君は安らぎの場所となるだろうか(tnzn)

 パーソナルスペースというやつは厄介だ。人によって認識が大きく異なる、その個人差が原因だ。狭い分には対応がきくだろうが、そうでないあまりにも広いスペースを有していると、なかなかに本人は生きづらいものだろう。
 これは学生がコミュニティの中で友人関係を構築するにあたっては一層厄介で、ここにも一人それに悩む人物がいた。
「なぁ、我妻」
「なに?」
「お前、いつも遠いよな」
 不思議そうに首を傾げて見せる我妻と呼ばれた青年は、確かに一歩引いた位置にいる。 彼以外に二人の人物がいたが、その二人の距離感と我妻との間隔は明らかに異なっていた。
 遠い、という表現はさておき、手を伸ばしてもギリギリのところで届かない。そんな微妙な立ち位置であることは間違いなかった。
「そうかな?」
 我妻はこの状況を取り立てて鬼にする様子もなく、淡々と言葉を返す。
「そうだよ」
 先とは別のもう一人が同意して、この場の意見は我妻とは反対のものが支配した。こうなることはわかっていたとでも言わんばかりに、我妻は苦笑する。
 心あたる理由が確かにあり、心あたる行動も数知れない。だがこれを認めてしまえば、今以上の距離となって我妻に跳ね返ってくるのは必至だ。誤魔化して否定を重ねても距離は生まれるが、認めることで拒絶を招くとより面倒、と我妻は考えていた。
「気のせいだって」
 曖昧に笑う。それが精一杯、できることだった。
 いつもこうなのだ。友人たちが嫌いなわけでは決してない、だがどうしても心を許しきれずにいる。
 それは単に彼の聴覚があまりにも鋭すぎることにあった。これは遠くの音が聞こえる程度の生半可なものではない。ことごとくまで音を拾い上げ、根こそぎ脳へと届ける。それほどまでに圧倒的な聴力だ。
 届く音は細かなものまで、それこそ血流の音や身体の状態までわかってしまうほどのものだった。だからこそ不用意に他人に近づくこと我妻は避けてきたし、できる限り最小限の人間との関わりだけで済ませることを心がけている。
 彼の持つあまりにも鋭敏すぎる聴覚は、無意識のうちに他人との距離を広大なまでに広げ、全てに対して警戒を抱かせる結果を生んでいたのだ。我妻にしてみれば、生まれ持ってのものであり今更のことではあるのだがどうにも虚しい話だった。
 結局のところ、聴覚でともにいる友人たちは悪い人間でないことが伝わるのと同時に、彼に対して懐疑的であることも伝わってしまう。それがわかってしまう以上、我妻としても深くは彼らに踏み込めない。
 目に見えない、しかしはっきりとした溝がそこに存在する。これもまた我妻のパーソナルスペースを広げることに一役買ってしまっていた。
「……俺、そろそろ帰るわ」
 居た堪れなくなってきた我妻が、友人たちに切り出したのはその場からの離脱の言葉だ。
「おう……」
「……そっか」
 その言葉を友人たちも否定しない。居た堪れないのはお互い様だった。
「じゃあ、明日」
 淡白かつ最低限の言葉で別れを告げると、我妻は友人たち二人に背を向ける。
 三人で屯していた場所を離れ、街をふらつき始めるが我妻にとってこれはこれで厳しい。聴覚がありとあらゆる音を拾い上げるのはもちろん変わりがないからだ。
 現代社会は音が溢れている。人間の音、車の音、店の音――さまざまな音が重なり合って、うねるように大きな街の音となるのだ。
 その須らくを拾ってしまう聴力は、日々の生活を苦行へと変えてしまう。一人の時はいつもヘッドホンで耳を塞ぐが、そんなもので何とかなるならば苦労はしない。
 我妻はヘッドホンをして、眉間に皺を寄せながら足早に街を通り過ぎていく。早く立ち去りたい、この場から逃げたいと言わんばかりの姿は、余裕のなさを窺わせた。
 自宅への最短の道をひたすら歩く。大股で、それでいて早足な足取りはこの上なく必死だ。
 だが、彼の行く道にはいつも以上に音が溢れている。人々が何故か多く行き交い、時には道を塞ぎ、バンドが路上で音を鳴らす現場に出くわしたりもした。
 そろそろ限界だった。人に酔い、音に酔い、胸から吐き気が込み上げてくる。細い横道に入って、罪悪感を覚えながらも胸に支えていた何かを溝に向かって吐き出した。
(気持ち悪……)
 しゃがみこんでいると、ヘッドホン越しに足音が届く。我妻の背後で立ち止まると声をかけてきた。
「大丈夫ですか」
 身体の芯が震える。はっきりとわかるのだ、こんな音を聴くのは初めてだと。我妻は慌ててヘッドホンを取り、口を押さえながら背後の人物に向かって振り返り、そして見上げた。
 優しく、あたたかい、そして柔らかでありながら芯のある強い音だ。我妻のことをただただ心配していることが伝わってくる。
 未だかつてこんなにも真っ直ぐ、そして美しい音を人から聴いたことはない。こんな音をさせる人間がいたのかと驚くばかりで、我妻は問いかける相手に応えることもできずにいた。
「人酔いですか?」
「……そんな、ところです」
「背中、さすりましょうか?」
 実の所、この優しい音の持ち主のおかげですっかりと吐き気は鳴りを潜めていた。いつぶりだろうかと思えるほどにすっきりとした気持ちだ。
「いえ、もうだいぶ良くなったので」
「そうですか、よかったです」
 我妻は応えながらゆっくりと立ち上がる。
 背後に立っていたのは、我妻とさして背格好の変わらない青年だった。赤みのさした黒髪に真っ直ぐ意志を感じさせる黄昏色の瞳が印象深い。花札のような大振りの耳飾りが揺れて、乾いた音がした。
「気にかけていただいて、ありがとうございます」
「いえ、困った時はお互い様です」
 我妻の言葉ににこやかに答える青年は、好青年という表現がよく似合う人物に思える。そしてやはり、こんなにも心地の良い音を鳴らす人は出会ったことがなく、少しでも長くこの音を聴いていたいと、そう思わずにはいられない。
「ありがとう、ございます。あの……」
「はい?」
 何かを話したい、そう思っても初対面の人間に対して紡げる言葉が浮かばなかった。我妻は普段の自身の行動を今ほど後悔したことはないかも知れない。他人に対して無関心を貫き続けてきたが故に、コミュニケーションがあまりにも不得手だった。
「えっと……」
 必死に何かを言おうとすればするほどに言葉は詰まってしまい、無言の間が二人の間に流れる。
 それでも青年はにこやかな表情を崩すことなく、我妻の言葉を待っていた。だが言葉をうまく紡げないことを察したのだろう、青年の方から口を開く。
「人酔い、しやすい方なんですか?」
「……はい。すぐ、疲れてしまって」
「わかります、俺も同じなんですよ」
「そう、なんですか?」
 驚いて我妻は問いかけた。我妻の目には青年は、ただにこやかで人酔いなどしそうにも思えない。
「俺、匂いに敏感な方で。人が集まってるとやっぱりこう、匂いにあてられたりしちゃって」
 青年は苦笑いを浮かべる。そんな人物と出くわしたのは初めてで、彼は我妻にとって初めての塊のような存在だった。
「俺は……音なんです」
「音、ですか?」
「はい。耳がいいらしくて、人がたくさんいると音がたくさん溢れてて、しんどくなったり……します」
 我妻の言葉に、青年は大きく頷く。その表情はどことなく嬉しそうだった。
「俺、竈門炭治郎といいます。お名前、うかがってもいいですか?」
 唐突な自己紹介に我妻は困惑するが、竈門炭治郎と名乗った青年はやはりにこやかだ。
「我妻……我妻善逸、です」
「我妻さん。よかったら、友達になってもらえませんか?」
 竈門は驚きの提案を口にする。我妻にとって予想外に次ぐ予想外な言葉は、真剣そのものだった。
「友、だち……」
「突然、すみません」
 我妻の困惑している様子に、竈門は申し訳なさそうに苦笑する。
「すごく、親近感があって……なかなかこういうこと、共有できる人はいないと思うので。よかったら」
 言われてみればそうだ。我妻にしてみても竈門の言葉は同じくだった。こんな人は初めてで、もう二度と出会えないかも知れない。
「俺で、いいのなら」
 ほんの少しだけ口角を上げて見せながら、我妻は肯定の言葉を口にする。我妻の言葉に竈門はまたにこやかな表情に戻って、喜びの言葉を口にした。
 二人は並び歩き出す。我妻は生まれて初めて誰かと肩を並べた。彼ならば大丈夫、そう素直に思える。
 その距離は、手を伸ばせば届く音の響く距離だった。