――見知った場所のようでいて、実際はそんなことなどありはしない。
よく似ている全く覚えのない建物、知らない道。それらはまるで襲いかかり人間を喰らいにくるのではないかとすら思えて、迷子の少年の心を不安で埋め尽くしていく。
彼の瞳には涙が浮かんでいたが、真一文字に口を閉ざしながらただ必死に涙腺が崩壊してしまうことに耐え忍んでいた。
少年はとぼとぼと見知らぬ道を歩き、視線を右往左往させる。その視線の先には壁と大きな街灯の柱、そして知らない建物が続くばかりで、募る不安はなくなる気配もなかった。
「……家に帰りたい」
ぼそりと呟いた希望は、すぐに叶うことがないだろうことを肌身で痛感してしまっているものであるが故に、切実に響く。
「連れて帰ってやろっか?」
気がつけば隣に、見知らぬ誰かが立っていた。
にこりと笑った彼は、金髪が目に鮮やかな少年で、まるでこの世のものではないような、そんな錯覚すら覚える。
だがそれ以上にあまりにも喜ばしいその提案は、少年を破顔させる十分過ぎるものだった。
「ほんとう?」
「うん、ほんと」
金髪の少年は、歯を見せにかっと笑うと彼に手を差し伸べる。何故か彼の頭には人間ではない獣の耳が見えた気がしたが、気のせいだったのかそれは全くなくなった。
あれはなんだったのか、そう考えてしまって口を開くことができなくなってしまう。
「いこうぜ」
「……うん」
伸ばされた手を取って頷いて見せると、すぐに歩き出す金髪の少年に引きずられる格好になった。
「わ、あ……君の、名前は?」
つんのめりながらも律儀に名を尋ねる少年に金髪の少年が振り返る。
「善逸」
「ぜんいつ……」
「……お前は?」
「俺は、炭治郎だ」
金髪の少年、善逸は炭治郎の手を引きながらたのしげに笑った。からからと笑う声は小気味よく、先ほどまでの寂しさや悲しさといったネガティブな炭治郎の想いをすっかり吹き飛ばしてしまう。
「たんじろ、なんでこんなとこまで来ちゃったわけ?」
「ね……妹に花を、あげたかったんだ」
そう話す炭治郎の表情は、その妹への慈しみに溢れていて、とてつもなくそれは尊いものに思えた。
「お前、いいやつだな」
「当たり前じゃないのか?」
「そう思えるのが、いいやつってことなんだよ」
「そういうものなのか」
善逸の言葉に首を傾げながらも、まんざらでもない様子で炭治郎は笑う。重ねての肯定する言葉を強く述べながら、善逸は炭治郎の手を引いて迷う様子など全くなく、ずんずんと歩を進めた。
「どうして、俺のこと案内してくれるんだ?」
炭治郎の疑問の言葉に、善逸はまた笑って見せる。
「お前がいい奴だから」
「う~ん……」
善逸から返ってくるのはそればかりで、炭治郎としてはどうにも解せない。悶々とするうちにも景色は移ろい、気がつけば炭治郎の見知った場所たちが連なっている。
しかし炭治郎はそれに気づかないほどに、善逸の後ろ姿に見入っていた。何故なら、その後ろ姿にふわりと柔らかそうな尻尾が見え隠れしているように思えてならないのだ。
見間違いだ、いやでも、と悶々としている間にも二人は歩いて行く。
「ここだろ?」
善逸の声に顔をあげれば、そこは炭治郎の家だった。
「うん、ありがとう」
その言葉と共に振り返ると、善逸の姿はもうどこにもなかった。
春うらら、なんて言葉がよく似合う日だ。桜は鮮やかに咲き乱れ、花びらは風に舞い踊る。
この春、炭治郎は大学生になった。幼い頃の不思議な経験は、彼の中でほんのりとあたたかな光となって残り続けている。
善逸はどうしているだろう、そう思って行方を探そうとした事もあった。しかし炭治郎の知る善逸の情報は少なすぎて、見つけることは愚か新たな手がかりのひとつすらないままだ。
そのことへの寂しさと、あの日に礼も伝えられなかったという心残りが、炭治郎の胸の内にくすぶっている。
それでも日々を過ごし、この晴れの日を迎えた訳だが炭治郎は、新たな自室を前に絶句していた。
人が立っている、それは探し人。善逸に他ならないと思えたからだった。自室へ向かうはずが、何故やら反射的に身を隠してしまった。
昔の記憶で、匂いでは当人という自信が持てずその挙動を見つめている。すると唐突にその善逸らしき人物が繰り返し、様子をうかがっていた炭治郎と視線がかち合った。
ばちり、と電気の走るような衝撃。刹那の間と、続いて喜びの感情の匂いが炭治郎へと混ざり合って届く。
「久しぶりだな! 俺のこと覚えてる?」
駆け寄ってきた善逸らしき人物が、にこりと笑った。
「……善逸、なのか?」
「そう! 覚えててくれたんだな!」
「もちろん。あの時言えなかったお礼を言いたかったんだ。迷子の俺を助けてくれて、ありがとう」
炭治郎の言葉に善逸は目を見開く。その様子は純粋な驚きに満ちていた。
「そんなに驚くようなことか?」
「……そりゃ驚くよ。こんな経験、生まれて初めてだ」
心底嬉しそうに笑う善逸を、炭治郎はまじまじと見つめる。幼い頃の今にも消え去りそうだった記憶の中の彼と比較してみながら、こんなに綺麗な人は見たことがないとそう思わずにはいられない。
元々、幼いあの日から彼に焦がれてきたところはあるのだが、その色眼鏡を外しても美しいと世辞も一切なく感じいった。
「ところで、どうしてこんなところに?」
炭治郎の純粋な質問の言葉に、善逸はばつが悪そうに視線を逸らす。
「俺も、炭治郎を探していたんだよ。で、ここに住み始めたって知ったらから……迷惑かなって思ったんだけど、いても立ってもいられなくて」
どことなく申し訳なさそうな表情で、善逸は炭治郎の質問に答えた。その言葉は炭治郎にとって思いにもよらぬ、そしてとても嬉しいものだ。会いたいと願っていた人もまた、自分に会いたいと思ってくれていたのだから。
「嬉しいよ、善逸」
気持ちをそのまま言葉に乗せる。それは自然と笑顔となり、善逸へと伝わった。
「そう言ってくれてよかったぜ」
「せっかく来てくれたんだ、上がって行くか?」
炭治郎の誘いの言葉に、善逸の琥珀色の瞳が輝く。善逸が大きくひとつ頷いて見せると、炭治郎がゆっくりと自室へと彼を誘った。
「まだ引っ越してきたばかりだから、片付け終わってないけれどそこは許してくれ」
そんな炭治郎の言葉に反して、部屋の中はしっかりと片付けられている。ダンボールがいくらか積まれていたりするが、その程度のものだった。
「すげぇ片付いてるじゃん……」
善逸は思わずそう溢す。そして炭治郎に促されるままに差し出された座布団を引いて、その場に腰を下ろした。
「何か飲むか?」
「いやいや、気にせんでいいよ」
ひらひらと手を振って、善逸は炭治郎の言葉をやんわりと断る。
そして訪れたのは、無言の間だった。
どちらともが口を開こうとしては、それを止めることを繰り返し、少し重ためな空気が流れている。
「あの……」
重い静寂を破ったのは、炭治郎の声だった。
「改めて、お礼を言わせて欲しい。迷子になっていた俺を、家まで送ってくれたこと……本当に感謝しているんだ。ありがとう」
「もう昔の話だよ。でも、どういたしまして」
炭治郎の礼の言葉に、何事もないかのように善逸は応え、そして笑う。
「俺さ……」
善逸は、口を開くが言い淀んだ。大きくひとつ深呼吸をすると、善逸は再びその思い口を開く。
「今からきっと驚くようなことを言うと思うけど、聞いて欲しいんだ」
その口調は真剣そのもので、緊張が空気を伝って炭治郎にも伝わった。ごくりと唾をのみ、炭治郎は緊張とともに善逸の言葉の続きを待つ。
「俺、実は人間じゃなくて……狐、なんだよな。それで、その……一族のしきたりで、娶ってもらわらないといけないんだ」
何をいっているのだろうか、炭治郎はまったくついてこない頭で善逸の言葉の意味を考える。それでもあまりにも突飛な内容は、ひとつも頭に入ってこない。
だが、今になって思い返してみれば、一瞬見えた気がする獣の耳のようなものや、尻尾のようなものは、勘違いではなかったとも言えるわけで、なんとも複雑な気持ちになってしまう。
実際、幼い日の勘違いとして片付けた人とは違う耳を持ち、尻尾も確かに存在するその姿は、否が応でもそれが現実なのだと伝えていた。
「頼む、炭治郎。俺を、娶って! 初めて会った時からずっと、好きなんだ!」
善逸は手を合わせ、熱烈な告白とともに要望を告げる。必死なその様子は、あまりの切実さとともに悲壮さすら思わせた。
「初めてって、あの道案内してくれた時か?」
「違うんだ、もっと前に会ってる……」
炭治郎の疑問の言葉に、善逸は応じて再び口を開く。
曰く、炭治郎が迷子になった頃よりもさらに前、山で罠にかかってしまって負傷していたところを助けてもらったのだと言う。それから、件の炭治郎の迷子になるという出来事が起こった、と言う話だ。
分け隔てなく、優しくあたたかく接してくれた炭治郎に、善逸は一目で惚れ込んでことが始まり、炭治郎に気づかれないようにずっと近くにいた。
炭治郎が迷子になった、その日だけはいても立ってもいられずに姿を現したが、それきり今まで会うことも行方も知れなかったのは、そういう理由があったと言う。
にわかには信じがたい話ばかりだったが、目の前の善逸は真剣そのもので、嘘をついていようすなど微塵も全くない。
「あの時から、ずっと! 俺、お前に惚れてるんだ! 頼む頼む頼むよぉぉぉ」
幼い日の彼とはあまりにも違い、泣き縋るような善逸の姿はあまりにも残念で、あまりにも居た堪れないものだ。
「善逸……」
「あ、嘘……ごめん、がっかりさせちゃったよね……けどさぁ、たんじろぉ……」
「俺しかここにはいないとは言え、そんな恥を晒すのは良くないぞ」
耐え兼ねた炭治郎の声は、低く凄みのあるもので、善逸の口からは小さな悲鳴が漏れた。
「正直なところ、善逸の要望をすぐに叶えることは出来ない」
一瞬で真剣な面持ちになる炭治郎の様子は、あまりの落差で善逸は呆気にとられるばかりで、発せられる言葉に頷くことで精一杯という状況だ。
「大学生になったばかりだからな。けれど……」
炭治郎は善逸の様子などお構いなしに、言葉を紡ぎ続ける。
「お付き合いから、始めてもらえるなら……ぜひ、お願いしたいんだが……どうだろう?」
「……本当」
「ああ」
あまりにもあんまりな姿を見せてしまってすぐのことだったため、善逸からは諦めの空気が漂っていた。だからこそ、炭治郎の言葉は驚きでしかなく、あまりの意外さにそれが真実かを問いかけることで精一杯だ。
「善逸がそれでいいのなら」
「ぜひ! よろしくお願いしますっ!」
善逸からすれば、この状況は願ったり叶ったりというものだった。この先が願い続けた結果につながっている可能性があるのならば、申し分ない。
はっきりと善逸が肯定の意を告げた次の瞬間には、炭治郎が流れるように善逸に身体を寄せる。なにが起きるのか、と考える暇もなく炭治郎は善逸に顔を近づけると、唇を重ねた。
「んっ」
善逸の口からは驚きの声が溢れるが、意に介することもなく炭治郎は、その口づけを深く熱烈なものにしていく。差し入れられた舌は、善逸の口の中を這い善逸の舌に自身のそれを絡めて刺激した。
しばらく長く深い口づけが続き、やっと炭治郎が口を離した時には、すっかり善逸の表情は蕩け、頬はすっかり紅潮している。すっかり息も荒くなっていて、口を開いても言葉を発することもできない状態だった。
「ごめん……嬉しくてつい……」
どうやら浮かれてしまったらしい炭治郎が、正直に白状する。
「とんでもねぇ、炭治郎だ……」
善逸は恨み節のような言葉を吐き捨て図にはいられない。
――これは、とんでもない奴を相手に選んでしまった。
そんな想いを抱きながらも、この先の想像もつかない未来を思い浮かべて善逸は苦笑したのだった。
