其はここに至る道

人間というものはいつだって自分とは異なっている何かを恐れる。
相手もまた人間であろうとも、存在や在り方が異なるならばそれを理解し得ないものとして意識から放り出してしまうのだ。
彼──神来社八雲が幼かった頃には、それは納得などできるはずもない拒絶すべき事象でしかなかった。なまじ由緒正しい厳格な家──加えてこの家は恐れられ排斥される現象への対処を生業としている──であるため、日常と非日常のいずれをも否定することができず苦しんだものだ。
しかしそれもすっかり過去の話で、今の八雲は穏やかに毎日を過ごしている。かつての苦悩は諦観となり、相互を理解するという努力を諦めて締まってもはや久しい。
実際のところ地域における〝神来社〟という家は、どうにも妙な噂がついてまわる。変な家、奇妙な出来事、心霊現象、そこから尾びれ背びれどころではない荒唐無稽な話まで近所に知れ渡っており、八雲は変わり者一家の息子という認識を持たれて少し世間から距離を置かれていた。
取り立てて不便ではない、これこそが八雲の日常である。
別に楽しいというわけでもないが、これといって苦痛でもない。その程度の思い入れ一つないものだ。
年齢に伴って進学を果たしたところで状況が一変することはなく、いつの間にやらこれまで通りの希薄な人間関係が形成される。
その繰り返しだった。
もしかすると八雲自身がアクションを起こせば何かが変わったのかもしれない。だがかつての彼が期待した結果に裏切られた経験の上に成り立っている以上、その手の行動を起こそうという気持ちはほぼないに等しかった。
高校へ進学して数日。生徒たちがいくつかのグループに固まりつつある中、八雲は一人ぽつりと自身の席に座っている。
話しかけられることは必要最低限だが、はっきりとその行為以上の視線を感じてはいた。これもまたいつものことではあったが。
好奇の目、というやつだろう。少なくとも八雲は壮理解していた。
大抵の場合は視線の主たちが何か行動を起こすことはない。ただこちらを見つめて、そして離れていくだけだ。
そう思っていたのだが。
「暇そうにしてんな」
そんな声が降ってきたかと思えば、目の前の今は主が不在の座席にどっかりと腰を下ろした人物がいた。
少し赤みを帯びた茶色の髪の奥から見える、ともすれば眠たげにも感じられる瞳が八雲を捉える。
彼の姿は見覚えがあった。自己紹介の時に見た同じクラスの生徒のはずだ。
──確か、名前は。
「えっと……朱央、くん?」
ほんの少し首を傾げて八雲が問い掛ければ、目の前の彼──朱央恒人は驚いた表情を見せた。
まさか一度の自己紹介のみ──同じクラスになり初めて同じ空間に存在し今に至るまで、二人が言葉を交わしたことは今この瞬間までなく、教室において恒人の名前が音や言葉として発せられた瞬間も皆無だった──で、顔と名前を一致させてこようとは考えもしなかったのだ。それゆえの呆気に取られた様子を、表情どころか全ての動作において恒人は隠そうともしない。
「よく覚えてたな」
「結構、覚えはいい方なんだ」
関心の言葉を受けて八雲は当たり前のように笑う。得意げにするでもなく、ただ当然という様子で微笑む八雲は遠目で見つめるよりもずっと魅力的に恒人の目に映った。
退屈そうにしていたから声をかけた、というのは行動の理由の一つではある。
だがそれ以前に恒人は、八雲を一眼見てすっかり惹きつけられていた。彼の好みにどうしようもないくらい合致した容貌だったのだ。
「そう……なんだ」
八雲が浮かべる微笑みに充てられそうになりながら、ぎこちなく笑い返す。そんな恒人の様子に八雲はまた首を傾げたが、すぐにその様子を楽しげなものへと変えた。
純粋かつ素直さの伝わる様子は、声をかけてみなければわからなかったろう。
──その瞬間、恋を自覚した。

 

──寄り道して帰らねぇ?
その誘い文句を向けた相手は、一度たりとも誘いに乗った試しがない。
友人がいないというわけではないが、一緒にいたい相手に誘い文句を向けたところで残念ながら全廃の有様だ。それでもより好意的な感情を持った人間と一緒にいようとするのは、ある意味では人の本質と言えるだろう。
今日もまたいつものように敗北を喫した恒人は、一人で帰り道を歩いていた。着崩した学ランの下に着たフードの頭を揺らしながらただただ歩く。
脳裏に浮かぶのは今回も誘いに乗ることのなかった相手、八雲のことだ。
彼とは高校に進学して初めて出会ったが、それはある意味では運命的な出会いを果たしたといえるだろう。
言葉を交わすに至った一件からは当たり前のように関わりを持つようになり、関わる前からも好意的な感情を抱いていた恒人としては渡りに船とでも言わんばかりに友好関係を結んで八雲の一番身近な立ち位置を獲得するに至っていた。
そんな八雲の帰ってしまった後、恒人は特に幼児らしい予定もなかったのだがまっすぐ帰る気にもなれず、遠回りなどしてしまい結果として陽は傾き空は橙色に染まりつつある。
いつもと変わらない道。そのはずだった。
恒人のいつも家へと帰るべく通る道、だったはずが曲がり角からその様子は一変する。
端的に評するならここは、恒人にとて全く知らない道だった。
不自然に歪んだ道は平衡感覚を狂わせ、空は橙色から地に染まったような黒ずんだ赤へと変わっている。振り返ってみたところで、通ってきた道らしきものは見当たらなかった。
恒人はその変貌ぶりと不気味と差しかない状況に息を呑む。緊張と恐怖が汗となって全身からじわりと吹き出していた。息をするのがやっというほどで、声の一つも出せやしない。
あまりにも異様なこの場所には、きっとまともなものなど何一つもないのだろう。
恒人はただひたすらに冷や汗をかき続けながら、その場に立ち尽くすのみだ。
しかしそのままで何かが変わるわけでもない。
どうにかしてこの異質な場所を出る必要があったが、その方法すら分からず恒人は途方に暮れるしかなかった。
少し落ち着きを取り戻した恒人が周りを見渡すが、やはり赤黒い空と見覚えのない歪んだ街並みが広がるばかりだ。たまらず恒人の口からはため息が落ちる。
その時、空気が震えた。
びりびりした振動は、これまでとはまた違った緊張を恒人に走らせる。

けらけらけらけら。

それはこの世のモノでは嗤い声。
聴いただけではっきりとわかる。これはこの世の理から完全に外れた存在の鳴らす音だと。
そもそもこれがなんなのかという以前に、この笑い声は本当に声なのかというところから疑問だった。
何故なら、その嗤い声は間違いなく頭の中に直接響いてきたものだからだ。
顔を顰めずにはいられないような不快な音は、ただひたすらに恒人に向けて襲いかかる。
「……っ」
息をもらすのがやっとという恒人に、ぬるりと大きな影が迫った。
気がついた時に〝それ〟は足元にあり、存在を大きくする。ぽっかりと大きく開いた穴のようでも何かを食すための口のようでもあるそれは、恒人を今まさに飲み込もうとしていた。
息を呑む。それでも、動けない。
恒人は自分の命が失われることを意識するが、全く追いついてこない感情のせいで実感はひとつ訪れなかった。
──ああ、どうやらここで死ぬらしい。
思い浮かぶ言葉すらどこか空虚に思えて、恒人は自嘲の笑みと共に瞼を閉じる。
だがなけなしの覚悟をなんとか手にした恒人の身には、何事も起こらなかった。
ぷつり、と緊張の糸が切れたように恒人の身体が自由を取り戻す。
あまりにも唐突な出来事に瞼をひらけば、そこにあったのは相変わらずの歪んだ街並みと赤黒い空の下に立つ学生服を着た人物の後ろ姿だった。
「恒人、そこから動かないでね」
その声を聞き間違えるはずがない。
混ざり気のない黒髪も、細身ながらか細くは決してないシルエットも、その全てが恒人のよく知る神来社八雲のものだ。
「や、くも?」
掠れた声で問いかけると、八雲は肩越しにちらりと視線を寄越す。青い視線はいつもと変わらず穏やかで、ほんの少し持ち上げられた口角が恒人に安堵と落ち着きを与えた。
八雲は再び前を向く。

けらけらけらけらけら!

つい今し方、恒人の聴いたものの比ではない音が響いた。反射的に耳を塞いでみたところで、聴覚ではないところから認識している音を遮断できるはずもない。
恒人がそんな異様な音に苦戦する中、八雲は静かに立っている。
「そんな風にしても、だめだよ」
その声は子供を嗜めるようで、妙に場違いに思われた。
だが八雲が茶化したりすることはない。加えてこの状況は彼が真剣で真面目にこの言葉を発していることの証明でもある。
実際、八雲は隙ひとつ見せることなく肩に下げていた細長い筒状のカバンから、何かを抜き放ち構えた。
彼の背後に立つ恒人からは全貌を確認することは困難だったが、それでもテレビでしかお目にかかったことのないような日本刀を八雲が構えているらしいことだけは察する。
不可思議な気配に視線を奥へと向けると、八雲が向く正面に影と思しきものが禍々しく蠢いていた。それは不定形に揺れていたが、地面から飛び出して真っ黒な人型のものへと変化していく。
ずるずると気持ちの悪い音と共に、それは確かに形になった。
そして次の瞬間、人間であれば手がある場所から鋭い音と共に黒い影が細く伸びる。次から次へと襲いくる影を八雲はその場から動くことなく、次から次へと刀を抜かぬまま鞘で器用に弾き落とした。
弾きおとされた影の手は質量なく地面にふわりと落ちて、霧散したかと思えば本体である人型の影へと吸い込まれていく。
「……本体を叩く以外は無駄か」
ぼそりと八雲は呟いた。恒人は呆然とその様子を見ていたが、八雲の口からこぼれた普段よりも低く冷たさを感じる声にゾッとする。
刀を肩まえて戦っている、という見たことのないことばかりが起こっている状況ではもちろんあるのだが、それ以上に八雲の声と気配のあまりにもはっきりとした変貌に息を呑むことしかできなかった。
立ち尽くしながら息を呑む恒人を振り返ることもなく、八雲はほぼ直立だったその体勢を変えて重心を身体の下の方へと落とす。
次に流れるような手つきで刀の柄を撫でると、ぐっと力強く握りしめてから鯉口を切って鞘から白刃を抜き放った。
美しい刀身は辺りの禍々しさを浄化するように美しく鈍く光り、その次の瞬間には真っ直ぐに人型をした影へと向かう。影の手が動く時とはまた別の種類の鋭い風を切るような音が小さく鳴った。

ぎ、ギィぃぃぃぃぃ!

ノイズにも似た激しい音が襲い掛かる。恒人の聴覚ではない別の感覚を刺激して脳みそを揺らす、そんな不快な音だった。
人型の影はぐらぐらと地面から突き出したその形を揺らす。
「仕留め損なったか」
吐き捨てる八雲の声はやはり先ほど同様に冷たい。だがそちらに注力するほどの余裕は今の恒人にはなかった。
八雲は刀の柄を握った手を引いて自分の方へと戻すと、今度は大袈裟な振り上げと共に振り下ろす。相変わらず先のダメージを抱えて揺れ動いていた人型の影は一刀両断され、途端にノイズというべきか騒音にも似た何かは消え去った。
刀を払って鞘へと収める。静かに金属の擦れる音だけが響いた。
呆気にとられながら恒人が頭を振って瞬きを一つすると、そこは歪みもなければ橙色の光がさす見知った道に戻っている。もちろん頭に響いて止まらなかったノイズのような音も、人型の影の姿もすっかりない。
「……な、なんだったんだ?」
安堵から思わず恒人は疑問の言葉を吐き出す。
「恒人、怪我とかしてない?」
振り返った八雲は、恒人のよく知る声色に少し焦りを滲ませながら問いかけた。
「あ、ああ……それは、大丈夫だけど……」
困惑しながらも問題のないことを端的に伝えた恒人の言葉に、八雲は安堵の笑みを浮かべる。そして息をひとつ吐いた。
手に持っていた刀を筒状のカバンの中へ戻しながら、もう一度口を開く。
「じゃあ、俺行くね」
「……へ?」
再び呆気に取られる恒人をよそに、八雲の姿はすぐに見えなくなってしまった。
どうやら自分が学校の帰りに誘い文句を向けても、全くいい反応が返ってこなかった理由は想像していたものとはかけ離れたものだったらしい。
恒人は身に起きた現実離れしすぎた事象を棚上げして、そんなことを考えるのがやっとだった。

 

恒人が不可思議な体験をした翌日。
あんな非現実に襲われた結果、恒人の心はここにあらずといった様子のまま、時間だけが淡々と過ぎていった。
そして気がつけば、昼休みが訪れている。
呆然としていると恒人の席に八雲が寄ってきた。座ったままの恒人の顔を覗き込むようにして、首を傾げる。
「恒人、どうしたの?」
「……!」
急に視界に入り込んできた八雲の顔に、恒人は小さく息を呑んだ。好みの顔が心の準備なしに視界に入ってきて、この程度の反応で押し留められたことを当人としては自画自賛していたが、八雲としては不可思議この上ない。
「恒人?」
当然のようにもう一度名前を呼んでから「昼ごはん、食べよう?」と言葉を続けた。
「ん、あ……あぁ」
間抜けな返事と共に恒人は昼食にと用意してきたパンと飲みものを掴んで立ち上がる。
恒人が立ち上がったのを確認してから八雲は、いつもと同じように歩き出した。
普段から二人は昼食を屋上で取る。基本的に屋上のスペースは開放されていて、ちらほらと人影も見てとれるほどには利用されていた。
もちろん彼らもその利用者であり、言ってしまえば常連だ。
いつもと同じように日当たりが良過ぎず、かといって暗過ぎない場所を選んで腰を下ろす。指定席、とまでは言わないが大体この辺りを二人はいつも利用していた。
「……恒人、今日なんだか変だよ?」
腰を下ろすなり八雲が口を開く。それは純粋な心配からくるものであり、声色や表情からもそれを十分に読み取ることができた。
「……昨日の今日でいつも通りとか無理だろ」
言葉を返す、というよりはこぼすように呟く。恒人の言葉に八雲は苦笑を浮かべてから「それもそうだよね」と言葉を返した。
「あれがなんだったのか……聞かない方が、いいか?」
「いや、話すよ」
八雲はおっかなびっくりというふうに尋ねかけてくる恒人に対して、大きく頷いて見せてからゆっくりと話し始める。
「あれは怪異ってやつだよ。よくあるでしょう? 心霊現象とか、怪奇現象とか。そういう類の出来事」
「それは、まぁ……そうなんだろうけど」
存外と淡白な八雲の言葉に、恒人は面食らった様子で言葉を紡いだ。情緒の省かれ、感情を意図的に外に追いやってしまったかのような八雲の言葉は、事務的なものにも思える。だがそれは色々な感情を抑え込んだようなものにも思えた。
「じゃあ、なんで……あそこに八雲が、いたんだ?」
恒人からするとあの訳のわからない化け物についても確かに疑問だが、それ以上にあの場に八雲が来たこととその時の彼の行動の方がよほど疑問だった。
「ああ、そうか。そうだよね」
いつもよりも空虚な笑みが浮かぶ。
「それは家の話が関わってくるんだけど、俺の家ってさ……よく変な噂を聞くと思うんだけど、全部が嘘ってわけでもなくてさ。すごく平たくいうと、怪異退治屋なんだよ。だから変なものも寄り付くし、おかしなことも起こる。自然と変な噂もたつってわけなんだ」
そこまで言ってから八雲は自嘲気味に笑った。
「俺はあの家では重宝される方の人間なんだよ。生まれつき怪異のことを視ることができるし祓うことだってできる。で、俺は家で請け負ってる怪異退治の手伝いをしてる。跡取りってやつだからね、早いうちから仕事を手伝うように言われていたんだよ。昨日はたまたまあの近くで言い付けられてた仕事があってね、嫌な気配がしたから行ってみたら恒人がいた」
今度は先ほどの自嘲めいた表情を完全に引っ込めて再び淡々と、ただ事実を八雲は口にする。事務的に、そして感情を押し込めながら。
「そう、だったのか……」
恒人はようやっと言葉を一つ返すのみだ。言葉としては内容を理解することができても、相変わらず感情は全くついてこない。
二人の間には沈黙が流れる。
「変、だよね。うちの家も……俺も……」
これまで抑え込んでいた感情が漏れ出すように、ほんの少し八雲の声は震えていた。
「いや、変ではないだろ」
いやにキッパリと恒人は言う。その言葉に八雲は驚いた様子で目を見開いた。
「家なんて同じものはないしさ、八雲のお化け……みたいなもんが見えるっていうのはそりゃ俺には何もわからないけどさ、だからってお前には見えるってんだから変とかおかしなことなんて何もないだろ」
さらに続けられた恒人の言葉は、八雲の表情を少し晴れやかなものにする。
「……そんな風に言ってもらうのは、初めてだな」
ぼそりと吐き出してから、八雲は嬉しそうに微笑んだ。はにかんで照れくさそうでもあるその表情は、年相応のものだ。
「それ、今まで他の人に言ったりしなかったからじゃねぇの?」
「それもそうだね」
そんな言葉とともに二人は笑う。先ほどまで彼らの間に沈黙が流れていたとは思えないほどの変貌ぶりだったが、落ち着かない雰囲気などもうどこにもない。
ひとしきり笑った後、八雲が口を開く。
「ありがとう、恒人」
「何が?」
「今の言葉で俺は救われたから」
柔らかく微笑む八雲に対して、恒人は控えめに笑って見せた。