信心のカタチは時にその姿を変えて(tnzn)

 疑心、思い込み、恐怖、猜疑。人間は人間を疑い、恐る。それが如何に信用している者でも、愛する者であったとしても。
 疑いは全てを崩壊させ、無へと追い込んでしまうものだ。
 ──もう誰も信用出来ない。
 それは自然に受け入れるしか無かった疑心。他人の心に巣食うとしか思えない暗鬼。
 こんなにも誰も信じられない世の中ならば、全てが同様になればいい。信じられるものはなく、全てを疑い、崩れゆく日常を嘲笑うのが世界の、人の、真理なのだから。
 
 
 
 善逸は一人、全身で不快な音を浴び続けていた。
 今は単独任務を帯びて、とある街の外れにいる。姿を隠し、言葉を発することもない、だがしかし確かに存在している鬼。その鬼が鳴らす音は独特で、それでいて不快なものだった。
 不愉快とも言えるだろうその音を、聴き取れる人間はかなり限られている。善逸は心底からこの音が多くの人間へ届かないことに安堵していた。
 鬼の音、と言うものは人間とは全く別のものだ。
 この音は善逸にいつも、『気味の悪い』と言う感覚を抱かせる。刻みつけられている存在の記憶が、善逸に人ならざるものの存在を知らせていた。
 だが、この鬼の音はまた違ったものだ。人間も動物も鬼も、個々の存在ごとに音が異なる。呼吸の音、心臓の音、血の巡る音、理由は多くあるがそのことは確かだ。しかしそれとはまた別の、しかし詳細は不確かな何かを善逸は感じていた。
 気味の悪さが折り重なる不協和音が善逸を侵して吐き気を催させる。
 このままではいけないのだが、鬼の姿を確認することもまた叶わず、善逸は現状どうすることも出来なかった。
 本当ならば耳を塞いでしまいたいくらいに不快な音だが、それすらも戦いにおいては大事な情報だ。
 その情報を拾い集めようとすればするほどに不快さが増すという、あまりにも激しすぎる矛盾を抱えてしまっているが、それこそままならないものでしかなかった。
 闇の中、善逸がため息をこぼす。善逸が知るところとして、この鬼──実際に討つよう指令を受けた鬼に会敵しているかは定かでない──が、多くの隊士から逃げおおせて例外なく血鬼術にかけられていること。そしてその術の効果は、人によってまちまちではあるのだが、精神に作用するものであるらしい。
 それだけだ。
 情報の少なさが、ここでも善逸の足を引っ張る。ため息も口から溢れてしまうと言うものだった。
 拮抗というには不明瞭さのある状況は、善逸に恐怖や焦りを確かに抱かせる、狂おしいほどの恐怖に身体が震えた。
 焦燥感が善逸を駆り立て、幾度も幾度も何もない周りを見回す。
 だが、やはり何もない。何も、起こらない。
 その時だ。首筋に風が走る。
 ぬるりと気味の悪い感覚と、それを裏付けるような謀の音が善逸の耳に届いた。
 小さく、それでいて鋭い衝撃が走り、善逸の意識をぐらりと揺らす。
 ──これはやばい。
 反射的に直感した。けれどもう遅い。気付いた時には全てが手遅れで、何故だか分からないが意識が失われていく。
 伸ばしても伸ばしても届かない手をそれでも伸ばしながら、善逸は意識を手放した。
 
「善逸! 大丈夫か、善逸!」
 聴きなれた声がする。俺はどうしていたんだっけ。
 うっすら瞼を開きながら、そんなことを考える。どうしてだろう、記憶にもやがかかったようにはっきりしない。
「たん、じろぉ……」
 目の前にいて心配そうに俺を見つめる炭治郎の名前を呼んでみる。するとほっとしたように、嬉しそうに炭治郎が笑った。
「よかった! 何があったか思い出せるか?」
 それが思い出せないんだよなぁ、なんて思っても心配をかけたくはなくて、俺はただ曖昧に笑い返す。
 炭治郎はなんとなくそんな俺の思うところを、自慢の鼻で察したらしい。
 残念そうに一度視線を落としてから、もう一度俺のことを見つめる。
「……何か思い出したら、すぐ教えてくれ」
 今度は心配そうに言うもんだから、大丈夫だって言って笑ってやった。炭治郎は心配性だよなぁ。
 そう思う反面、もっと心配して俺だけ見ていてくれればいいなんて考えてた。
 何だか首筋に違和感がある。そんな気がした。
 
 炭治郎に連れられて、俺は蝶屋敷へ向かう。
 どうやら鬼はまだこの世に存在しているらしい。俺は役に立てなかったみたいだ――まぁ、いつものことだけど。
 だから、俺が血鬼術を受けていないかを確認しないといけないらしい。
 それもそうだな、と俺も納得して屋敷へ向かっているけど、別におかしなところなんて何もないのに、とも思う。
 炭治郎は少し不安そうな音をさせているけど何も言わない。聞いてみても、いいんだ善逸が無事なら、なんて言う。
 俺、信用してもらえてないんだろうか。少し悲しくなってきた。どうしてだろう。
「なぁ、炭治郎?」
 無性に炭治郎にこっちを向いて欲しくて、ついつい口を開いた。
「どうしたんだ? 善逸」
 いつもより優しい気がする、心なしか甘い炭治郎の声が俺に向けられる。
 まるで腫れ物に触れるように、恐る恐る様子を窺っている気がした。
「お前こそどうしたんだよ?」
 たまらず疑問の言葉に、同じく疑問の言葉をつき返してしまう。
「……何がだ?」
 炭治郎が言葉を返す間さえも気に食わない。何を躊躇うんだ、俺のことを疑っているからだろう。
 かかっていないはずの血鬼術にかかっていると思われて……今だって嫌々ここにいるんだろう。仕事だから、任務だから。
「そんなに俺が怖いのかよ?」
「違う!」
「違わない!」
 炭治郎の顔が引き攣る。だめだ、これじゃあだめなんだ。
 俺が頑張らなければ、もっともっともっともっと。炭治郎が信じてくれるまで。
 俺にはもう炭治郎しかいない。
 誰だ、炭治郎に俺を信じられなくなるような嘘を吹き込んでいるのは。
 もうそいつを殺すしかない。世界に炭治郎と俺しかいなくなれば、炭治郎も俺のこと信じてくれる。
 だから。だからだからだから!
 俺はもっと頑張るんだ。
 ああ、首筋がたまらなく痒い。掻き毟るとそれだけで落ち着くんだ。ああ、ああ、嗚呼!
 たまらないなぁ。
 
 △◆▲◇
 
 急いで善逸のことを探した。
 しのぶさんが、チュン太郎が、みんなが、善逸が血鬼術にかかってしまったかもしれないと言う。怖かった。
 善逸の元に指令が下されていた対象の鬼が使うという血鬼術の噂を知っていたから。
 精神を病んでしまうだなんて、何が起こるか分からない。善逸には笑っていてほしい、そう思っているから。
 けれど、見つけた善逸からは鬼の匂いがしていた。濃い匂いに悔しさばかりが募っていく。
 そして何だか得体の知れない歪さと、違和感とが俺のことを支配した。
「善逸! 大丈夫か、善逸!」
 うっすらと開かれた瞼はいつもと変わらない、けれど善逸の様子はどこか虚ろに見える。
「たん、じろぉ……」
 俺のことは、覚えてくれているのか。もうそれだけで嬉しい。ほっとするがそれでも、何があったのかが分からない以上は不安は消えなかった。
「よかった! 何があったか思い出せるか?」
 問いかけてみても善逸の表情は曖昧な笑顔のみで、何かを誤魔化そうとしている匂いがする。心配をかけないように、といったところだろうが頼ってもらえないという事実に、俺は苦しさを覚えて視線を落とした。
 けれど、苦しいのは俺じゃない。善逸だ。
「……何か思い出したら、すぐ教えてくれ」
 不安を堪えて語りかける。ただただ心配だった。
 
 俺たちは蝶屋敷へと向かって歩く。今のところは目立った変化はないが、善逸が血鬼術にかかっていることはほぼ間違いないだろうと思う。
 善逸から漂ってくる匂いがいつもと違った。術にかけた鬼の匂いが強いということもあるが、それ以上に不安や疑念や懐疑心といったものの方が強くなってきている。
「炭治郎……いつもと音が違うみたいだけど……」
「ううん、なんでもないよ」
「けど……」
「いいんだ、善逸が無事なら」
 どうやら善逸を不安にさせてしまったらしい。それもそうだ、俺がこんな沈んだ気持ちでいたら、善逸は耳で気づいてしまう。余計な心配をさせたくはない。
 今、大変なのは間違いなく善逸だ。
「なぁ、炭治郎?」
「どうしたんだ? 善逸」
「お前こそどうしたんだよ?」
 さっきと違って、善逸からは確かに焦りを感じる、苛立ちも感じる。どうしよう、どうしたらいい。
「……何がだ?」
 間を置いたのは不自然だったのだろうか。あからさまに苛立ちを感じている様子の善逸が、じろりと冷たい視線を俺に向ける。
「そんなに俺が怖いのかよ?」
「違う!」
「違わない!」
 善逸の声が悲壮に響いた。必死、がむしゃら、そんな善逸の様は見ているだけで痛々しい。
 どうして──どうしてこんなことに、なってしまったんだ。
 
 
 
 蝶屋敷を目前にして、炭治郎と善逸は立ち止まり睨み合う格好になる。
 片や不安と心配の帯びた視線を向けながら、片や疑心と狂気の帯びた視線を向けながら。相反する感情がぶつかり合う。
「炭治郎にそんな、心配させるようなことを吹き込んだのは誰なんだよ! 俺はおかしくない、術にだってかかってない! なのに……どうして……!」
「……善逸。でも、善逸からは鬼の匂いがする。術にかかっている可能性はあるよ……確かに俺が正しく判断することは出来ないから、本当に善逸のいう通りなのかもしれないけれど」
「信じてよ! 炭治郎!」
「信じたいよ! けど……状況からはまだ、完全には信じられない」
 平行線のままのやり取りは、激しくなっていくばかりだ。だが、平行線である以上は決して交わることはない。
 悲しく、同時に虚しいやり取りでもあった。
「……そっか。信じてくれないんだ」
「ちゃんと信じるために早く蝶屋敷へ帰ろう!」
「蝶屋敷に、お前にそんな嘘を吹き込んだ奴がいるんだろ⁉︎」
 まるで別人のように鋭い声で捲し立てる善逸は、苦しげな表情で何度も何度も首筋を掻き毟る。
「やめるんだ、傷になってしまうぞ」
「だってさ、痒くて痒くてたまらないんだ!」
「だめだ、それがどんな影響を及ぼすかも分からないんだぞ」
「やっぱり俺のこと、疑ってるんだ」
「だからその話はさっきもしただろう?」
「面倒だって、思ってるんでしょ? 俺のこと!」
「思ってない!」
「思ってるだろ!」
 口を開けば平行線の交わせない言葉をぶつけ合う形になってしまい、二人の虚しい言葉の応酬が繰り返された。
 善逸からは色濃い疑心の匂いが感じられ、それは炭治郎の嗅覚を刺激する。それはあまりにも悲しく、苦しい。
「どうしてそんなことを言うんだ……悲しいよ、善逸」
「炭治郎が、俺を疑うからだろ。俺は……炭治郎さえいてくれれば、それでいいのに」
 炭治郎に対して苦しげに善逸は言う。切実で、それでいて狂おしいほどに炭治郎のことを求めているその姿は、痛々しさすら感じさせた。
「ね、炭治郎」
 善逸が改めて口を開く。
「炭治郎に俺が血鬼術にかかってるとか言ったやつ誰? 殺してやる」
 その言葉は炭治郎の背筋にぞわりと寒気を走らせた。同時に全身から嫌な汗が噴き出す。
 冗談であってほしいと思うが、目の前の善逸の様子は当然ながらそんな冗談めかした様子は微塵もない。
「善逸……? 今、なんて……」
 炭治郎はやっとのことで口を開いて、言葉の真意を問いかける。
「俺を信じられないなら、世界に炭治郎と俺の二人きりになればいい。世界中で俺たちだけしかいないなら、炭治郎はもう一度俺を信じてくれるだろ?」
 これまでの激昂した様子が嘘のように善逸はにこやかに言葉を紡いだ。しかし、その言葉は狂気の塊でしかなく、先ほどよりもさらに強烈な寒気が、炭治郎の全身を駆け巡る。
「何を……言っているんだ……」
 善逸から漂う匂いは炭治郎が初めて嗅ぐものだ。狂気だけではない、だが殺意でもない。ただただひたすらに恐ろしいもの、そんな漠然としつつも絶対的な恐怖だけが確かにあった。
「血鬼術の話ならしのぶさん? それとも他に俺を見ていた人とかいたのかな? 隠の人とか?」
 先程までと変わらぬ様子で、表情と言葉に乗る感情が完全に乖離してしまっている善逸がつらつらと言葉を並び立てる。
 炭治郎にとっては身体の芯から怖気を抱くものでしかなく、どう言葉を返したらいいのか皆目見当もつかない。
「ねぇ、炭治郎。聞いてる?」
「あ、あぁ……」
「誰から殺そうか、誰がいいかなぁ。まぁでもみんないなくなるなら、誰からでも一緒か」
 善逸はどんどん恐ろしい言葉を紡ぎ出していく。その勢いは止まるところを知らない。そして、その恐ろしさも同じく止まるところを知らない。
「どうしてしまったんだ? 善逸……」
「どうもしないよ? 炭治郎こそ酷いよ」
 こんなにも話が通じないと思ったことはないかもしれない。炭治郎は、困惑しきった頭で考える。
 だが、うまく働いていない頭では妙案が浮かぶはずもなく、善逸の言葉に返すことができない。
 すると善逸が徐に自身の腰にある得物の柄に手をかけた。
「善逸⁉︎ 何を……!」
「炭治郎はやっぱり信じてくれないんだな。みんなみんないなくなれば俺を見てくれるって思ったけど……きっとそうじゃないんだ。じゃあ俺が……いなくなったらいいんだろ! 炭治郎には俺が、邪魔なんだ!」
 今度は苦しげに言葉を紡ぐと、刀を抜き放ち善逸は自身の首に刃を押し当てる。
 首筋からじわりと血が滲んだ。
「だめだ、善逸!」
「炭治郎にどうやっても信じてもらえないなら……俺、生きてる意味なんてない」
 善逸の目に涙を浮かべつつも虚ろに視線を彷徨わせる姿は、まるで迷子になってしまった子供のようですらあった。
 ──どうしよう、どうしたらいい。このままじゃだめなんだ。
 炭治郎の胸の内には焦りばかりが募っていく。まとまらない考えを巡らせ続けてみても、目の前の状況が変わる訳ではない。当然、善逸が彼自身の命を奪おうとしている状況が変わるわけでもなかった。
 ただ考えばかりを巡らせている場合ではないのだ。
 このままではいけない。それだけは間違いなく確かなことだった。
「善逸は、俺がお前のことを信じていないと……思っているんだな」
「だってそうじゃん。俺の言ったこと、信じてくれてない。俺は、炭治郎がいてくれればそれでいいんだ……なのに……」
 善逸が血鬼術にかかっていることは、十中八九間違いない。気の狂ってしまったかのようなこんな思考を、善逸がするはずがないからだ。加えて鬼の匂いは濃くなる一方、術の影響を受けていないと考える方がおかしいと言える状況だった。
 そして、善逸は炭治郎が自分自身を信じることを望んでいる。それだけではないかもしれないが、このことは大凡言葉の通りだろうと考えられた。
 それならば答えは簡単だ。
「そんな風に感じさせてしまってすまない。善逸、俺は善逸のことを信じているよ」
「ほんと……?」
「もちろん。だから、まずその刀をおろしてくれ」
「けど、俺……」
「俺を信じてくれ、善逸」
 これまでよりも格段にはっきりと、迷いのない言葉を炭治郎は善逸に向けて発する。
 不安を覚えさせているのならば、不安を抱く隙を与えなければいいのだ。
 善逸は炭治郎の言葉を受けて、自身の得物を握った腕をだらりと下ろした。ひとまず、善逸の切羽詰まった自死の危機は回避できたと言えるだろう。
 しかし、このままではまだ十分とは言えない。
「善逸、こっちにおいで」
 近からず遠からずという距離感だった善逸に対して、炭治郎は両手を広げ自身の方へと彼を誘う。
 すっかり落ち着きを取り戻したらしい善逸が、炭治郎の誘いのままに一歩足を踏み出した。
 すると炭治郎もまた善逸の方へと一歩近づいて、彼のことを抱きしめる。
「え、炭治郎?」
 驚きと困惑を証明するように、善逸の手から刀が落ちて地面とぶつかる鈍い音が鳴った。
「本当にごめん。善逸に苦しい思いをさせてしまった」
「……ううん」
「けれど、俺には善逸がいないとだめなんだ。必要なんだ。信じてもらえない、疑われている、そんな状況を作り出してしまった自分が許せないくらいだよ」
「炭治郎……嬉しい、嬉しいよ」
 強く抱きしめながら炭治郎は善逸の耳元で優しく囁く。善逸はうっとりと蕩けたような表情で、ただただ炭治郎から与えられる音とぬくもりを受け取るばかりだ。
「本当はこんなものではない、けれど……少しでも善逸に伝わったのなら俺も嬉しい」
 微笑んで、善逸の耳に口づける。善逸はもうすっかりされるがままになっていて、先程まで何度も掻き毟っていた首筋にも、手がいかなくなっていた。
 善逸から強く感じられていた鬼の匂いが少し和らぐ。同時に少し離れた場所から、同じ鬼の匂いが感じられた。
 ──近い。
 炭治郎は確信する。今なら、善逸をこんな風にした鬼の頸を落とすことが出来ると。
「善逸、少しだけ待っていてくれないか」
「嫌だ、一緒にいてよ。炭治郎……」
「本当に少しだけだ、嘘はつかないよ」
 そう言って炭治郎は、善逸の頬に口付ける。
「……分かった」
「ありがとう」
 もう一度、善逸に微笑みかけてから炭治郎はその場で踵を返した。向かうは匂いの元凶、その根源だ。
 力一杯に駆け出した炭治郎が勢いそのままに踏み込む。樹々の奥にはギラリと光る人間とは違う瞳が確かにあった。
「水の呼吸・壱ノ型! 水面斬り!」
 腕を交差させ、勢いよく刀を振り抜く。刀軌道には鬼が確かに存在し、そのまま頸を刎ね落とすに至った。
「どう、して……」
 姿も現さないままだった鬼が、灰になりながら炭治郎に問いかける。
「術の匂いで最初はわからなかったが、気配は感じていた。どうしてこちらをつけていたのかは知らないが、それが仇になったな」
「くそ……くそ……信頼なんて、揺れて、崩れてしまえばと……壊れる瞬間を見たかった……だけだったのに」
 鬼が悔しがる言葉に、炭治郎はほんの少し眉を顰めた。
「それを願ったことが、君の間違いだったと俺は思う」
「うるさい、うるさいうるさいうるさい! 人間なんて、信じるなんて糞食らえ」
「次に生まれてくるときには、君が疎んだものの尊さを知れることを祈るよ」
 炭治郎の言葉を最後まで待つことなく、鬼の全ては灰となってこの世から消え去る。一度、鬼へ手を合わせてから炭治郎は善逸の元へと戻った。
「あれ、炭治郎? 俺……」
 先と同じ場所で善逸がへたり込んでいる。見上げながら首を傾げるその様子と、狂気を感じないいつも通りの琥珀のような瞳に炭治郎は安堵の息を漏らした。
「炭治郎? 何かあった?」
「いや、大したことじゃないよ。善逸が無事でよかった」
「えっと……ありがとう?」
 どうやら先程までのことは覚えていないらしい善逸が、状況が飲み込めぬままに何度も首を傾げている。
 少し残念な気持ちもある、正直なところ先程のやりとり、言葉を覚えていてほしかったのは本音だ。だが、あの記憶が残っていれば善逸は混乱してしまうだろう。だからきっと、覚えていない方がいいのだ。
 炭治郎は自分自身をそうして強引に納得させながら微笑む。
 あの気持ちを、あの言葉を、二度と伝えられない訳ではない。こうして一緒にいられるのならば、機会はまたいくらでもあるのだから。
 炭治郎が善逸を見つめる瞳の奥には、執着と欲が隠された。