それはまだ、彼の妖怪が幼い日のことだった。
まだまだ幼い人間の子供が、偶然人ならざる者たちの住う領域に、誤って踏み入ってしまったことがあったのだ。
当然ながら、それを慈悲も容赦も一切なく追い返そうとしたがままならなかった。何故ならまだ本来の姿から変化することすらままならない半人前な妖狐だったからである。
つまるところ狐の形の妖怪、しかも半人前ゆえに姿は子供に等しいものが必死に威嚇しているという、何とも間抜けな状況がそのときに起こったのだ。
化かすことも出来ない、ただの小狐。そんな状態の妖狐に対して、子供はあやすように抱きしめて笑う。
「寂しくなっちゃったのかな。一緒だね」
そう言って、ポツリポツリと話しはじめたのは、子供が迷子になってしまってこの場所へと迷い込んでしまったという事実だった。
そのうち、子供のことに自分のことを重ねてしまった半人前の妖狐は、子供の腕からするりと抜け出ると、領域の出口へと案内し始める。
本来そんなことをしてはいけなかった。領域の外側の存在と関わってはならないし、ましてや領域に入り込んだ者を逃すなど、論外としか言いようがない。
それでも、子供を助けてやりたいといつの間にか半人前の妖狐は思っていた。
最初こそ不安げだった子供だが、そのうち妖狐の後をついて歩き、ついには領域の出口へと辿り着く。人間の営みが見える場所、それはこの地と彼の地の境界だった。
妖狐の立場では、ここから先へは進めない。しかし、人間の子供がそんなことを知る由もなく、手招きをする。一緒に行こうと、呼んでいた。
出て行きたい、外の世界を見てみたいという気持ちを堪えて、妖狐は首を横に振って領域の中へ去る。未練を残しながら。
だが、それから子供は領域の近くまでよく訪れるようになった。半人前の妖狐が身を置く場所を仕切るリーダー格のどれほどこの世に存在し続けているかも分からないほど長命な妖狐が、子供の存在に苛立ちを覚えたらしく、領域の守りを強くしたのだがそれもお構いなしだった。
子供は幾度となく、もうすっかり分からなくなってしまっているはずの領域の近くまでやってきては、何かを探すようにあっちへふらふらこっちへふらふらと辺りをうろつく。まるで、探し物をするようなその姿は、必死でありあまりにも痛々しいものだった。
妖狐は思う、この人間と生きたいと。次の瞬間には風のごとく駆け抜けて領域の外へと飛び出し、子供の腕へと飛び込んだ。
存外、受けた恩というのは強く刻まれているものだ。
夜の闇の中に浮かぶ眠らない街を、そのどこよりも高い場所から見下ろしている者がいる。
見目は端正かつ美しさを多くの人間に感じさせるだろうもので、切れ長で流れるような視線はどこか儚さと憂いを帯びていた。細身ながら引き締まった身体つきは一切の無駄がない。そして何よりも纏う気配が、人の形をしながらも人ならざるものであることを本能に刻むような、異様さがあった。
街を見下ろすその視線に感情はない。もしそれがあったとしても、感じることは大多数の人間には不可能だろう。ぴくりともうご書かない表情もまた温度のない冷たいもので、人形のようでさえあった。
淡々としたその切れ長の瞳が捉えていたのは、街そのものではない。一点に注がれるその視線の先には、一人の人間の姿があった。
文字通り、何の変哲もない人間。成人をいまだ迎えていないだろうその幼さの残る顔立ちは、ころころとその表情を変えて最後には優しげな微笑みを浮かべている。近くにはその人間の友人だろう者たちが、やはり笑顔でそこに在った。
これから深く闇に染まっていくだろう街において、彼らは街の明かりよりもあたたかく光り輝く。そんな様子に今まで温度すらもなかった冷たい切れ長の瞳に、柔らかくそして暖かな温もりが灯った。
それはいつかの子供と半人前の妖狐だった者。妖狐は恩義と共に子供を守り、街に生きる。
あの日の欲求、行きたいと願った人間と妖狐は今も共に、そしてこれからも共に生きると強い決意を持って街を見つめていた。
