでもない愚問だった。
「左雨さん」
「……回避と場所の確保」
行孝は真っ直ぐ前を睨めつけながら和真の声に最低限の言葉を返す。
「はい……!」
普段よりも明白な緊張を帯びた硬い声に、和真もたまらず緊張を覚える。
やはり、いつもと同じでは通用しない相手であることは間違いないようだ。そんなことを和真はいつものように伝聞のみの脅威に対して感慨にも似た何かを抱きながら、それでも身構えつつ動き出す。
和真に視認できぬものと対峙する行孝の方にはとてつもない緊迫感があった。
人間に近い形を持ち、しかし見るからに人間とはかけ離れたおどろおどろしい外見をしたそれは、行孝の睨めつける視線に動揺をするどころかほんの少しの気を散らすこともない。
『ヒト ガ ネタマ、シイ』
怨念の塊のような音が、不協和音となって言葉を紡ぐ。この世の全てを呪うがごとき音は、万が一にも無防備な存在の耳に届けば全てを狂気に満たしてしまうようなものだった。
この場で音を聴くのは行孝のみであるが、この手のものには慣れた彼でさえ眉間に皺を寄せる。それほどまでに強い怨念を抱き、それしか残らないほどの思念で存在し続けているのだ。
『ウラヤマシイ、クルシイ、クルシイクルシイ』
次から次へと吐き出される恨みの音は、行孝の鼓膜を打つ。
「……っ。馬鹿じゃないの」
音に歪めさせられた表情に不服を乗せ直し、行孝はそう吐き捨てた。
目の前の異形の気配が変わる。それこそスイッチを切り替えたように明白に。
『オマエ、コロス』
「何言ってるの? お前を殺すのは、僕だよ」
異形がどろりと目の前に物理法則など超越して禍々しく象られた刀を手にする。行孝は手をかけたままだった柄を握り直すと、一気に鞘から引き抜いて白刃を閃かせた。
一瞬の静寂。
次に互いの得物のぶつかる激しい音が何度も響く。
異形はそれこそ目にも止まらぬほどの速さで、次から次へと斬撃を行孝へと向けた。しかしそれを行孝はことごとく刃で弾き、斬撃はひとつたりとも彼の身体までは届かない。
一度集中を切らせば、そちらが落ちる。それほどまでに拮抗し限界に近いところでの打ち合いは、当然ながらどちらにも軍配が上がらない。
途端ぴたりと二人の動きが止まる。
異形は言葉を発さない。だが黒色に縁どられ禍々しく濁った血の色の瞳からは、明らかに怒りの感情と殺意が満ちている。
一方の行孝はそれまでの真剣な表情から、煽るように笑みを浮かべて鼻で笑った。まだまだ余裕があると主張するかのように。それも虚勢などではない優位者の余裕とでも言える様子で。
それを受けて異形は明らかに殺意を募らせる。
交わされる視線は互いに鋭く、視線に穿たれて命を落としそうに感じてしまうほどだ。
現場の様子を見つめる和真は息を呑むことしかできない。彼に異形の様子は見てとれないが、それでも威圧感や圧迫感そして緊迫した殺気は肌に突き刺さる。普段と変わらないことではあるのだが、同時にこの状況に影響を与えることのできない自分自身に少なからず歯痒さはあった。
だがそれでもできることをやるしかなく、それが結果として行孝が戦うにあたっての助けになるのならばそれだけで十分なのだ。そう思うしか、なかった。
行孝の背後で障害になりそうなものを排除しながら、和真はこの場を少しでも広く動ける場所としていく。
和真の動作と状況を背中で感じながら、行孝は異形の方へと再び向かっていった。
『ツギハコロス!』
「出来るわけないでしょ」
異形の殺意に満ちた声に対して、怯むことなく行孝は声を張り上げる。
再びの打ち合いはやはり互角だ。渡り合いが続く中、行孝がにんまりと笑った。
一向に決着のつかない状況、突破口は見えず普段の行孝であれ苛立ちのひとつでも覚えるところだ。
しかし今はそうではない。
行孝はこんな拮抗状況の中で笑う。異形はその様子にあからさまな苛立ちを太刀に込めた。
「お前なかなかやるね」
異形の一太刀を叩き伏せながら行孝はやはり笑う。どこか楽しげに、それでいて敵意や戦意ははっきりと織り交ぜたものだ。
その表情に異形は明らかな不快感を滲ませ、次の攻撃を振り上げる。そして振り下ろそうという瞬間に、行孝の振るった刀身が向かう先を塞いだ。
刀身と刀身がぶつかり合い、鈍い音が鳴る。再び異形と行孝の視線が交錯し、明白な殺意が火花を散らした。
「おもしろくなってきた」
笑う行孝の表情は、楽しげなどという言葉では足りない。戦いを楽しみ、命のやりとりに高揚し、相手を完膚なきまでに屈服させること望む、言わば凶悪なものだ。
そしてその表情を見せた次の瞬間に、行孝は刀をぶつかり合わせたまま相手の人間の体で言うところのみぞおちに強烈な蹴りを放つ。踵のめり込むような重たい蹴りは異形の体を強制的に後退させ、その反動で行孝は後ろへと飛んだ。
勢いを殺すことなく一度地面を軽く蹴った行孝は、構え直しがてらに刀を宙に飛ばしてその身体を回転させ体勢を整える。左の肩上あたりで刀の柄を掴むとその位置で切っ先を空に向けて構え直した。
行孝の顔に浮かぶのは先と変わらぬ笑みであり、正義の代行者とも評される警察官の端くれとはにわかには信じ難い凶悪さをたたえて異形と対峙する。
異形はといえば行孝に見舞われた蹴りの衝撃の凄まじさから、ようやっと回復に向かおうかといったところだ。まだ正しきれない体勢が行孝の蹴りの衝撃を物語る。
「けどそれもこれで終わり」
行孝は終幕を一方的に宣告して異形のことを嘲り笑った。先程まで拮抗した一進一退の攻防を繰り広げていたとは思えないほど、息ひとつも上がることなく隙なく構え立つ。紫色の瞳がうっすらと赤みがかっていることだけが、唯一彼の状態が普段とは違うことを伝えていた。
異形が動き出そうとしたその瞬間に、四肢と等しい部位がずどんと大きな衝撃の後に崩れ落ちる。
「ばいばい」
冷ややかな行孝の声が響いた。
同時に異形の身体は空気に溶けるようにして消え去る。
この場に残るのは静寂、そして行孝と和真の姿のみだった。
