不穏な音がする。欲にまみれた、吐き気すらも催してしまいそうなそんな音だ。
いつから続いているのかはもう思い出せないが、このところずっとその音を耳にしているような気がする。実際の音なのか、幻聴なのかも定かではなくなりつつあるそれは、嫌な想像ばかりを抱かせた。
我妻善逸は風紀委員の仕事を終えて、一人夕暮れの空の下を帰る途中だ。空はいつもよりも不気味なほどの赤に染まっているように思えて、善逸は小さく身震いする。
不穏な音、不気味な夕焼け、その全てが何か良くないことに続いているのではないかと、そんな考えばかりが脳裏をかすめていった。
ずっとずっとついてくる、ひたひたと忍び寄ろうとする音がある。この足音に気がつかない善逸ではなかった。
(なんだ、この間から聴こえてる音ってこいつのなのかな……)
ここ最近の不穏な音を思い、善逸の肝がぞっと冷える。
「なぁ、兄ちゃん」
ついにそいつは声を発して、善逸の方に手を伸ばした。ぞわりと嫌な寒気が背中に走る。
「誰ですか」
できるだけ平静を装って、善逸は振り返らずに応えた。
「こっち向けよ」
「なんで……」
「こいつらがどうなっても良いわけ?」
まごうことなき脅し文句に、善逸ははじかれたように振り返る。声をかけてきた男の手には画面の大きめな端末が握られていて、その画面を見せつけるよおに突き出してきていた。
そしてそこに映っているのは、親友である炭治郎とその妹である禰豆子の姿だ。善逸の背筋には先ほどにも増して、寒気が走る。
「おーおー、やっぱこいつらは傷つけられねぇよなぁ」
善逸はじろりと相手のことを睨めつけた。目深にフードを被っていて顔は見えないが、口元を歪めて嗤う姿は異様だ。
「これは俺の仲間が撮ってる。お前が下手なことしたらすぐに伝えて、こいつらが酷い目に合うことになるぜ? それが嫌なら黙ってついてきな」
「……っ」
口惜しそうな息が善逸の口から漏れるが、炭治郎と禰豆子を傷つけさせるわけにいかない。言われるがままに善逸は、そのみるからに怪しい男に従って歩いた。
連れて行かれたのは、街のはずれだ。ここは治安が悪いとされ、普段から人の姿もほぼないような場所だった。
そんな区画はがらんと人気のない建物ばかりが並び、不気味さを感じずにはいられない。それでも足を止めることは許されず、ひたすらに歩き続けてたどり着いたのは、倉庫と思しき建物だった。
「さてと、どうしてこんなところに連れてこられたのか分からないって顔だな」
建物の中に入るなり男は、にやりと笑いながら言い放つ。
実際のところ、その言葉は正確ではない。善逸は男の音から、目的が自分自身であることは承知している。問題は、何故、男がそう思いこの行動に至ったのかという経緯の方だった。
しかし善逸は口を開かない。それは不用意以外の何者でもないと思ったのだ。
「俺の目的はお前だ。厳密にいうと、お前の身体だな」
そう言ってのけた男の表情は、得意げだった。まるで何かを自慢したい子供のような、そんな様子から繰り出される言葉は信じられないほど気味の悪いものだ。
「いいねぇ、その侮蔑の目。そういうのが欲しかったんだ」
どうやら根っから、特殊な趣向をしているらしい。少なくとも善逸には全く理解できそうもなかった。その冷たい感情が、言葉を発せずとも視線から伝わるらしく、男はその表情に恍惚の色を惜しみなく滲ませる。
「お前に出来ることはただひとつ。あの兄妹に危害を加えて欲しくなければ、抵抗ひとつせず、俺の求めること全てを受け入れろ」
善逸は自分の全身から血の気が引いた。そのはっきりとした感覚を、否応がなく味わいながら目の前の男の欲情の音を聴く。
彼が何を求めているのか、はっきりと分かってしまうこの耳が憎らしかった。
「返事は、はいだけだ。分かったな?」
「……はい」
従順な善逸の姿に、男はご満悦だ。歪んだ口元は、善逸からしてみると吐き気を催すほどのものだったが、その想いすらもぐっと抑える。炭治郎達に危害を加えさせることだけは、あってはならないことだった。
次の瞬間、男によって瞬く間に縛り上げられると、放置されていた椅子に括り付けられてしまう。
「……っ」
思わず声が漏れるが、それでも善逸はぐっと堪えて目前にある男の顔を睨めつけた。
「そういう表情は煽られるから、嫌いじゃないぜ」
くく、と喉から絞り出すような嗤い声の後、みるみるうちに男の顔は善逸の首元へと近づいて、執拗なまでに首筋に舌を這わせ始める。
ぞわりと嫌悪感が善逸の全身を駆け巡った。
どうして、こんなことになってしまったのか。善逸は思考する。
ただしそれは、状況を変えるためのものではない。状況から逃避するためのものだ。
知っている、世の中は悪夢なんかよりずっと酷いことが起きるのだと。だから自分は今、人質をとられてされるがままになっている。
その選択を間違いだとは思ってはいない、大切な人が傷つくならば、自分が傷ついた方がいい。守りたいと願った人のためなら、なんだって出来るし耐えられる。それが今の状況なのだとしても、そこに悔いはなかった。
「お友達のためなら耐えられる、ってのはいいね。泣かせるねぇ」
荒っぽい口調で目の前の男は、からかうように善逸を嘲笑う。その状況を作ったのは、自分自身であるにも関わらず、それをまるで忘れ去ってしまったかのような言い様は、どう考えても善逸を煽ろうという意図しか感じられなかった。
対して、言葉こそ返さないが善逸が男に向ける視線は冷たく、そして穿つような鋭さだ。
「可愛くねぇな」
吐き捨てるように男は言うが、すぐにねっとりとした笑みを浮かべ、椅子に縛り付けて身動きの一つも取れない善逸に手を伸ばす。
執拗かつ寒気をも感じるような手つきに善逸の身体は小さく震えるが、もちろん逃げられようはずもない。
これに耐えきれば、そして誰にも話さなければ、誰にも知られることなく大切な人の全てを守れるのだ。その想いだけが、今の善逸を支えていた。
善逸は無意識のうちに、炭治郎のことを想う。彼にとって炭治郎は、想いを寄せる人間であり愛してやまぬ者でもあった。
炭治郎の無事だけを祈り、目の前の男を見ないようにと努めても、その気持ちの悪い欲情の音が消えることはもちろんない。
服の上から全身を撫で回し、その間から手を差し込み、弄り、撫で上げていくその手が、止まることはなくあまりの不快さに善逸の身体が震えた。
善逸の肌を直接撫でる男の手は、徐々に身体を撫で回すその手つきが激しくなっていく。拒絶することの許されない状況に、ただ歯を食いしばって耐えることしか出来ない。
「気持ち悪いか? 俺のことが憎いか? ひひひひ!」
歯を食いしばる善逸の様子を見つめて、男はさらにその異常性を際立たせながら、もう一度顔を首筋へ寄せて舐め始める。それと同時に手は、衣服をはだけさせながら善逸のことを求めた。
「……っ、んん」
意図していなかった声が、自分の口からこぼれたことに善逸は衝撃を受けずにはいられない。
「なんだ、気持ち良くなっちまったか? 嬉しいねぇ」
さらに気を良くしたらしい男は、這わせていた舌を首筋から一度離すと、今度はそれを耳周りに這わせ始める。
それと同時に善逸の身体が、びくんと大きく跳ねた。
「ひっ……やぁ……」
「そうかそうか、お前は耳が弱いのかぁ」
ニヤニヤと意地の悪い笑みと共に、何度も何度も耳の辺りを舐め回したかと思えば、次の瞬間には耳の中まで舌を差し入れる。
再び善逸の身体が大きく跳ねて、小刻みに震えていた。避けることも身をひとつ捩ることすらも出来ない善逸は、されるがままでいるしかない。
当然の如く耳への攻めが簡単に終わるはずもなく、耳の中を丹念に舐め上げられて善逸の聴覚はぐちゅぐちゅという唾液の音に、すっかり支配されている。
耳を侵されて、気持ちが悪いはずなのに身体はその音に反応して、身体の奥にほんの少しではあるが甘い痺れを覚えさせた。
「や、だぁ……やめ……」
拒絶の言葉を口にしながらも、とろんとした表情は善逸に快楽が侵食していっていることを、如実に示している。
「いやじゃないだろ? それにいいのか? 拒否すれば、お前の大事な人たちがひどい目に遭うんだぜ?」
耳から舌を抜いてから向けられる男の言葉に、善逸から血の気が引いた。炭治郎達のことを一瞬でも忘れていたなんて、そんな罪悪感が彼に一気に押し寄せる。
耐えなければ。耐え切らなければならない。
首を大きく振って、気を落ち着かせようと善逸は必死だった。男のことを改めて睨みつけるが、その息は荒く、頬は赤らんで、目には涙がたまっている。
「もうすっかり、迫力がなくなっちまったなぁ」
カラカラと嗤う男のその言葉通りだ。
善逸は苦しげに下唇を噛んだ。それは自分自身に対しての戒めだった。自分で決めたことすら貫けず、快楽に負けそうになってしまった自分を、少なくともしばらくは許せそうにない。
今すぐ舌を噛み切って死ねたら、そんな考えが頭をよぎるが、次には炭治郎の顔がそして禰豆子の顔が浮かぶ。そして善逸の瞳には再び涙が滲んだ。
「何で泣いてんだ? ま、そそられるからいいけどな」
男は善逸の様子が理解できないという様子だったが、特に意に介することもなく先程と同じように、耳に舌を差し入れる。
水気の含んだ音が、ぐちゅりと鳴った。善逸の身体がまた跳ねて、今度はそれが何度も何度も続く。押し寄せる快楽に対して、気持ちはいくら強く持とうとも身体は耐えきれなくなっていたのだ。
「は、あぁ……んっ、んっ」
耐えきれなくなったそれが、口をついて嬌声として吐き出される。執拗に耳を侵され、善逸はもう限界だった。
それを見計らったかのように男は、手を胸元から下半身に向かって這わせる。ゆっくりと這う指先は、善逸の身体にまた別の刺激を与えた。
「やだ、やだ……俺っ」
「すっかり感じてくれてるなぁ」
「そんな、こと……っ!」
「あるだろぉ?」
ぞわぞわと全身に寒気に似た、しかし身体の芯から痺れていくような、そんな感覚が善逸の中を駆け巡る。反射的にその得体の知れない感覚に対して、拒絶の声を上げるが男は手を緩めようともせずに、言葉と共に煽り立てた。
どうしたらいい、どうすればいい。思考を巡らそうとしてみたところで、狂おしいほどの悦楽が善逸を止めどなく襲う。
ついには男の手が、善逸の下半身――着衣の上からでもはっきり分かる、それほどに膨張したものに届いた。
「やっ、触る……なぁ!」
「こんなにでかくしてるのに? 本当に嬉しいよ、もっともっとよくしてやるからな」
「だめ、だめだめだめ、やめっ……ひぁっ」
もはや張り裂けそうなまでに膨らんだそれを、男の手は服の上から握り、こねくり回していく。
「あっ、ああっ、だめ、いやだっ……んうっ、はぁ」
口だけの拒絶は、快楽にかき消されて善逸は、どんどん言葉にならないような声をばかりをもらし始めた。
「ふふふ、ははっ。気持ちいいなぁ! 俺もいい気分だよ」
男の言葉はもう善逸には届いていないらしく、ひたすらに喘ぎ身体を震わせるばかりに成り果てている。
「あん、あ、はぁ……はぁ、ふ、ん……た、んじ、ろ……」
そんな中にあって善逸は、切実に求めるように炭治郎の名を口にした。
「そうか、ただの友達じゃないんだなぁ! お前も俺と同類ってわけだ!」
嘲笑う男を目前にしながら、善逸は動かせない身体を必死に動かして、その瞳から涙をこぼす。
「たす……けて……」
「もちろんだ」
男が目を驚きに見開くのと同時に、背後からぐいと引かれてその場から引き剥がされた。
そのまま男は引き剥がされた勢いで、尻餅をつく。
「誰だ!」
不格好に地面にひっくり返ったまま、男は背後に現れた人物に怒鳴った。
「俺の名は竈門炭治郎だ」
男のことを見下していたのは、善逸の呼んだ炭治郎その人だったのだ。
「何で! お前は!」
「何故……? そんなことはどうでもいい話だ。俺は、お前が善逸にしたことを許さない」
さらなる驚きに男は混乱を来しているが、炭治郎の方は怒りに震えている。彼の瞳に映る善逸の姿は、あられもないものだ。怒りももっともと言えるだろう。
「くそっ」
月並みの捨て台詞を吐いて立ち上がった男に、炭治郎は一歩また一歩と近づいた。
「歯を食いしばれ」
そう言うが早いか、辺りにドゴンと鈍い音が響く。椅子に縛り付けられたままの善逸も、思わず目を瞑ってしまうほどの衝撃だった。
ずるりと男が地面に崩れて落ちる。炭治郎が全力で男に頭突きを見舞ったのだ。
「……やばい音だ」
善逸はその言葉を口にせずにはいられなかった。それほどに強く激しい衝撃が、彼の耳に伝わっていたのだ。
「大丈夫そうだな」
「いや、大丈夫ではねぇよ……」
駆け寄ってきた炭治郎に、善逸は存外冷静にツッコミを入れる。炭治郎はその様子に微笑んだ。
「てか、何でお前がここに? 変なやつに見張られてたんじゃないのか?」
「ああ、変なやつはいたよ? 伊之助がそれに気付いてくれてな。警察に渡してきたよ」
「……マジかよ」
見えぬところで活躍していた伊之助に、善逸は呻くようにしてから、次には笑い声を漏らし始める。
「善逸?」
「いや、伊之助にも後で礼を言っとかないといけないなと思ってさ」
「ああ、そうだな」
言葉を交わしながら、炭治郎は丁寧に善逸を縛り上げていた縄を解いた。そのまま善逸のことを抱きしめて、離そうとしない。
「たんじろ?」
困惑し、抱きしめられたままの善逸の瞳は、右往左往して落ち着く気配が微塵も無かった。呼びかけてみても炭治郎から、反応が返ってくるわけでもない。善逸はただひたすらに困惑するばかりだった。
「なぁ、炭治郎。炭治郎ってば」
「……よかった」
「心配してくれたの?」
「当たり前だろ!」
ばっと音がするほど勢いよく善逸の身体を離すと、炭治郎は真っ直ぐ彼の顔を見つめる。
「家の近くにいた奴らに善逸のことを聞いてから、心配で心配でたまらなかった。間に合わなかったら、もう会えなかったらまで考えていたんだ」
切実かつ真剣な表情からは善逸のことを本当に心配していたのだろうということが、はっきりと伝わった。
「ありがとな、きてくれて嬉しい」
「うん」
「たんじろ、俺……お前が好きだよ」
善逸の唐突な告白に、炭治郎の瞳が白黒する。炭治郎の様子に善逸は慌てふためいて、口を何度もぱくつかせた。その様子は水槽の中で酸素を求める金魚のようでもあった。
「忘れて! 何でもない! 忘れてっ!」
「無理だ」
「ええええ~こんな時まで真面目かよ」
「だって、俺も好きだから。嬉しいんだ」
「へ?」
炭治郎は相変わらず真っ直ぐ善逸を見つめていたが、その頬ははっきりしっかり赤く染まっている。
一方の善逸は呆けた表情を浮かべてから、驚きと共に一転とんでもない速度で赤面した。
「俺も好きだ、善逸」
「……んで」
「え?」
「何で、絶望と幸福が一度にやってくんだよぉぉぉ!」
絶叫にも近い叫び声を上げながら、先程とは全く違う喜びの涙をぼろぼろと流す。炭治郎はそんな善逸をもう一度抱きしめると、子供をあやすように背中を優しくさすった。
「落ち着いたら帰ろう?」
「うん」
まだ涙を流したままの善逸ではあったが、炭治郎の言葉にはっきりと肯定の言葉を口にする。
恐ろしいこともあったが、この想いが通じ合ったということを今はただひたすらに喜びたかった。
今、善逸の耳に聴こえるのは幸せの音。二人の幸せの音だった。
