とある街の路地裏、寂れているとまではいかずとも閑散とした様子を見せる一帯に、風情ある佇まいの喫茶店があった。
『かまど』と掲げられたその店は、こじんまりとした店でいわゆる純喫茶というタイプの喫茶店だ。外装もだが内装もまたアンティークな味のある調度品で占められていて、絵になるようなそんな店だった。
店を切り盛りするのはまだ年若い青年だ。いつもきちんと整った給仕服に身を包み、カウンターに立つ姿はこれもまた絵になる。目鼻立ちのはっきりとした整った顔立ちと、実直そうでかつ意志の強い瞳は赤みがかった美しいものだ。そして額の右側に模様のような痣があるのが、一目見るだけでも彼を認識することを容易にしていて客商売としては記憶に残るという意味で成功していた。加えて彼の耳にはいつも花札のような柄をした大きめの耳飾りがぶら下がっていて、それもまた彼を印象深く訪れた客に記憶させる。
最初こそ敷居の高さや、近寄っていいものさと戸惑いをうむ店主の姿に躊躇されてしまうことも多いのだが、それでも一度足を踏み入れた客たちはすっかりこの『かまど』という店の虜になってしまうのだから、間違いなく魅力ある店だった。
そんな『かまど』の扉が、今日も一人の客の手によって開かれる。少しよれたスーツに歪んだネクタイ、そしてぐったりとした表情を浮かべた金髪の青年はまるで自宅であるかのような脱力具合で、カウンターの一席にどっかりと腰を下ろした。
「いらっしゃいませ、こんばんわ」
「こんばんわぁ……」
机に突っ伏して、くぐもった声にこそなってはいるが金髪の青年は律儀に挨拶を返す。彼は最近になって、この店によく現れるようになった青年だった。
「今日もお疲れみたいですね?」
「いや、ほんと……なんで俺こんな頑張ってんのかなぁって思っちゃうくらいには疲れてます」
「店の人間としてはいつも来ていただいて嬉しいんですが、個人としてはとても心配です。ご自宅でゆっくりされた方がいいんじゃないですか?」
店主の問いは最もだ。見るからに疲労困憊という客の青年の姿は、すれ違いざまでも気にかかってしまいそうな程、純粋に心配を抱かせる。そんなものだった。
「この店が今の俺の癒しなんですよ!」
青年は店主の問に対してそう口火を切ると、饒舌に語り始める。
「家に帰っても他には誰もいない、楽といえば楽なんですけどね⁉︎ すごく寂しいわけなんですよ! この店に初めて来たとき、ほっとしたんです。喫茶店としてはもちろんですけど、寂しい俺の心に染み渡ったんですよ」
そこまで捲し立てる青年を見つめ、店主は苦笑した。少なからずアルコールが入っているのかも知れない。そんなことを感じつつ、店主はカウンター越しに珈琲をそっと置いた。この青年はいつも決まって珈琲を注文する。ここ最近では青年から注文するより早く、店主から決まりのものを差し出すようになっていた。
そういうこととあって、青年は置かれた珈琲のカップを当たり前にそして無造作に掴む。そのまままるで酒でも煽るように飲んで息を吐いた。
「あ~! ここの珈琲ほんとおいしい! ごめんなさいね! 味わって飲んでなくて!」
勢いに任せたことを勢いに任せて詫びるというのも、なかなかに不可思議なものではあったが店主としてはそんな青年の見え隠れする人の良さを気に入っている。店に来て見せる大半が情けない様子であったし、今のように荒れ感情的な様子であることばかりだったが、それでも言葉の端々から感じられる優しさや百面相のようにくるくると変わる表情の中にある優しげな笑みに、店主は惹き付けられて止まなかった。
「いえいえ、いつもご来店ありがとうございます」
店主の言葉に青年はほんの少しだけ口角を上げてから、すぐまた大袈裟にため息をつく。余程のことがあったのだろうか、いつもよりも深いその息の吐き具合に店主のなかで不安と心配の色が濃くなった。
「お話できる範囲で吐き出してすっきりするのであれば、お聞きしますよ?」
思わず店主はそう口にしてしまう。何故だろう、彼にはついつい肩入れしたくなってしまうのだ。本来は褒められたことでは無いのだろうが、そうせずにはいられなかった。
最初こそ口を開くことを躊躇った青年だが、しばらくして意を決したようにその口を開く。
言葉を選びながら語られるのは、ありふれた職場と上司への愚痴。なのだが、そこはかとなく不穏さを感じずにはいられず、店主は不安の気配に震えた。
いつもくたびれたスーツを着て疲れきっている青年は、一体何者なのだろう。そんな風に考えてしまったことに申し訳なさを覚えつつ、店主は青年の言葉に相槌をうった。
店主が、カウンターに腰を下ろした金髪の常連客の愚痴に付き合い始めてどれほどたったろうか。
それは唐突なことだった。がたんと大きな音を立てながら金髪の青年が席を立ち上がったのだ。
直前までの口ぶりはどこかへべれけさをも感じさせるようなもので、内容自体もまだまだ終わりにはほど遠いというようなものだっただけに、機敏な動きで立ち上がったことも含めて何事だという驚きが店主を支配する。
「急用思い出しました! お金ここに置いておきます、ごちそうさまでしたっ」
ありきたりな逃げ文句と共に、彼はもうカウンターに背を向けていて、その足取りにへべれけさなど微塵もない。青年は扉を開きながら店主の方を振り返るとにこりと笑って「また来ます」と告げると、店の外へと飛び出して行った。
後ろ手で力任せに店の扉を閉めると、青年は勢いよく駆け出す。すると彼の肩に一羽の雀が舞い降りて、がなるように激しく鳴いた。
「はいはい! 悪かった、悪かったって!」
青年はまるで雀と会話でもしているかのように声を荒らげつつも、真っ直ぐに走り続ける。彼の大きな一歩は飛ぶようで、その速度は瞬く間に上がっていき、もう次の瞬間には彼は足を止めていた。
「遅せぇぞ、善逸」
「すいませんね!」
善逸、と金髪の青年に声を掛けたのはタッパのある男で、黒のスーツがまた迫力を増している。肩口まであるグレーの髪の毛とそこから覗く赤く鋭い瞳は、善逸ではなく別の何かを捉えていた。
それは建物と建物の隙間、境目からじわりと黒い何かが染み出している。カビのようにも見えるそれは、どう考えてもその場においては異質だった。
この世界には表と裏がある。それは光と闇、生と死、希望と絶望ほどに圧倒的な差があるものだ。
世界の表は人々が平和に暮らすもので、大半の人間はこの一面しか知らない。知らなくても生きていけるならそれに越したことはないのだ。
しかし世界の裏を知る者は、これを放置して看過することは出来ない。なぜならそれは、時に表側へと染み出て世界を不穏へと陥れようとしているにほかならないからだった。
そんな侵略から人々の平和な日常を守ることを生業とする者たちが存在する。
夜の闇に乗じて世界を陥れんと欲するものたちと対峙し、持てる力の全てを持って退ける、そんな者たちが。
異形を滅する彼らに、本当の意味で安息の時間は訪れない。善逸たちこそその異形を屠るものたちであり、建物の隙間に存在するものこそ、まさしく異形だった。
善逸の辿り着いたのはビルの乱立するいわゆるオフィス街の一角、その裏通りだ。表通りはまだまだ人々が行き交い活気の溢れる頃合である故、彼らの姿のある辺りは封鎖され人避けが成されている。
その封鎖は功を奏していて、往来の人々が野次馬をしに来る様子は一切なかった。
実の所、この状態では今の彼らに手は出せない。しかしそれは間違いなく厄災の種であり、世界の裏からの侵略だ。
ここから闇に蠢く化け物が姿を現す。後手に回ることしか出来ない善逸達ができることは人を避け周りを囲み、その時に備えるくらいだった。
「宇髄さん、今回のはどんなやつです……?」
善逸は隣に立つ男を宇髄と呼び、そして問いかける。
「調べでは大型だな」
「あ~……」
宇髄の端的な答えに、善逸はがっくりと肩を落とした。
「それ、ハズレじゃないですか」
『大型』、それは力の強いものたちの襲来を意味する。そして核となるものに引かれるように、一体ずつであればさほど問題とはならない程度だが群れると手間取る、そんな化け物も共に姿を現すのだ。それも、大量に。
それを思って善逸は肩を落とし、宇髄は反対にそれを笑い飛ばす。
「これくらいの方がド派手でいいじゃねぇか!」
「アンタはいいですよ、全く」
その豪快な宇髄の様子に善逸は、一層肩を落として愕然とした。
彼の悩みとはこの特殊な仕事における、折り合いが悪いとは言わないがどうにも自身とはタイプどころか人種すら異なるのではないかと思えてくる上司や、仕事そのものの事だ。
しかしこの仕事は口外厳禁が鉄則で、同職者と取り立てて付き合いのない善逸にしてみれば疲れや鬱憤、ストレスばかりが蓄積されていく。そんな寸法だった。
この仕事が嫌かと言われれば確かに嫌なのだが、かといって全てを拒絶したいほどでもなく、なんとも形容しがたい想いが善逸の中に確かに居座る。
だからこそああして、気を許した喫茶店の店主に仔細を伏せながらも愚痴を吐き出す程度で今ここに立てているとも言えた。
重く吐き出したため息がひとつ落ちる。
そのときだった。それまで小康状態を保っていたシミのようなものがにわかに激しく蠢き出す。何度見ても吐き気をもよおすような光景だ。ぬるり、どろりと動いて次第に広がると、いつの間にかぽっかりと穴が空いたようなほどの大きさにまでなった。そこから這い出してきたのは、影をまとったかのような黒い化け物だ。さらにはそれに追随するように多くの子供程度の大きさの、やはり黒い化け物が次から次へと這い出してくる。
心の折れてしまいそうなほどの光景に、集まった宇髄や善逸たちは動き始めた。
「おい、善逸!」
「なんですか!」
溢れてくる本体とは別の化け物に向かって、各個得物を振るうなか宇髄が声を張り善逸はそれに応える。
「想定よりも数が多い。小型は他の奴らと俺で何とかする、大型はお前に任せた」
その指示に善逸は一瞬呆けて足を止めた。容赦なく襲い来る小型の化け物を、宇髄の手にした大振りの刀が容赦なく切り裂く。
「動き止めんな、やられんぞ!」
一転して怒声を飛ばす宇髄に応じながら、善逸は緊張に下唇を噛んだ。
(俺に、出来るんだろうか)
それは純粋な不安だった。
(出来るかじゃない。やるんだ……!)
善逸は肝心なときにいつも、数少ない身近な人を思い起こす。これまでは師匠であり家族でもある祖父のことばかりを想っていたが、最近はそこに人が増えた。
件の喫茶店とその店主だ。あの場所は、善逸にとって新しく出来た居心地の良い場所であり、守りたい場所でもある。それを守れるのならば、自分の恐怖など瑣末でちっぽけな取るに足らない程度のものでしかない。
体勢を立て直し、呼吸を整える。今自身は守りたいものを守るための刃だ。
善逸がその呼吸を境に纏う雰囲気を劇的に変貌させる。宇髄はその様子を見つめ、そしてにやりと笑った。
宇髄の手引きと的確な指示により小型は善逸と引き離す形で誘導され、大型へと届く真っ直ぐな一本の道が整う。
頃合だ。
地面にまで響く雷鳴のような音が響いたかと思うと、次の瞬間にはその音が落雷のように変わり、瞬きの間に大型の存在は刈り取られ中核を失った小型は瓦解していく。
それでおしまいだった。
「読み通り派手な攻撃だぜ。お疲れさん、善逸」
宇髄が全ての所作を終えた善逸の肩を、ばんと大きな音をさせながら叩く。その衝撃に善逸がびくんと身体を震わせてから苦笑した。
「上手くいって良かったです」
ほっと胸をなでおろしている善逸の様子に、宇髄もまた苦笑する。もちろん、善逸とは全く違った意味合いでだ。
どんなに優れた技術や能力を持っていようとも、善逸当人には圧倒的に自分自身への信頼が不足していた。誰かの信頼や指示に応えられるだけのものを持ちながら、自分にはそんなものは無いと言わんばかりに縮こまる。
そんな彼の様子を宇髄はすっかり見慣れていたが、それでもこの現状は本来であれば改めたいと考えていた。
(褒めてみたところで全力で本心から謙遜しやがって)
宇髄の苦情はそんなところに起因するものだ。
対する善逸のそれは、紛うことなき自信のなさをあらわすものに相違なく、なかなかに厄介なものだった。
「他は特になさそうだ。突然招集かけて悪かったな」
宇髄は気をつけて帰れと善逸を見送る。それが今、善逸に現状出来る最大限のことだと判断したからだ。
その言葉に曖昧な笑みとともに善逸は現場に背を向ける。そのまま、ゆっくりと歩き出した。振り返らず、かえりみない。その表情は苦々しいものだった。
最近、雨も降らないのに雷の落ちるような音が鳴る日が増えた。星の浮かぶ夜、月が大きな夜、そんな日にも容赦なく雷が鳴る。しかし、空には雷の光は閃かない。
それは不可思議でしか無かった。
時として有り得ないようなことが現実となることがあるが、正しくそれだ。
喫茶『かまど』の店主、炭治郎はここ最近の夜の不可思議に首を傾げているひとりだった。夜に店を訪れる客たちは、口々に不安を述べていたが炭治郎は逆にあの音に少なからず安心感を抱いている。
何故かは分からないが、雷のような音の主は自分たちを守ろうとしてくれているような、そんな気がしてならなかった。
そしてもうひとつ、この轟音の鳴り響く時には必ず起こることがある。最近常連客となった金髪の青年が、必ず音の鳴る少し前に店を飛び出していくのだ。
一度や二度ではない、何度も何度もそれが起こっている。偶然と言うには無理があり、それがまた炭治郎の心をざわつかせた。
――彼は一体何者なのか。
客に対して不用意に持つべきではない感情を、炭治郎は抱き始めている。
名も知らぬ常連客、その個人に対する興味だ。もちろん、彼にそれを向けるつもりもなければ、今抱き始めた疑問を問いかけるつもりもない。
ないのだが。
好奇心を止められない彼自身がいるのもまた間違いなく、どうしようもなく興味を揺り動かされることもまた事実だった。
(今度来たときに、それとなく聞いてみようか……)
それとなく、などという器用な真似が出来るかどうかは家族にすら嘘ひとつつけない炭治郎にとって甚だ疑問ではあったが、ダメで元々だ。機会があれば尋ねてみようと折り合いをつけて、炭治郎は今日も店を切り盛りしていた。
時間も遅く、深くなり始める頃。そろそろ店を閉めようかという、まさにその瞬間だった。
「すみません!」
駆けてきたのは、金髪の青年だ。息を切らし、肩を大きく上下させている彼は、本当に急いできたのだろう。いつも以上にスーツはよれ、くたびれた様子をより加速させていた。
「もう、店閉めちゃいます?」
上がる息で途切れ途切れになりながら、金髪の青年は問いかける。
「そろそろ、とは思ってましたけど……」
「じゃあ、一杯だけ! 珈琲を、いただけませんか?」
炭治郎は逡巡した。しかし、彼に応えたいと思いつつも、ほんの少しだけの打算を込めて肯定の意思を示す。
「どうぞ」
いつものにこやかな笑顔で青年をいつもの席へと招いた。招きのままに腰を下ろした青年からは、小さく、しかし確かに安堵の息がもれる。
「わがまま言ってすみません」
「いいえ。この店が癒しだと前にも仰っていただいていたので、そんな方を無下には出来ませんよ」
営業用の笑顔を浮かべながら、炭治郎は珈琲を淹れるために手を動かした。流れるような無駄のない動きを青年は食い入るように見つめる。
「前から思ってたんですけど」
ふとかけられたカウンターからの声に炭治郎がちらりと振り向いた。もちろん客は今、彼しかいない。必然的にその声の主は青年だった。
「どうしました?」
言葉を返しつつも炭治郎は視線を手元に戻す。慣れたこととはいえ、万が一があってはいけない。
「俺、珈琲を淹れてもらうこの瞬間が一番好きです」
「それは、どうしてです?」
突然告げられた言葉に、炭治郎は当然のように疑問の言葉を口にする。それは純粋な疑問だった。
「ここの珈琲が好きだから待ってるのが好きなのもあるんですけど、待ってるときに聴こえる音が暖かくて……ああ幸せだなって、思うんです」
そう言って心底幸せそうに目を細める。
「だから、一瞬でもその幸せを感じたくて……ここに通ってしまうんですよ」
青年はそう言葉を重ねると、はにかんで照れ臭そうに視線をそむけた。
そんな青年の言葉を炭治郎は逃さぬようにと、耳だけはしっかり澄ましながら手を動かしている。客と会話しつつ作業をすることは、日頃から多くこなしているはずなのだが、今日は心なしか緊張が強く指に余計な力みが伝わるのがわかる。
余計なことを考えてしまったから意識してしまっているのだろうことは明白だった。
それでも炭治郎は平静を保ち、いつもと変わらぬ仕事をこなす。いれた珈琲もいつも通り、自信を持って青年の前にそれを置いた。
「どうぞ」
青年は会釈しながら口を開く。
「……緊張、してます?」
驚きだった。すべてを見透かされているような気すらする。
「あ、なんか……すみません。俺、昔から耳だけはいいので」
「耳?」
「ええ。人の感情とか耳を澄ますと何となく察せちゃったりするんです」
炭治郎は呆気に取られるばかりだ。それは聴力というより超能力とかそういった類のものに思えた。
「いつもより音が少し硬いなぁって思ったんで、緊張されてるのかなって」
青年は苦笑して、所在なさげに頭をかいている。見透かされているような感覚はきっと、彼が言うような音をその聴覚で捉えたからだったのだろう――そんな風に思えてならなかった。
「そう、ですね……」
炭治郎は慎重に口を開く。どのように言葉を紡ごうかと考えたが、小細工など彼の前では無意味だ。そう思い至るといっそのこと正直に自身の思う疑問を、素直にぶつけてみようと開き直りにも等しい想いを抱いた。
カウンター越しに真っ直ぐ青年を見つめて、炭治郎は口を開く。
「正直、とても緊張しています」
その素直な言葉に目を見開きながらも青年は口を挟まない。
「あなたに聞いてみたいと思っていたことがあるんです」
続けられた言葉は青年の瞳をさらに見開かせる。心底驚いた様子で口角を上げた。
「俺に?」
「はい」
「どんなことです?」
二人の間には今までにないような緊張感が走る。何かが動き出すような、そんな気にさせられる空気感がそこにはあった。
「最近……」
一呼吸置いてから炭治郎は口を開く。
「天気も悪くないのに雷が鳴るような、そんな音がするんです。あなたが店を急いで出ていくときにはほぼ確実に……」
歯切れの悪い言葉たちを、青年は黙って受け止めていた。
「もし何も知らなくても、もし何か知っていても、話をしたくないならもちろん黙っていていただいて結構です。それでも、気になってしまった……聞かずにはいられなかったんですよ」
真剣で真っ直ぐな赫い視線を向けられて、青年は無言で肩をすくめる。なにかに呆れたような、観念したような、そんな仕草は炭治郎の心臓をどきりと鳴らした。
「俺、名前言いましたっけ?」
脈絡のない彼の問いかけに炭治郎は首を横に振るばかりだ。
「俺、我妻善逸っていいます」
「あ、えっと……竈門炭治郎です」
反射的に名乗り返す炭治郎の様子に善逸は小さく吹き出す。
「律儀だなぁ」
くすくすと笑う姿に、炭治郎の心臓の音がひときわ大きな音を鳴らした。
「それ、多分俺のせいです」
流れるように話を戻した善逸は、炭治郎が悶々と考えていたことを短い言葉でほぼ肯定してみせる。当の本人は申し訳なさそうに頭をかいていて、あんなにも頭を使った今しがたまでの炭治郎自身が、どうにもいたたまれなく感じるほどだった。
「た、ぶん?」
やっとの思いで口にした疑問は、善逸の〝多分〟という自身のことを言うにしては他人事のような言葉に対してだ。
「自分じゃ分からないんです。上司や先輩たちがそんな音がするって話をするから、多分そうなんだろうって知ってるだけで」
何とも不思議な物言いだった。どうにも曖昧で落ち着かない。
善逸は困ったように笑っていて、底に嘘も感じられないところがかえって炭治郎を混乱させた。
「……詳しく、聞かせては貰えませんか?」
出来うる限り冷静にと深呼吸をして自身を落ち着かせてから、炭治郎は静かに問いかける言葉を口にする。
当然のように善逸は悩む仕草をして、唸り声を上げた。話の間に少しぬるくなった珈琲に口をつけて微笑む。
「俺、話しちゃいけないことが多いんです」
明確な拒絶にも思える言葉が善逸の口から紡がれた。その言葉に炭治郎が肩を落としそうになった次の瞬間。
「けれど、周りには他の人もいないし……答えられそうだなと思う質問になら答えます」
そう付け加えて、また善逸は微笑んだ。その様子は魅惑的で扇情的にすら炭治郎には思えた。
ごくりと唾をのみ、炭治郎は大きく息をすると口を開く。
「我妻さん、さっきあの音は自分のせいだと言われてましたけど、何をすればあんな轟音が鳴るんです……?」
口を開いてしまえば炭治郎の問いは、小細工のひとつもない真っ直ぐなものだった。
「やっぱそれ……気になりますよねぇ……」
想定はしつつも、いざ言われてみると答えにくいものがあったらしい。少なからず表情を引き攣らせながら善逸は思案している様子だった。
「それが俺の仕事……なんですけど、みんなが同じって訳でもなくて」
善逸の言葉は歯切れが悪く、口にすることを選びあぐねているという印象だ。
それでも精一杯に応えようとしてくれている善逸の姿は、炭治郎の目に好意的なものとして映る。
「俺の仕事って……そのぉ……掃除屋、みたいなもんで。しかも放っておくとすぐ広がるから速さ勝負なところがあるんです。いろいろなやり方で掃除、みたいなことをするんですけど、俺はみんなみたいにたくさんの……道具? を器用に使いこなせない代わりに、とても速く対応が出来てるらしくて……その速さを出すときの音……みたいな?」
正直なところさっぱり分からなかった。善逸当人もこのあまりにも伝わらない言葉について承知していて、申し訳なさそうに視線を逸らす。
「……すみません……」
謝ることしか出来ない姿は、いたたまれなくもありながら同時に可愛げすら感じられるものだった。
炭治郎は思わず吹き出しながらも、善逸に対して感謝の言葉を口にする。
出来る限り向き合ってくれた、それだけでもう炭治郎には充分に思えた。
「我妻さん」
炭治郎の呼び声に善逸が、逸らした視線を無言で戻す。
「ありがとうございます」
心底から感謝の言葉は、善逸の心を大きく震わせた。そして彼の琥珀色の瞳から涙が溢れる。
「え! 俺、泣くほど失礼なことをしましたか……⁉︎」
「違うんです」
慌てふためく炭治郎に善逸はただ静かに微笑んだ。その表情はいつも見る疲れを帯びたものとは違う、柔らかなそれでいてあたたかいものだった。
彼の表情を視界に収めるなり、炭治郎の胸はまるで締め付けられるようにして強く鼓動する。
「そんな風に言ってもらえたことが嬉しくて」
善逸の細めた目尻からまた涙がこぼれて落ちた。炭治郎は言葉を返すことができない。善逸の姿は息をのむほどに美しく炭治郎の目には映った。
「……俺、今の仕事……向いてんのかなって思ってて。誰かの役に立てる自分になりたくて、それではじめたけど、俺は出来が悪いから迷惑ばかりかけてて……基本、公にはならない仕事なので、誰かの役に立ててる気もしなくて」
子供のように泣きじゃくりはじめ、それでも必死に言葉を紡ぐ姿は彼がどれだけ思い詰めていたのか、それを如実に炭治郎へ伝える。
「だから、嬉しくて。こちらこそ、ありがとうございます」
泣きながらも笑顔を見せる善逸に、炭治郎は先の彼の様子に自身が気の利いた返しを出来たとへ思わなかったが、これはこれで良かったのかもしれないとは思えた。これだけ嬉しそうにしてもらえるのであれば、それは重畳と言っていい。
にこりと笑い返しながら、善逸の前ですっかり空になっていたカップを引いた。
「おかわり、いかがですか?」
「え、いいんですか? 俺、一杯だけって……」
「大丈夫です、もしご入用ならこれは俺からの奢りなので」
「……いやいやいや! だめですって」
唐突な炭治郎の言葉は、善逸を申し分なく動揺させる。それでも、と炭治郎もまた譲らない。
しばらく続いた押し問答のようなやり取りに終止符を打ったのは善逸の吹き出すような笑い声だった。
「竈門さん、本当に面白い人ですね」
今度は笑いすぎて涙を流し、ころころと表情を変える善逸の様子は炭治郎の心を震わせるばかりだ。
「じゃあ、竈門さんの奢りでおかわりをもらおうかな」
「ありがとうございます!」
勢いのある炭治郎の感謝の言葉に善逸はまた吹き出して「竈門さんがお礼言うの、おかしくないですか?」と尋ねながらも、止まらない笑いを堪えようともせず大笑いする。
炭治郎としてはこの上なく真剣であるため心外ではあったが、それすらもまあいいかと思えた。
「我妻さんが笑顔になれたなら、問題は無いです」
状況によっては口説き文句、落とし文句とも称されそうな言葉を炭治郎は平然と善逸へと向ける。善逸の鋭敏な聴覚を使わずともありありと伝わる炭治郎の驚くほどの正直さは、やはり言葉に嘘がないことを全身で告げていた。それがかえって善逸の抱く羞恥心を大きくさせるのだが、炭治郎がそれに気づくはずもなく、にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべるばかりだ。
「……竈門さん、よく天然とかそんな感じのこと言われません?」
善逸の口にした問いに、少しだけ考え込むようにしてからそれを炭治郎は肯定する。しかしその理由については心当たるところがなく「よく言われるんですけど、俺にはよく分からないんですよ」と、肩を竦めてみせると善逸が目に見えてがっくり肩を落とした。
「我妻さん?」
「なんでもないです……」
「本当に?」
「本当に。竈門さんは思っていたよりずっと曲者だったんだなぁ、と痛感しているだけです」
善逸の言葉の真意を図りかね、炭治郎は首をこてんと傾げる。
本当に純粋に彼の言葉の意味するところが分かりかねた。曲者などと言われたのは初めてであったし、そんな言葉を口にしながら善逸の表情は柔らかく穏やかなもので、尚のこと分からなくなる。
必死に頭を使って口を開こうと思うが、言葉が出てこない。炭治郎は結局、口をぱくはくと開いては閉じることしか出来ずにほんの少し口を尖らせた。
その時、突然に善逸が身体を小さく震わせる。次に窓の向こうに視線を向けると、はぁと溜息をついた。
「我妻さん?」
「……時間外労働、しなきゃいけないみたいです」
「え……」
炭治郎はあまりにも直前との会話に対して落差のありすぎる善逸の言葉と様子に呆気に取られるばかりだ。
「奢りの珈琲はいつまで有効ですか?」
善逸はまだ出していない珈琲のことを問いかけてくる。精一杯の軽口なのかもさはれない、ほんの少し震えた声からはありありと緊張が感じられた。
「期限はないですよ、次またお話できそうな時にでも……」
そう応えて炭治郎がにこりと笑う。
「ありがとうございます! お言葉に甘えさせていただきますね」
善逸はそう返していつものように代金をテーブルの上に置くと、素早い動作で立ち上がった。
「じゃあ、仕事してきます」
柔らかく、まるで慈しむように善逸は微笑んでから店の扉を出て駆け出していく。その背中は責任感を帯びたものだった。
善逸の姿が消えた店の中には炭治郎ひとり、しんと静まり返った店内は風が抜けるような寂しさをたたえている。炭治郎は名残惜しさや心配を胸に積もらせながら、すっかり過ぎてしまった閉店時間を見て慌てて開店を示すスタンド看板を引きに店の外へと出た。
まだいつもの雷の轟くような音は聞こえない。
看板を運びながら炭治郎は日が沈みすっかり夜の帳の降りた空を見上げる。夜の街の灯りに星の光はかき消され、いつもよりも濃い黄色の月は不気味に見えた。
今のところ彼の身に起きたことは、今日はいい日だったと断じるに十分に値するものだが、この先の夜の世界には何があるように思えてならない。
(嫌な予感がする……我妻さん……!)
炭治郎はただ善逸の無事を祈った。
善逸は炭治郎の店を出てから、いつものように真っ直ぐに指示の場所へと向かう。
指示は仕込んだイヤホンからいつも流れていて、自身の担当の地域についてのみ対処することになっていた。そしてそれぞれにつけられた鎹鴉――善逸の場合は雀なのだが――の案内で詳細な場所へ導かれる。
店を出てすぐに善逸を先導するための鎹雀が姿を現していたが、彼の場合はその聴覚で大抵を把握してしまうため併走する形となってしまう。だがそれ以外の連絡も担い、時に叱咤し激励もしてくれる、と少なくとも善逸は思っている雀の行動と存在を信頼していた。
そんな相棒の雀と善逸は夜更けの街を駆け抜けていく。
視界に入る限り街は平和に見えたが、それは仮初の姿だ。本当はそうではないからこそ善逸はいま疾走しているのは、彼らしか知らない事実だとしても真実だった。
「チュン!」
「もうすぐだって言うんだろ、分かってる! この角の向こうだ!」
速度を殺すことなく善逸は器用な足運びで道の角をひとつ折れると、仲間たちの声と物々しい音が一気に激しさを増す。
「遅せぇぞ、善逸!」
「すみません!」
指揮を執る宇髄の怒声が飛んだ。もうすでに隙間から這い出た化け物たちは無数に広がり、個々がそれに応戦するだけで精一杯という戦況だった。押し負けるほどの劣勢ではないが、決して優勢ではない。
このままでは長期戦に突入することは必至だ。この場で異形と戦うすべての者たちから焦りを感じて善逸は息を飲んだ。
「善逸! ほら!」
宇髄が善逸に投げて寄こしたのは、自身に支給された獲物だった。
「この間よりも数が多い、まずは分断されないように数を減らせ! 地味だがな」
「このあとのド派手な展開への準備、なんでしょう?」
善逸が返した言葉に宇髄は満足げに笑う。
「わかってんじゃねぇか!」
薄らと微笑んで返してから善逸はしっかと地面を蹴った。踏みしめる音は硬くそして冷たく辺りに響く。加勢の到着はこの音だけで十分だった。一度ざわついた辺りはすぐに落ち着きを取り戻し先までよりも、いくらか統制の取れたものへと姿を変える。
その隙間を縫うようにして善逸は、一体また一体と一閃で霧散させていく。彼はこの仲間たちの中におけるエースアタッカーと呼べる、そんな存在だった。
善逸の存在がこの場を一変させ、拮抗は瞬く間に優勢へと転じる。その変化に宇髄はひとつ頷いた。
しかし今日姿を現した異形たちの数はあまりにも大量で、気を抜くと討ち漏らしてしまいそうなほどだ。討ち漏らすということは、一般人の被害へとほぼほぼ直結する。それだけはあってはならない。宇髄は自身もまた得物を両の手に握り、指揮をとりながらも万が一に備えていた。
現場で対応する者たちは落ち着き対処をしながらも、この拮抗を押し返した状況にも冷静だ。有象無象の異形たちの先に、この事態の根源がいる。それがまだ姿を現していないからだった。
勢いは衰えることなく、現実と非現実の隙間から異形が吐き出され続けている。
このままでは小物達の対処にかまけている間にこちらの戦力が疲労で激しくけずられることが明白だった。
拮抗から状況を変えたからこその分析ではあるが、その結果としては成果はあれど重畳と言えたものではない。どうしたものかと、思案する隙も与えてはくれようはずもない。しかし根源の頸をとらなければならない、そして今はそれが不可能であることだけは明白だった。
戦力的には変わっても、長期的に見ると状況は決して好転していないことに善逸は小さく舌打ちする。彼の耳を持ってしても重畳を導く一手に迫れる気配は気取ることが出来ず、もどかしさばかりが募った。
(何も出来てないだろ、役立たず)
自身を責めるように内心でひとりごちたときだ、善逸の聴覚がはっきりと一つの音を捉える。
それはこの戦場に等しいこの場に最もあってはならない音で、不釣り合いで、似つかわしくないものだ。
(どうしてこんなところに――⁉︎)
辺りの封鎖は済んでいる、普通の人間はこの状況を認識すらできない、そのはずだった。
(俺が、あんなことを言ったからか……! 俺の、せいか……)
異形と戦うそれを緩めることも止めることもなく、それでも善逸は自身の軽率さとそれが招いただろう出来事に後悔と絶望を抱かずにいられない。
耳に届いた音は、彼の昨今の日常の象徴ともいえる竈門炭治郎、その人の音に間違いなかった。
「すみません!」
善逸は偉業を振り払いながら宇髄を振り返る。宇髄の方もいち早く善逸の様子に気づいて視線をなげかけていた。
「あっちから別の音がします。誰かが入り込んだのではないかと」
「ん……確かに」
「俺、ちょっと行ってきます!」
「待て、善逸!」
しかし宇髄の制止する声を聞き届けもせず、善逸はこの場を離脱し一目散に音のする方へと駆け出していく。
「そっちから大型が出たっておかしくねぇってのに……」
その声は普段の善逸にであれば間違いなく聴こえているものなのだが、いまの彼には届いていない。入り込んだだろう〝誰か〟に意識が集中しているからだ。
本当であれば状況の全容が把握出来ない間は戦力の分散は避けたいところであったが、そうも言ってはいられない。
「おい!」
宇髄は一人の部下の肩を掴んだ。
「あ? なんだよ?」
整った顔立ちに反して荒っぽい言葉が返ってくる。
「お前、善逸のフォローに回れ」
「なんで俺が」
「いいから! これ以上人は割けないんだ」
宇髄は普段よりも余裕のない鋭い言葉を向け、どっちみち今回は合流遅れだからお望みの最前線にはだせないぞ、と付け加えた。その言葉に露骨に舌打ちをしてから、今度は不敵に笑う。
「紋逸の行った方から嫌な感じがするから許してやる」
「あのな……俺は上司……」
「分かってるぜオッサン、この俺が嘴平伊之助様が全部片付けてやるぜ!」
伊之助と名乗り上げた青年は、口角を上げる勢いよく言うと勢いそのままに善逸の去った方へと駆け出した。あっという間に背中が小さくなる。
宇髄はそれを見送ることしか出来ない、この場を離れることも出来ない以上、二人の戻りを待つばかりだった。
戦いの喧騒を背に善逸はひた走る。炭治郎の音と思しきもののその出処まで最速にして最短で駆け抜けていく姿は、夜を駆けるようだった。
彼は耳を澄まし、どんな音も聴き逃すまいと意識を集中する。一度ちらりと背後を振り返ってから、すぐに向き直った善逸の足の動きは止まることがない。
壁を越え、ビルの隙間にぽつんと空いた隙間のような場所に出る。そこで善逸の足は止まった。
そこには大型と称される異形が牙を向き、一人の人間を追い詰めている。じりじりと後退させられ、一歩また一歩と追い詰められているのは、炭治郎に間違いなかった。
善逸は目の前の状況に息を飲むが、すぐさま体勢を低く下半身にぐっと力を込める。
炭治郎の倍の大きさ、否、それ以上の大きさはあるだろう異形は、鋭い爪のついた腕を振るわんとそれを振り上げ唸り声を上げた。反射的に炭治郎が恐怖に身体を強ばらせる。
(間に合うか――いや、間に合わせる!)
善逸はさらに足へと力を込めて弾かれるようにして飛び出した。
間一髪、異形と炭治郎の間に身を滑り込ませた善逸は、背で異形の振り下ろした腕の衝撃と爪での攻撃をまともに食らう。
「……っ!」
あまりの衝撃に善逸の口から言葉にならない声が漏れた。
「あ……あ……」
炭治郎は理解が追いついていないのだろう、焦点の合わない目で虚空を見ながらうわ言のように声を口からこぼしている。
(一旦、竈門さんをこの場から逃がさないと。けどこいつ絶対追ってくるし……あ~……もう一人くらい誰か連れてきた方が良かったなこれ……! 焦りすぎじゃん俺)
善逸はこの場からの離脱の算段を立て損ねていた自身に内心で悪態をつきながら、それでも思考を働かせ続けた。
炭治郎を守ることを優先した善逸は異形に対して完全に背を向けていたが、それでもはっきりと分かる。次の攻撃のために振りかぶったであろう圧と、動きに伴う音が善逸にもう一段覚悟を決めさせた。
「竈門さん! 目をつぶってください!」
善逸の鋭い声に炭治郎は初めて彼の顔をまともに見て、そして呆気にとられた様子のまま固まってしまう。
「早く! あ、あと! 歯を食いしばってください!」
このやり取りの間にも異形はゆっくり、しかし確実に二人を仕留めるべくその腕に力を溜めていて、炭治郎の視界にその姿がはっきりと映った。炭治郎は慌ててかたく双眸を閉じ口を結ぶ。
善逸は口角をほんの少しだけ持ち上げ、少々乱暴に炭治郎に向かって踏み込み一歩を踏み出した。
半ば体当たりに近い形で炭治郎に接触すると、器用に彼を担ぎあげてそのまま異形と距離をとる。庇った時の傷が傷んだが、そんなことは善逸にしてみれば大した話ではない。
善逸の脚力は凄まじく、異形の姿も気配も瞬く間に消えた。
目を瞑り口を結び、息まで止めていた炭治郎の肩を善逸がとんと軽く叩く。
「ひとまずは大丈夫です。怪我は、ありませんか?」
善逸の問い掛けに炭治郎の脳裏には自分を庇い負傷する善逸の姿が蘇った。
「俺は平気です! 我妻さんこそ! 俺より我妻さんが怪我を……」
下唇を噛みながらに俯く炭治郎は心底からの口惜しさを全身で表す。炭治郎にしてみれば、善逸のことが気になり彼を追いかけようと街を走り回った結果、その張本人を負傷させてしまったわけで悔しくないはずもなかった。
「ごめんなさい、俺。我妻さんにご迷惑を」
今にも泣き出しそうな炭治郎の姿を、善逸の方は目新しいものを興味深く注視している。
「我妻さん?」
「いや、そんな取り乱してるの初めて見たなぁって」
「我妻さん!」
「うわ、ごめんなさい! そりゃそうですよね、自分の店で取り乱すとか余程だろうし!」
善逸があまりにも緊張感のない物言いで笑うせいで、炭治郎もつい軽口に乗ってしまうが状況はそんなに楽観できる状況ではない。
実際、一時凌ぎでしかない現状はすぐに終わりを告げるだろう。善逸と違って知らず不慣れな炭治郎にもはっきりと伝わるほど、二人が身を置く場所は異質だった。
異形の気配、それはいつもと変わらぬ街であるはずの場所を異様なものに変えている。目に映るものそのものは同じでも放つ気配その全てが歪んでいるようにすら炭治郎には感じられた。
「本当にごめんなさい、我妻さん。助けてくれてありがとうございます」
緊張で引き攣りながらも炭治郎が口角を上げてみせると、善逸の方は手をひらひらとさせてだらしなくも思える様子でへらりと笑う。
「いえいえ。役に立ててよかったです」
「何言ってるんですか! 我妻さんは命の恩人ですよ!」
「うひひひ、嬉しいな」
「変な笑い方するんですね」
「……そこは辛辣……」
天から地へ叩き落とされるほどの落差に、善逸は苦笑した。がくりと項垂れながら「竈門さん」と呼びかける。
「……はい」
一転して真剣な声色に、炭治郎は居住まいをただした。
「結果的に俺があんな話をしてしまったせいで、竈門さんのことを巻き込んでしまいました。本当に申し訳ありません」
善逸は深々と頭を下げる。その全てに悔悟の念が滲んでいた。
「でも、無事でよかった」
そして顔を上げる善逸の表情は安堵に満ちて、炭治郎のことを心底心配していたことを強く強く感じさせた。
「けど、実はすごくヤバい状況でして。今多分、ヤバいやつらに囲まれてます」
次には最早諦めの境地かと言わんばかりに、あっけらかんと絶体絶命の状況を口にする。そのあまりの落差に炭治郎の開いた口はふさがらない。
「本当は早く店のところまで送っていきたい所なんですけど、ちょっとすぐには厳しそうです……でも、竈門さんのことはちゃんと守ります」
頼れるのか頼りないのか不安を抱きかける炭治郎だが、しかし真っ直ぐ炭治郎を見つめるその瞳にだけは少なくとも偽りはなく、信じられると思えた。
「……よろしくお願いします」
炭治郎は先程の善逸と同じくらいに、深々と頭を下げて自身の命運をこの金髪の青年に託す。きっと何とかなる、そう思えた。
「ちょっと移動しましょうか」
善逸は頭を下げる炭治郎に微笑みかけてそう告げると、足を一歩踏み出す。肩が不自然に揺れた気がしたが、何事も無かったかのように歩き始めた。
「あまりじっとしてると集まって来ちゃうので……」
そんなふうに言う善逸はかなり慣れた様子だ。
「こんな、化け物が街にはずっといるんですか?」
「ずっとではないですよ、たまに。こんな規模になるのは稀です」
「それでも、化け物はいるんですね」
炭治郎の言葉に善逸が頷く。
「それが世界ですから」
諦めきった言葉は、きっと何度も自分に言い聞かせてきた言葉なのだろう。ただただ諦観だけが炭治郎に伝わった。
「この街にも世界にも俺の知らないことがたくさんあるんだな……」
ぼそりと呟いた炭治郎に善逸は目を丸くする。
「俺、変なこと言いました?」
「いえ……俺はそんなふうに考えたこと無かったなと思って。やっぱり竈門さんは面白い人だ」
純粋な褒め言葉であるらしいそれは、他の人の口から聞けば少しムッとしてしまいそうだ。だが、これが善逸の口から紡がれ炭治郎に向けられるというのは、また少し彼らそれぞれとしても特別な意味を持つのか、全く不愉快さはない。
不思議な感覚だった。
「竈門さんは俺の癒しだなぁ」
「店でもそれ、言ってくれてましたよね」
「はい。竈門さんにたくさん癒されて……たくさん救われましたから」
「そう、ですか」
「そうですよ」
微笑む善逸は炭治郎の目に美しく映る。目が離せなかった。
そのときだ。善逸の手が腰に当てられる。炭治郎は意識しないようにしていたが、間違いなくそれは日本刀の形をしていて物騒なことが起こることを強く予感させた。
「あが、つま……さん?」
「……数が……多いな……」
「え……」
善逸の耳は無慈悲に異形の音を捉えて、認識させる。それはあまりにも多くの敵の襲来を知らせていて、ほんの少し善逸の表情を曇らせた。だがすぐ、曇りは晴れて善逸はその口を開く。
「竈門さん、伏せてください!」
「は、はい」
「頭上げたらだめですよ?」
念を押された次の瞬間に、炭治郎の頭上を風が切った。最初は異形がやってきたのかと思った――実際、炭治郎が伏せてすぐにやってきてはいた――のだが、そうではない。
「伊之助様のお通りじゃあ!」
少なくとも人語が聞こえてきたからだ。伏せて下を向いている炭治郎には何が起こっているのかを正しく認識することは叶わなかったが、日常生活では聞いた事のないようないやに生々しい音がする。
「ナイスタイミング、伊之助」
「当然だぜ、この俺だからな」
「相変わらず自信満々で羨ましいわ……」
善逸に伊之助と呼ばれる乱入者は、間違いなく人間のようだった。
見知った仲といった様子で善逸と言葉を交わしていて、飛び入ってくるときにその勢いで襲い来る異形のうちの一体を仕留めているあたり、加勢であることは間違いない。
「伊之助一人なわけ?」
「あ? 俺一人で十分だろ」
「……確かに」
恐る恐る顔を少しだけ上げた炭治郎の視界に飛び込むのは、二人の人間の後ろ姿だった。片や動きやすさを重視しているのだろうラフな服装に肩にかかろうかという毛先だけ青みのかかった黒髪の人物、片や炭治郎の頭ですっかり離れ難いまでに存在感を増した善逸のものだ。善逸の背中には炭治郎を庇ったときについたのだろう痕がスーツの肩口を裂いてはっきり残っていて、肝の冷えていくのがよく分かる。
「あ……」
炭治郎の口からは罪悪感から声がこぼれて落ちた。
「こいつは?」
「普通の人だよ」
伊之助の問いに善逸は淡白に答えたが、それだけでないことは見るからに明白だ。
「……まぁ、なんでもいいけどよ。全部片付けるだけだしな!遅れるなよ、紋逸!」
「善逸だっての……全く」
早々に駆け出していく伊之助に呆れた声を投げかけたあと、善逸はちらりと炭治郎を振り返る。
「早めにケリがつけられそうです。きちんと連れて帰るので、もう少し待っててください」
薄らと笑みを浮かべ善逸は言った。
炭治郎が言葉を返す前に善逸は伊之助を追って駆け出す。二人の前にはいつの間に集まってきていたのか、多くの見たことも無い異形たちの姿があった。数なんてものは分からない、無数にいるのでは無いかと思えるそれらの奥には明らかに雰囲気の異なる異形が構えている。圧倒的な威圧感と存在感は炭治郎からすると自身の存在を諸共に否定されているのではないかと思えてくるまでのもので、善逸と伊之助がいなければきっと心が折れてしまっていた。それほどまでの、言うなれば恐怖そのものが形になったようなものだった。
だからこそ、二人の存在は炭治郎には光のようにも見えて願わずにはいられない。
この人たちがこれ以上傷つくことがないようにと。
彼らは勝つのだ、間違いなく。善逸ははっきり「連れて帰る」と口にしていたのだから、そこを疑う理由などなかった。あとは信じるのみ、そして寄り良い状況を願うのみ。ただそれだけだった。
「遅れんなよ! 鈍逸!」
「誰が鈍逸だよ!」
「お前だろ!」
「その悪口みたいな名前の間違え方やめろ!」
軽口を叩き合いながら二人はそれぞれ左右に散る。
異形たちは扇の形のように広がり取り囲んでいた。奥に控えるのは十中八九、大型であろうと目されるが動く気配がない。ならば大型を警戒しつつ数を減らすことが優先と善逸は考え、伊之助もまた直感的であるが同様の行動をとっていた。
共に死線をくぐり抜けた経験があるいうこともあり、こういうときの伊之助の動きを善逸は信用している。彼が一緒ならば何とか出来る、そんな確信があった。
伊之助は一直線に駆けて、手に握る二振りの刀で素早い攻撃を繰り出す。六度に及ぶ斬撃は彼の目の前に広がる敵の広範囲をなぎ払い、異形たちはその衝撃に耐えられずその身体が霧散していった。
「弱え弱え!」
煽るように笑う伊之助は、荒々しくも冷静な動作で正確に相手を切り伏せていく。その姿からは戦いに慣れているだろうことをうかがわせた。
善逸は伊之助の様子をちらりとも確認しない。ただ、ほんの少しだけ口角を上げてからひらりと一歩後ろに下がり、体勢を低く構えた。次の瞬間には地面を力強く蹴り目にも止まらぬ速度で飛び出す。次に善逸の姿が見えた時には周りにいたはずの異形たちは何が起きたのかも分からないままに消え去って行った。
二人の所業は目にも止まらぬもので、あっという間に左右に広がっていた有象無象を蹴散らしてしまう。二対多数であったはずの戦況は、二対一の状況へと変化をし、それまで鎮座するのみだった大型が臨戦態勢に入った。
大型の異形は、これまで二人が霧散させたもの達とは根本的に異なっていて、それは大きさばかりではない。
大型が動くだけで辺り一帯をまるで支配するかのような圧倒的な威圧感が包み、並大抵の者は恐らくここで戦意を失ってしまうのだろう。実際のところ、炭治郎の全身からは嫌な汗が噴き出し、善逸と伊之助がいなければどうなっていたかとは考えたくもなかった。
そんな相手を前に善逸も伊之助も怯む様子はない。伊之助に至っては、この状況を楽しんでいるようにすら思えた。
大型の異形が咆哮する。空気も地面も、世界の全てが揺れているかのような激しい方向が響き、その次の瞬間には異形はその巨体を揺らして移動を開始した。
「向かってきやがるぞ!この伊之助様が相手をしてやるぜ!」
鮮やかな緑の瞳を戦意でぎらつかせながら、伊之助は真っ直ぐに突き進んでいく。真っ向勝負、そんな状況から伊之助は両手に握った刀を自身の胴の前で交差させ、それを左右に思い切り振り抜いた。
大きく小回りのきかない異形はと目の前に飛び込んできた伊之助の動きに対応しきれず、斬撃をまともに浴びることとなり、あまりの衝撃と攻撃をまともに食らってしまったダメージで動きを止める。
伊之助はすぐさま体を反転させて異形と距離を置きながら叫んだ。
「今だ、行け! 善逸!」
善逸が伊之助と入れ替わる形で飛び込んでくる。それは先程の速度など比ではないもので、人間の目で追える速さはとうに超越しているようにすら思えた。雷の落ちるような轟音が鳴り、何かが閃いたように鋭い何かが走った。それだけだった。
闇の中に立つ善逸の姿を確認した時には大きな大きな異形の頸は胴体を離れ、崩れ落ちていく。そしてそれが霧散して消える頃には、街を包んでいた違和感のようなものも消えていつもの静かな街が戻ってきていた。
「お疲れ、伊之助。ありがとな」
「この俺のお膳立てに感謝するんだな」
「はいはい、感謝してるって」
善逸はほんのさっきまで異形がいた場所を離れ、伊之助と炭治郎のいる方へと歩きながら微笑む。二人の変わらないやりとりにも、どこか安堵が混ざっているように思えて炭治郎はほっと胸を撫で下ろした。
「俺はおっさんのところへいくぜ。伊之助様の活躍ぶりをきちんと伝えてやらないとな!」
「報告は任すわ、俺のことは問題ないってだけ伝えておいて」
「……お前もよく頑張ったからな、伝えておいてやるぜ。紋逸」
「よろしく」
伊之助はそう言って背を向け歩き出すと、善逸の言葉に軽く手をあげて見せる。そして彼は街の闇の中へと消えていった。
「……竈門さん」
「我妻さん、本当にありがとうございます。あと、なんて言ったらいいのか……すごかったです。雷のような音の意味もよくわかりました」
少し控えめに口を開いた善逸に対して、炭治郎は少し興奮した様子で言葉を紡ぐ。
「帰りましょう、送ります」
炭治郎の様子に善逸はほんの少しだけ口角を上げながら、この非日常からの脱出の言葉を口にした。
「はい、よろしくお願いします」
向けられた言葉にただ真っ直ぐ、炭治郎は応じる。長い長い夜が終わろうとしていた。
あれからひと月ほどが経とうとしている。
炭治郎は今日もいつものように喫茶店の店主として店を開き、珈琲を振る舞っていた。ひとつだけ変わったこと、それはあの日を境に善逸が店を訪れなくなったことだ。
店にも来なければ、炭治郎から善逸に対しての連絡手段もない。完全に手詰まりだった。
(ちゃんとあの時のお礼も言えてないのに……)
あの日、炭治郎を送っていく善逸は無言を貫き、ろくに話も出来なかったままなのだ。悲しそうな、申し訳なさそうな、そんな表情をしていたことを炭治郎はよく覚えていた。
あれからも夜に天気が悪い訳でもないのに落雷のような音の鳴る日がある。
その音だけが炭治郎のことを支えていた。本当は音の鳴るほうへ駆け出したくてたまらなかったが、また善逸に迷惑をかけてしまうことだけはしたくない。分不相応があの日の出来事を招いたことは百も承知していたし、二度目の分不相応をおかすほど炭治郎は愚かではなかった。
ただ、もう一度、善逸に会いたいと願い続けている。
(もう店には来てくれないのだろうか……?)
そう考えるだけであまりにも悲しく、そして苦しい。だが、だからといって店を放り出す訳にも行かず、寧ろこれを気晴らしと思えば悪くないと思い始めていた。
そもそも自分がやりたくてはじめた店であるはずなのに、優先順位がすっかり変わってしまっていた事実に驚きを禁じ得ない。
以前のように戻った静かで落ち着いた時間。ほんの少しの物足りなさを感じながらも、止まることなく流れていく。
そろそろ閉店か、と思ったときだ。店の扉が開かれる。
くたびれたスーツに、目立つ金髪。見覚えのある約ひと月ぶりの姿がそこにはあった。
「まだ空いてます⁉︎」
あの日と同じように、焦った表情で口にする善逸は変わりないらしい。
「ええ、大丈夫です。どうぞ」
炭治郎は彼の問いにとびきりの笑顔で応えた。
