爽やかな陽気のなか、屋敷には一人当てがわれた部屋で文机に向かったまま唸る炭治郎の姿がある。
文机の上には紙と細身の筆、そして認めるための墨と文字をしたためるための一式が揃えられていた。しかし炭治郎の目の前の紙は、真っ新なままだ。
唸り声の理由も頷ける。まさにいまこの瞬間、手紙を書気あぐねているという訳だった。
頭を掻き毟って、呻いたかと思うと次の瞬間には、そのままごろりと床を背にして寝転がってしまう。そしてついには大きなため息を吐いた。
――何をしているのだろう。
あまりにも純粋で、そしてあまりにも単純な疑問を自分に向けて投げかける。
炭治郎は筆まめな方だ。師や兄弟子をはじめ、これまで関わっってきた多くの人々に対して手紙を書き、鎹烏にそれを届けてもらってきている。
だがいつもとは別の人間に、さらに恋文をしたためようとしているとあっては、その筆まめさも形を潜めようというものだった。
必要以上の緊張から、書き出しすらも満足に綴れぬまま、すっかり時間が経過してしまっている。炭治郎は天井を見上げながら、もう一度大きなため息を吐いた。
見上げた天井は取り立ててかわり映えもなく、そして見上げたからといって何かが変わるというわけでもない。
炭治郎は想い人のことを、頭に浮かべ伝えたいことをまとめるべく再び思案を始める。伝えたい想いが、どんどんと溢れて止まらなくなっていくのがよく分かった。そう、止めどなく溢れる言葉を手紙にすることが出来ないのだ。
元々は伝えるつもりは全くなく、この想いを抱いたことそのものを思い出として大事に抱えて生きていこうと思っていた。それでもこの想いを伝えようと思ったのは、この衝動にいつしか耐えられなくなっていたからだ。
目の前にいるだけで心臓が高鳴るのがよく分かったし、それだけではない。気持ちが逸るのだ。
自分の匂いは分からずとも、相手の匂いはしっかりと嗅ぎ分けることが出来る嗅覚を持つ炭治郎だからこそ、その想いを如実に感じ取ることが出来た。相手から感じる匂いは、期待や恋という感情が乗せられていて、当人は伝えるつもりは微塵もないのだろうが、まるで花が甘く香るようなその匂いはやはり気持ちを逸らせるものだったのだ。
せめてはっきりと自分の想いを伝えたい、応えるか否かはさておいて、受け取ったこの想いに対しての言葉を紡ぎたいと、そんな気持ちが自然と湧き上がった。
だからこそこの想いを手紙にしたい、と思ったはずなのだが、この有様だった。
結局、文机に向かい直してみたところで、これといって手紙が書けるようになる訳でもなく、何度も書いては紙を丸めて捨てるという不毛な行為を繰り返す。
驚くほどに時間は過ぎ去っていて、気がつけば日は傾き始めていた。それでも炭治郎は手紙を書いては捨て、悩んではまた書いてを繰り返す。
そうしてやっとの思いで、手紙を完成させたのだった。
「ただいま戻りましたぁ」
夕日が差し込む屋敷に、善逸の声が響く。その声は覇気がなく疲れ切ったものだ。その声は炭治郎の耳にも届いていて、その瞬間に全身に緊張が走った。
手元にはやっとの思いで書き上げた手紙が、しっかりと握られている。その表情は硬く、先程の緊張を如実に示していた。
「たぁんじろぉ~」
この上なく情けない声で善逸が、真っ直ぐに炭治郎の元へと向かってくる。そのあまりにも的確な足取りは、炭治郎の鼻に届く匂いが着々と濃くなっていく形で証明されていた。炭治郎は縁側に座り、静かに――見た目には、というだけで実際は緊張やらなんやらで叫び出してしまいそうだった――善逸がやってくるのを待っている。
「あ! いた!」
縁側までたどり着いた善逸が、再び大声をあげたかと思うと廊下を走って近づいてきた。板張りの廊下は、善逸の動きに合わせて軋むが、音の速さは移動の速さを物語る。
みるみるうちに目の前までやってきた善逸は、炭治郎の横に腰を下ろすとそのまましがみついた。
「聞いてくれよ、たんじろぉ!」
先の呼び声に負けじ劣らずの情けない声で、善逸は延々と単独任務での泣き言を口にし続けている。だがすぐに、そのよく回る口がぴたりと止まった。
「なぁ、どうかした?」
しがみついたまま善逸は炭治郎を見上げる。その様子は見るから疑問を抱いているという様子で、その瞳は不安と心配が入り混じっていた。
「やだ、俺なんかしちゃった?」
「いや、そんなことはない」
「じゃあ、何なの。どうしちゃったわけ?」
瞳に涙をためながら、疑問の言葉を紡ぎ続ける善逸の姿に、炭治郎は逆に言葉を挟めなくなっていく。握っていた手紙をそっと隠そうとするが、その紙の音を聞き逃す善逸の聴覚ではない。
善逸はその口から「紙?」という疑問の言葉を出しながら、音の出所に手を伸ばす。するとそれを必死に遠ざけようとしている炭治郎の手と、頑張って伸ばしている善逸の手がぶつかった。
「わ、ごめん!」
「いや、俺こそ……ごめん」
二人の間には何とも居心地の悪い空気が流れる。それだけならばまだしも、善逸が思い切り炭治郎に対して身を寄せていたというところもあって、尚のことばつの悪い空気となってしまっていた。
ゆっくりじりじりと二人は身体を離して距離を取る。お互いの頬は心なしか赤く染まり、妙な空気の中に緊張感まで追加されてしまった。
「な、炭治郎」
どうにも妙な空気を打ち破ったのは善逸だ。
「やっぱり、今日……なんかおかしいだろ。様子もそうだし音だって、落ち着かない感じだしさ」
続けられた善逸の言葉に、炭治郎は観念した様子で力なく笑みを浮かべた。
「やっぱり善逸の耳の前で、隠し事はできないな」
その言葉とともに炭治郎は善逸に向けて、一度は隠した手紙を差し出す。ほんの少し前まで、延々と文机と向き合ってやっとの思いで完成させたそれだ。
「手紙?」
「ああ、善逸に宛てて書いたんだ」
「へ? 何で?」
「伝えたいことがあったんだよ」
「ふぅん?」
炭治郎の真意を図りかねているらしい善逸は、先とは違った少し間の抜けた様子で、疑問を抱いている様を首を傾げて表する。
「これ、読んでいいの?」
「……一人で読んでもらえる方が嬉しい」
やはり、自分の書いたものを目の前で読まれるいうことには羞恥心が少なからず生じるものだ。
「わかった」
善逸は物分かりよく、その返事をすると神妙な面持ちで立ち去っていく。炭治郎はどうすることも出来ずにただ、立ち去っていく善逸の背中を見送るばかりだった。
――善逸。改めてこうして手紙にしようと思うと、どんな風に書けばいいか分からなくなるな。
正直な話、これを書き上げるのにかなりの時間をかけてしまった。それでもどうしても伝えたいと思っていることがあるんだ。
俺は、善逸のことが好きだ。
友としてはもちろん、それ以上に俺は善逸のことを好いている。お前のことだから、音である程度のことはわかっているのかも知れないけれど。
返事はなくていいし、断ってくれても構わない。けれど、何にせよ返してもらえると嬉しい。
新しい朝がきた、というには頭が重い。その理由は純粋な睡眠不足だった。
ずしんと重みを感じる頭を振って、炭治郎は伸びをひとつして縁側の方へと足を向ける。「よ、炭治郎。おはよ」
「おはよう、善逸。今日は早いな」
炭治郎はその鼻で存在を感じていた善逸が、ゆっくりと近づいてきたのを確認しながら挨拶を返した。
軽くいつもと変わらないようにも思える挨拶を口にしながら、善逸の表情は少しばかり硬さがある。
ぴりりとした緊張感が二人の間にはあった。
炭治郎としても、主な睡眠不足の原因が目の前にいるあたり、何とも言い難い思いを胸に抱きつつ、それを見せぬようにと勤めている。
「今日は何か予定あんの?」
「いや、今日は何も予定はないが……」
その言葉に、善逸は一気に真剣さを増した表情で炭治郎に真っ直ぐ向き合った。
「手紙の返事」
端的に告げられた言葉に、炭治郎は少なからず動揺する。こんなすぐに、しかも返事が返ってこようとは期待していなかったのだ。
「知ってたよ。炭治郎の音が最近、よく跳ねていたし緊張とかいろんな音が混ざり合ってた。聴いたことはあったけど、自分に向けられたことはない音だったから、驚いたけどな」
善逸はそこまで言うと、眉を下げながらも破顔する。
「俺も、好きだよ」
その言葉は幻聴なのではないかと思った。伝えられれば万々歳、返事には期待していなかっただけに、目の前で起こっていることについていけない。
こんなに嬉しいことはない、思いが通じるということはこんなにも尊く、輝かしいことなのかと幸せを噛み締める。
「な、たんじろ?」
「うん?」
「手紙読んでて思ったんだよ、俺なんかでいいわけ?」
「何をいってるんだ? 善逸だから好きなんだ、善逸じゃなきゃだめだと思ったんだよ」
炭治郎の言葉は善逸に響いて、昨日とは違うあたたかな涙がその瞳からこぼれ落ちた。
その涙はあまりにも美しく見えて、炭治郎は思わず息を飲む。
「物好きだなぁ」
涙を流し続けながらも善逸は、柔らかな笑みを浮かべていた。その姿がまた美しく見えて思わず炭治郎は一歩、善逸の方へと歩み寄る。
「口づけても、いいか?」
律儀に尋ねる炭治郎に、善逸は大きくひとつ頷いてみせた。そのまま炭治郎は、吸い寄せられるように善逸へと口づける。
時間にしてみれば一瞬だったろう唇が重なり合ったその瞬間は、永遠にすら思えるものだった。
