届ける声と心の在処

今日は怒涛の日だった。
恒人にとっても八雲にとっても、それは同じくで二人して疲労困憊だ。
ほんの少し前まで、二人の姿は八雲の実家である神来社本家にあった。それは八雲の父である七伊の画策した出来事の一環であり、内々のことで事件になるようなことはないがかなりの大事と言ってもいいだろう。
八雲は七伊の画策のまさに中心にいて、言ってしまえば利用され尽くしたため最初は一人で歩くこともままならなかった。
恒人はもちろん、今回の一件で八雲を七伊の手から取り戻すことに尽力した弟の賀九、警察の行孝と和真、そして表向きは骨董屋の店主で社会の裏にも精通している秋冥。全員が意図するところ、思惑と言ってもいいだろうところは別にしても、八雲を七伊と引き離すということについては協力的だった。
「うちの御用達の医者を紹介しましょう。大丈夫、闇医者ですから口は硬いですし神来社家とは関わりの全くない人です。ご心配には及びませんよ」
そんな言葉と共に秋冥に紹介された医者の元へ一旦身を寄せたのだ。病院へ到着する頃に警察の二人は職場へ戻ると言って別れていった。
「別に僕たちはいる必要ないでしょ。別日で事情聞くからすっぽかさないでよね」
「まずは身体を休めてください。またよろしくお願いします」
二人はそんな言葉を置いて立ち去っていく。
彼らは彼らで八雲を気にかけている──片方は恐ろしく婉曲的ではあるが──というのが伝わってくるようで、微笑ましさをも覚えた。
秋冥にしてもさすがに、紹介した病院に居座るようなつもりはない様子で二人を置いて普段の生活へと戻って言った後だ。
八雲はというと驚くほど静かに借りたベッドに身体を横たえて眠っている。
この病院の主人である医者からは好きなだけここに居ていいと厚意を受けていた。ここを離れる際には確認したいことがあるため、必ず声をかけるようにと言明されている。
確認事項としては秋冥から依頼を受けた内容の一環として数度回診を予定しているためだとまで話をされた。
その会話をするまでは、八雲もなんとか意識を保っていたのだが──二人きりになってすぐにベッドに力尽きるように倒れ込んでから、しばらくそのままの状態だ。
あまりにも静かすぎるため、体調が悪化したのではないかと恒人は不安になり息遣いや心臓の鼓動を何度も確かめてしまわずにはいられないほどだった。
それでも、八雲が人間らしい様子を失ってしまっていた今回の一件での姿よりは、まだマシとすら言える状況なのがどうにも異様だ。
八雲から多少は彼の実家の奇妙さについて聞いていたが、それらが霞んでともすれば消えてしまうほどの印象深さを持った異様さがある。
恒人としてはそれらに不安を覚えずにはいられない。同時に八雲はどうしてこれを自分に語ってくれなかったのだろうと、口惜しさをも覚える。
誰だって語りたくないこと、語ることを躊躇することというものは抱えているものだ。かつての恒人にしてもそうだ、八雲に語れずにいたことはたくさんある。
しかしだからこそ、いま恒人が抱いている口惜しさを知っている八雲だからこそ話をして欲しかった。ついつい、そう思ってしまうのだ。
──帰ったら、説教だ。
そう言ったのは他の誰でもない、恒人だった。八雲に話をして欲しかったと言うことだけではない、意志の戻った彼が最初に「ごめんね」と言葉を紡いだことに対しても伝えたいことはある。
だが今はまだ、その時ではない。八雲がある程度は体力や気力を回復させた後に、この話し合いはあるべきだ。
恒人はそう考え、静かに八雲の様子を窺っている。
そうすることしばらく。
すっかり日が落ちて、部屋に明かりを入れなければならないほどの時間になった。
部屋には明かりが灯されているため暗闇が訪れることはないが、眠り続けている八雲の姿を見つめるばかりの恒人としては不安が募る。
このまま目を覚さなかったら、などと考えてしまうほど八雲は静かに眠っていた。それが徐に瞼をあげて、ゆっくりと身体を起こしたのだ。
「うお、びっくりした……」
「ごめん。えっと……結構寝てた?」
「結構というか、かなり寝てたぞ」
あまりの急さに恒人は驚くばかりで、八雲は苦笑して申し訳なさそうに視線を落としている。
だが、直前まで目を覚さない可能性が頭を掠めていた恒人としては嬉しいばかりだ。しかしそのあまりの驚きは、言葉にも表情の一つにも落とし込めない。
「そっか」
八雲はやはり申し訳なさそうに視線を落としたままで、自分に困った様子で小さくつぶやいた。
「動けそうか?」
「うん、大丈夫」
恒人の問いに八雲は頷くと、ベッドから降りてその場に立つ。動作にも表情にもまだ疲労の色はあったが、それでもこの病院に連れられてきて眠り込む直前よりもはっきりと生気が満ちていた。
言明されていた通り、看護師を通して医者へと取り次いでもらい、一通りの確認を済ませる。
念の為に八雲への診察も行われたが、過度な疲労の蓄積が招いた状況であることを医者にお墨付きを賜ったのみだ。
「しかし、どうやったらこんな極度の疲労状態になれるもんだか」
というのはぼやきのような医者の言だが、直前までの異常な状況を知らなければ当然の反応だろう。
「いろいろ、面倒なことが重なったんです」
苦笑しながら八雲は医者へ言葉を返していた。
そんなやりとりを終えて、二人は自宅へと向かう。二人の間の会話はまばらだった。
普段であれば二人の間にはそれなりに会話が交わされるものなのだが、今日ばかりはどうにも微妙な空気が流れるばかりだ。
少々、バツの悪そうな様子の八雲は口を開かずに歩いており、恒人としても当たり障りのない言葉をかけられたらいいのだろうが、それがうまく出来ない。
気がつけば、ろくに会話もしないままに自宅へと辿り着いていた。
扉を開けようとすると、家の中から張りのある元気な猫の鳴き声がする。飼い猫のクロのものだ。
そのまま鍵を開けて玄関へと二人が入ると、扉が閉まっていた時以上に高らかとクロが鳴いた。
「ただいま」
八雲が申し訳なさそうにクロを見つめ、その視線を恒人へと向ける。
「おかえり」
恒人の声に合わせるようにクロがまたひと鳴きした。
軽めの食事と入浴を済ませたところで、恒人が意を結した様子で姿勢を正す。その様子に八雲も思うところがあるようで、真剣な面持ちで恒人の前に立った。
「これからちょっと話、いいか?」
「……うん」
二人して真剣な表情を浮かべながら、恒人はリビングの椅子で軽く座り直し、八雲はその正面の椅子に腰を下ろす。
「……説教って言ったの、覚えてるか?」
「うん、覚えてる」
声をかけたのと同じく、話題の口火を切ったのも恒人だ。
「そのことだ」
重々しい恒人の声だけが部屋の中に響く。
「怒ってる……よね」
おずおずと口を開いた八雲の声は、いつになく張りがない。不安の色をはっきりと帯びたそれに対して、恒人はただひとつ頷いた。
「理由、分かるか?」
その問いに八雲は小さく頭を振る。
「ええと、分からないというか……心当たることがいくつかあって……」
この八雲の言葉は、普通に暮らして人生を送ってきた人間の大半にとっては苛立たしさをも感じさせるものだろうが、恒人にとってはそうではない。
むしろこれは前進した姿と言えるだろう。
以前の八雲は相手が──恒人が──怒るような行動というものに興味も関心もなく、自分は当然のことを当然にしているだけだと疑問を持つことすらしなかった。
自分が道具のように使われていても、自分には感情が必要とされていなくても、怒ることも疑問を抱くこともない。誰かが自分自身を心配するなどということを、想像することも出来なければ己を大事にするという発想の一つも持てやしなかったのだから。
これまでにも幾度となく言葉をぶつけ合い、賀九が間に入ってやっとこの辺りの感覚を擦り合わせるに至った八雲と恒人ではあるが、育った環境の明白で明確な違いはふとした時に歴然とした違いを突きつけてくる。
今回がまさしくそれだった。
「……今回の話、賀九には話をしてただろ? 俺は、お前の口から聞きたかった」
「それは……」
「賀九から伝わるからいいって話じゃないからな。ちゃんとお前から聞かせてほしかったんだよ」
恒人の寂しさを含んだ言葉は、まっすぐ八雲の元へと届く。そして彼の表情をはっき裏と曇らせた。
「……」
八雲は何か言葉を口にしようとするが、何ひとつ言葉らしいものを返すことはままならない。
「それが一番納得してないし、一番悲しかったことだよ」
さらに言い募った恒人に対して、八雲は苦笑する。
「けど、そうするのが一番だって思ったんだよ」
「そうなんだろうけど……やっぱりお前の口からきちんと聞かせて欲しかった」
寂しげにそして悲しげに目を伏せてから、ほんの少し俯いた。
「……それを、恒人が言うんだ?」
「え?」
八雲からの急な反撃じみた言葉に、恒人は驚きとともに一度下を向けた頭を持ち上げる。
「自分じゃなくても、って言いながら恒人だって自分の気持ちを俺には教えてくれなかったじゃない」
少しばかり責めるような口調で八雲は言葉を紡いだ。そしてさらに言葉を続ける。
「今の俺と一緒じゃない。その恒人が俺のことを責めるのは筋違いだって思わない?」
人のことを言えるのか。八雲はそれを問いたいのだ。
その言葉に恒人は先ほどよりも大きく声を張って答える。
「俺だから言うんだよ!」
想像をしていなかったような勢いで恒人は言葉を吐き、八雲はそれに対して驚きと共に身体を小さく震わせた。
「そういうのが分かってるから、だから言うんだ」
「けど、怖かったんだよ!」
言葉を被せるようにして八雲が今度は大きめに声を張る。必死かつ悲壮さの滲んだ形相は、切実に訴えかけるものだ。
こんなにも八雲が大きな声を張り上げることは珍しい。加えてここまで取り乱した必死な様子であることもまた珍しかった。
「今日、あの人にも……父にも会ったよね? だったら分かると思うけど、うちの家って本当にどうかしてるんだよ」
八雲はそう言って、苦しげに視線を落とす。
「しかも、俺……人の形はしてるけど、厳密には人じゃない。今回の話を恒人に伝えておこうと思ったら、今の話は避けて通れないでしょ?」
やはり苦しげに言葉を紡いで問いかけてくる八雲に、恒人は頷いてみせた。変に声をかけて八雲の話を遮ることが憚られたからだ。
「……この話をした時に、恒人に嫌われたらどうしようって思った。拒絶されたら、怖いって言われたらって……そう考えたら何も言えなくなったんだよ」
怖いという感情、しかもそれが自分自身にまつわることであれば恒人にもよく分かる。どうしようもないところですでに形成された自分の何かしらは、消すことなど出来やしない。
抱えて生きていくしかない誰にも語りたくないことなんてものは、大小関係なく誰にでもあるだろう。
恒人は自分自身の嗜好について、重い悩み続けてきた。圧倒的マイノリティだとは今でも思っているし、そのことを筆頭に自分自身の奥深くに存在するものを開示することを世間一般の人間以上に恐怖してきた。
内容的には全く別種のものだし、潜在的な悩みについては八雲に共感できる一般的な人間は存在しないとすら思う。だが、言いたくないことを包み隠して生きることと、開示への恐怖については少なからず共感できるものがあるというものだ。
だから八雲は〝恒人がそれを言うんだ?〟と口にしたのだろう。それもよくわかる。
「それでも、それでもだよ! その気持ちがよく分かるからこそ、教えて欲しかったし……教えてもらえるような自分でいたかった」
最後の言葉はそう在ることの出来なかった悔悟の言葉だった。
「うん……」
一度頷いてから八雲はさらに言葉を続ける。
「けど……やっぱり、恒人に嫌われたくないって思った、から……」
「俺がそんなことで嫌うなんて、思ったのか?」
食らいつくように恒人が前のめりになって問いかけると、八雲が苦しげな表情で視線を正面へ向け直した。
「思わないよ。思わないけど……ううん。思わないからこそ、万が一があったら耐えられないって思ったんだ」
やはりその気持ちは、恒人にあまりにも分かりすぎるものだ。八雲がこんな感情を表に出すということ自体は喜ばしいとさえ思う。だが、だからといって今回のようなことが起こってしまっては言及せざるを得ないというものだ。
「そんなこと、あるわけねぇだろ」
語気が自然、強くなる。絶対に起こり得ないことだと、そうはっきり伝えたかったからだ。
「絶対に、ない」
「絶対なんて、本当に言える? 恒人のことは信じてるよ、今の言葉は今の気持ちとして偽りはないと思う。けど、今回の話を聞くだけ聞いた時、本当に今の気持ちになれた? そんな保証はないでしょ?」
「どうしてそんなこと言うんだよ」
「それだけ怖くて怖くて仕方がなかったんだよ。今だって怖いよ」
強い語気にさらに強い語気の言葉が重なり、応酬する。恒人の主張も八雲の主張も交わることはないものだ。
どうしてこんなにも伝わらないのか。
悔しさが二人の胸に渦を巻く。行き場のないその想いは、結局のところ相手への言葉の棘にしか昇華されない。
言葉の応酬が続いた後、唐突に訪れたのは沈黙だった。お互いが真っ直ぐに視線を向け合って、口は開かないままだ。
言いたいことはまだある。いくらでも在るのだ。
しかしそれ以前の言葉だけでこんなにも意図が伝わっていないというのに、これ以上の言葉の応酬をしたところで結果は変わらないのではないか。
そんな不安に支配されている。目の前にいるのに、言葉はこんなにも届かないと。
加えて頭に血がのぼる、そんな状況に二人して陥っているのもまた確かなことだった。冷静さを欠いている状態で行う話し合いというものは、どうしようもなく不毛だ。冷静さを失っているがために正常な判断を行えない。
「一旦、距離を置いたほうがいいかな」
そんな状況に一石を投じたのは八雲だった。
「……え」
「今冷静じゃないでしょ? お互いに。落ち着いてからの方がいいと思う」
「…………分かった」
納得がいかないのだろう恒人は沈黙ののち、渋々同意する。八雲の言葉は正しいというのは分かるからだ。
それでもきちんと膝を突き合わせて話を続けたいと思うところはある。けれどこの会話のエンドマークばかりはどうしようもなかった。
仕切り直すしかない、ということだ。
納得のない了承を受けて八雲は、普段は概ね使用していない自分の部屋へと向かう。
「おやすみ」
そうとだけ振り返らずに声をかけ、そのまま恒人の前から立ち去っていった。
「……クロ、一緒に寝てくれよ」
「なう」
いつも八雲と一緒にいて、八雲と一緒に寝る。そんな彼がいないだけで自室が妙に広く感じてしまって仕方がない。
声をかけた黒猫のクロも、どこか寂しげな声で鳴いた。
こうして八雲に対する恒人の説教は、ひとまず終わりとなる。
恒人はクロとともに寂しさを埋め合うようにして、共に眠りについた。

草木も寝静まるほどの深い時間。
八雲の姿は玄関前の廊下にあった。大きな鞄を一つ持ち、明かりをつけることなく玄関へと音を立てることなく向かう。
彼の目指すところはこの家から外へ出ること。そのために移動を続け玄関へとたどり着くと、靴を履こうと屈み込んだ。
その時だった。
恒人の部屋から小さな足音が飛び出してくる。
「にゃう?」
クロだった。八雲が何をしているのか分からないといった様子で近づいてくる。もしかすると仕事に行くとでも思われているのかもしれない。
「クロ、俺出かけてくるね」
八雲の声は少し震えていた。少なくともしばらくはこの家に帰らない、そんなつもりでいたのがクロに伝わってしまうことを恐れてしまった節もある。
そしてそんな八雲の恐れは現実になった。
最初は不思議そうに首を傾げていたクロが、急に聞いたこともないような鋭い声で鳴き始めたのだ。
「ニャ! ニャー!」
「ダメだよクロ、恒人が起きちゃう」
そんなことになっては、八雲の目論見は叶わないものになってしまう。
しかし、止めても諌めてもクロの声は止まらない。それどころかさらに大きな声になって、家の中に大きく響いた。
「クロ、ダメだって」
どんなに止めても、クロの声は止まらない。まるで恒人に知らせようとしているかのようだった。
「……クロ? どうかしたのか?」
もしかすると本当に、クロの思惑通りだったかもしれない。寝ぼけ眼を擦りながら、ゆっくりとした足取りで近づいてくるのは恒人だった。
八雲は目を丸くしてぎょっとする。しかしそれは恒人にしても同じだった。驚いた表情を突き合わせるような結果になり、二人の口からは声が出ない。
それまで鋭く、さながらサイレンの如く鳴いていたクロはぴたりと鳴き声を止めていた。
「や、くも……? 何してんだ……?」
やっとの思いで恒人が言葉を絞り出す。
少なくとも恒人の目には、八雲がこの家から出て行こうとしているように見受けられた。だからこそ、この問いかけをせずにはいられなかったというのもある。
しかし、八雲は口を開こうとしない。
その無言の間は一瞬であったはずだが、とても長い時間が経過したかのように思われた。
「……八雲!」
呼びかける恒人に対して八雲は苦笑を向けてから、クロの方へと視線を落とす。
「ほら、起きちゃったでしょ?」
主語がなくとも分かる、これは恒人のことを言っているのだと。
語りかけられたクロはというと、どこか誇らしげとでも言うべきか──自慢げとも言い換えることができるかもしれない──ふんぞりかえってその場に立っていた。
「何してるんだって、聞いてるんだよ」
半ば答えは分かりきった質問なのだが、それでもはっきりと確かめたくて再び問う。
「……分かってるでしょ? 距離を置こうと思って」
「距離を置くって、そういう意味じゃねぇだろ!」
八雲の言葉に食らいつくように恒人が声を放った。
「俺はそんなつもりで納得したんじゃない」
重ねられる恒人の言葉に、八雲は困った様子で苦笑する。紺桔梗色の瞳の端にはうっすら涙が溜まって、八雲の目を潤ませた。
「……俺はそういうつもりだったよ。一旦距離を置いて、それで」
「それで、もう帰って来ないつもりだったんじゃないのか?」
再び食らいつくように、しかし恒人は先ほどほど勢いの先行したものではない声色で八雲に問いかける。
八雲にしては珍しく、驚きに呆然とした表情を見せるばかりで問いかけられた言葉に返すことができない。
「そうだろ?」
恒人が八雲のいる玄関へと近づきながら、問い詰めるように言葉を続けた。
根負けをした様子で一度脱力し、八雲はひとつ頷いてみせる。
言葉はない。しかし明確な肯定の動作を受けて、恒人は息を呑んだ。
八雲がこんな行動に出るとは考えもしなかった。実際クロの鳴き声で目を覚まさなければ、朝になってもぬけの殻になってしまった八雲の部屋を見ることになっただろう。
「……なんでだよ?」
疑問の思いをはっきりと言葉にしてぶつけると、八雲は弱々しく笑った。
「恒人を、傷つけたくないから」
「誰が傷ついたなんて言ったよ!」
「けど辛い思いさせちゃったでしょ?」
「だとしたら何だよ!」
言葉こそ淡々と紡ぐ八雲だが、視線を彷徨かせ落ち着きのない様子には彼自身が不安を感じていることを証明するように見える。
普段と比べてどうにも後ろ向きすぎる八雲の物言いに、恒人の中には苛立ちが募るばかりだ。
淡々とした言葉と、激しく鋭い言葉。
それらが交錯し合い、次にはまた静寂が訪れる。黒猫すら息をひそめる静寂の中で、恒人は苛立ちと共に八雲に視線を向けた。その視線の先の八雲はというと、相変わらず落ち着きのない様子で視線を彷徨かせて言葉を探している。
しばらくして、八雲がついに口を開いた。
「……だって、そんな顔させたかったわけじゃない」
「は?」
「だめだよ……」
「だから何が」
言葉を交わしはじめて、八雲ははじめて真っ直ぐに恒人のことを見つめた。
「俺と一緒にいたら、辛い思いさせちゃでしょ?」
言葉を続ける八雲は泣きそうな顔をしている。八雲のこんな表情は見たことがない。間違いなく見たことのないものだった。
「……傷つけるのは、もう嫌だよ」
そう弱々しく続けて、苦しげに瞳にたまっていた涙を落とす。
「……違う、そうじゃない。それだけじゃないんだよ」
一転して静かに恒人は静かに言葉を紡いだ。彼の瞳にも八雲と同じく涙が滲む。
やはり平行線だ。いつかと同じ、平行線。
しかしいつかの平行線とは質の違うものだ。あともうひと押しで交わることの出来る、平行──に見える──線。
「今、この瞬間だけの話ならそうなんだよ。自分のせいで誰かが傷つく、それが大切な人だなんて……嫌になる」
恒人の言葉に八雲は頷く。
「けど……けど、今だけじゃなくてこの先があるんなら……お前と一緒にこの先もっと幸せになれる、だろ?」
さらに言葉を重ねた恒人が、うっすらと笑みを浮かべた。
八雲はその言葉を受けて、ハッと表情を変える。何かに気がついたようなそんな顔だった。
「お前が言ってくれたんだろ。今が一番幸せなんじゃないって」
その言葉が決め手。八雲は再び瞳から涙を溢れさせる。溢れた涙はどんどん溢れて止まる気配がない。
「……恒人に辛い顔させるのも、恒人のこと苦しめてしまうのも嫌だよ」
普段より何倍も必死さを帯びた声に、恒人はただただ耳を傾ける。
「けど……一緒にいたい」
「じゃあ一緒にいようぜ? 俺はそのつもりだったけど」
「うん……、ごめんね」
涙を流し続けながら八雲は申し訳なさそうに笑みを浮かべる。だが、恒人はそんな八雲に口を尖らせた。
「ごめん、じゃないだろ?」
「……ありがとう」
恒人の指摘に、八雲は一度きょとんとした表情を浮かべたが、もう一度笑顔を浮かべてから謝罪を感謝へ訂正する。
今が一番幸せなわけではない。どんなに苦しくとも、どんなに嬉しくとも、未来には上回る何かが待っている。とんでもない幸せだって待っている。
八雲がいつか恒人に語った言葉は、巡り巡って己に返って来た。一緒に幸せを願う道標として。
かつて八雲は特異な家に育ったが故に、感情や心といったものを押し込め閉ざして生きてきた。幼い頃に鍵をかけて閉ざしてしまったものを、開くきっかけになったのは恒人の存在であり彼とのやりとりだ。
大切だと思った。守りたいと願った。笑顔でいて欲しいと祈った。そうしたら急に怖くなったのだ。
八雲の中にある思いも、願いも、祈りも、叶えるための一番の障害は自分自身なのではないかと。
神来社家という特異な家に生まれて育ち、必要とされなかった感情をついに正確な意味で手に入れた。
その変化は、知らなくてよかった弱さを手にした瞬間のではないかとも思う。だがそれは、毎日が幸せで嬉しくて愛おしいものであると教えてくれた。
今でも怖い。今日の、八雲の父たる七伊が起こしたような出来事が、再び起こるのならば恒人にはまた辛い思いを、悲し思いもさせてしまうだろう。
けれどそうならないように努力することも、未来を信じて手を打つということも出来るのかもしれない。
可能かどうかではなく、目指すことが出来るということだ。より幸せな未来を。
涙が止まらない。八雲の目はストッパーを失ってしまったかのように涙を流し続けている。そして嬉しそうに、恒人へ笑顔を向けていた。
そんな姿に恒人はたまらず、八雲の身体を抱きしめる。これまで見たことのない八雲の姿は、普段よりも危うくて普段以上に愛おしい。そんな風に思えた。
しばらくそうしていたのだが、恒人の足元でクロがひと鳴きして身体を擦り付ける。
考えてみるまでもなく、今は真夜中だ。玄関先でいつまでもこうしていることもない。
「ほら、戻るぞ。クロ、ありがとな」
「……うん」
「なうん」
二人と一匹は玄関に背を向けて家の中へと戻っていく。
八雲は荷物を持って、地震にあてがわれた部屋へと結果としては引き返す形になった。
家を出るために準備した荷物を室内に押し込めると、大きく息をひとつ吐く。
「八雲、寝るんだろ?」
部屋の入り口から恒人の声が向けられた。
声をかけられるとは思いもよらず、驚きと共に八雲は振り返って恒人に視線を向ける。
「えっと……うん」
「ほら、行くぞ?」
「……ええと?」
玄関からお互いの部屋へと戻ったはずだ。それなのに恒人の姿は今ここにあって、八雲に声をかけに戻って来た。
八雲にとってそれは衝撃を受けるレベルでの驚きだ。想像だにしなかったことだったのだから。
「ほら」
恒人は短くもう一度言うと、手を差し出してくる。八雲としては今いる自身の部屋で就寝するつもりでいたのだが、恒人がそのつもりではないと言うのは確からしかった。
「うん」
頷いて八雲は差し出された手を取って立ち上がると、そのまま連れられて恒人の部屋へと向かう。部屋のベッドの上にはすでに定位置にタオルが敷かれ、クロが待っていた。
「今日はみんな一緒だね」
「当たり前だろ。な、クロ?」
「にゃうん」
クロの鳴き声も様子も普段と変わりないもので、恒人にしても少々ぶっきらぼうでこそあったがいつも通りの場所に身体を横たえる。
その様子をまじまじと見つめてから、八雲は普段よりも少し恒人と距離を置いた場所に身体を横たえようとした。今し方までのやり取りを振り返って、どうにも普段通りにするには気まずさを感じてしまったのがその理由だ。
「遠いだろ」
今度はむすっと不機嫌な声で恒人が呟く。八雲へ向ける視線も声同様にこの上なく不機嫌さをたたえていた。
「けど……」
相変わらず気まずさを感じつつ八雲が言葉を濁しても、恒人はいつも八雲が寝ているあたりをとんとんと手で叩いてみせる。こっちに来いと、言外でそう伝わってくるものだ。
八雲はそれでも躊躇する。やはり気まずさが勝つというのもあったが、それは甘えすぎなのではないかという不安もあったのだ。
そんな八雲に痺れを切らした恒人は、自分から身体を寄せに行く。そしてそのまま八雲を抱きしめた。
「恒人、俺に甘すぎない?」
「俺が甘えたいんだよ」
「だからそれが……」
「いいだろ?」
甘えるように恒人は八雲の胸元に顔を埋める。
「うん」
嬉しそうに破顔した八雲は恒人のことをしっかりと抱きしめた。

これが、こんな幸せがずっとずっと続いていけばいいのにと、八雲は思う。
同時に胸の奥には、漠然とした不安も巣食っていた。
それでも今は、その不安を奥底に閉じ込めて恒人をしっかり抱きしめる。八雲はそんな行為そのものを、心の底からあたたかなものだと感じていた。