掃除が行き届いているとはお世辞にも言えない汚れてくすんだ窓ガラスに、咲き乱れる桜の花が映り込む。
季節は春、新たな物事の始まる出会いの季節だ。
この部署に配属されてすっかり長くなった二駿は、辞令の書類に目を通して肩をすくめた。
辞令には彼の部署に新たな人員が配置される旨が記載されている。
基本的に所属人数が少なく、加えて爪弾きにされるような部署だ。人員はあって困ることはないのだが──今回ばかりは不安が先に立つ。
どうやら、今回配属される人物はいわゆる問題児らしいのだ。
聞くにその人物は前の部署で上司の命令には全く従わず、やりたい放題をしていたという話だった。どうやら、信用できない相手の言うことは聞けないというのがその人物の言い分だったそうだが、最もではあってもそれを実践できてしまう辺りは確かに問題児なのだろうと思わせる。
組織において命令を反する人間は異端だ。同様に異端扱いをされ、腫れ物のような扱いを受けているこの部署に配属されるのは当然のことのように思われた。
「はぁ……騒がしくなりそうだな」
手に持っていた書類を乱雑に机に置いた駿は、うんざりとした表情で言葉とため息を吐き出す。
まるでそのため息が呼水になってしまったが如く、立て付けの悪い無駄に音を鳴らすようになって久しい扉が大きな音と共に開かれた。
扉の前には滅多に顔を出さないこの部署の責任者と、見慣れない顔の女性が一人立っている。
──こいつが新人、か。
まじまじと新人として連れてこられたであろう女性を見つめた。それこそ値踏みでもするように、価値を推し量らんとするようにだ。
その視線の意図を感じ取ったのか、女性はあからさまに不服そうな表情を浮かべた。
「二君。先日伝えてあった新人だ。挨拶しなさい」
「……柊、絵梨香です」
この上なく無愛想で、この上なく不服そうな声だった。改めて先が思いやられると感じずにはいられない。
「二駿だ」
名乗りながら駿は前途多難さに、ため息を吐くことすら出来なかった。
新人の柊絵梨香の態度を彼女を連れてきた上役は叱責するが、打てども何も響かぬ打楽器の如しで絵梨香の様子はどこ吹く風だ。
「全く最近の若いもんは……二君、しっかり頼むよ」
どうやら彼女への叱責に効果がないことを思い知って、諦めたのか疲れたのか。何にせよ上役は、早々に駿に全てを託して怒りを隠すこともなく部屋を出て行った。
部屋には二人が残される。空気は最悪、それと同時に険悪。
言葉を発せずとも不信感がはっきりと伝わってくる。一切の遠慮なく、はっきりとだ。
だが、それに屈するわけにももちろんいかない。曲がりなりにも今日から駿は彼女の上司という立ち位置だ。責任はしっかりと果たさなければならなかった。
「……柊。うちの仕事は基本ここの中でデスクワークだ。依頼が入った場合のみ迅速な対処が求められる。依頼元は大半は他部署からのものだ。例外もなくはないが、まぁ、その時はその時だな」
人の話を聞いていない訳ではないらしい。しかし同時にまともに聞いているという訳でもないらしく、話した言葉は彼女の耳の右から左へ鮮やかに通り抜けているように思われた。厄介払いのための部署であるここに長くいる駿としては慣れた反応だが、正直これでは先は心配しかない。
いざ依頼が来たときに、いつかの新人よろしく逃げ出してしまうのが関の山だろう。
それはそれで彼女のためになるのかも知れない。納得のいかない場所に無理やり連れてこられて、こんな部署に置かれるのはさぞ不服だろう。
そうであるならば、いっそのことこの部署を早く離れるために行動するのもまた一つの手と言えた。冴えた手とはお世辞にも言えないものだったが。
「特に今は急ぎのこともない、一応資料はそこに置いてあるから確認しておいてくれ」
駿の指差した席には書類一式が置かれている。それ以外には何もない、机と椅子のみが存在する席。この席こそ絵梨香のための場所だった。
「はぁい」
気だるげな声で返事をすると、絵梨香はどっかりと席に腰を下ろす。資料を少しめくったかと思うと、すぐに自分の端末を取り出して何やら始めた。
──確かにこれは、相当な問題児らしい。
自分の感じていた予感は的を射たものだった。そのことに駿は確信を抱きながら、肩をすくめて自分の席へと腰を下ろす。
すぐにこの場から立ち去らずにいてくれるだけまだ上場といったところだろうか。
やはり駿の口からはため息も出なかった。
昼間は退屈すぎるほどに平和な時間が流れた。
駿にしても暇を持て余しそうになるほどの状況は、新人の絵梨香にはさぞや退屈だったのだろう。朝に見た表情とはまた違って、一際気だるげかつ露骨に退屈そうに手元の端末をいじっていた。
もちろん勤務中なのだが、彼女はその手のことについては全く気にしてはいないらしい。朝の挨拶と返事以外は口を開くこともなく、視線の一つも駿に向けないままだった。
だが夕方になって、事は動き出す。
一人の男が大きな音を立てて部屋の扉を開いたのだ。それも焦った様子で。
彼は他部署とこの部署を繋ぐ人間の一人だ。この場に彼がやって来るということは、何かしら対応を必要とする案件が持ち込まれるということを意味している。
「要対応案件だ」
駿の目の前までやってきて彼は、どんと書類を机の上に置いた。
「緊急、みたいだな?」
「ああ」
それだけで十分だ。あとは書類に目を通せばそれで済む話だった。
彼もそれを察したのか「対応よろしく」とだけ言って、この場を去っていく。
駿もまたひらりと手を振って形式上の軽い反応をするばかりだった。興味も必要性もその全てが書類の方へ注がれているのだから、仕方がないと言うことも出来る。
緊急という言葉、それに尽きるというわけだった。
「柊、出るぞ。支度しろ」
見るからに手持ち無沙汰という様子の絵梨香に対して、駿は容赦なく声をかける。彼女は相変わらず不機嫌極まりない様子で、この上なく不服という表情を見せていたが反論は唱えなかった。
「これから、この部署ならではの〝依頼〟業務だ」
駿は余裕たっぷりな様子で言葉を続けると、絵梨香が外出の準備を整えたと見るや歩き始める。資料はもう頭に入れた。あとは対処するのみだ。
絵梨香についてはここで留守番という選択肢もあったのだが、今回の案件は緊急性こそあれど規模自体は大きくない。
ならばこれを見せてしまう方が手っ取り早いと駿は思う。彼女がここがどういうことをする部署であるかを見て、自分自身の身の振り方を考えるにもうってつけのように思ったのだ。
「遅れるなよ」
そう話しながらも駿は少し歩幅を狭めて歩く意識を持つ。彼女が本命の瞬間を目にする前に万が一にも諦めてしまうようなことがあれば本末転倒だ。
だがどうやらその心配はなさそうで、思いのほかしっかりと駿の後ろを絵梨香はついてきている。
とんでもなく面倒だ、と言う様子を隠しもしないが。それでも彼女は駿の後をついて歩いていた。
駿の頭の中にある今しがたの書類の内容は、平たく言えば「憑き物祓い」だ。
人ならざる者に対応することが主な職務である彼らの部署は、必然的に対処が仕事内容の大半を占める。
未然に防ぐことの出来る事象もそれなりに存在してはいるが、人間とは根本的に異なる者を相手にしているということもあって、どうしても事後の対応が多くなりがちだ。
露見してこなければ人間が認識することが可能な事柄など、世界の中では一握りにすら満たない。塵芥とも言えるだろう。
世の中が今の仕組みで回り続ける限り、この状況が覆ることはない。
だからこそ彼らの部署は後手に回らざるを得ない対応を、既に起こってしまった事象をおさめる。実体を持たない人ならざる者が、「憑いた」ものから祓い、一線を越えた異端者を祓うのだ。
今回は人間が憑かれてしまった形の案件であり、実情としてはまだ把握をしやすい。絵梨香の目にも──彼女が視える人間なのかどうか、駿は知らないが──確実に仔細が映ることだろう。
本来この部署にやってくる者の全てが、例外なく人ならざる者たちを視認できるべきだ。しかし実際のところ、そう都合いいことはない。
しかも個人の努力なのでどうにかなるような問題でもないため、それを求めることは酷な話だった。
だからこそ問題は〝それを視ることができるか〟ではなく、〝それを信じ、正しく恐怖し、立ち向かうことができるか〟という点になる。
仔細が彼女の目に映った時、初めて全てを判ずるに足る状況が整うというわけだ。問題の確認を行うにはうってつけで、おあつらえむきだった。
駿は頭の中にすっかり叩き込んである資料の内容を思い出しながら、目的の場所に向かって歩いていく。
二人の間に会話はなく、前を歩く駿に対して向けられる絵梨香の視線は冷ややかだ。
そんな彼女の行動に、駿は何度目かの問題児だという認識を新たにする。お互いの間には埋まらない溝のようなものがあり、谷のようでもあり、崖のようでもあるそれは絶望的な隔たりに思われた。
だが、そんなことばかりを考えている場合ではない。
現場はすぐそこにまで迫っていた。
不気味なほどに赤みの強い夕日、夜を告げようとする不吉な色の空。そして、狂気に満ちた笑い声。
普段人通りが少なくないこの場所には、誰もいない。ここにいるのは駿と絵梨香のみだ。一帯は警察によって既に封鎖され、一般人が紛れ込むことはない。
あまりにも異様な状況に絵梨香がごくりと唾をのんだ。息遣いからもありありと緊張が感じられる。
ここでも逃げ出さないあたり、なかなか度胸があるなと駿は言葉こそ発しないが少なからず感心していた。これと違い状況で逃げ出したものも多い。もしかすると、もしかするかもしれない。
そんなことを考えながらも、気を散らすことはなく辺りを見回していた。
笑い声の主はここにはいない、制圧対象の人物──存在的には人とは言い難い状態だが──は常に移動し続けているらしい。
「柊、離れず後ろからついてこい」
「……はい」
返事を寄越してくることは予想外だったが、存外しおらしいところもあるようだ。駿の口角が一瞬だけ上に持ち上がる。
だがすぐに普段と変わらぬ淡々とした表情に戻ると、笑い声の主を目指して歩き始めた。
音が、声が、反響する。それは確かに誰の耳にも届く音になって響き渡った。
絵梨香は小さく身震いをする。今日から配属された部署で、まさかこんな非現実的な状況を体験することになるとは思いもしなかった。
しかも、こういった状況は上司となった駿の言葉から察するに日常茶飯事らしい。
理解が全くといっていいほどに追いつかないが、今できることは目の前の駿の背中を見失わないように歩き続けることのみだった。
言ってしまえば、彼の存在こそが彼女にとっての生命線だ。一人になってあの笑い声の主と遭遇でもしてしまえばそれで全ては終わりなのだ。絵梨香の命は脅かされるどころか、失われてしまうだろう。そう強く感じさせるほどの狂気と異質さ、そして緊張がこの場にはあった。
自分はこれからどうなってしまうのだろう、そんな考えが頭を掠めていく。
文字通りの命の危険を感じながら、絵梨香はただ必死に足を動かし続けていた。そうすることしか出来なかった、とも言える。彼女にできることは本当に僅か、駿から告げられた〝離れず後ろからついて来い〟という言葉を守ること、ただそれだけだった。
視界に広がる街は見覚えのあるものではあるが、雰囲気も気配も何もかもが異質なものへと変貌を遂げていて見知った場所と称するには無理のあるものに変わっている。
日常や普段の生活の中にあるものというのは、こんなにも簡単に脆く壊れてしまうものだろうか。
足元から現実が崩れ落ちていくような感覚だった。
そもそも、今回の配属部署には疑問が多い。組織の中においてあまり表立って活動しているという印象はなく、内容を確認してみればこの上なく異質だ。
加えて絵梨香にはいわゆる幽霊を見る、というような能力とは生まれてこの方、一度たりとも縁がない。どうしてこの部署へいくことになったのかすらわからなかった。
──単純に人不足、そうじゃなかったら面倒な人間を放り込む部署ってとこかな。
などと考えていたのだが、どうやらどちらかといえば前者の方が近いらしい。
相変わらず目に映る状況は異質の塊だが、それだけだった。少し冷静さを取り戻した絵梨香は、この部署が存外と機能を果たしていることを認識しながら歩き続ける。
「……柊。そこで止まれ」
駿との距離は少しある。だが、絵梨香がもう一歩だけ前に進もうとした足を駿は振り返りもせずに静止した。
二人が立ち止まり、音の失われた辺り一帯には不気味な静寂が満ちる。
駿が息を、絵梨香は唾をのんだ。
頭のてっぺんから爪先まで、ビリビリと痺れるような緊張が駆け抜けていく。
ほんの一瞬だけ表情を歪めた駿が「お出ましか」とぼそりとつぶやいた。
まるでその声に呼応するかのように、道の奥──暗がり──からぬるりと人影が溢れ出る。
一見すれば人払いから漏れてしまった人間で、絵梨香は安堵の息を落とした。
だが。
駿はそうではなかった。
腰に下げた得物に手を当てたまま、動かない。見つめているのはただ一点、暗がりよりいでた人影だ。
『助けて、ください』
声が聴こえる。助けを求める人の声が。
ただしそれは、目の前にある人影の方から聞こえてくるものではない。音の発生源という意味ではおそらく人影であろうが、音そのものは耳から入ってこずに脳を揺らし、直接頭の中に響くような何とも気味の悪いものだった。
「何これ、きも……っ」
反射的に言葉を吐き捨てたのは絵梨香だ。
『タスケテ、タス……ケ、フフ、ふふふふ』
それは壊れてしまった機械のように不規則に、無機質に笑い、そして嗤う。
背筋に冷たい何かが走った。これは良くないことの起こる兆候だと、第六感が告げている。まさしく嫌な予感というやつだった。
絵梨香に再び生命を脅かされる感覚が迫る。
視ることができないからこそ、分からないからこそ、恐ろしい。知ることの叶わない真実たちが何を示しているのか把握できないからこそ、恐怖に押しつぶされそうになる。
目に見えない何かは重さとなって絵梨香にのしかかり、彼女を押し潰さんとさらに重さを増した。
呼吸が荒く、浅くなる。思考が恐怖の感情ばかりを拾い集めて、勝手にそれを大きく膨らませた。
こんな体験は初めてだ、こんな経験はしたことがない。
──怖い、恐い、こわい、こわい!
口を開くことすらできなかった。
「柊」
絵梨香の恐怖を切り裂いたのは、目の前に立つ駿の声だ。
「そこを絶対に動くなよ、いいな?」
そうとだけ続けると、手にかけていた得物を鞘からすらりと引き抜く。
『ぎ、ああ!』
人ならざる者は存在の危機を悟ったのか、これまでの狂った笑いをぴたりと止め、本能的な叫びを上げる。
相変わらず頭の中に鳴り響くこの声は、二人の脳を揺らした。
「……っ」
駿の表情がほんの少しだけまた歪む。
それを隙ととったのだろう目の前の影が、ぐんと大きく跳ねた。動きによって影の中身が露わになる。
人間と呼ぶにはあまりにかけ離れた、シルエット以外は人外の化け物に相違ない姿だった。異様に発達した牙と爪が人外の存在を声高に主張する。かなり深くまで侵されてしまっているようだった。
これもつきものの影響だ。人間の見た目も性質も別の存在へと置き換えてしまう。短い期間であれば憑かれた人間は何の後遺症も残らない。
だが、このままの状況が続けば──完全に人ならざる者に存在ごと食い尽くされてしまう。
そうなってしまう前に手を打たなくてはならない。
駿は抜き放った刀を持つ手に力を込め、隙を見せない構えで目の前の人ならざる形となった影に相対した。
両者は共に動かない。駿の得物の白い刃と人ならざる者の濁り燻んだ牙と爪が対照的な色味で輝く。
永遠のようで一瞬のような時間の後、動き出したのは影だ。弾かれたように飛び出し前進したそれは、そのまま一気に駿との間合いをを詰めl、鋭くそして濁った爪を振りかざす。
振り上げ、振り下ろされる直線軌道。躱すことなど造作もない。駿はひらりと身体を軽く動かして最低限の動作で相手の攻撃を躱すと、そのままその場で反転した。
返す刃が人ならざる者の存在のみをぶすりと貫き、影とされた者の身体が崩れて落ちる。
幕引き、だった。
その刹那、絵梨香はどうすることも出来ず、ただ呆然と目の前で起こったことを頭で反芻する。
考えただけでそこに命のやりとりが存在していたのだと思い知らされた。
何を言えばいいのだろうか、どうしていればいいのだろうか。何ひとつ絵梨香には分からない。
全くわからなかった。
ただただ、視線を駿の方へと向けるばかりだ。
するとその視線の先の当人が、ちらりと絵梨香を振り返る。
「指示通り、動かずいられたな。上々だ」
そう言って駿は満足そうに、少し口角を持ち上げた。
絵梨香は駿の様子に何だかホッとしてしまう。
──この人ならば、少なくとも誰かを無碍にするようなことはないだろう。
そんな確信が彼女の中で芽生えた。
疎まれていわば左遷されてきた、印象も良くないだろう絵梨香に対して、駿は決して蔑ろにすることもなくいた。遠巻きにも邪険にもしない、下心のある様子もない。
それらの行動は全て、絵梨香にとって信用と尊敬に値するものだった。
「駿パイセン、さっきはありがとうございました。これから改めてよろです」
整った顔に笑顔を浮かべて絵梨香は駿に対して感謝の言葉を紡ぐ。
言葉を向けられた駿の方は驚きで呆けていたが、次には噴き出して盛大に笑い出した。
「え、なになに?」
「いや、なんでもない。そんな風に話すとは思わなかったから」
「これくらいの方が可愛くない?」
「少なくとも堅苦しくなくていいよ」
言葉を返しながらも駿はやはり笑い声を抑えることができない。
「改めてよろしく、柊」
それでもあいさつの言葉を改めて口にした駿の頭の中では、今回の人員は期待ができそうだなどという思考が巡る。これまでの期待したことは打ち砕かれ続けて、結局はこの程度と諦めを続けてきた。その状況の変化というものは基本おどろおどろしく、加減のひとつすらろくにできやしなかった。
それが今や相棒同士として認識されるに至る二人の真実なのだ。
不可思議な事象たちが関わる、これは二人の始まりの出来事だ。
