満月を後押しにして(tnzn)

 空を見上げると、大きくそして鮮やかに輝く満月が柔らかな光を滲ませる。雲ひとつ浮かびもせず、月を遮るものは何ひとつありはしなかった。
「すみません、付き合わせてしまって……」
 うつくしき満月の下、申し訳なさそうに項垂れたのは炭治郎だ。
「何言ってんの、大丈夫だっていったじゃん? 気にすんなって」
 炭治郎の詫びの言葉を向けられた善逸は、あっけらかんとしている。
 仕方が無いといえばそれまでなのだが、まず教師の話が長くホームルームの終わりがずれ込み、加えて掃除の当番、更には日直の当番の駆け回ることとなり、ありがちな出来事が折り重なって襲ってきたような状況が炭治郎の身に降りかかっていた。
『今日は一緒に帰ろうよ』
 善逸が言ったその約束だけを胸に炭治郎が全てを終えた時には、空の端にお情け程度の夕陽の色が残るばかり、すっかり夜が訪れていたのだ。

 そんなこんなで待たされた形になった善逸だが、当人は怒ることもなく寧ろその笑顔は上機嫌を思わせる。
「……先輩、楽しそうですね?」
 すんと鼻を鳴らし、他者よりもよく効く嗅覚で善逸の感情を嗅ぎとると、予想外の感情を垣間見てきょとんとして表情をつい浮かべた。
「うん」
 声は弾み、幸せが溢れ出てきたかのような締まりのない笑顔で善逸は短くも確かに応える。そして、炭治郎の様子を見てまたころころと笑うのだ。
「何かありました?」
「べつに?」
 その思いを嗅ぎ分けようとしても、善逸ものか――あるいは炭治郎のものか――よくわからない甘い香りが炭治郎の鼻を狂わせる。思い切って尋ねてみても善逸の答えは、相変わらず答えるつもりのないものだった。
 意図のわからない様は炭治郎を困惑させるばかりで、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、となりで笑う善逸からは優しく柔らかな匂いがしてくるものだから、それならいいかと思い直した。
「今日の月はでかいなぁ」
 善逸の言葉の通り、二人の頭上には大きな満月が輝く。
「スーパームーンって言うらしいですよ」
 そう答える炭治郎の言葉は、朝のニュースからの入れ知恵だった。
「ふぅん。……不思議なもんだよね」
 炭治郎の答えに控えめな感嘆の声を漏らしつつ、善逸は視線を満月にだけ向けながらも歩いている。
「上ばかり見ていたら危ないですよ、先輩。不思議って何がですか?」
「だって、あんなに綺麗なものが空に浮かんでるんだよ? それだけで不思議じゃね?」
 炭治郎に腕を引かれながら、そう言って笑う善逸の髪は月明かりに煌めいた。その控えめながら、はっきりと主張する輝きに炭治郎は思わず見とれてしまう。
「結構ロマンチストなんですね」
「何よ、その意外そうな顔は~」
「何と言うか……もっと現実的なイメージでした」
「ええっ、そうなの?」
「そうですよ」
 炭治郎の力強い肯定の言葉に、善逸はしゅんとしてショックを受けている様子だった。どうやら炭治郎の認識と、善逸の認識には隔たりがあるらしい。よほど衝撃的だったらしく、善逸は首をひねり始めた。
 その様子をただ黙って、笑顔をたたえながら炭治郎は見つめている。
「何ニヤニヤしてんの」
 立場のすっかり逆転してしまった状況に、善逸はムッとその口を尖らせた。
「大したことじゃないんですよ、こうして一緒にいられて話せるのが嬉しいんです」
「そんなん言っても、何も出ないからなっ」
 臆面もせず語られる炭治郎の想いは、善逸には少々甘さが過ぎて思わず向き合っていたはずの顔を思い切りよく逸らす。
「ねぇ、我妻先輩?」
「……なによ」
「月が、綺麗ですね」
 炭治郎の表情は見えずとも、声色で手に取るように伝わってくる。そしてこの言葉の意味するところも、善逸はよく知っていた。
「そうだね」
 背けた顔を柔らかな笑みと共に再び戻して、善逸は炭治郎の言葉に答えてみせる。
 満月を背にした善逸の姿は炭治郎の紅の瞳にきらきらと輝いて映り、彼の鼻をやはり甘い香りがかすめて行った。