冷たい雨に刺さるるは(tnzn)※何でも許せる人向け

 出会いは冷たい雨の下だった。
 雨にはじまり、雨に終わることはあまりにも皮肉で、残酷とすら思える。
 竈門炭治郎は、からんと親の形見である耳飾りを揺らして天を仰いだ。それは赦しを乞うようでもあり、誰かに手を伸ばしているようでもある。彼を無情なまでに容赦なく雨が打ちつけた。
 きっとあの出会いも、この終わりも必然だったのだろう。
 炭治郎が天を仰いで破顔した。それは嘲笑であり、絶望の色を強く強く帯びている。雨は止む気配もなく、降り注いでいた。雨粒が頬を伝い落ちていく。
 もしかするとそれは、彼の涙だったのかも知れない。
 
 
 
 晴れ渡っていたはずの空に、重く暗い雲がかかったかと思えば、あっという間に大粒の雨が落ちてくる。炭治郎は鞄の中に入れてあった傘を素早く取り出すと、勢いよくそれを開いた。
 彼だけではない、周りがどんどん傘の花を咲かせていくなか、手で雨を申し訳程度に避けながらかけていく者が一人。長いというほどでもない金髪を揺らし、同時にそれを雨にさらしながら人の間を縫って走り抜けていく姿は、何故だか炭治郎の瞳にはとても綺麗に映った。
 炭治郎の近くを抜け、金髪の青年は校門をくぐる。しかしその先にはすぐに大きな道路と横断歩道があった。ここはいつも妙に学生たちが足止めを食らってしまいがちな場所であり、金髪の青年とて例外ではない。
 案の定足止めを食らってしまった青年は、赤信号に従いその場で足踏みを繰り返しながら、落ち着きのない様子を見せていた。
「あの、すみません」
 いても立ってもいられず、小走りで金髪の青年に駆け寄り、炭治郎は背後から声をかけつつ傘を傾ける。
「急いでいるというわけではないなら、俺と一緒でよければ傘をお貸ししますよ」
 炭治郎の声に金髪の青年はぽかんとした表情を向けるが、次の瞬間にはまるで花が綻ぶかのような笑顔とともに大きくひとつ頷いた。
「助かるよ、入れてもらっていい?」
 そう言ってから、今日の雨は冷たいからあんまり濡れたくなかったんだよねと続けて、頭を掻く。
「ええ、どうぞ。このまま真っ直ぐで大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」
 それが我妻善逸との出会いだった。
 ひとつの傘に二人、肩を寄せながら当たり障りのない会話を交わし始める。
「俺は、竈門炭治郎といいます。ここの大学の一回生です」
「俺は我妻善逸。ここの二回生だよ」
「先輩なんですね」
「そうなるね。っていうか、いいよ敬語とか。大して違わないでしょ?」
 真面目に敬語を用いる炭治郎に、善逸はひらひらと手を横に振って応えた。どうやら堅苦しいのは性に合わないらしい。
「だめです、先輩なんですから」
 炭治郎もまた真面目さに拍車をかけた頭の硬さを発揮して、善逸の言葉を受け入れようとはしなかった。
「頑固だね、竈門くんは」
「よく言われます」
 あははと笑って、善逸は面白い人だなぁとこぼす。
「竈門くん、この後に何か予定ある?」
 信号を渡り直進しながら、善逸は炭治郎に問いかけた。
「いえ、特にはないですけど」
「じゃあ、店に入ろうよ。傘のお礼に!」
「えっ?」
 困惑する炭治郎をよそに善逸はすっかりそのつもりになっているようで、鼻歌を口ずさみながら隣を歩いた。
「そこの店、ゆっくり出来るよ? 大丈夫、お礼だから奢るし」
「いや、あの……」
 あれよあれよという間に善逸によって店に誘導され、気がつけば炭治郎は腰を下ろしてメニューを見つめている。もちろん向かいには善逸が座っていて、何度も不可思議な状況だった。
「何でも頼んでいいよ」
 善逸の様子はこの上なく上機嫌で、炭治郎から見ると首を傾げずにはいられない。傘に入れてあげたことへのお礼というには大袈裟過ぎるように思えたし、炭治郎は善逸のことを詳しくは知らないが、それにしてもこの行動は疑問が頭をついてまわるものだった。
「我妻さん」
「ん?」
「やっぱり……その……」
「いいって、いいって」
 申し訳なさそうに口籠る炭治郎に対して、善逸の方は軽いノリというやつだ。炭治郎としては現状はかなり気が引けるのだが、善逸の方は全く引く気がない。向かい合ったまましばらくずっとこの調子だった。
 二人の通された席はすぐ横に窓がある。その窓を通して見る街はいつものように学生らしき人々の姿が行き交い、先ほど二人が降られたような雨はもう全然降ってはいなかった。
 通り雨だったらしい冷たい雨から逃れ、二人は初対面にも関わらず、店の窓に面した席で向かい合っているのだから、何ともおかしな話だ。
 だが、炭治郎としては不快感はない。強引であるはずの善逸の行動だが、そんなことは微塵も感じなかった。するりと懐へと入り込んでくるような善逸の態度も、そして言動も、奇妙なまでに炭治郎を安心させる。
 何故だろう、こんなにも不安のないことは初めてだ。炭治郎はこの何とも形容し難い不思議な感覚を抱きながら、目の前に座る我妻善逸、彼の様子を窺った。目の前で上機嫌に笑う彼の姿は、控えめに見積もっても悪い印象は抱かない。寧ろ、何か妙に近しいものすら感じて勝手に親近感を覚えてしまうほどだ。
「どうかした? 竈門くん」
「あ、いえ。我妻さんが嬉しそうに見えて……」
「そりゃ嬉しいよ」
 机の上に肘を置き、手を頬の近くにあててあたを支えながら善逸は、彼自身の言葉通りの表情を浮かべて目を細める。
「だって俺、友達いないし」
 あまりにも予想外な言葉は、炭治郎に言葉を発する余裕を与えない。
「それ、は……意外です」
「そ?」
「初対面ですけど、友達がたくさんいるタイプなのかなって思ってました」
 炭治郎の驚きの言葉を受けて、やはり変わりなく善逸は笑っている。そのあまりにも変わらない様子は、とてつもない人間なのではないだろうかと、そんなくだらない考えが頭に纏わりついてしまいそうになるほどだった。
「そう見えるなら、俺としてはとても嬉しいよ」
 善逸は表情ひとつも変えないまま、炭治郎に言葉を返してから、少し大きめに息を吸う。
「で、注文するものは決まった?」
 戻ってくるその問いに、炭治郎は慌てて視線を善逸から目の前のメニューへと戻した。
 視界に入ってくるメニューは、突飛さや珍しさを感じるものもないが、オーソドックスな食べ物と飲み物が種類豊富に並んでいる。
「ここ、選択肢が豊富なのが気に入ってるんだよね」
 善逸の言葉にも頷けるというものだった。
「確かに我妻さんの言う通りですね」
「でしょ?」
「はい。どれにしようかな」
 他愛もない会話を繰り広げながら、初対面とは思えないほどに楽しく、そして緊張を感じない善逸に対し、好感を覚えるのは当然だった。
 
 初めて出会ってから、炭治郎と善逸が急速に距離を縮めていくことは必然のようにも思われた。
 曰く友達がいないという善逸は、その言葉が現実なのではと思わせるほど、ことごとくまでに炭治郎の目の前によく姿を現していたからだ。初対面の日から好感を覚えていたこともあって、炭治郎としても善逸が目の前に姿を現し、関わりを持てることについて歓迎をしていた。
 多くの時間をともにし、多くの言葉を交わして、近しい存在になっていくのはまるで互いが互いを引き寄せているかのよう。そんな必然が二人の関係に新しい名前を与えようとしていた。
 帰宅の途へ着こうというそのときだ。
「竈門くん!」
 善逸の呼び声が炭治郎の耳に届く。取り立てて大きな声で叫ぶようにして名前を呼んだ善逸の声は、炭治郎に確かに届いて声の方へと視線と顔を向けさせた。
「どうかしました? 我妻さん」
「いや、竈門くんの姿が見えたからさ。追いかけてきちゃった」
 少し息を切らせながら走ってきた善逸は、炭治郎の隣に並びにこりと微笑む。そんなお茶目な善逸の言動に、炭治郎はすっかり虜になってしまっていた。
「嬉しいです」
「今日はこの後、予定あるの?」
「何もないですよ?」
「じゃ、いつもの店に行こうよ」
 すっかりお決まりになった、出会った日に行ったあの店に寄って他愛もない会話をして帰るという、流れを今日もまた繰り返す。
「えぇ、行きましょう」
 ある意味では予定調和であり、またある意味では約束された幸せ。どちらとも評することが出来た。
 すっかり慣れた店の中へといつものように入って、二人は向かい合う。
「我妻さん」
「うん?」
「いつも楽しい時間を、ありがとうございます」
「どうしたの? 何かあった?」
 席に着くなり神妙な面持ちで口を開いた炭治郎に、善逸は疑問の言葉を向けた。
 やって来た店員に、いつもと変わらない飲み物を注文して下がらせると、炭治郎がといかけに答えるべく口を開く。
「次にお話しできるときには、伝えようと思っていたことがあるんです」
「うん」
 相変わらず真剣な表情を浮かべている炭治郎に対して、善逸もまた真剣に向き合った。
「俺、先輩と話したりする時間がとても好きです。ずっとこうしていられたら、そう思うくらい」
 炭治郎の言葉に、善逸がうっすらと微笑む。
「それで……もし、この関係が失われてしまったらと、怖いんですけど……それでも自分にも、我妻さんにも嘘をつきたくはありません。だから……その……俺、我妻さんのことが好きなんです」
 続けられた炭治郎の言葉に、善逸は今度は目を見張った。想像していなかった言葉に、ただただ驚きしかない。
「す、き?」
「気持ち悪いですよね、すみません。それでも、きちんと伝えておきたかったんです。今までお世話になりました、本当にありがとうございます」
 この関わりを失ってでも炭治郎は、自分の気持ちを善逸に伝えたかった。ただただそれだけだったのだ。それほどまでに善逸のことを想ってやまなかった。
 善逸にはっきりと、炭治郎からの好意が伝わる。明らかに困惑した表情を浮かべ、どうしたものかと口も開きあぐねていた。
「さっき注文したものを飲んだら俺、帰ります」
 悲しげに笑う炭治郎をじっと見つめて、善逸はついにその口を開く。
「竈門くん」
「はい」
「何で、もう諦めた感じになってるの?」
「え?」
 善逸の問いかけは、今度は炭治郎にとっての予想外だった。
「俺の気持ちは、聞かないの?」
 真剣な面持ちで問いかける。その言葉を受けて、炭治郎の瞳が驚きに揺れた。
「それって」
「俺だって竈門くんのこと好きだってこと」
 軽々しい口調からは考えられないほど、はっきり断言する言葉が炭治郎に向けられる。
 炭治郎が考えもしなかったような展開に、微動だにできなくなってしまった。機械でいうところのフリーズのような状態に陥っている炭治郎を見て、善逸は盛大に吹き出して笑う。
「そんなに予想外だったの?」
 おさまらない笑いを必死に堪えながら善逸が尋ねた。
「はい……」
 呆然としつつも問いかけられたことを、炭治郎は素直に肯定する。半ば反射のような言動に、頭はついてきていなかった。その様子を善逸はまた笑う。
「竈門くん、可愛いなぁ」
 善逸のこぼした言葉に炭治郎は口を尖らせた。その行動こそが善逸の言う“可愛い”ということだとは思い至っていない。
「我妻さん」
「うん?」
「これって……その……」
 言葉を詰まらせる炭治郎の反応は、初心そのものだ。
「うん」
 善逸は炭治郎が言葉を紡ぎあぐねている様子を楽しんでいて、にこにこと微笑みながらも絶対に口を挟まない。
「えっと……」
 すっかり口籠ってしまう炭治郎に、あたたかくそして柔らかな視線を向けるばかりの善逸はやはり口を挟もうとはしなかった。
「両思い……ってやつなんですか?」
 やっとのことで言葉を口にした炭治郎の声は、緊張で上ずっていてどうにもひとつ決まらない。そんな声に再び善逸が吹き出した。
「やっぱり竈門くん、可愛いなぁ! そう、両思いってやつだよ」
 どうにも不足してしまっている緊張感を欠いたまま善逸は笑う。それは炭治郎が今まで見たどの笑顔よりも美しく輝いて見えた。
 
 あの日、炭治郎が区切りをつけて諦めようと告白の言葉を口にした時に、二人の関係には“恋人”という名前がついた。
 この名前の効果は劇的だ。二人の距離をさらに縮め、炭治郎の言葉から敬語が排除され、善逸は先輩ぶることをやめた。
 大学の構内で出くわせばまだ波風が立たないようにという意識の一つも働くのだが、そういった条件が排除されてしまえば、どこでもかしこでも身を寄せ合ってしまう。
 そういった関わり方が、他のどんな恋人たちよりも異質であることは二人とも承知していた。だが、そうであることがすっかり当然のこととなってしまっていて、すっかり互いが互いに依存してしまっている。そんな状況だった。
 しかし、ごく稀に善逸が手の届かない遠くを見ている気がして、炭治郎は複雑な気持ちをその胸の内に抱く。
「なぁ、炭治郎?」
 善逸がちらりと炭治郎の様子を窺いながら口を開いた。恋人という関係に変化してから決まりの場所を件の喫茶店から一人暮らしをする炭治郎の部屋へと移していて、そこで二人は肩を寄せ合っている。
 別に寒さを感じる季節というわけでもなかったが、互いの存在を感じたいという姿はある意味いつも通りだった。
「どうしたんだ? 善逸」
 すっかり慣れた敬語のないフランクさのある口調で炭治郎が問い返す。
「もし、もしもだよ? 自分が大切にしている何かを傷つけた人が目の前にいるとして、たんじろならその時どうする?」
 善逸の問いかけは炭治郎を凍りつかせた。
「たんじろ?」
 名前を呼ぶ声にも応えることなく、炭治郎は険しい表情で俯くばかりだ。彼の周りのあるのは、緊張と後悔そして殺意だった。
「炭治郎!」
 善逸の呼び声に引き戻されるようにして、炭治郎はまるで弾かれたかの如くびくんと身体を震わせる。そして善逸のことをじっと見つめ、困ったようなそんな笑顔を貼り付けた。
「ごめん」
「俺こそ、変なこと聞いちゃって……」
 申し訳なさそうに善逸が俯くと、それを遮って炭治郎の口が「違うんだ」と動く。
 いつもとは違う異様な雰囲気に、善逸は反射的に口をつぐんだ。
「善逸の言葉が、あまりにも俺自身のことと合致しすぎていて、色々と思い出してしまったんだ」
 うっすらと口角こそ上げているが、炭治郎のその表情は笑顔と呼ぶにはほど遠い。
「……そっか。ごめん」
「いいんだ、俺こそごめん」
 善逸も、そして炭治郎も、この重苦しい空気の中で項垂れていて口を閉ざしてしまう。気まずさが部屋を支配していた。
「善逸、少し話を聞いてもらってもいいか?」
 何度か口を開こうとしては閉じることを繰り返していた炭治郎だったが、ついに意を決して問いかけの言葉を口にする。
 その神妙な様子を受けて、善逸もまた真剣な面持ちで頷いた。
「ありがとう。俺……実は家族を全員亡くしているんだ」
 とてつもなく重たい話題の切り出し方を受けて、善逸は言葉も返せず息をのむ。
「まだ幼い頃、学校から帰ったら家族はすでに殺されていた。俺は家に入ることも、家族の最期をろくに確認させてもらうことも出来なくて……分かっていることは他殺だった、ということくらいなんだ」
 そこまで話すと、炭治郎は大きく息を吐き出した。息は寒くもないのに震えていて、表情の険しさからも緊張や怒りからくるモノだろうことが想像に難くない。苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべつつも、炭治郎の様子を見つめるばかりで善逸は口を開こうとはしなかった。
 無言の間はほんの少し前までのこの場にあった空気とは、全く別物の殺伐とした様子を与える。
「ごめん……」
 口を開いたのは炭治郎だった。
「いや、俺こそごめん」
 炭治郎の謝罪の言葉に応じて、善逸もまた同様の言葉を口にする。何故か炭治郎の顔よりも、善逸のそれの方がよほどと言っていいほどに青ざめていた。
「善逸?」
 ただならない様子に炭治郎が首を傾げる。自分の話は、お世辞にも気分の良いものとは言えなかったこともあり、その瞳は不安に揺れた。
「こんな……ことって……」
 しかし善逸の瞳に炭治郎の姿は映らない。
「嘘だろ、そんな」
 狼狽えるその姿に、炭治郎の頭には一つの考えがよぎった。だがその仮説ともいうべき考えは善逸の言葉通り、嘘だと、信じたくないと思考を拒絶したくなるほどのものだ。
 
 ――我妻善逸は、竈門炭治郎の家族の死について、何らかの関与が疑われるということ。
 
 それは炭治郎の頭の中で大きく膨らみ主張するばかりで、止まる気配は微塵もない。
「なぁ、善逸」
 炭治郎の声は、またしても善逸には届かず彼の瞳は大きく見開かれるばかりだ。
「善逸っ!」
 肩を掴み、身体を揺すり、ようやっと善逸の焦点が炭治郎に合う。怯えの色を多分に含んだ瞳は、真っ直ぐ炭治郎を見据えることすらままならない。
 そして炭治郎を振り払うと「帰る」と短い言葉を口にして善逸は去って行ってしまった。
 そこからは音信不通、関わることのできない状況が続く。何もかもを拒絶する善逸の見えない姿は、炭治郎の考えの証拠のようですらあった。
 
 それまでのし合わせな時間は静かになりを潜め、殺伐とした渇いた世界だけが炭治郎の目の前に広がっていた。
 もう一度、自身の家族の存在が失われた時のことを調べた炭治郎は、自宅の近くを不審な少年が行き来していたことを思い出すに至る。
 朧げだった炭治郎の記憶の中から蘇ったのは、見覚えのない黒髪の少年。彼は妙におどおどとしていて、そんな姿と神出鬼没さからまるでこの世のものではないかのような気さえしていた。
 まさか、もしかすると、あの少年は善逸だったのかもしれない。
 考えれば考えるほどに、嫌な考えが具体性を帯びていきそうになる。それは炭治郎の脳を駆け巡り続けていた。
 信じたくはない。けれども当時の資料を探せば探すほどに疑いは革新へと変わっていった。
 あんなにも大切と、温もりだと、信じていた存在が崩れていく。全身を引き裂くような鋭い痛みが走った気がした。
 しかし同時に思う。もしも本当に彼が家族の仇なのならば、敵討ちをすることに迷いはないと。例えそれが本当に善逸なのだとしても、その決意を揺るがす障害とはならないとえ、既に考えていた。
 二律背反と言えるだろう。善逸を信じていたいという気持ちと、やっと家族の死に繋がる者へと手が届いたという気持ち。昔年の恨みとは仇討ちを果たすのだという強い決意が、これまでの炭治郎を占めていた平和とぬくもりを押し流していく。
 そして煌めきは奪われた。
 
『善逸、話がある。あの店の脇にある公園に来てくれ。俺は必ず夕方以降にはそこに行く、お前が来るまで待っている』
 幾度目かの伝言を留守電に吹き込み、もう何日目になるだろうか。炭治郎は公園のベンチに腰を下ろす。
 どんよりとした曇り空は、まるで炭治郎の鬱屈とした気持ちを表しているようだ。天気の悪化と時間帯の影響もあってか、公園の人通りは皆無に等しかった。
「炭治郎」
「やっと来てくれたな、善逸」
 ついに姿を現した善逸からも、そしtそれを迎える炭治郎からも、二人の声からは音頭が感じられない。冷たく、凍りつくような声で、言葉を掛け合う。あの日以来、久々に顔を合わせたのだが、二人の間に情はなく淡白でそれでいてピリピリと張り詰めた空気だけが流れていた。
「俺が来るまで待ってる、そう言ったのはそっちだろ?」
「ああ、そうだったな」
 本当にこれが、一度は付き合っていた――恋人同士だった――二人の会話だろうか。それほどまでに淡白なやりとりは、もしも以前の二人の様子を見知った人物がこの場にいたならば絶句していることだろうものだ。
「行こう」
 善逸は踵を返すと、路地の奥へ奥へと入り込んでいく。炭治郎はその背中を見失うまいと必死に追いかけ続けた。
 辿り着いたのは路地裏の一画、あかりの届かない場所には虚無と無機質で満ちている。建物と建物の間、まさに隙間と言えるところで、二人は改めて相対した。
「お前、あんな場所で物騒な話を始めるつもりだったの?」
 冷え切った蔑むような問いがとぶ。
 しばらく二人の間には何度目かの無言の時間が流れた。
「ま、いいけど」
 沈黙の始まりも、そして終わりも善逸によっても等しくもたらされ、炭治郎は彼をじっと注視する。口を開くタイミングを伺っていたのだ。
「で? 話って?」
 タイミングをまさか善逸の方から提示してくるとは思いもよらず、炭治郎は焦りと迷いに視線を彷徨わせる。
「焦んなくてもちゃんと話は聞くって」
 薄く笑う善逸の表情は、二人が邂逅してからずっと冷たく硬い。あまりにも色のないそれは、機械的とすら思えた。
「前、話をしたな……家族のことについて」
 やっと口を開いた炭治郎の言葉に善逸は静かにひとつ頷いて、次の言葉を待つ。
「善逸と連絡がつかなかった間、色々と調べたんだ。単刀直入に聞く。善逸は俺の家族の死に関わりがあるのか?」
「まぁ、そうなるよな」
 緊張を強く帯びた声で問いかける炭治郎に対し、想定通りと言わんばかりに善逸は肩をすくめた。
「そうだ、って言ったら……どうする?」
 感情の機微ひとつも感じられないような淡々とした口調で善逸は問う。
「……本当にそうなら、俺は善逸のことを許せそうにない」
「あ~……だろうなぁ」
 炭治郎の言葉に善逸は弱々しく微笑んだ。
「なら、俺は許してもらえないんだろうな」
「……っ!」
 善逸が口にした諦めの言葉に、炭治郎の肩が小さく震える。それは間違いなく怒りの感情が溢れ出たものだった。
「俺は昔、道具のように使われていたんだよ。言われるがままにたくさんの人を手にかけて、人を人とも思わないようなことをしていたんだ」
 紡ぎ出されるかつての善逸の姿は、炭治郎の想像を遥かに超えていて驚くことしか出来ない。
「だから、多分。炭治郎の家族を手にかけたのは俺だと思う……けど、お前にこんな言い方をするのは失礼だって、わかってはいるんだけどさ……」
 そこまで口にして、善逸は一度言葉を止める。それは言い淀んだという風で、ありありと躊躇している様子が見て取れた。
「あのときの記憶は、すごく曖昧になってしまってることもあって罪悪感とかそういうのよりは、よくわからないもやもやとした気持ちが強いんだ」
 その善逸の言葉に偽りのないことは、よく伝わる。表情も声色も纏う雰囲気にすら、包み隠すことのない正直さが溢れていた。
 だからこそ、尚のこと炭治郎の精神を激しく刺激する。しかし言葉を紡ぐことができず、炭治郎はただ善逸のことを睨みつけた。
「ごめんなさい、なんて言って許される話じゃないよな」
 自嘲するような薄笑いを浮かべ、善逸は炭治郎に言葉を向ける。その姿に先ほどまでの冷たさも、機械的にすら思えた何かも、もうない。悲しみをたたえ、存在は儚く今にも消えてしまいそうな、そんな姿だった。
「どうしてそんな」
 炭治郎とて人の子だ。そして本来の彼は愛情深さもある。家族が死に至ってさえいなければ、ありふれた優しい青年だったはずなのだ。
 それが一度は惚れて付き合った相手の、あからさまなまでの悲しげな姿に、つい事や次第についてを聞きたくなる。
「……炭治郎は優しいな。俺は……」
 善逸がまた困った様子で笑うが、すぐにその表情に緊張を走らせると炭治郎のことを突き飛ばした。
 大きな破裂が辺りに響く。乾いた音はどこから聞こえたのか、炭治郎には皆目見当がつかなかった。
 ただわかることは、音の正体が善逸の身体を傷つけ、彼が今にも地面に倒れ扶桑としていること。それだけだった。
 善逸の動きがゆっくり見える。スローモーションの世界に迷い込んだかのような、そんな不思議な感覚は残酷に目の前の現実を突きつけてきた。
 炭治郎は必死に手を伸ばす。もう伸ばすまいと思っていたはずのては無常にも空を切り、善逸はついに地面に倒れた。
「ぜんいつ……?」
 ぴくりとも動かない善逸に触れようとするが、それすらも恐ろしい。
「ぜんいつ……何か、言ってくれ……!」
 呼びかける炭治郎の声に応えるようにして、善逸が咳き込む。席を共に時折混ざる赤い血が、現状の深刻さを如実に伝えていた。
「善逸!」
「……家族の仇かもしれん奴を心配するなんて、炭治郎はやっぱ、優しすぎるよなぁ」
 炭治郎の呼び声に、善逸が力なく笑う。弱々しく様子、すっかり血の気の引いてしまった肌、それらは確実に善逸の命の灯火が消えかかっているということを伝えていた。
「何が起こったんだ」
「……撃たれたんだよ」
 現実味の全くない言葉だったが、善逸の震える手が差している傷は何かに貫かれたもので、きっとこれが“撃たれた”ということなのだろうと考える。やはり炭治郎の中で現実味を帯びてくることのない全てを、残念ながら事実として認識させるのは、善逸の傷口から流れ出る血に他ならなかった。
「どうして……」
「足を洗って生きてた俺を、監視してたんだろ。で、俺が変なことでも口走ったから口止めってわけ」
「そんな」
「俺は……そういう場所に、昔はいたんだ」
 驚愕の表情を浮かべながらも、炭治郎は必死に善逸を救おうと傷の処置をしようとする。だが、善逸はそれを力ない手つきで拒み、炭治郎に首を横に振って見せた。
「どうしてだ! 俺はたくさん聞きたいことが……あって……![#「!」は縦中横]」
「これは、報いだから」
「だめだ!」
「いいんだよ」
「俺は、善逸に生きていて欲しいよ!」
 叫びに等しい炭治郎の言葉に、善逸は薄く微笑む。
「だから、それじゃダメだって。俺はお前の大事な家族を殺したきっと張本人だ。理由なんてない、そんなひどい奴なんだよ」
 善逸は自分に言い聞かせるように呟き、炭治郎は涙ぐみながら何度も何度も首を振り、言葉を必死に拒絶した。
「なぁ、炭治郎」
 弱々しく掠れた善逸の声が炭治郎を呼び求める。
「俺……あいつらに殺されてやるのだけは、嫌なんだ。なんのための、足抜けか……」
 嫌な予感が炭治郎にずしりとのしかかり、身体を重く感じさせた。善逸の紡ぐ言葉を最後まで聞き届けたいと思う反面、最後まで聞けば苦しみ悶えることになるだろうという恐怖もまた、炭治郎の中ではっきりと存在している。
「……あぁ」
 何とか応えた声から察するところがあったのか、善逸はまた薄らと微笑んだ。
「だから、頼みたいことがある」
 緊張と恐怖が炭治郎自身と、彼の周りに広がる。善逸が口にするだろう願いに心あたるものがあったが、それが当たって欲しくはなかった。
「俺を、殺してくれ」
 願いを口から紡ぎ出した善逸は、その残酷な言葉からは想像も出来ないような穏やかかつ柔らかな表情を浮かべている。
「……出来ない、よ」
「頼むよ。お前だから、言ってるんだぜ?」
 地面に倒れたままの善逸に縋りつきながら、炭治郎は拒む言葉と涙をこぼした。それでも善逸の様子には何ひとつとして変わりはない。
「……俺は……!」
 炭治郎は思わず善逸から顔を背ける。目から涙があふれて溢れ、善逸の服を濡らした。
「炭治郎」
 まるで意識を強引に引きつけるような善逸の声に、炭治郎は一度は逸らした視線を善逸へと戻す。
「俺はもう、だめだと思う。このままだと、あいつらに始末されて道具として処分されるだけだ。そんなのはごめんなんだよ」
 そこまで話した善逸の表情が苦悶に歪むと、咳き込みながら喀血した。炭治郎が慌てて立ち上がろうとすると、弱々しく善逸が服を掴んで制止し酔おうとしている姿が目に止まる。振り解くのは簡単だが、どうにもそれが憚られるような何かを善逸から感じて、炭治郎はもう一度腰を下ろした。
「俺の存在は、俺が死ねばなかったものとして処理される。そういう約束なんだ。だから、俺の自由は死ぬ瞬間にしかない。誰かに振り回され続けた俺に、最期に一度許されるなら……我儘でしかないし、炭治郎に重荷しか負わせないこともよくわかってる。それでも」
 ぜえぜえと息を荒くして、傷からもそして口からも血を流しながら、善逸は炭治郎へという言葉を紡ぎ続ける。
「だから、俺を殺して欲しいんだ。お前になら、この命を差し出すのも悪くない」
 そう懇願し「頼むよ」と一言添えた。
 望む気持ちはよくわかる。わかるからこそ叶えたくない。炭治郎の心中は複雑この上なかった。
 だが善逸の命は目に見えて尽きかけており、炭治郎はその姿に意を決する。息をすうっと吸い、善逸へと手を伸ばした。
 炭治郎の様子に善逸は嬉しそうに笑ってから、自身の首元をとんとんと指差して見せる。その意図を察して炭治郎は息をのんだが、伸ばす手を止めることはなく善逸の首元へと近づけた。
「ごめん、ありがとう」
 掠れて声にもならないが、善逸の口は確かに言葉を紡ぐ。その言葉に炭治郎は涙を流し、手に力を込めた。
 
 
 
 雨が降る。冷たい雨に、最期のぬくもりをかき消されてしまいそうで恨めしい。
「さようなら」
 ただ一言、炭治郎は空に向けてそう告げる。善逸の姿はどこにもない。
 ここにはいない彼に語りかけるかのような別れの言葉は、もう誰にも届くことのないものだ。
 そして、冷たい雨にぬくもりは最後の一片まで押し流されて、炭治郎の中に残ったのは漆黒の如き重く暗い復讐心。ただそれだけだった。