不協和音の協和音

白髪の男は今回、合同で任務にあたれと指示を受けて連れて来られた男に対して、あからさまに不服そうな表情を向けた。
不服そうな視線を向けられている黒髪の男の方は、そんな視線を気にかける様子ひとつなく通された場所をぐるりと興味深そうに見渡している。
普段であれば白髪の男──左雨行孝の隣には、警察の怪異対策部署に所属する者として共に仕事をする後輩がいるのだが、今回はその姿はない。
緊急の案件が、後輩が休みの間に飛び込んでくる格好となり、上層部が人員不足という事態を流石に憂慮して起こしたのが黒髪の男──怪異退治屋である神来社八雲だった。
「……どれくらい話を聞かされてきてるわけ?」
「詳細は直接とのことだったので、多くはお聞きしていませんよ。せいぜい、今回は怪異に対処するにあたって人員が不足状態に陥る可能性があるということ程度です」
淡々と、それでいてにこやかに話をする八雲に対して、行孝はなおのこと不服そうに顔を歪めた。
あまり他人とコミュニケーションをとるということに重きを置いていない行孝自身が、目の前にいる八雲に対して状況含め諸々を説明しなければならないという状況が、もうすでに不服この上ない状況なのだ。
「なので、詳細の説明をよろしくお願いします。担当の左雨さん?」
八雲は穏やかな笑みと共に、少なからず圧を滲ませながら言葉を発する。
それがまたどうしようもなく行孝の癇に障った。が、流石にこの仕事を回避することもまた難しい。
説明を怠れば後で困るのは他の誰でもない行孝自身だ。こればかりはもう、どうしようもない。
行孝は大きくため息を吐いて、次に口を開く。前置きは「一回しか言わないから」だった。
八雲に対して説明された内容はこうだ。

──夕方、日が暮れる直前といった時間帯に最近必ず報告を寄せられることがある。
『道に迷った、と話す人に案内をしようとして一緒にいた人間が姿を消してしまった』
というものだ。
これは必ず、複数人で連れ立って歩いている者たちに声をかけ、そのうちの一人が忽然と姿を消してしまうという状況だった。
全員が、ではなく一人だけが、というところが必要以上に引っかかりを与える。そんな不可解な状況だ。
これに遭遇し、失踪しなかった人間の中には、これ以上に不可思議な証言をするものもいた。
『道を尋ねてくる人は、何かは分からないけれど違和感があった』
それは物理的に変、というわけではなく漠然と違和感を覚えるという類のものらしい。
この被害を被っている人間は、管内でもかなりの人数にのぼっている。死傷事件にこそ発展してはいないが、失踪状態が続く以上は現状の確認と元凶の根絶が必要と判断された。

「……で、僕たちが対応するって話」
行孝は話し終えると、大きくひとつため息を落とす。不要な労力を使ったとでも言わんばかりだ。
八雲の方は受けたばかりの説明を、自身の中で反芻しているらしく考える仕草をしながら無言でその場に立っていた。
そしてちらりと、視線を窓の外へと向ける。
時間は夕刻には差し掛かるにはまだ早いが、それでも途方のない時間を待ち続けると言うほどの間がある、というわけでもない。
「時間帯は近いけど……場所はある程度絞られているんですか?」
確認の言葉を投げかけたのは八雲だ。
「問題ないよ。大体目撃証言の上がってる場所は限定的だから」
「なるほど。それなら二人でも対処は可能か」
八雲の返した言葉に、行孝は不服そうにほんの小さく舌を鳴らした。
彼にとってこれは、自分一人でも対処可能であると思っているからだ。確かに二人の方が不測の事態に対処は出来るだろう。
だからと言って、そうしなければならないというわけではない。と、行孝はやはり不服だった。
普段ならばまだしも、今回は今この瞬間に顔を合わせたような人間と協力してという話なのだ。
元来、他人に対して大きく信用を置くことのない行孝はこういった事態を心底煩わしく感じる。この上なく面倒だと。
なまじ、目の前に立つ八雲が人当たりが良いというところと、腹立たしいほどにその所作が実力ある人物だと感じさせるからこそ、尚のこと億劫だと感じていた。
「それでは、今から目撃証言が集中している場所へ向かう、ということで大丈夫ですか?」
八雲が再びにこやかに尋ねる。
「もちろんそれでいいけど、仕切らないでくれる?」
あからさまにムッとした様子の行孝の表情に、八雲は小さく微笑んでから「失礼しました」とだけ告げた。

そこには二つ、影が伸びる。
行孝と八雲は最低限の確認を行なった後に、現場へと赴いていた。
まだ夕方というには少しばかり早い頃合い。だが、学生たちの帰宅の時間帯のうちのひとつにかち合ったらしく、やってきた場所の人通りはそれなりだった。
連れ立って歩く仲が良いだろう学生たちの賑やかな声が響き、八雲はそれに穏やかな表情を浮かべ、反対に行孝は険しい表情を見せる。
刻一刻と日は傾き、太陽の光を白から橙色へと変えていった。鮮やかな橙色は目に眩しく、不穏とはまるでかけ離れた日常をあらわす。
往来の人々は数を増し、到着した時よりも多くの人間が行き交っていた。
それまでの間、二人は一言たりとも言葉を交わしていない。厳密に言えば、行孝が全てを拒絶していた。
八雲は小さくため息を吐く。
──これは結構、骨が折れそう。
それが内心で抱いた正直な気持ちだった。
行孝の方は不機嫌そうな顔を浮かべたまま、ただ冷たく往来を眺めている。
──別に僕一人でいいのに。
相変わらずの本音は、他人を拒絶するものだ。纏う空気にも緊張を走らせ、案に話しかけるなと伝えている。
これを向けられている当人はたまったものではなく、第三者から見ると厄介この上ない。
だが八雲は特に気にする様子も見せずに、周りを見つめている。その目は表情の穏やかさに反して冷静だった。
「……そろそろ、かな」
誰に言うでもなく、八雲は呟く。
先までは穏やかな夕焼けの色を映していた空が、不気味な赤を帯び始めた。それは日が暮れるゆえの赤みなどではなく、非日常の到来を告げる不穏の色だ。
往来の人々の一部が、不安げに空を見つめて恐怖と不穏を瞳に映す。
嫌な予感、というやつが警鐘を鳴らしているような、そんな気配に場の一帯が満たされていった。
ゆらり、揺れる人影が二人の視界の端を横切る。
八雲はそれに対して真剣な鋭い視線を、行孝は不敵かつ興味を抱いている好奇の視線を向けた。
その人影には二人とも往来の人々とも違う決定的な差が存在している。
夕暮れ時、特有の長い影が〝ない〟ということだ。
疑う理由はそれだけで十分であり充分過ぎる。それこそが、存在が人の理とは別の理の元に在ることの証明であり、同時に二人が対処すべき存在であることの証明でもあった。
二人は同時にその影なき存在を追いかけるべく足を動かす。
八雲の足取りは慎重だったが、行孝の方は逸る足取りといった風で、八雲としては肝を冷やさずにはいられない。
少し動作を制するように動けば、行孝からの刺すように冷たい非難の視線が返ってくる。
ありありと、邪魔をするな余所者という感情が伝わって八雲はため息を落とした。
それでも二人は件の影なき者を少し離れた位置から確認する。やはり現場は確認しておきたいところであったし、人間相手でも人外相手でも現場を押えるに越したことはない。
影なき者は通りかかった女子学生のグループのなかの一人に声をかける。
『すみません』
「……はい」
複数いる学生の中で取り立てて特徴のない、言ってしまえば控えめで目立たない人物のことを引き止めた。
この手の人物は存在感が希薄で、加えて誰かの言葉を無碍にもしないことが多い。狙うには格好の的なのであろうことが察せれてしまうあたり、なんとも言えないところだった。
『道を教えて欲しいんですが』
「あ……ええと、はい。いいですよ」
話をしている間に、引き止められた学生とその友人たちとの距離が引き離されていく。
自然、孤立していく格好になり生徒は影なき者とのみ相対している状態になった。
こんなにも空は不気味な赤だったろうか。
先ほどまでの人通りが嘘のようなほど静かになったこの辺りには、不気味な気配ばかりが漂う。
知っているはずの場所が、まるで知らない顔を見せている──そんな感覚だった。
これが通報にあった状況だろう。そう認識できるには充分すぎるものだ。そんな状況に八雲も行孝も頷いた。
生徒が相手に、どこへ行きたいのかと尋ねようとした瞬間に、人の形をしていた影なき者の全身が牙のついた大きな口へと変わる。
人間と視認できる身体に大きな口とぎょろりとした気味の悪い大きな目がくっついている姿は、存在としてのバランスを失っているように思われた。
そんな異形はそこに当たり前に立ち、生徒の捕食を狙う。
生徒が再び視線を向けたそこには、もう擬態なく偽りない異形の姿だけがあるだけだった。
「え……?」
追いつかない理解に、生徒の表情どころか全身が凍りつく。
容赦なく異形は生徒へと向かい、その全身をひと飲みできてしまうほどの口を開いた。
生徒は硬く目を瞑る。逃げることのできない身体が唯一できる抵抗だ。抵抗というにはあまりにも無力なもので、自分自身でもこんなことでは何も変わらないと一瞬で理解できる。
だがそれでも、何かをせずにはいられなかった。自ら閉ざした視界の向こうで、きっと自分は喰らわれてしまうのだろう。
「こっちに!」
凛とした声の後に生徒は腕をぐんと引かれて、思わずその双眸を再び開いた。
視界いっぱいに広がったのは見たことのない人物の背中だ。
「……え?」
追いつかない理解にただ声が漏れる。
背中の主──八雲──が振り返り「大丈夫……そうだね」と小さく微笑んだ。
「……あ、えと」
「そこを動かないでね」
先ほどよりも緊張感のある声で八雲がいうと、生徒は何度も小刻みに頷く。
八雲は再び視線を前方へと戻すと、目前には大口を開いたままの大型の異形が、行孝の大ぶりな蹴りによって体勢を崩している状況が展開されていた。

今しがた生徒が異形に喰らわれそうになった瞬間、行孝と八雲が地面を蹴り出すのはほぼ同時だった。
しかし足の向いた先には歴然とした差がある。
八雲は生徒の方へ、行孝は異形の方へ向けてひた走った。
八雲としてはおそらく行孝は異形の方へ向かうだろうと踏んでいたし、行孝としては異形に一撃を見舞うことだけを考えていたのだ。
状況としてはしっかりと噛み合った格好である。彼らの意思疎通がなされているわけでは決してないあたりは、如何ともし難いところだが。
「鬱陶しい、な!」
シンプルかつ直球な不快感を示す言葉と共に、行孝は足を振り上げてから反動を使って斜め下方へ蹴り出した。踵で蹴りつける形で異形に足がめり込むように命中する。
異形は側面から唐突に衝撃を与えられる格好となり、がくんとその体勢を崩した。
もちろんそれが致命傷になるようなことはない。だが、動きを止めるにはこれで十分だ。
今の行動の目的は一撃必殺ではない。体勢を崩させることによって、こちらのペースに巻き込むことだ。
蹴りを命中させた行孝はその反動で少し後退すると、その隣に八雲が並ぶ。
「……作戦は?」
「……勝手にやって」
返される相変わらず無愛想な言葉に八雲は肩をすくめた。
「僕の邪魔だけは、しないでよね」
「……了解」
じとりと向けられた葵色の瞳と、少し呆れの感情を含んだ紺桔梗色の瞳が、それぞれ互いに視線を向ける。その視線はしっかりと交錯するが、彼らの意図は視線のようには絡まない。
自由であり、奔放であり、我先にという印象ばかりを受ける行孝の行動と言動は、誰かと関わることを拒絶しているかのようだ。
そんな一癖も二癖もある行孝の様子は、八雲から見るとただただ面倒な人間でしかない。
これで普段は後輩と二人体制で仕事をしているというのが、どうにも想像がつかないくらいだった。
──面倒だけど、ここはうまく合わせるしかないな。
八雲としてはそれ以外の選択肢はない。
あの頑なな態度を崩すのはなかなかに骨が折れる。加えて目の前には大型の異形だ。事態は一刻たりとも待ってはくれない。
結論として、八雲の側でうまく合わせるしかないのだ。それこそ行孝の言う通り、彼の邪魔にならないように。
自然と八雲の口からは大きなため息が落ちる。あまりにも露骨なそれは、当然ながら隣の行孝の耳にも届いた。
再びじろりと睨め付けるような視線が、八雲の方へと向けられる。
「なに?」
「いいえ?」
八雲はあらん限りの営業スマイルを行孝へと向けた。
それを行孝は不愉快そうな表情で受け取る。ふんと鼻を鳴らしてから「行くよ」とぶっきらぼうに声を発した。
行孝の声を合図にして、再び二人は地面を蹴る。今度は二人して一斉に異形の方へと向かい、それぞれが刀の柄に手をかけた。
だが、そこで八雲が一歩動きを遅らせる。それも意図的にだ。
しかし行孝はそれを意に介する様子もなく、大きな動作で刀を抜き放つ。そのまま勢いよく振り上げ、力で押し切るが如く思い切りよく振り下ろした。
流派も何もあったものではなく、あまりにも単調で見切れる動きだ。だが、行孝の大柄さが幸いしてただ振り下ろすだけでも、一般的な成人男性が同じ動作をするよりも間違いなく大きなダメージを与えることが出来る。
残念ながら今の攻撃は異形の腕がぐんと伸びてきて防がれてしまったが、がぎんと大きく鈍い音が響いたあたりにその衝撃の大きさがはっきりわかった。
「ちっ」
行孝は舌打ちをひとつ落として、防がれてしまった刀身を引き離すべく再び足を繰り出す。
足の動作は刀よりも素早く、真っ直ぐ前に向かって放たれた。
先ほどのような仰け反り、体勢崩しを狙うものではなく刀を、ひいては自分自身を異形から引き離すための手段だ。
その変則的な動きは、異形を戸惑わせて再び動きを止めるに至る。
この異形は動作が緩慢になりがちな傾向があるらしい。
加えて行孝の繰り出す純粋な攻撃力は、正直なところ八雲から見てもなかなかのものだ。
冷静に両者の状況、そして手の内を見て八雲はひとつ頷く。彼の頭の中には自身の動き、そして行孝と異形の動きがもう思い描かれていた。
問題はない。あとは立ち回り異形を斬るのみだ。
行孝の一連の動作によって再び動きを止める格好になった異形の背後に回り込み、八雲は手にしている刀の鯉口を切る。
次の瞬間には一つの無駄もなく放たれた一閃によって異形が大きく声を上げた。だが、どうやら異形は致命傷を免れることが叶ったらしく、呻き声こそ聞こえてはくるが倒れることはない。
八雲の瞳が冷淡に光る。この状況は予期していた範囲内だった様子で、表情ひとつ崩すことはなかった。
現状として異形の正面に行孝が立ち、背面には八雲が立っている。異形を囲うような陣形は、八雲の画策した通りの立ち位置だった。
行孝が次の一撃を繰り出すべく、今度は蹴りを先に見舞う。
異形は器用な動作で足を躱すべく動くが、背後からの八雲の致命的ではない牽制のような攻撃のせいで動きは覚束ない。
そうして結果としてはほぼ真正面から行孝の蹴りをまともに食らうこととなり、異形の大きな口からはくぐもった声が溢れて落ちた。
三度目の大きな動作の停止を迎えることになってしまった異形は、ただただ威嚇をするばかりで人語を話す気配すらない。
もしかすると、人を食らうための言葉しか異形の中には蓄えられてはいないのかもしれないと思えるほどだった。
だからと言って、行孝はもちろん八雲とてこの異形に情けをかけることはない。そうしてやる義理もなければ、それほどに慈悲深いというわけでもないからだ。
何事においても平等なんてものはない。
行孝から見ても、八雲から見ても、おそらく異形から見たところでそれは真理だ。
その真理が口惜しく思えたのだろうか。
異形は行孝が次の一撃の動作へ入る前に、体勢を立て直しがてら思い切り腕を振るう。
前動作に入ろうとしていた行孝が反射で後ろへ飛んだ。でたらめな動きだが、それが戦闘動作として成立するところは、実戦経験のもたらす恩恵だろう。
しかしその大ぶりな動作は命取りにもなりかねない。
実際、後ろへ飛ぶ動作はあまりにも強引であり、次の動作へ移るには多少時間を要する。
それを見逃す異形では決してなく、ずんと大きく行孝の方へと向けて動き出していた。次の何かしらの攻撃を、行孝だけでは回避することはできない。
行孝だけであるならば。
異形の意識からは完全に八雲の存在が抜け落ちていた。
八雲は異形の背後に立つ。静かに冷たく異形を見据え、今が戦闘の最中だということを忘れそうなほど穏やかだ。
その八雲がゆるりと刀の柄を撫でる。次の瞬間には鯉口を切る音、鞘と白刃の擦れ合う音、そして冷たく静かな斬撃音、その全てがほぼ同時に重なって鳴った。
「決めろ」
これまでの八雲とは全く異なる声色と口調で、彼は言葉を発する。
それは端的な言葉ではあったが、状況に対してこれほど当てはまる言葉もない。
八雲の放った一閃によって、異形はその場に崩れ落ちている。ただ、急所は背面にはなかったらしく致命傷を与えるには至っていないという状況だ。
やはりこの異形の特徴とも言える大きな口、もしくはその近くに急所となる部分があるだろうと考えるのが妥当と言えた。
つまり立ち位置的に、急所を突けるのは行孝のみということになる。
行孝としてもここまでお膳立てされて、それがわからないということはもちろんない。そのお膳立てそのものに不服は抱いていても、みすみすそれを見逃してやるようなお人好しでもまたなかった。
「言われなくても……!」
吐き捨てるように行孝は言うと、手に持ったままの刀の柄を握り直す。
そして崩れ落ちたまま動けなくなっている異形の口に、容赦なく刀を突き立てた。
がくんがくんと異形の身体が大きく震える。
それは明確な異形に対する手応えであり、行孝は異形の明らかな変化を確認すると、にんまりと笑った。その笑みは意地の悪いもので、誰かを助けるという行為を結果的に行った人間の様子には思えない。
このまま放置しても異形は力尽きるだろう。
だが行孝はそうはしない。
踏みつけるようにして異形を蹴り付けると、その反動で突き立てた刀を引き抜く。さらには再び刀を大きく振るって、異形の身体を真っ二つに斬り捨てた。
「これでおしまい。ばいばい」
倒れ伏し形が崩れ始めている異形を見下しながら、行孝は不敵に笑う。
彼の言葉の通り、それが最期の瞬間だった。
この場から、気味の悪い気配も不気味な赤い空も、全てが消え去る。人の往来のある日常的な街が姿を取り戻した。
道を尋ねられ、巻き込まれた生徒は呆然とその場に立ち尽くしている。立ち尽くすことしかできないとも言えた。
「もう大丈夫。早く家に帰ったほうがいいよ」
生徒に声をかけたのは、八雲だ。
「ええと……はい。ありがとうございました」
控えめかつ少し小さな声で、生徒は八雲に言葉を向ける。そして生徒から見て八雲の奥に立っている行孝にも「ありがとうございました」と、今度は少し大きめな声で言葉を発した。
「別に。早く帰れば」
応える行孝は生徒に向けることもせず、無愛想なものだ。
それでも生徒は丁寧に二人に頭を下げると、この場を立ち去っていく。
「無愛想ですね」
「別にいいでしょ。っていうか……お前さ」
八雲が生徒への対応に対して言及するが、そこに行孝の興味はない。それよりも思うところがあるらしく、言葉を続けながらじとりとした視線を八雲へ向ける。
「何ですか?」
「さっき、口調全然違ったじゃん。なにあれ?」
「……そうでしたか?」
承知していないと言うよりは、そんな瑣末なことを話す必要があるかという様子で、八雲は笑顔と共にほんの少しだけ首を傾げた。
問いに答えるつもりがないことは見るからにはっきりしていて、行孝は大きく息を吐いてから「ま、別にいいけど」と交わす言葉を自身で終わらせる。
書類の作成やら、他にもやることは山積みだ。
二人はすっかり平和を取り戻したこの場を、後にする。
当然のように二人の距離は干渉しないと言う意思を示す程度に開いたままで。