ともだち、というのはいいものだ。一緒に過ごせばいつもよりも楽しく、笑顔でいられる。
炭治郎もまたそうだ。入園の初日から紆余曲折はあれど日々を楽しく過ごせる友に出会えたのは、実に良い収穫だった。
同じ組の伊之助と、クラスは違うが炭治郎としてはなかなかにドラマチックな出会いを果たした善逸である。
初日から打ち解けて、それからというもの毎日毎日が炭治郎の目には輝いているように思えた。幼稚園へ行くことそのものが楽しくてたまらず、別れ際には明日を心待ちにし始めてしまうような、彼らとはそんな間柄になったのだ。
泥まみれになるまで毎日遊び、笑いあって家へ帰っていく。そんな日々を彼らは過ごすようになっていた。
「おいおまえら! たんけんだ! たんけんに行くぞ!」
今日もまた伊之助の声が響く。今日も彼の言葉通り、探検がはじまるのだ。
「今日はどこへ行くんだ?」
炭治郎の疑問の声に、伊之助は一際胸を張る。
「あたらしい場所だ! こっちだ、お前らついてこい」
まだまだ日の高い時間、家に帰る前にくたくたになるまで遊んで帰るのが三人の決まり事。
いつも伊之助が先頭に立ち、後ろに炭治郎そして善逸が続く。
意気揚々胸を張る伊之助、その様子をにこやかにみつめながら歩く炭治郎、さらにおっかなびっくりついて行く善逸。これがいつもの光景だった。
「たんけんでこわいところへ行くのはやめてくれよ?」
「びびってんのか! 弱逸」
「誰が弱逸だよ!」
伊之助が声を張り、善逸がさらに激しく声を張る。その様子を炭治郎はにこにこと眺めた。
「ちゃんと迷子にならないところか?」
「当然だぜ!」
炭治郎の声に伊之助は胸を張る。俺が道を間違うわけがないとはっきり口にする様子は、とんでもなく誇らしげだ。
「そういうのが心配なんじゃ……」
おずおずと不安を口にした善逸へ、伊之助からの鋭い視線が向く。
「そんなわけあるか!」
あまりの勢いに善逸は炭治郎の背中に隠れるようにして、伊之助の方をちらりと見た。だが伊之助のは先頭でご機嫌に歩いている。善逸の言葉を気に止めている風でもなかった。
その様子にほっとしつつ、善逸は一度はしがみついた炭治郎の背中から手を離すと黙って歩き始める。
三人が一列に並んで歩く姿は、傍目に微笑ましくまたその賑やかさは彼らの元気を振りまいているようでもあった。
伊之助の先導で二人が続く。行先は人の多い街とは反対の、自然が広がる場所。それは三人がいつも遊ぶ決まりの場所だ。
だが、今日はいつもと少し違う。それは馴染みの遊び場を伊之助が通り過ぎてしまったからだ。
「伊之助、まだいくの?」
少し不安を覚えた善逸が先頭の伊之助へ向かって問いかける。
「ああ、この先だぜ」
答える声には全く不安はなく、実際に少し歩くと開けた場所へ出た。
そこは街中と比べて格段に美しくしく青々とした自然が広がっている。小高い丘になっていて、走り回るのにも適した場所と言えた。
「どうだ! ここだぜ!」
伊之助は炭治郎と善逸に向かって胸を張る。それはそれは自慢げだ。
伊之助はすごいなぁと絶賛する炭治郎と、悪くは無いんじゃないのと少しひねくれた反応をする善逸を見つめ、伊之助はやはり自慢げにして鼻を鳴らす。
そして奥へ分け入っては戻り、伊之助称する〝たんけん〟を繰り返し始めた。半ばヒット・アンド・アウェイのようなその動きは善逸を必要以上に恐怖させる。
「なぁ、たんじろぉ」
「どうしたんだ? 善逸」
「ここ、入っていいところなのかなぁ?」
伊之助の背中を見つめ、炭治郎の背中にしがみつきながら、善逸は呟いた。
「大丈夫だよ、ここは家から近いし。家族ともきたことあるよ」
炭治郎の言葉通り、ここは丘の上の公園スペースだ。立ち入り禁止の場所でもなければ、何かが起こった場所でも決してない。だから善逸の不安は間違いなく杞憂なのだが、一度不安になってしまうともう止まらなくなってしまう。それは善逸のある意味では特徴と言うことも出来た。
相変わらず善逸の瞳は不安に揺れている。炭治郎は妹にしてやるように彼の頭を撫でてからにこりと笑って「大丈夫だよ」ともう一度言葉を口にした。
前を行く伊之助が二人の様子の変化に気づいて振り返る。
「おい、お前ら! 何してる! どんぐり探すぞ! つやつやのどんぐりだ!」
大声を張り上げて二人に呼びかけた。
「今行くよ! 善逸、行こう?」
首をほんの少し傾げて手を差し出す炭治郎に善逸はこくんと大きく頷いて炭治郎の手を取る。
「早くこい、子分ども!」
「……子分じゃねぇし!」
必死に伊之助と張り合って大声を上げながら、善逸は炭治郎に手を引かれて歩き始めた。
「伊之助、どんぐりって?」
炭治郎は今度は伊之助へ向けて首を傾げる。これは疑問の意で、なぜなら季節が違うのだ。
今は春と夏の間、というのが一番近い。桜は散って久しく、梅雨は明けていないからだ。蝉しぐれはまだまだ遠い、という頃合でどんぐりを見付けるのはなかなかに困難と言えた。実際のどんぐり狩りは紅葉の頃だということを、炭治郎はなんとなしだが知っている。
それがこの疑問の意を帯びた言葉の正体というわけだった。
「こっちでどんぐりを見つけたんだぜ!」
息巻いている伊之助に改めて首を傾げつつ、炭治郎は地面を見つめる。だが、やはりというべきかそこには何もない。土と樹はあるが、それだけだ。
「どんぐりなんてどこに……」
善逸も伊之助の言葉に疑問の声を発する。炭治郎と同様の感情が善逸からも見て取れた。だが伊之助は「こっちだ、ついてこい」と言って歩き続ける。
炭治郎と善逸からすると半信半疑というやつで、ついて行きこそするが伊之助の言葉も信じきれてはいなかった。
伊之助はたどり着いた小高い丘の脇の樹が生い茂る方へと迷いなく足を進めると、ピタリと足を止める。
足を止めた、はずだった。
勢い良く一人で前を歩いていたはずの伊之助の姿は忽然と消え失せて、炭治郎の視界にも善逸の視界にも居なくなってしまっている。
どうしてなのか、さっきまで目の前にいたはずなのに。
炭治郎も善逸も絶句してしまうばかりで、風に揺れる草木の音だけがざわざわと揺れた。
「……伊之助?」
「どこだよ、伊之助ぇ……」
心配と不安、それぞれの感情の強く滲んだ炭治郎と善逸の声が響く。しかし先程までとは違って返事はない。
「うそ……なんで……?」
善逸の声は明らかに震えている。そして全身もまた震えていた。それは見るからに恐怖からくるもので、怯えや恐怖は一度こぼれ落ちると、まるで水面に落ちたものによって広がる波紋のごとく大きく広がっていく。
不安ばかりが先について、止まらなくなっていった。
「なぁ、たんじろ……なんで? さっきまで、伊之助は、ここに……」
涙ぐんだ瞳を炭治郎に向けながら、不安も怯えも恐怖も心配もその全てを含んだ声が響く。
炭治郎は呆然とその場に立ち尽くしていた。言葉のひとつも出てこない、それほどまでの衝撃が炭治郎の全身を貫き彼の動きの全てを止めてしまっている。
善逸はその炭治郎の様子を見て、さらに恐怖を募らせた。有り得ないことが確かに目の前で起きていて、にわかには信じ難いが間違いなく伊之助はどこにもいない。
高かったはずの日は翳り、空には青色よりも橙色と赤色の気配が大半を占め始めている。
――帰らなければ。
そう思うと、次に炭治郎と善逸は考えた。
――きっと、伊之助は先に帰ったんだ。
そうであって欲しい、祈る気持ちとともに二人はその場から離れていく。きっと明日はいつも通りだ。
そのはずだ、と言い聞かせながら。
炭治郎は家に帰り家族といても、いざ寝るとなっても、ずっと伊之助のことが引っかかっていた。信じたい、けれど自分と善逸あんなに楽しげに引き連れておいて突然いなくなってしまったことは、あまりにも可思議なのだ。疑問しかないものだった。
伊之助らしいとも思えない。あのまま帰ってきてしまってよかったのだろうか、そんな風に思えてしまう。
だからといって何かが出来るわけでもなく、心当たりもない。だからこそ余計に気になってしまっていた。
ため息を吐きながらそれでも子供の身体は、いつもと変わらず行動して疲れを蓄積している。布団へと入ってしまえば、すぐに眠りに落ちてしまった。
いつもと変わらない朝、しかし炭治郎にはいつも通りとは決して言えない朝を迎える。伊之助のことが気がかりなまま、母親には不安を見透かされてしまい心配されながらも幼稚園へと向かった。
母親に見送られいつものように部屋の中へと入っていく。すると、そこには伊之助の姿があった。
炭治郎は足早に伊之助の元へと向かう。
だが、何かがおかしい。彼は、こんなにも――静かであったろうか。
炭治郎の感じた違和感は、実感を伴う。伊之助に炭治郎が声をかけ、その呼び声に振り返った時の虚ろな瞳が全てだった。
炭治郎は直感する。彼は伊之助の姿をしているが伊之助ではないのだと。
だがその直感を信じようと思えることは当然なく、恐ろしさばかりを感じながらも炭治郎はゆっくりともう一度口を開いた。
自分の感覚は偽りだと信じたい、そんな願望を抱きながら。
「昨日は、いきなりいなくなってびっくりしたぞ」
そう伝える炭治郎の希望は一瞬で打ち砕かれる。再び向けられる伊之助の瞳は虚ろかつ冷たいものだったからだ。
「べつに」
あまりにも素っ気ない言葉は、炭治郎のみならず周りの子供たちをも驚かせる。これはあまりにも伊之助らしからぬ言葉だった。
だが、当の伊之助は炭治郎にも周りの子供たちにも興味はないという様子で、決められた席に座り、ただぼんやりと外を見つめている。
走り出すでもなく、暴れ回るわけでもなく、ただただ静かにその場にいるだけ。それだけだった。
これではあまりにも別人、わかりやすいまでの状況だ。
伊之助の皮を被った何者かがここにいるような、そんな違和感しかない状況は例外なく子供たちに混乱を与える。やってきた先生に伊之助の異様さを訴える者や、無反応の伊之助にちょっかいをかける者など様々だ。
だが、伊之助自身からは目立つ反応の一つも返ってきはしない。
初めは驚きばかりだった炭治郎だが、何かを決めた様子でもう伊之助に声をかけることはなかった。いつもであれば一緒にいる、だがそれをすることはないまま一日が過ぎ去っていく。
多くの人間と同様、困惑した一日が過ぎ去った。
「善逸、なぁ善逸!」
炭治郎は自分のクラスで「さようなら」と挨拶をするなり善逸のクラスへと向かい彼に詰め寄る。
「えっ、なに……?」
いつもと様子の違う違う炭治郎に善逸は驚かずにはいられない。だが、それを気にすることもなく炭治郎は今日の伊之助の様子を主張しはじめる。
「伊之助のようすがおかしかったんだ!」
その言葉で口火を切り、必死に言葉を紡いだ。
「どんな……?」
炭治郎の言葉に善逸の頭には、昨日の夕方の出来事が蘇る。やはりあの時、探した方が良かったのだろうか。
そんな風に考えると次には何が起きていたのかを思って恐怖する。
「すごくしずかで……いつもやることをしない」
「えっ、それ……病気になっちゃったってこと⁉︎」
善逸の言葉に炭治郎は首を横に振った。炭治郎の思うところはそうではない。
一度大きく深呼吸してから、炭治郎は再び口を開く。
「……俺には、見た目は伊之助だけど……伊之助じゃないみたいに見えた」
その言葉に善逸は絶句する。それはにわかには信じ難い言葉だったが、炭治郎の様子からは嘘とも思えない。
「いのすけ……じゃ、ない……?」
やっと善逸が口にできたのは、確認の言葉だ。それを問うのがやっと、という様子で善逸は目を見開き視線を揺らしていた。
「俺のかんちがいならいいけれど……とにかく変だった……」
炭治郎も善逸も、等しく視線を地面に落とす。否応がなく昨日の出来事が思い出され、あの時の選択は間違いだったのだと、どうしようもなく思い知らされた。
「……伊之助を、たすけないと」
重たい空気を振り切って口を開いたのは炭治郎だ。
「たす、ける……?」
不安げな善逸に炭治郎は力強く一度、頷いてみせる。
「昨日の場所に、行ってみよう」
「えっ、こわいよ」
「俺も怖いよ」
善逸の分かりやすい怯えに対して、炭治郎は静かに淡々としながら小さく震えていた。
「炭治郎……」
「……あのとき、きちんと伊之助を探していたらこんなことにはならなかったんじゃないかって……」
握りしめた拳に力がこもり、それは恐怖と後悔に震える。
「だから。今度はきちんと伊之助を見つける。善逸も手伝ってくれるよな?」
炭治郎の紡ぐ真剣な言葉に、善逸は相変わらず怯えで涙を目にためながら、それでも頷いた。炭治郎のいう後悔は、善逸のなかにも強く強く刻まれていたからだ。
怖い、その事に変わりはなくとも炭治郎の言葉から察する伊之助を心配し、何か出来ることをしたいとは思う。
「……わかった」
結果として善逸は頷いて炭治郎の言葉に同意を示した。いつになく神妙な様子は炭治郎から見ても、善逸が真剣に言葉を受け止めて判断していることを感じさせる。
こうして二人は昨日と同じく、伊之助が姿を消した場所へと向かうことにしたのだった。
樹々が風にざわめく。昨日やってきた場所と同じ場所へとやってきたはずだが、そうとは思えない、それほどこの場を包む気配は一転してしまっていた。
見るからに不気味、頬を撫でる風からはねっとりと嫌な気配が滲む。怯えて泣き出して逃げてしまいたくなるような、そんな気持ちが湧き出て止まらない。
「……なぁ、たんじろぉ」
心細く頼りない善逸の声が炭治郎を呼ぶ。炭治郎が声の方を振り返ってみれば、予想した通りに不安げな善逸の顔がそこにはあった。
「ほんとにここでいいの……?」
何かある、そんなふうに感じる場所ではあるが、実際のところそんな気配以外は何もない。善逸が不安になるのももっともと言えた。炭治郎の中にも本当にこれでよかったのか、そんな気持ちが渦巻いている。
それ故に善逸の問いかけに声を返すことが出来ないでいた。
「たんじろぉ……なにかいってよ……」
恐る恐る炭治郎の上に着た服の裾を掴みながら、善逸は口を開くことを懇願する。目には涙がたまり、今にもこぼれてしまいそうだ。
しかし、その姿を見ても炭治郎は口を開かない。忙しなく辺りを見回して必死に伊之助の――本当の伊之助の――姿を探す。
少し、また少しと、確実に日は暮れゆく。だが、伊之助の姿は見当たらない。気配のひとつも見つけることが出来ずに、炭治郎も善逸も愕然と項垂れてしまう。
「……伊之助」
呼び声は不気味な気配に吸い込まれて消えて、何も残らなかった。あまりにも気味の悪い状況はどうあっても恐怖を抱かせる。まるでその気持ちを膨らまそうとでもするかのように風が木々を揺らした。
そんな多くの音に囲まれて炭治郎が視線をさまよわせる中、善逸はハッと顔を上げる。
「炭治郎! こっち!」
善逸は炭治郎には分からない何かを捉えている様子で、迷いのない足取りで歩き出した。それまでの不安げな様子はどこへやら、善逸は迷いなく彼の目指した方へと突き進む。
炭治郎の目にはきらきらと金色の髪が揺れ、それが勇気や希望を与えているように思えた。置いていかれることのないように、と必死に炭治郎は足を動かす。
善逸はずんずんと迷いのない具合で進んでいくと、少しずつその速度を落としていった。その頃合には炭治郎も善逸の感じたものを同じく感じるに至る。
この先に、いる。
それは確信だった。伊之助のものであって伊之助とは異なる気配が、確かにここにはある。
「伊之助……? ここに、いるのか?」
確信はあっても恐ろしさが先に立ち、炭治郎はおずおずと声を発した。ほんの少し震えた声が、周りの木々に葉に吸い込まれていく。
それはまるで、存在を消してしまうような何かを感じさせた。得体の知れない何か、それが木々の向こうに蠢いているようでもある。
「いのすけぇ……でてこいよぉ……」
善逸の弱々しい声もやはり木々に吸い込まれて、不自然な程に音が響かない。
気味の悪い静寂が辺りを支配していた。そして急にその雰囲気が一転する。
『どうして、ここへきた』
突然、声が炭治郎と善逸を目がけて降ってきた。声の主の気配はどこにでもあって、どこにもない。だが音ははっきりと二人に届く。
何とも不気味だった。
「伊之助⁉︎」
「……ちがう。これ、伊之助の声だけど……伊之助じゃない……気がする……」
弾かれたように動いては何度も当たりを確認する炭治郎に対して、善逸は怯えを含んだ声で途切れ途切れに呟いた。彼の耳にはそう届いていた。
それはまさしく、今日、炭治郎の見た伊之助の姿への感想そのもので、それはあまりにも悲しい。
『どうして、ここへきた』
声は再び問いかける。問いただすように、咎めるように。
「伊之助を! 探しに来た!」
出来る限り大きな声で、炭治郎は胸を張った。そうしなければ折れてしまいそうだったからだ。
『いらない』
拒絶の言葉と共に空気が揺れる。いまにも壊れてしまいそうなギリギリの均衡を保っていたこの場が、否応もなく崩れていくのがはっきりとわかった。
暮れゆく日の中、見たこともないようなほどに木々が地面が震える。物理的に揺れているのかどうかは、炭治郎にも善逸にもよく分からない。
「それでも!」
悪あがきかもしれない、それでも炭治郎はそう言わずにはいられなかった。
「探すって! 一緒に帰るって! きめたんだ!」
『……』
「だってあれは伊之助じゃなかった!」
必死に声を張り続ける炭治郎に善逸が寄り添う。目には涙が浮かび、炭治郎を支えようとする身体は小刻みに震えていたが、負けてなるものかという気概が確かにあった。
心強い支えを得て、炭治郎はほんの少し口角をあげる。
「だから探しに来た!」
その声に嘲笑う声が重なり、木々が揺れた。その不気味さはこれまでの比ではない。絶対的な存在からのおかしさと危うさが確かに存在していた。
『馬鹿らしい』
伊之助の声で、それらしくもない言葉が吐き出される。善逸の身体が怯えで大きく震えた。炭治郎も必死にその場で踏ん張るが、怖いという気持ちは膨らむ一方だ。
『いらないと、そう言った』
木々の奥から足音が鳴る。いち早くそれに気づいた善逸が炭治郎の服を引き、音の方を指さした。
炭治郎と善逸が固唾を飲み見守る。
すると、善逸の指さしたあたりから伊之助と思しき人物が姿を現した。炭治郎が抱いた違和感はそのままに、さらに不穏さを増してそこに在る。
炭治郎はいま一度、善逸は初めて感じる違和感に背筋に寒気を感じた。
今なら炭治郎の言葉の意味が善逸にも分かる。同じ顔、同じ声でもこれは伊之助ではない。
声で感じる違和感よりもずっとずっと分かりやすい、露骨なほどのおかしさがある。伊之助がこんなふうな事をいうはずがない、というのも当然ながらあるのだがそれどころではなかった。
あまりにも非現実で、あまりにも不可思議。それが二人の目の前に広がる現実だった。
「伊之助を……返してくれ!」
「そ、そうだ!返せよぉ」
炭治郎と善逸が必死に、伊之助であって伊之助ではないような目の前の何者かに呼びかける。するとそれは不思議そうに首を傾げた。
『どうしてだ?』
「え……?」
『お前たちは困らないだろう』
「こまるよ!」
炭治郎が必死に訴える。懇々と炭治郎にとっての伊之助についてを語り続けた。本人が聞けば赤面なんてものでは済まないような、そんな言葉がするすると炭治郎の口からこぼれる。
『……それだけか?』
冷たい声と突き放すような言葉が炭治郎の声を遮った。切々と語っていた炭治郎がびくりと震えて言葉を止める。
「違う! もっと……」
『それを、これに言ったところで伝わらない。それは分かるだろう?』
「……知ってるよ、音で分かるもん」
突き放そうとするばかりの伊之助の姿と声を借りた何かに、今度は善逸が語りかける。
「どうしてこんなことをしたのかは知らないよ、けど……しちゃいけないことだよ」
「そうだ。だから、俺たちは友達を返してもらいにきたんだ!」
二人の切実な願いに、冷たく拒絶するようだった自然のどよめきがやんだ。静寂の中で、炭治郎はもう一度だけその口を開く。
「こんなことしなくていいよ。みんなで遊んだらいいから……だから……」
それは伊之助を返してほしいということだけではない。いま二人が相対している得体の知れないものに対しても、等しく手を差し伸べる暖かさを持った言葉だった。
『……わかった』
まるで観念したように伊之助のようなそれは、ぼそりと呟いて炭治郎の言葉を押し止めた。
『お前らの望むようにする』
その言葉とともに炭治郎と善逸の前にあった伊之助の姿が風景の中に掻き消える。
「あ……れ……?」
誰の姿も無くなり、目の前の光景が変わったことに善逸の口から間抜けな声がこぼれた。炭治郎も声こそ出さないが目を丸くしている。
「おい!」
呆然としている炭治郎と善逸に声をかけるものがあった。
よく知った声、馴染みの声だ。そして、探し続けた人物の声でもある。
「おまえら、なんでそんなとこにいるんだ」
姿かたちから声に至るまで、その全てにおいて伊之助だった。炭治郎にも善逸にも、今度はそれがはっきりと伝わる。
帰ってきたのだ。伊之助が。
炭治郎も善逸も、伊之助の言葉に応える余裕などない。我先にと伊之助にしがみつき存在を確かめた。
「なんだよ」
「なんでいつもどおりなわけ⁉︎ 心配したんだからな!」
「よかった、伊之助……よかった……」
いつもと様子が違うと思えば二人にしがみつかれることとなり、伊之助はされるがままにされながらも理解が追いついていない様子だ。
炭治郎と善逸は変わらず喜びを爆発させている。あの不可思議な伊之助によく似ていて、別物の何者かと対峙していたこともありその思いはひとしおだった。
ただただ嬉しい。そんな気持ちが先に立っていた。
「……いつまでそうしてるつもりだよ」
そう口にしたのは伊之助だ。
「ごめん、伊之助」
炭治郎はそう言って一歩後ろに下がると、善逸もそれにならった。
「いや、いいけど……」
二人の過剰な反応からのやけに素直な反応は、伊之助を困惑させるには十分すぎる。伊之助はどうしたらいいか分からず、反射的に言葉を返しながら炭治郎と善逸のことを交互に見つめた。
「おまえら、へんだぞ」
困惑を変と解釈した伊之助が、次の言葉を口にする。その言葉に炭治郎と善逸は顔を見合わせて、今度は笑いだした。
いつも通りが帰ってきた、それが実感を伴って二人を笑顔にさせる。
伊之助は全く意味がわからず口を尖らせたが、それでも二人の笑い声は止まらない。
「かえろう、伊之助。くらくなってきたから」
ようやく落ち着いてきた炭治郎が伊之助に言葉を向ける。その言葉は家に帰るための合図だ。
伊之助はいち早く駆け出し「ここから、きょうそうだ!いくぞ!」と言いながら、足を止めることなく先頭を走っていく。
「伊之助! ずるいぞ!」
先頭の伊之助に指摘の言葉を口にしながら炭治郎が続いた。
「あっ……二人とも、まってくれよぉ」
完全に出遅れた形となった善逸が、少しおぼつかない足取りで二人を追う。
――……、……な。……が……う。
何か、声のようなものが聴こえた気がした。善逸の背筋に寒気が走り、次の瞬間には先程の足取りとは似ても似つかないような素早い動きで加速する。
あっという間に二人に追いつき、それどころか鮮やかに抜き去ってしまった。
炭治郎も伊之助も、突然起こったことに理解が追いつかず呆然と善逸の背中を見つめる。
「待ってくれ、善逸」
「この俺より先にいくなんて、いい度胸だ!」
次には二人ともに、言葉を投げかけながら善逸の背中を追いかけ始めた。
「へんな声がしたんだよぉ!」
涙ぐみながら走っていく善逸の表情を二人が見ることは叶わない。かろうじて聞こえる声が届かなくなる前にと、炭治郎も伊之助も必死に駆けていく。
気がつけば不気味さを失った自然は、三人を穏やかに見守っていた。それは、彼らを愛しむかのようにも感じられるものだ。
夕暮れの橙色の光が降り注ぐ中を行く三人は、きっと何かに守られている。
――人間よ、友と仲良くな。ありがとう。
