先人曰く、前進恐るに足らず(スレミク)

 古書の独特な香りが漂う、しんと静かな空気に包まれたこの場所は学校に併設された図書館だ。決して利用者は少なくなかったが、場所にふさわしい静けさは、緊張感よりも落ち着きを与えるものでこの図書館を常日頃から利用していて、今日も当たり前のように本棚の前に立っているスレイもその落ち着いた空気感の恩恵にあずかる一人だった。
 特に調べ物をしようとかそういう理由ではなく、ただ漠然とした知識欲を満たしたいという欲求のためにいろんな本棚の前に立っては目についた本を手に取ってはめくっていくスレイは、見るからに本の虫という姿だ。

『誰かを愛することは、ときに恐れを抱かせ、ときに人を臆病にさせる』

 何と無く手に取った本をぱらぱらとめくっていたスレイの目に、そんな一節が飛び込んでくる。恋ではなく愛、それらをポジティブに語りがちな印象を抱いていたスレイにとって、少々ネガティブともとれるその書き口は衝撃的なものだった。
「へぇ」
 スレイの口から思わず感嘆の声が漏れる。まだまだ世の中には知らないことがあると、改めて目にしたことによってスレイの中にある知識を渇望する欲求が刺激されて際限なく膨らんでいく。
 何となく手にとっただけだったはずの本を、気がつけば一言一句見落とさないくらいの意気込みで隅から隅まで舐めるように読み尽くしていた。
 スレイの手にした本には筆者の感じた感情を中心に、人の感情や想いについてを述べているものだった。真っ直ぐ生きてきたスレイとは筆者の生き方はあまりにかけ離れたものであったようで、ページをめくるたびスレイの予想とはまるで正反対の言葉が踊り、彼にとって驚きと新しい発見で溢れるものだ。
「何を読んでいるんだい?」
 スレイは正面から聞こえる声の方へと視線を移す。
「ミクリオ、丁度いいところに。ちょっとこっち来て」
 隣に現れた幼馴染でルームシェアをしているミクリオの姿を視界に入れてスレイは瞳を輝かせ、ミクリオは逆にスレイの様子を見て一歩後ずさった。そしてスレイはいつも通りの人懐っこい笑顔を浮かべてからミクリオの手を取って歩き出す。 線の細く見るからに華奢なシルエットのミクリオはスレイの手に引きずられる格好になりながら、本棚の間を抜けて少し広くなっている図書館の入り口あたりで立ち止まった。
「何だか嫌な予感がするんだけれど……何が丁度いいんだ?」
「これさ、どう思う?」
 そう尋ねながらスレイは、手にした本のページをぱらりとめくって目的の場所を見つけると、流れるように本をミクリオへと差し出す。
「これって……?」
 スレイの意図がわからず怪訝そうな表情をうかべるミクリオだが、真意の確認を求めて差し出された本をおそるおそる手に取った。開かれた頁は『誰か愛することは、ときに恐れを抱かせ、ときに人を臆病にさせる』という件の言葉が記されているもので、ミクリオはそれに目を通しながら一種その淡い菫色の瞳を見開いたが、すぐにいつも通りの様子に戻りスレイの手に本んを差し返す。
「な、どう思う?」
 スレイは本を受け取りながら、先と同じく瞳を輝かせミクリオからの返答がその口から紡ぎ出されるのを今か今かと待ち望んでいた。
「何をそんなに……まぁ良いけど。どう、と言われてもな」
 スレイの基地に反して、ミクリオは困った様子で言葉を詰まらせる。
「俺はこんな風に考えたことなかったからさ、新しい発見!って感じでワクワクしたんだ〜」
 ミクリオの予想外の反応に動じることもなく、スレイは瞳を輝かせたまま宝物を見つけたとでも言わんばかりの様子で満面の笑みを浮かべた。
「なるほど、スレイらしい」
 スレイの言葉は愛やら何やらという気持ちそのもののアプローチに対する、知りたいという欲求のみに溢れていてそこには少なくともミクリオから見ていわゆる情欲的な想いは微塵も感じられない。その様子にミクリオは腕組みをしながら笑ったが、内心は複雑な想いが渦巻いていた。
(君には伝わらないんだな……)
 文字通りの秘めた想いを出てくることのないようにと言わんばかりにミクリオは胸に手をあてて、ふうと小さく溜息を吐く。
「ミクリオ?」
 首を傾げながらミクリオの目を覗き込むスレイの真剣な眼差しに、ミクリオの胸の鼓動が跳ねるように鳴る。
『誰かを愛することは、ときに恐れを抱かせ、ときに人を臆病にさせる』
 まさしく今のミクリオの心情そのもので、彼はスレイに幼馴染として、家族として、そしてそれを越えた恋とも愛とも言える形容詞型感情を持ち合わせ、当の本人たるスレイにはその感情を伝えるべきかどうか思い悩むあまりに何ひとつ、言葉にしてはいなかったのだ。
 伝えてしまえば今までのままでは居られなくなるかも知れない、もし拒絶されたりしたらと考えてしまうと、それだけでミクリオの心は臆病風に取り憑かれ何ひとつ行動を起こせずにいた。
 そのことを知ってか知らずか、スレイの起こした今回の行動と言動はミクリオとしてはもう溜息を吐くか、いっそのこと笑うことくらいしかできない。
「なんでもないよ」
 相変わらず真剣な眼差しを向けてくるスレイに、小さく笑みをこぼしながらミクリオは言葉通りに見えるようにと最新の注意を払って声を発した。
「そう?」
「そうだよ。そろそろ帰ろう? 今日の夕飯は何にする?」
「ソフトクリームが食べたい」
「それはお菓子だろう!」
 いつもと変わらぬやりとりに、二人の顔には自然と笑みが溢れる。
(きっとスレイには伝わらないだろうし、こういう気持ちになっているのはきっと僕だけだ……だから……)
 笑顔とは裏腹にミクリオの内心は、膨らみすぎた気持ちが行き場を失って、それをひた隠しにしようとするその決意がほんの少しの違和感を生んでいた。
 大抵の場合は気付きもしないだろう、本当に小さな違和感ではあったが相手は幼馴染であるスレイだ。双方向に大概のことは筒抜けになるほどの間柄である、もちろんスレイにその違和感を感じ取れないはずがない。
(ときに人を臆病にする、か……何だかわかった気がする)
 そんなことを考えながらスレイはミクリオの横に並んで少し低い方に自分のそれをコツンとあてる。
「なっ……」
(バカだなあ……ミクリオ。こんなときばっかり、気付かないんだもんな)
 反射的に薄っすら頬を赤く染めながら絶句するミクリオに、スレイは思わず苦笑いするしかない。
「今日のご飯も楽しみだなあ♪」
「全く、君ってやつは……」
 自分の行動をはぐらかすように明るく笑うスレイに、あきれた様子で肩をすくめるミクリオ、いつもと変わらない光景の中で二人はすっかり長居した図書館の出入り口となる扉をくぐる。
 すっかり夕暮れ時、太陽こそ落ちてはいないがだいぶん傾いた光は、二人を照らして長い影を二つ作っていた。
「ほら!ミクリオ!バニラアイス!」
「アイスは今度な」
「え〜!」
 奔放に振る舞うスレイをミクリオは慣れた様子で窘めて、今度は不服そうに口を尖らせるスレイに普段は見せることのないような年相応のあどけない笑顔をうかべる。
 沈みゆく夕日に向かうように並んで歩く二人の影が小さくなる、二人の笑い声がこだました。

 実は絶句するミクリオの隣で、スレイもまた頬を赤く染めていたこととその意味にミクリオが気付くのは、今ではないどこかで起きる先の話だ。