呼び声は誘惑

「少し待ってて」
八雲の声が静かに響く。
頼みの綱は彼一人、オスカーはただ黙って頷いた。あとはひたすら待つばかりだが、オスカーの視線は八雲に注がれている。
八雲は瞼を下ろして、集中し何かを探っているらしい。その様子は緊張感を帯びながらもオスカーの目にはどこか美しく、そして穏やかなものにも見えた。
「……いい? 俺が今からミオくんに繋がる場所を開くから、君は迷わずこっちに引っ張ってね」
「はい」
オスカーは迷いなくはっきりと肯定の返事を返し、八雲がそれに頷く。
その場で居住まいを正した八雲が、何もない空間に向けてすっと両手を突き出した。すると、何もないように見えたがそこには壁でもあるかのようにぴたりと彼の手を押し留める。見えない壁を撫でるようにしてから力を込めると、空間には少しずつ割れ目が生じ始めた。
その様子をじっと見つめながら、オスカーは緊張と共に大きく呼吸をする。ここからは自分の仕事だと、真っ直ぐに八雲が広げていく空間の割れ目を見つめた。
すると割れ目の中に、何者かがいることがだんだんと伝わってくる。オスカーとしては疑いようもない、その何者かは他の誰でもないミオだった。
きょとんとした様子で視線を彷徨わせて、何度もぱちぱちと瞬きをする。どうやら状況を把握しているというわけではないらしい。
だが、そんなことはオスカーとしては二の次だった。先ほどの八雲の言葉の通り空間の割れ目に手を伸ばすと、ミオの手首を掴む。そのままぐんと強く引くと、思い切りミオのことを自身の方へ引き寄せて、強く抱きしめた。
「よかった……無事で……」
「オスカー……」
二人の間には安堵の空気が流れる。だが、それを制したのは八雲の冷静な声だった。
「まだだよ」
その声は凛とその場に響く。オスカーとミオが視線を向けると八雲は真剣な面持ちで再び口を開いた。
「これからまだしないといけないことがあるんだ。ミオくんはまだ呼ばれてる、けど何を聞いても絶対に俺が大丈夫って言うまで振り返らないで。オスカーくん、君はミオくんを守るんだ。二人ともいいね?」
八雲の言葉にミオは小さく頷き、オスカーも同じく頷く。そしてオスカーは先ほどよりも強くミオの身体を引き寄せて、さらに強く抱きしめた。
『どうして……』
『一緒にいよう?』
『一人は寂しいよ……』
空間の割れ目から、この世ならざる者の声が響く。求め、そして呼ぶ声。
ミオは硬く瞼を閉ざして、オスカーに身を寄せる。
振り返ってはいけない、絶対に振り返ってはいけないのだ。
その声はオスカーの耳にも届き、ぞくりと背筋に寒いものを走らせる。ミオの背に回した腕に力を込めながら、オスカーもまた硬くその瞼を閉じた。
「……一人が寂しいのなら」
穏やかな八雲の声が響く。
八雲はゆるりと腰にさしている得物の柄を撫でてから、人の目では正しく認識することも困難と思われるほどの速さで一閃を振るった。
異形の断末魔がこだまする。ミオを呼ぶ声とは似ても似つかない、悪意と欲と全てを果たせなかった絶望を含んだ叫びだった。
「今すぐにその存在を散らせ」
八雲が冷たく言い放つ。異形の終わりを告げる言葉と同時に、空間の割れ目の奥の何かが霧散した。抜いた刀を納めながら、八雲は再び口を開く。
「もう大丈夫だよ」
穏やかで柔らかな〝大丈夫〟の言葉に、ミオとオスカーは互いに閉ざしていた瞼を開いて笑みを浮かべあった。