俺の感情はどこにあるのだろうか。
そんなことを考えたことがあった。あれはいつだったろうか、まだ施設にいた頃だったような気がする。もう詳しいことは覚えていない。
いつしかそんなことは考えなくなって、まるで機械のように淡々と求められたことをこなしていく日々。心はずっと、殺したまま。感情は訓練にも任務には邪魔なものだったから。
全てを閉ざして与えられたことだけを続ける日々。施設にいるよりは幾分かはまし、その程度でしかなかった。世界は灰色で、全てが同じに見え、興味を抱くこともないまま生きる。無為な日々だったが、それが無為であることにも気付きもしない。退屈で変わり映えのひとつもない毎日を繰り返す。やはり機械のようだった。
物を知らなければ、疑問は抱けない。それは今から振り返ってみるからこそわかることだった。
変化は突然に訪れた。潜入任務で学校へ入り込むことになった。実際の年齢通りの学生として潜入だったから、何の苦もない任務だ。
何度かこう言ったことに経験もあった、だから何も問題はない。いつも通り、何も起こらず俺は仕事をこなしてこの場所を去る──その程度にしか考えないままにいた。
だが、いつもとは状況が違うことが起こる。隣の席の人間が、毎日声をかけてくるんだ。他の学校に入り込んだ時も最初のうちは珍しがられた物だったが、それは一過性のものだ。すぐに興味はこちらに向かなくなった。
しかし、今回はそうではない。当たり前のように毎日、声をかけてくる人物。
それが、東雲緋奈乃だった。
口数が決して多いわけではない。それでも、毎日必ず話をするのだ。例えば転校して来た者の特有の悩みに寄り添うような言葉であったり、素朴な疑問であったり、時には本当に何でもない世間話だったりする。何気ない一言二言だったはずが、いつしかこの時間を心待ちにしている自分がいた。
不思議と東雲との関わりは落ち着く。安心感がある、というのだろうか。今まで味わったことのない穏やかな気持ちでいられるようになった。
これが、何事もない人間の生きる“日常”というものなのだろうか、俺みたいな奴が知ってもいいものだったのだろうかと考えたこともあったが、それでも東雲は毎日声をかけてくる。
その全ては初めてのこと、知らないこと、だった。
だから俺にとっての普段、任務の中で異常の起きた学校の中で東雲を見つけたときには驚いたものだ。しかも“こちら側”に足を踏み入れているだなんて、思いもしなかった。
覚醒してすぐ、東雲は自分より他人を優先させる言葉を口にする。我欲にまみれる人間を多く見てきた自分の感覚とあまりにかけ離れた言葉を、叶えたいと思ったしこの危うさを支えたいと思った。
自分には無いものを持つ東雲がとても眩しく思えて、けれど俺にも出来ることはあるはずだとも思う。とっくの昔に人間ではなくなっていても、俺という存在が続いている限りどう在るかは自分で決められるものだ。
憧れた人の背中を思い浮かべながら、真っ直ぐ、ただ真っ直ぐに。
あの日から何かが変わった気がする。
世界が変わったのか、俺が変わったのか。正しく認識するには至らなかったが、何かが変わったという感覚だけはそこにあった。今までより──何かが眩しいと思ったから。
幼い日から憧れてきた嚆矢の件があった時には、俺は結構必死だったと思う。余裕なんてひとつもなく、嚆矢の行方を探してからその目的を知った。真意を確かめて、その瞬間に思ったんだ。
嗚呼、もう相容れない。
あの日の嚆矢の思い出だけを抱いて俺は生きていくのだと思った。ここから先の嚆矢は袂を分けた敵であり、容赦なく躊躇なく排除するのみなのだと。けれど俺の中の何かが軋んで、その結論に異論をぶつける。
どうしてそんな割り切れない自分がいるのだろう。だって今までもそうしてきたじゃないか。当たり前にしてきたじゃないか。そんな風に思ったところで、俺の中の軋みがなくなるわけじゃない。どうしたらいい、どうしたらよかった?
そればかりがぐるぐると俺の中を巡っていた。本当は、嫌だったんだ。長らくあっていなかった憧れの人でもあり親友でもある嚆矢が死んだと、知らせを受けても必死に探したのに──その嚆矢と敵対することも、任務として敵として割り切ってしまうことも。嫌だった。
あの時、東雲が一緒にいてくれて本当によかったと思う。東雲が俺の軋みも拒絶したいけど表に出すことのできなかった想いも、全部を掬い取って認めてくれた。そんな気がした。まだ足掻いてもいいんだと、嚆矢が友であり敵ではないということを諦めなくてもいいんだと、また肩を並べて笑うために頑張ってみてもいいんだと、素直にそう思えたんだ。
以前ならこんな疑問も違和感も、何も抱かなかったのかも知れない。それが俺にとっていいことなのか本当の意味ではわからないが、少なくとも俺はこれでよかったと、これがよかったんだと思う。
今までなかったたくさんの当たり前を教えてもらって、積み重ねて、そこに俺は立っている。これが日常というもので、これが平和というものなのだと、知らないことをたくさん知った。
だから、思うんだ。自分は望まれて生まれたのかどうかすら分からない、施設で育ち名前も与えられず、存在を認められるにも程遠かった。そんな不確定であやふやな俺でも、誰かの役に立ちたいしその為に死ぬことになったとしても、誰か──たった一人でいいから自分のために祈ってくれるなら、俺はそれでいいんだって。
そのためなら、俺は戦えると思った。与えられたからじゃない、任務だからじゃない、戦わなければならない時に戦える、と。
結果としては、俺には過ぎた結果になって帰ってきた。どんなに恐怖しても、隣に立ってくれる東雲には感謝しかない。
約束は、絶対に果たし続けたい。絶対に。
任務は続く。けれど、俺の周りは以前のようながらんとしたものではない。気がつけば、誰かが居るようになった。……と言っても大半は東雲と嚆矢だが。
こんなにも見えるものが変わるのだろうか、と思う。楽しい、と思うようになった。
学校へ行く、というのは任務における義務だったが、今では会いたい人のいる場所へ行きたいとすら思うんだ。
だから、自分の出来ることはやりたい。器用に出来ているとはお世辞にも言えたものでは無いが、それでも何かの役に立つならと思う。
そう思っていたからこそ、任務として下された失踪した逢坂をさがすというのはなかなかに堪えるものがあった。
能力が不安定だったように感じられたり、本人もどこか重たい表情をしているようにも見えたし、そういったところを承知していたにもかかわらず、何も出来なかったということは少なからず衝撃を受けた。
当然、任務は優先だ。だがそれとは別に悔しかった。何も出来なかった不甲斐なさはあったんだ。
けれど、悔やむより動く方がいい。悔やむことがあるならば、自分でそれを取り返せばいいんだ。
東雲は相変わらず危なっかしい。自分より他人のことを過度に優先しているのではないかと思えてくるほどだ。それに何も手を打てなかった俺も俺だが。
色々と調べていく中で、今回の件に関わっているだろう人物との接触が叶う。学校へ潜入するという話で東雲を一人行かせるのもどうかと思ったし、その人物は俺としても興味があった。
彼女は天才と呼ばれ、しかし苦労を多くしてきたのだという。それは、俺の全く知らない世界を見てきたはずの人物だ。一度話をしてみたかった。
蓋を開けてみれば、理詰めだった。嚆矢のようにからかおうという意思があるわけでもない、ただ淡々と彼女が感じた事実と考察を述べられる。俺自身では考えもしなかったような言葉が真っ直ぐに向けられて何も言うことができなくなってしまった。
こう言うのをぐうの音も出ない、というのだろうか。
彼女が言うには俺と東雲の距離は近いらしい。それを聞いた東雲は顔を赤くしていたし、そこについては間違いないんだろう。他にもそれなりに会話をしたが、淡々と話す割にはちらりちらりと感情を覗かせるそんな人間だった。少なくとも、敵対する立場にいるとは思えない。そんな不思議な会話だった。
けれどその会話で、俺には少なからず心配になった。東雲のことだ。
いつも日常的なわからないことというのは、基本的に東雲に教えてもらっている。それだけですでに世話をかけてしまっているのに、あの彼女に言われたことには距離感まで近い。それは重ねて迷惑をかける結果になってはいないか、と。
そして気になることはもうひとつ。“特別”ってなんだ、それが俺の中にあるのかというものだった。
わからないことばかりだったが、東雲に迷惑をかけたくはない。いつもより、少しだけ距離を開けて歩く。東雲の表情にいつもとは違う感情が見えたが、それはいつも通りとは違うからなのか何か別の理由があるのかはわからない。何だか妙に東雲を意識してしまう、こんな風に俺は考えていたんだったか。
焦りばかりがつのっていく。理路整然としていたあの言葉たちにせっつかれるようでもあった。見てはいけない、知ってはいけない、触れてはいけない、わかってもいけないものだと反射的に手放そうとしてもそうすることもできないままだった。
支部まで帰る道すがらも、支部についてからもどうにも落ち着かない。それは東雲もだったらしく、今まで通りであってほしいということを強く望まれた。
本当に? これ以上、迷惑をかけるような真似をしてしまってもいいのだろうか?
そう思うと同時に、どこかで安堵している自分もいた。……どうして、安堵して、いるのだろう。
結局のところ、戦いとなった時にも彼女の物言いは変わらない。相変わらず理詰めに整然と言葉を向けてくる。そんなことを言ってくる人間を俺は他に知らない。言わないようにしているだけ、だったのかも知れないのだが。
彼女の目指すものは、正しく恐怖することを失わせるものだ。少なくともそれは、俺にとって正常なことではないように思えた。心を失うということとそれは同義であるようにも思えたからだ。覚醒した者は、怪物と評しても申し分ない、そこについて異論はないんだ。だが、他の者たちも彼らが選択をできない状況で怪物となることを促すことはおかしい。ただでさえ不確定なものなのだから、選べるところはきちんと当人が選択する権利があると思った。
当然それは彼女とは合致しない意見だ。どちらが正しいのか、それぞれの求めることに手を伸ばして戦うしかなかった。負けられない、それは俺の抱いた決意と自分なりの正義と守りたいものを守り抜くことができないということだから。身体は十全に動かなくなっていく、けれどまだ動かすことが出来るのならばそれでいい。守り、攻撃し、その攻防を繰り返した。
そして正気を取り戻した逢坂は、付き合ってくれと言う。語る想いはどうしてか自分の気持ちと重なって感じられて、応えずにはいられない。全身全霊で戦わなければ逢坂に失礼だろう。きちんと向き合えていなかったという負い目だけじゃない、共感できるその気持ちに対しても対等に今度こそ向き合おうと、真っ直ぐに前を見た。自分のできる全てを持って、逢坂に対峙する。
悔しいと、そう話しながらも清々しい表情で感謝の言葉を告げてきた逢坂に、やっと少し役に立てたのだろうかと思った。
俺一人の力は小さなものだ。それでも誰かの役に立てたなら、大切な人の力になれたなら、これほど嬉しいことはない。
いかに自分がオーヴァードで、傷の治りが早かろうとも今回はさすがに傷が深かったのだなと改めて思う。ここ最近、病院で世話になることはあったが今回はすっかり意識がなかった。
意識があっても入院をしておくようにと言い渡され、正直なところとても暇だ。ここ最近の出来事をすっかり思い出してしまうくらいには。そして──東雲はどうしているだろうかと、ふと思った。
大分調子も戻ってきて、リハビリがてら少し動くのは許可されている。東雲の様子を見に行ってみようか、などと思いながらゆっくりとベッドから降りた。
