いつからだったろうか。
僕が、こんな体質になったのは。
いつからだったろうか。
僕が、このことに嫌悪するようになったのは。
いつからだったろうか。
この行為に絶望を抱いたのは。
いつからだったろうか。
いつまで続くだろうか。
一生このままなのだろうか。
僕は、このまま、嫌悪に生かされていくのか。
行孝は苦痛に表情を歪ませる。
彼はほぼ何も置かれていない自室にたった一人で、表情だけがはっきり苦痛に歪んでいた。
行孝は特異体質だ。それも後転的に変化してしまった不可解な体質を抱えている。
人間の血を定期的に摂取しなければ生きていけないというものだ。
普段は一般的な人間と遜色ない食事だけで事足りる。その他大勢と何も変わりはしない。
だが、そうではない瞬間がやってくる。
それは突然に、衝動的に訪れて、行孝の全身を塗り替えてしまうのだ。
人間の血が欲しい。
その忌まわしい欲求が訪れると、どうあってもそれを誤魔化すこともかき消すこともできやしなかった。
そういう体質の者が存在するということを知ってはいたのだが、行孝にとってそれは遠く無関係なものという認識だ。認識だった。
まさかそれが己の身に降り掛かろうとは思いもしなかったが、どうすることもできず訪れた病院でも根本的な治療は不可能だと宣告をされるに至る。病とは異なり体質である以上、対処はできても昔の体質に戻ることは現状の技術では実現できないのだという話だった。
結果として行孝は、欲求が訪れる度に人間の血を摂取し続けなければならない体質との共生を余儀なくされる。生きていくためにはそれ以外に選択肢はなかった。
しかも厄介なのが、人間の血──保存された輸血用のものでも構わないのだけは幸いだ──をきちんと摂取しなければ、その欲求は治らないということだ。紛らわすことも、誤魔化すことも一切できず、かき消すことなどもってのほか。
いかに行孝自身が吸血という行為を生理的に嫌悪していても、彼の身体はそれ以上に生命維持のための欲求として人血を求めていた。
そんな欲求が、今この瞬間に行孝の身を染める。苦痛で耐え難い、そうであるにもかかわらず血が欲しくて欲しくてたまらない。
ただただ彼の身には矛盾が渦を巻き、さらなる苦痛を与える。
解決するには人間の血を摂取するしかない。
行孝は冷蔵庫の中から、保存用の血がパックされているものを一つ取り出すと栄養ドリンクでも飲み干すように口に入れる。
だがその表情はありありと苦痛に歪み、どう見てもこの行動を彼が望んでいないことは一目瞭然だ。他人が近くにいたならば止めるか、声をかけるかでもしそうなほどの様子だった。
大きくただ息を吐く。
しかしこれはまだいい方なのだ。誰もいない場所、準備の整った場所で起こる衝動的な渇望には対処ができる。準備万端の状態に飛び込まれる分には、状況的な問題は一つもないのだ。
もちろん、本人の心情としてはもう二度と感じたくない欲求ではあるのだが、それは叶わない希望である。
それはそれとして、準備の整っていない場所で同様のことが起こった時の方が問題だ。
この状況が発生するようになってから、今のところはそういった不測の事態は起こっていないのだが、今後もそれが起こらないという保証はない。
それを考えるだけで行孝としてはどうにも憂鬱がつのり、自然と表情が引き攣りそして歪んだ。
必要以上に大きなため息が行孝の口から溢れる。考えたところで仕方がないことだが、考えずにはいられない自身の思考がどうにも矮小に思えてならなかった。
騒がしさとは無縁の建物の奥。フロアの隅に寂れた様子で佇む一室は、警察の中でも怪異に関連する案件を担当する部署だ。
この場所には普段と変わらず怠惰を隠そうともしない行孝の姿と、黙々と雑用をこなす後輩──和真の姿がある。
普段と変わらぬこの様子は、彼らの仕事があまり日の高いうちには事案として発生しないというところと、そもそも認識されにくいため仕事の量には圧倒的にムラが生じるという特性ゆえの状況から成り立っていた。
しかし一度、対処案件が発生するならば迅速に彼らは動く。今はその時でないと言うだけだ。
現状としてはこの上なく退屈を貪る格好になっている行孝は、あてがわれた席で気だるげにあくびを一つ落とす。
「左雨さん、そんなに退屈なら手伝ってくださいよ」
「いやだ。それはお前の仕事でしょ?」
「別に俺の仕事って訳ではないですよ。回り回って左雨さんにも必要です」
「役割分担ってやつ」
どうあっても自席で退屈を貪りたいらしい行孝は、和真の言葉にどうあっても頷こうとしない。
頑なに拒絶の姿勢を示し続ける行孝に対して、和真は苦笑するばかりだ。これもまたいつも通りのことではある。
存外多い書類仕事や整頓の仕事はすっかり和真の独壇場と化しているのだが、行孝がこの姿勢ではやむなしというものだ。
結局のところ和真は、一人作業へと戻っていく。それすらも普段と変わらない、いつも通りの光景だった。
この瞬間までは、誰にとっても等しく普段と変わらない日常だったのだ。
だが、次の瞬間にそれは行孝にとって普段の色を失う。
あの衝動が、やってきた。
今まで一度たりとも、家の外では訪れたことのなかった衝動が。
加えて例外な事案がはっきりと発生していた。
血を欲する衝動は、一度満たせば一定期間のうちには発生したことがなかったのだ。これまではいつも例外なく一ヶ月は何事も起こらなかった。
前回の衝動は昨日、今月の分は摂取を終えたとたかを括っていたのだ。
もちろん、経験からもその行動で問題ないと踏めるだけの要素はあった。血の提供を受けている病院からも、基本はひと月に一度と考えていいだろうと診断をされており、期間には多少のぶれが見えるため注意は必要だと言われてはいたがその程度のことだ。
それが昨日の今日で訪れるなど、予想からの逸脱という言葉では片付かない。想定などできるはずもなかった。
しかし訪れてしまったものはしょうがない。
行孝はほんの少し表情を歪めてから、小さく舌打ちを一つ落とした。
「左雨さん?」
こんなとき、どうしようもなく察しのいい後輩は今回も例外なく、行孝の変化を感じ取って視線を向ける。
行孝としてはその行動は、特に今の状況としては迷惑千万とすら感じるものではあるが、こういった状況における和真の察しと粘りは下手な誤魔化しでは頑ななものへと変化しがちだ。
彼がこの部署にやってきてからそれなりの時間が経過をし、さすがに行孝としてもそれくらいははっきりと理解しているところである。
大きくため息を吐いてから口を開いた。
「暇すぎるから気分転換」
そんな偽りではないが、主たる本意でもない微妙なところの言葉を和真へ向けてから席を立つ。
素知らぬ顔で和真の横を通り過ぎようとしたが「待ってください」と声がかかった。
「何?」
「あまり顔色が良くない気がします」
「別に。そんなことないけど?」
「……そう、ですか」
本当にこんなときばかり察しが良い。
内心で行孝は呆れと少しの不安を覚えながら、いつもと変わらない様子で言葉を返す。和真は納得していない表情を浮かべてはいたが、食い下がるまでのことはしなかった。
部屋の扉の前に行孝が立つ。
今からなら病院へ向かう方が確実だろうか、それとも署内で十分対処ができるだろうか。そんな思考が行孝を支配する。
その表情はいつになく真剣で、普段の行孝をよく知る人間であれば何か不測の事態が起こっているだろうことは、一目でわかるものだった。
「左雨さん、やっぱり……」
当然、行孝のそんな様子を見逃せる和真ではない。彼の口は自然と開いて行孝のことを引き止めようと動く。
「……何?」
あからさまに不機嫌な声色を発しながら、寄るなと警告でもするかのように行孝は和真をじろりと睨んだ。
威嚇しているようにも思われる視線に和真は一瞬たじろぐが、それでも引き下がるわけにはいかないと一歩前へと踏み出す。
「やっぱり調子、良くないんじゃないですか?」
「そう思うなら放っておいてよ」
冷たい声は凍るようなほどのもので、感情を可能な限り閉ざしているようでもあった。言葉そのものも突き放すようなものであり、今は触れてほしくないという感情があまりにもはっきりと存在を主張している。
「……否定は、しないんですね」
左雨行孝という人間は、嘘はつかない。
口から出る言葉は攻撃的で、不服など露骨な感情を隠すこともしないが、それでも絶対に嘘をつくことはないのだ。
それゆえに、この会話における否定をしないということは実質的に、和真の言葉を認めたと評することができる。
その証左のように、行孝は表情を歪めて小さく舌打ちを落とした。
「左雨さんがそこまでになるなら、確かに引き止めるべきではないと思います」
「だから」
「けれど……ただ調子が悪いというのとも違う気がします」
やはり、こんなときの和真の察しは良い。良過ぎる。
偶然だが的を射た和真の発言に対して、今度は口惜しそうな舌打ちが行孝から溢れて落ちた。
「……そうだったら、何なの?」
ようやっと口を開いた行孝は、見るからに不服そうな様子で言葉を吐き捨てる。普段であればもっと言葉が紡ぎ出されるだろうところが、ここでは最低限に留まるあたりにも和真の考えは確信めいたものに変わっていった。
「俺にできることはありませんか」
「ないよ」
問いかけに対してあまりにもきっぱりと行孝は切り捨てる。こうしなければならないとでも言わんばかりだ。
言動自体はいつもと大差ない。行孝は易々と他人に助けを求めるタイプではなく、己のことを誰かに任せるようなタイプでもないのだ。
そんなことは和真としても百も承知なことだった。
しかし今日ばかりは看過できない。
行孝の言葉の通り、引き止めることで彼の苦痛を長引かせているだけなのかもしれないのだが、いつもと同じようでいてどこかいつもと違う。決定的な何かがない以上、和真としても踏み込みにくいところはあるのだが、それでも取り付く島がないというわけでもない。
「……それでも、今日の左雨さんは」
そう言いながら一歩、和真は足を行孝の方へと進める。すると、反射的に行孝が後ずさった。
「左雨さん?」
「来ないで」
これまでよりも切羽詰まった声色で、必死に和真の行動を行孝は拒絶する。
何かを恐れるように、不安げにほんの少しだけ揺れる瞳は和真にとって見たことのない行孝の姿だった。
「……これ以上、近寄らないで」
あからさまな拒絶だが、この言葉に、この行動にどんな意味があるのだろうか。
和真は静かに思考する。
行孝は少々潔癖なきらいがあり、身体的な接触は避ける傾向があるのは普段からそうだ。だがここまで露骨に相手を拒絶するまでの潔癖ではない。
行動があまりにも露骨過ぎるのだ。それは裏を返せば生理的なところ以上に、何かしら距離を置いて欲しいもしくは近寄られては困る理由があるということに繋がるのではなかろうか。
「嫌です」
和真は自身の思考、その仮説に基づいて行動を始める。行孝が過剰なまでに拒絶する行動を敢えて断行し、距離を詰めようと試みた。
もちろん行孝は寄られる度に後ずさり、距離は全く縮まない。
しかしここは部屋の中だ。この状況を長く続けることは出来ない。
何故ならば、その距離感を保ち続けるには限界があるからだ。そのうち行孝は壁に追い詰められる格好になり、それでも和真はじりじりと距離を詰め続けた。
行孝が反射的に和真から顔を背ける。その瞬間に和真の瞳には、行孝の瞳がまるで獰猛な野生の動物か何かのように映った。
「左雨、さん……?」
その一瞬はまるで行孝を別人のように感じさせる。確かに目の前にいるのは、左雨行孝その人であるのに。
「……来るな」
問いかけても返ってくるのは、ただただうわ言のように繰り返される拒絶の言葉ばかりだ。
先ほどまでよりも覇気は薄れ、ただ必死に拒絶の言葉を紡いではもう下がれもしないのに和真と距離を取ろうと動き続ける。その場でただじりじりと動くばかりで何も変わらなくても、そうすることをやめようとはしなかった。
「大丈夫ですよ、左雨さん」
ただ穏やかに、和真は行孝に言葉を向ける。
「大丈夫じゃない」
「大丈夫です」
「大丈夫なわけないでしょ」
「どうしてです……?」
再び問いかける和真に対して、行孝はやはり言葉を詰まらせた。どうしてもそれを口にしたくないらしい。
だが、その真意を知らなければ和真としてもどうしようもなかった。
頑なな和真の態度は、普段であれば行孝をただ苛立たせ、不機嫌にさせるばかりだろう。
しかし、今はそんな状況では決してない。
切羽詰まった様子の行孝は苛立つことも不機嫌になることも、まるで忘れてしまっているかのように必死に距離を取ろうとしている。もう既に壁際に至っているというのにだ。
「教えてください、左雨さん」
今度は懇願の言葉を口にして、和真はもう一歩前へと進み出る。
二人は目と鼻の先くらいの距離感で、片や真っ直ぐに視線を向け片や露骨に視線を外していた。
「だから来るなって……!」
反射的に行孝は他人を近づけまいとして、手で払うような動作をする。
しかし不運にもその動作をした手が、和真の手とぶつかった。
すると行孝は直前の動作とは全く正反対に、和真の手を反射的に掴む。
「え……? 左雨、さん?」
当然ながら和真は困惑の表情で行孝を見つめるが、視線の先にいる当の本人も同様の表情を浮かべていた。
「違、う」
行孝は困惑の表情を浮かべたまま、拒否する言葉を口にしながらも一度は掴んでしまった手を離すには至らない。寧ろ手を離せなくなってしまっているとすら言える。
本能に抗えなくなってしまったかのように行孝は、掴んだ手を口元へと運ぶと齧りつこうと口を開いた。
「左雨さん、何を……?」
疑問の声を向けながら、和真は呆然とした表情を浮かべている。
その表情を見た行孝は、弾かれたように掴んだ手を手離した。表情は驚愕と嫌悪が入り混ざり苦しげであるにも関わらず、目には相変わらず獰猛な色が滲んでいてその落差があまりにも異様だ。
「何でも……ない」
「……さすがにそれは無理がありますよ」
和真は苦笑を浮かべる。言葉の通り、言い逃れが出来るような状況ではもうないことは明らかだ。
そして言及されていることについて、行孝としても異論もなければ否定も拒絶もできるものではなかった。
だからこそ、行孝の口から反論の言葉はひとつも紡ぎ出されてこない。
「教えてください。こうなったら俺にも聞く権利はあるはずです」
今この瞬間、確かに何かが起ころうとしていた。それは間違いないことだ。
しかもそれは行孝の手によって和真に対して起こされようとしていた──本人の意思はそこにないのだとしても、行動としては言葉の通りだ──ということもまた、一目瞭然なことである。
だからこそ和真は答えを求める理由が確かにあるし、同時にその問いを行孝が誤魔化すこともはぐらかすことも何ひとつ許されない。
「……体質。聞いたことない? 血を飲むってやつ」
ようやっと拒絶の姿勢を諦めた行孝が、ぼそりと言葉を吐き出す。最低限の言葉ではあったが、行孝の言葉は和真の脳裏に、うっすらとだが一定期間の間に一度は少量の血を口にしなければならない体質というものについて、いつだったか聞き及んだ内容が記憶から浮き上がってきた。
病院でも対処することしか出来ない稀有な体質で時に激しい衝動に襲われるということ、血液を欲している状態であれば生き物へ噛み付くことで目的を果たすことが出来る、確かそんなことを聞き及んだ気がして和真はただ衝撃を受ける。
身近に存在しているとは思いもしなかったのだ。どこかで近場にはない遠い事象だと思っていたところがある。
まさか、という驚きで和真の表情は硬直した。
「……あります」
やっとの思いで和真は問いかけられた言葉に、短く言葉を返す。
「それ、なんだよ」
どこか他人事のような、他人事であって欲しいという願望も含まれているような、なんとも言えない表情で声だけは冷ややかに行孝は答えた。
「……こんな風になるとは思ってなかったけど」
付け加えた言葉の方がよほど感情がこもったものであり、そこには強い諦観が感じられる。
和真は一度、口を開いて何か言葉を行孝へ向けようと思ったが、どう言ったら良いものなのか分からず開けた口をそのまま閉ざした。
「だから、さっさと行かせてくれる?」
続けられる行孝の言葉は至極もっともなもので、それで確実に対処が出来るのであればそれでもいいのだろう。
だが、また先程みたいな状態に陥ったら──?
和真の中に鎌首をもたげてきた疑問は深刻で、十分に起こりうるものだ。
「移動する間に、さっきみたいなことが起こる可能性は……ありますか?」
問いかける和真の言葉に、行孝の表情は分かりやすく歪む。
「わかるわけないでしょ。今のだって予想してなかったんだから」
ぶっきらぼうに、半ば投げ捨ててしまうかのごとく雑な物言いで行孝は吐き捨てた。
それはそうだろう、今しがたの状況が答えであり証明だ。
「だったら……」
和真は悩む素振りもなく口を開く。行孝は面倒そうにちらりと和真の方へと支線を向けた。
「俺の血を飲んでください。人間一人分と言われると無理ですが、少しくらいなら」
「……は?」
当然という様子の和真に対して、行孝はあからさまに眉間に皺を寄せながら不快さを含んだ声を吐き出す。
「お前、どうしてそうなるの?」
「ここにいるのは俺と左雨さんだけですし、問題はないのでは」
「問題しかないよ、馬鹿なの?」
言葉だけは普段と変わらないが、声に含まれる覇気だけは多分に不足している行孝の様子に、和真はより一層の気概を込めた。
「違います。帰るにしても病院へ行くにしてもそのままではリスクが高いじゃないですか」
「そっちはわかるよ」
「じゃあ……」
「けど、それでお前の血をって話にどうしてなるわけ?」
堂々巡りとも言える会話が続く。筋の通る言葉と筋の通らない言葉は、当然ながら相容れない。
「だってここには俺と左雨さんしかいませんし」
「だからってお前である必要なんてないでしょ?」
「……こんなこと、言い合っている場合ではないんじゃないですか?」
続く言葉の応酬の後、和真は渾身の問いかけをぶつける。実際、行孝の様子は目に見えて疲弊しており、こんな状態ではとてもではないが一人での行動は難しいのではないかと考えずにはいられない。
血が足りていないのだろうことは明らかであり、この状況を続けるわけにも行孝の要望を叶えるにはリスクが高いことも、和真としては考えが及んでしまう。
ぶつけられた言葉はまさしく正論というところもあり、行孝は再び言葉を発することができなくなってしまっていた。
言葉という音を失った空間には、そこはことなく重たさを感じさせる空気が満ちていく。
そんな中で和真は静かに思考した。
血を飲まなければならない人間は緊急的に直接血を摂取するにあたって、効率よく行える場所というものがあるとどこかで聞いた記憶がある。
どこだったろうか、それは。
思考のうちに思い出す、そして首筋を行孝の前に晒した。
「お前……」
「確か、このあたりからが血を飲むのに効率がいいってどこかで聞きました」
そういってまるで身を差し出すようにした和真の首筋に、行孝の視線は引きつけられてしまいっぱなしだ。
和真はこの曖昧な知識はあながち間違いでもなかったらしいことを感じ取って、内心ほっとしていた。
対して行孝は露骨なため息を落としてから「……どうなっても知らないよ」と、ぼそりと呟く。
「大丈夫です」
妙なまでに自信に溢れて見える和真の様子に、行孝は大きくため息を吐き出した。
「お前、そういうとこあるよね」
決して褒めているわけではないが、かといって言葉ほど貶すような声色というわけでもない。そこに滲むのは呆れと、ほんの少しの安堵が含まれているように思われた。
そうしている間にも相変わらず和真は首筋を差し出すような体制を崩していない。そこへ行孝がゆっくりと口元を近づける。
ほんの一瞬ではあったが視線が交錯し、その瞳はやはり先ほど同様に獰猛な生き物のもののように、ぎらと光ったように和真には思われた。
次の瞬間には広く開けられた首筋に齧り付くために、行孝の口が開かれる。そこから覗く犬歯は一般的な人間の持つものよりも細く、そして鋭いものだった。
和真に不思議と恐怖はない。
それは自身の感覚が麻痺しているのか、それともただただ相手が行孝であるため問題ないと無意識のうちに判断しているのか、当人にすらよくわからなかった。
確かなことは恐怖のないまま和真の首筋に、行孝の鋭い犬歯が突き立てられたということだけだ。
ぷつり。
ほんの一瞬、小さな痛みが和真に走る。
しかしそこからはどうしてか、痛みを全く感じない。
ただ身体から血の抜けていっているという、そんな感覚だけがあるのみだ。
行孝は静かに何度か嚥下を繰り返すと、そうしていることが耐えられないとでも言わんばかりに、身体を和真から離す。
表情には嫌悪を、しかし瞳にはほんの少しを恍惚を映す行孝の様子に、和真はただ今日は珍しい彼の姿ばかりを見るものだ、などと妙に冷静に思考するばかりだった。
「お前って本当に変な奴」
ぼそりと行孝が呟きながら身体を翻す。その瞬間に小さな声だが感謝の言葉をひとつ落とした。
そして普段と変わらない様子で歩き始めると「病院行ってくる」と背中越しにさらに付け加える。
さっきの行為は緊急的なものだ。もちろんしっかりした対処を病院でするのは当たり前のことと言える。
「待ってください。俺も病院行きます」
それは自分自身も念の為に受診をしておいた方がいいかもしれないという考えと、なんとなく行孝と離れ難く感じてしまったところが入り混じった言葉だった。
行孝は振り返りもせず「好きにしたら」と、いつものようにぶっきらぼうな言葉だけを返す。
和真は慌てて衣服を整え、行孝の背中を追いかけ歩き始めた。
自分の血の味とはどういうものだったかと、問いかける言葉を口にしながら。
