自分の人生ではない、でも確かに覚えていることがある。かつて自分の魂がみて、経験して心に刻んだことは、今生の彼にも深く刻まれていて、こうして今もその時のことがまるで昨日のことのように鮮やかに蘇ってくるのだ。
炭治郎は妙なまでに色鮮やかな夢と共に目を覚ます。いつものように約束の指切りと金色が鮮やかな夢の記憶は、はっきりと彼の中に残っていた。
のそりと動いて枕元を弄って、時計を手にすると時間を確認する。少々、予定よりも早く目を覚ましてしまったらしい。遅れるよりは、早い方がいいだろうと切り替えも早く体を起こすと、布団の上で大きく伸びをひとつした。
窓の外は満開の桜が咲き乱れている。淡い桃色の花びらたちが舞い、今日という日を祝福しているようにすら思われるほどの見事な景色だった。
今日は炭治郎が大学へと通い始める、その初日である。はじめたての一人暮らしの部屋は、まだ物も少なくがらんとした印象が強かったが、家具や部屋にある物全てが真新しさを感じさせ、新たな生活がはじまったのだと感じさせるのには十分過ぎた。
実際のところ炭治郎の表情には、晴れやかさを感じさせる明るさがある。そして調子外れの鼻唄と共に活動を始める彼の姿は、これから始まる新たな生活への期待に心を踊らせているということが一目瞭然だ。
家事に身支度、それら全てが流れるようにこなされていく。その無駄のない行動は、炭治郎の生真面目さを表しているようでもあった。少し早めに目が覚めたこともあってか、余裕を持って大学へと向かう前に済ませておこうと考えていたことを、すっかりこなせてしまった炭治郎は満足げに部屋を見渡している。
その時ふと、夢に見た出来事が脳裏をよぎった。
かつて生きた折に、炭治郎の傍には最愛の人がいたのだ。彼は日の光のもとで煌めくような金色の髪を持ち、多くの音を聴くことの出来る者だった。その耳で聴く炭治郎の音が、とても好きなのだとはにかむ彼のことがどこまでも愛おしく、堪らなく美しく感じていたのだ。
いつぞやに、そんな彼とひとつ約束をした。指切りと共に交わしたそれは、決して果たされるものではなく淡い期待を込めた祈りのような言の葉である。
――次生まれて来ても、また一緒にいよう
そんな約束の言葉に、金色の髪を揺らしてそう出来たらいいなと諦めた風に彼は笑っていた。
「ぜん……いつ……」
物思いに耽っていた炭治郎は、金色の彼の名を口にすると同時にハッとする。時計に今一度視線を向けると、家を出ようと思っていた時間ちょうどを指していた。
大慌てで整えてあった荷物を掴むと、それでも抜けのないよう戸締りを確認して、大学へと向かう。急いでいても、やはり桜は美しかった。
大学生活の始まりは、滞りない。遅刻かと本人は焦っていたが、彼の真面目さと慎重さがものを言い、結果としては予定よりも早く目的地へと到着したからだ。
飾り物のような式典と、高校までとは違った淡白なあり様には少々拍子抜けしてしまったところもあるが、それはそれとして何事もなく初日を終えられそうであることが、炭治郎としては純粋にありがたい話だった。
今日はこのまま帰宅していいらしい。来た道を帰ろうとしたまさにその時だった。夢に見たような美しい金髪が目の端に映ったような気がして、炭治郎は弾かれたように視線をそちらへと向ける。
そこにいたのは、まさに夢に見た彼だ。次生まれて来ても一緒にと、そう願った彼に間違いなかった。反射的に炭治郎は、その金髪の主へと歩み寄っていく。
しかし相手の方は、炭治郎のことを見向きもしない。挙げ句の果てには視線があっても、きょとんとするばかりで、炭治郎は全てを察した。
彼は、あのことを覚えていないのだ。
考えてみれば当たり前のことだった。寧ろ、いわゆる前世の記憶というやつを持ち合わせているなんてことが自体が、現実離れしている。炭治郎が特殊なのだ、ということを思い知るばかりだった。
炭治郎はそっとその場を離れると、とぼとぼと帰宅するべく、やって来た道を帰っていく。
まさか行きと帰りでここまで心情が変貌を遂げるとは思いもよらなかった。思いの外、自身が夢や前世といったものに期待を向けていたのだと思い知り、またそれに愕然とする。
こんなことなら忘れていたかった。
夢の中での炭治郎は、とても鼻が効く。相手の感情までもが嗅覚を通して伝わってくるのは不思議だった。
実際のところ、炭治郎は取り立てて嗅覚が優れているわけではない。匂いを感じないというわけではないが、それもまた常人の持つ範疇に相違ない程度だ。
だから夢の中のかつての自分がしているような芸当はとてもではないが、出来たものではない。
入学の式典の終わった、かつての想いびと――に似た別人の可能性も捨て切れないが――にその鋭敏な嗅覚を向けることができたならば、何かが変わっただろうか。
ふとそんなことを考えてしまう。彼はその日からずっと塞ぎ込んでいて、生活はきちんと続けているが晴れやかな気持ちが訪れたことはあれから一度たりともなかった。
そろそろあの日からひと月が経とうとしている。同期での入学、そして選択している教科の少なからずあり、週に数回顔を合わすことがあるが、会釈をしあう程度だ。
炭治郎は結局、声をかけることができない。いや、かけてはいけないのだと思っていた。
知らないなら、あの約束を使って彼を縛りたくはない。彼、善逸には善逸の人生がある。そう思って叫び出したくなるような衝動も、抱きしめたくなる想いも、その全てを覆い隠した。
自分が黙ってさえいればいいのだと、そればかりを必死に言い聞かせる日々は、当然のように炭治郎の精神を疲弊させる。
全く友人のいない学校を選択したこともあり、言葉を交わす程度の知人はできていても、悩みを打ち明けたり相談できる間柄にまで発展している人間関係を構築するには至れていないということもあって、炭治郎は自分で自分を追い詰めていった。
暗い影が自身の心を覆っているのがわかる。それでも必死に学校へ、そして生活のためにバイトへと通い続けた。
すっかり消沈する中、今日も講義へ出席する。今日は善逸がいるはずで、炭治郎の気持ちはさらに重くなっていたが、それでも鉛のように重く感じる体を引きずって講義室へと向かった。
講義の際の座る席には定位置のようなものが出来上がっていたが、何故やら今日はそれが崩れ去っていた。誰かの気分が変わったのだろう、そんなことを思いながら炭治郎は出来る限り隅の方の席をとる。誰かと会話を交わす気分ではなかったのだ。
しかしそんな思いは、まさかの人物によって粉砕される。
「ね、ちょっとだけ、いい?」
隣に鞄を置きながら、炭治郎に声をかけたのは善逸だった。
「……何だ?」
「ここでじゃなくてさ、こっち」
そうとだけ告げて善逸は、講義室の出入り口から部屋の外へと出ていく。これだけはっきりと誘い文句を口にされてしまうと、付き合わないわけにもいかず、炭治郎は重たい足取りで善逸に続いた。
建物の裏手、人の往来のほとんどない場所で善逸は立ち止まる。
「で、何の用なんだ?」
「少しだけでいい、じっとしててもらってももいい? 喋らなくていいからさ」
不可解な願いだった。意図を図りかねるが、喋らなくていいのであればと、炭治郎はその場でじっとしている。
一方の善逸はというと、目蓋を閉じて何かに集中している様子だ。彼もまた口を開くことなく、二人の間には無言の間だけが静かに流れた。
しばらくこんな状況が続いたが、善逸がふと目蓋を開いたことで状況が変わる。開かれた瞳で真っ直ぐに炭治郎を見つめると、眉を下げて苦笑したのだ。
「疲れた顔してるな」
「いや、別に」
反射的に否定した炭治郎に、善逸はまたしても困ったように笑う。
「そういうとこ、昔から変わらないな」
炭治郎は言葉の指す意味が理解できず、呆けた表情でただ善逸を見つめることしかできない。うまく働かない頭を必死に回転させて、目の前の善逸の口から出た言葉の意味を思案する。
「ぜん、いつ……?」
どんなに考えても答えは、ひとつしか導けなかった。彼はかつて自分の隣にいた、我妻善逸その人だという結論だ。
「おう」
途切れながら呼び掛けた炭治郎に、善逸が応える。
「また、一緒にいてもいいのか?」
「約束。次生まれて来てもまた一緒にいるんだろ? 俺のこと幸せしろよな。俺もそうするからさ」
あの日、あの時、あの瞬間に、愛した彼はたしかにここにいた。炭治郎は善逸の言葉を、彼を抱きしめるという形で肯定する。
「善逸……会いたかった」
「俺もだよ」
炭治郎の言葉に善逸もまた応えて、強く抱きしめ返して来た。触れたところから温もりが伝わってくる。互いの存在を強く感じられて、ただただ幸せだった。
「大好きだぞ、善逸」
