渡津海ぞ知る(tnzn)

 ――海へ行かないか。
 
 そう提案したのは炭治郎だった。
 梅雨も明け、すっかり本格的な夏の到来を、焼けるような日差しと、茹だるほどの暑さを持ってして強く強く感じる。
 そんなどうにも夏を楽しもうというには憂鬱さを感じずにはいられないなか、炭治郎によって行われた提案は善逸の表情を輝かせるには十分だった。
 二つ返事で承知した善逸と連れ立って、炭治郎は軽装で電車へと乗り込む。二人の住む街から一番近い海岸へは、電車に揺られること一時間弱はかかるのだ。
 最初はワクワクと胸を躍らせていた善逸だったが、次第にぐったりとやる気を失っていく。いうほど混み合ってもいない車内で二人、椅子に腰を下ろしていたが、善逸はすっかり炭治郎の肩に頭を預けて寝こけてしまった。
 触れ合ったところから、じわりと熱が伝わってくるのがわかる。
 実のところ炭治郎は、善逸に対して淡い恋心を抱いていた。普段は堪え、そして潜めているその感情が、周りに知り合いがいないということと、遠出をしているという高揚感によって溢れ出てきそうになる。
 必死にブンブンと不自然なほどに首を横に振って、その全てを振り払おうと画策した。
 しかし目の前の善逸から香る、凛としなやかな強さを感じさせる匂いによって、炭治郎は再びかき乱される。
 誘惑が多すぎるのだ。目の前で寝こける彼は、今や誘惑の象徴とも言える存在だった。
 つい悶々とした想いを抱きつつ、炭治郎は必死にその場をやり過ごそうとする。
「たんじろ? どうかした?」
 善逸はうっすらとその瞳を開き、炭治郎のことを見上げながら問いかけた。
「いや、何もないよ」
「そ?」
 返された炭治郎の言葉に対して、善逸はほんの少し首を傾げて見せたが、すぐにまたその目蓋を閉じる。
「後どれくらいで着きそう?」
「ん~……まだ結構かかりそうだ。寝てていいぞ」
「炭治郎は? 寝てなくて大丈夫?」
「二人で寝たら、降り過ごしてしまうだろ」
「お前が寝るなら俺、起きてるよ?」
 一度は閉じられていた目蓋が再び開かれ、琥珀の色をした瞳が炭治郎を見つめていた。
「じゃあ……話をしないか」
「おぉ、いいよぉ」
 まだ眠気が残っているのか、手で目を一度擦ってから善逸は、へにゃりと笑って見せる。
「そういえばさ、何で海に行こうなんていいんだしたわけ?」
「そんな季節だろ?」
 善逸の問いかけに対し応じる炭治郎は、用意していた言葉を話すような機械的な様子を感じさせた。そして善逸の耳を、欺くことなど出来はしない。
「嘘ではないけど、本当のことも話してないって感じかな」
 ピタリと言い当てられて、炭治郎は苦笑してしまう。自身の嘘のつけなさについては重々承知しているつもりでいたが、善逸に対して本音を隠してぼかすことは想像以上に難しいことだった。
「やっぱり敵わないなあ……」
 堪らず口から思いが溢れ落ちる。
「炭治郎はわかりやすいんだよ。そういうところ、好きだけどな」
 破顔した善逸の表情からは、愛しいという感情がにじみ出ていて、炭治郎も同じ感情をまるで伝染したかのように抱いた。
「てか、ごめん。俺、自分勝手だったな。けど、炭治郎の音が好きだからさ……その音が曇って欲しくないんだよね」
 そう言った後、善逸は恥ずかしいことを言ったと赤面してしまう。顔を覆って下を向いた姿にも、愛おしさを感じてしまうあたりすっかり重症だと炭治郎は、自身の感情を痛感するばかりだ。
「善逸は優しいな」
「違うって。ただわがままなだけだから」
 ちらりと視線を炭治郎に向ける善逸の様子は、まだ照れの残るもので可愛げすらも覚えさせる。
「善逸と二人で何かをしたかったんだ。思い出が欲しいと思った」
 真剣かつ真っ直ぐな瞳を向けながら、炭治郎は心のままの気持ちを善逸へと向けた。
 その言葉に善逸はただ、そっかとだけ応えで表情を緩める。その姿に、炭治郎の胸は善逸でなくても分かるほど、大きく高鳴った。
 
 それから目的の駅に着くまで、二人は言葉を交わす。これから向かう海の話、海で何をするのかという話、季節柄の世間話など、それは多岐に渡り、気がつけば目的地は目前に迫っていた。
「この次で降りるんだっけ?」
「ああ、そうだよ」
 言葉を交わす間にも、刻一刻と電車は駅へと近づく。窓の外の景色はすっかり都会の喧騒を離れて、緑あふれる自然が広がっていた。
「海とか、いつぶりだろうなぁ」
 善逸はそうもらして、座っている正面の窓の外をぼんやりと見つめている。
「俺もそうだよ。小さい頃は家族と行ったりしたが、最近は全然だ」
「そういうことってあるよな」
 幼い日へ置いてきてしまった何かは遠くに感じられて、善逸の返しを炭治郎は黙って聞くばかりだ。
 すると善逸がすっくと立ち上がり、座ったまま呆けている炭治郎を見下ろした。
「もう着くぜ? 行こ」
 炭治郎を誘うように視線を残し、善逸は歩き出す。慌てて炭治郎も立ち上がり、小走りで善逸に続いた。
 駅のホームに降り立つと、磯の香りが二人の鼻をくすぐる。ほんのりと塩気と湿気を多く含んだ、しっとりとした風が頬を撫でた。
「海に来たって感じだな!」
「ああ」
 大きく伸びをしながら、善逸は海の気配の感じられる空気を胸いっぱいに吸い込む。それに倣うように炭治郎もその場で深呼吸をした。
 駅から直接、海は見えないのだが距離としてはかなり近い。ものの数分も歩けば目的地はすぐそこだった。
 改札をぬけた二人は駅に掲げられている通りの道を進むと、急に目の前が開けてそこには一面に海原が広がる。
 思っていたよりも人の姿はまばらで、どうやらここは穴場というやつらしい。
「ラッキーじゃん」
 善逸は目の前の景色と、人気のなさにご満悦だった。そして上機嫌さそのままに善逸は、思いきり地面を蹴って走り出す。彼はあっという間に砂浜の砂を踏みしめて飛ばしながら、波打ち際の手前まで駆け寄った。
 あまりにも速すぎる出来事に、炭治郎は一瞬その場で固まったように立ち尽くすが、すぐにまた後を追って駆け出す。
「待ってくれ、善逸!」
 その間に善逸は、ズボンの裾をたくし上げると、靴や靴下など一通り脱ぎ捨てて裸足になると、波打ち際から海の中へと躊躇いなく入っていった。
「冷た! たんじろぉ、早く来いよ! 冷たくて気持ちいい!」
 足をバタつかせながら、駆け寄ってくる炭治郎へ大きく手を振る。その姿はまるで子供のようだ。
 炭治郎は、善逸の乱雑に脱ぎ捨てられた靴と靴下を整えると、自身の脱いだ分を同じく丁寧に並べる。そしてゆっくりと波打ち際から善逸と同じく海の中へ、そして彼の隣へと立った。
「とても気持ちいいな」
「だろ~!」
 足元からひんやりとした冷たさが伝わる。夏本番を強く感じる空気に対して、感動するほどの清涼感だ。
「たんじろぉ」
「うん?」
 呼び掛けられて視線を向けると、そこにあると思っていた善逸の顔はなく、その下から水がピシャリと飛んでくる。
「わ。冷たい! いきなり何をするんだ!」
「へへへ、油断大敵だぜ」
 上半身を戻しながら、善逸の見せる表情は悪戯の色に茶目っ気をのせたものだ。
「やったな!」
 すかさず炭治郎も善逸へと同じことをやり返す。善逸の口から、間抜けな声がもれて落ちた。
「油断大敵、なんだろう?」
 炭治郎もまた善逸に負けじ劣らず、悪戯の色を強く帯びた笑みを向ける。
 そして、二人の楽しげな水の掛け合いが始まった。
 
 
 
 ついた時にはまだまだ陽が高く、青々とした空と強い日差しを感じたが、今やすっかり水平線へと陽が傾いている。橙色に染まった空が、海に映って眩しくも美しい。
 炭治郎と善逸は、ひとしきり海ではしゃぎ、すっかり濡れてしまった服を乾かしなている。その二人の姿は、波打ち際から少し離れたコンクリートブロックの上で並んでいた。
「なぁ、善逸」
 自身の名前を呼ばれ、善逸は隣に座っていいる炭治郎の方へと視線を向ける。言葉はないが、向けている自然が炭治郎に言葉の続きを促していた。
「今日、海に来た理由は電車で話したものともう一つあるんだよ」
 はっきり、そう口にした炭治郎だが、次の言葉に詰まってしまう。そんな姿に対して、善逸は急かすでもなく静かに言葉が発せられる瞬間を待っていた。
「俺、お前のことが……好きなんだ」
 何度か口を開いては閉じてを繰り返していた炭治郎が、ついにその想いを言葉にする。
 夕陽の色で二人の姿は橙色に染まっていたが、その中でもはっきりと理解できるほどに炭治郎の頬は紅くなっていて、彼の照れ具合がよくわかった。
 真っ直ぐな視線が善逸に向けられている。彼もまた頬をほんのり紅く染めながら、歯にかんだ。
「俺も好きだよ、炭治郎」
 善逸の言葉に、炭治郎は驚きに目を丸くするが、その次には喜びと共に破顔する。そのまま善逸の手に自身のそれをそっと重ねると、二人は共にさらに頬を赤くした。
 夕陽が相も変わらず二人を照らす。他には人の姿のすっかりなくなったこの場所で、二人は初めてのキスをした。