それは幸福なる瞬間

 幸せというものは香りからも感じるものらしい。
 というのも、オスカーとミオそれぞれが愛情があり、穏やかな家庭に育ったところも起因するところだろう。
生活を彩る香りというものは様々なものがあるが、幸せを象徴するものたちはそのどれもが穏やかでそして柔らかな香りを帯びているものだ。
取り立てて食事についてはそれが顕著に現れるところと言える。生活感のみならず、美味な食事を連想させる香りはたしかに幸せを運ぶものだ。
オスカーとミオは二人で暮らすようになってから、余程のことがない限りは食事は顔を合わせてとることにしていた。二人で作ったり、出来合いのもので整えたりと食卓に並ぶものは時々によるが、それでも顔を合わせて食事をすることだけは変えることなく続けている。
それは幸せを噛み締められる瞬間のうちの一つであることもそうだが、少しでも長く二人でいたかった。
二人の気持ちは一致しており、互いの望むところでもある。だからこそ、彼らは学部こそ違うが共に通う大学の中庭で待ち合わせをしていた。いつものように。
先に中庭にたどり着いたのはミオの方だった。
視線をうろつかせてオスカーがこの場にいないことを確認すると、いくらか設置されているベンチのうちのひとつに腰を下ろす。
中庭は多くの人が行き交い、憩いの場というには少し騒々しい。しかしそれは、待ち合わせをするという意味においては適した場所ともいうことが出来た。
しばらく視線を右往左往とさせていると、ミオの視界には見慣れた姿が飛び込んでくる。
「ごめん、お待たせ!」
小走りでミオの座るベンチの前にやって来たのは、彼の待ち人であったオスカーだ。
「ううん、大丈夫。忙しかったんだよね」
ミオは微笑んで見せてから、オスカーに声をかける。
「色々と重なっちゃってさ……」
「オスカーは人気者だから」
「そういうのじゃないって」
気にするというよりはどこか誇らしげなミオに対して、オスカーは苦笑いを浮かべるばかりだ。
「それより、買い物して帰ろう?」
そう言ってオスカーはベンチに腰掛けるミオに手を差し伸べる。
「うん」
当たり前のようにミオはオスカーの手を取り立ち上がると、そのまま手を握り合って歩き出した。
相変わらず中庭はざわざわと喧騒が渦巻いていたが、それでも二人の間には全く関係はない。いわゆる二人の世界、というやつだった。

大学と二人の住まう部屋のちょうど中間あたりに、普段から贔屓にしているスーパーがある。
学校帰りに買い物をするときには、決まってこのスーパーに立ち寄っていた。高すぎず、かといって品も悪いものを置いているわけでもない。二人の経済力に適した店と言えた。
いつものようにオスカーとミオは連れ立ってスーパーを訪れる。
今日の夕食は何にしようか、あれもいい、これも悪くないと話を膨らませながら。
「ねぇ、オスカー。今日、オムライスにしようよ」
スーパーに入ってややもせず、ミオはそう口にする。その言葉の理由になったものがあるのかとオスカーがミオの視線を辿れば、その先にはいかにも美味しそうなオムライスの写真が飾られている。
手作りの料理を披露する場らしいそのボードにはいくつもの写真が並べ飾られていたが、その中でも群を抜いて目を引くのが件のオムライスの写真だった。
なるほど、とオスカーはひとつ頷く。
「いいよ。卵、うまくできるといいなぁ」
そう言って笑うオスカーに対して、ミオもまた笑う。
「前の時はうまく出来てたじゃない」
「その前は微妙に崩れちゃったからね」
「けど美味しかったよ?」
二人はそんな日々の生活を感じさせる微笑ましい言葉を交わしながら、オムライスに必要な食材を選びながら足を進めていった。
二人で暮らすようになってからある程度の時間が経ち、それらの時間は当たり前のものとして定着して久しい。
それゆえに慣れた足取り、慣れた手つきで買い物を済ませていく。分かりやすくそれは、二人にとって正しく日常だった。
オムライスのために必要な食材を一通り買い揃えると、二人はやはり肩を並べてスーパーを出て今度はもちろん自宅へと足を向ける。
買い物袋をオスカーが空いた手に持ち、もう片方は相変わらずしっかりを手を繋いでいた。
オスカーとミオの間には多すぎず、それでいて少なすぎもしない言葉が交わされ、帰り道の時間を彩る。
今日何があったかという話、オムライスに想いを馳せて楽しみだと語り合い、言葉がない間も二人の間にはあたたかな空気は絶えず溢れ続けた。

帰宅をすると、荷物を下ろし準備を整え食材をキッチンの台へ並べる。
食材同様に二人もまた肩を並べてキッチンへと立ち、視線を合わせた。
「よし、晩ご飯作ろ!」
「うん」
声は弾み、この瞬間を楽しんでいることがありありと伝わるものだ。
それぞれが野菜と肉を切り、下準備を終わらせていく。可能な限り二人は一緒に調理をしているが、そのことは見るからに明らかでなんと言っても手際の良さが際立った。
あっという間に整った材料たちを炒めて、出来上がったのはチキンライス。ケチャップを主に味つけられたチキンライスの香りは、食事時の胃を嗅覚から誘惑する。
味見をしてみた結果も上々。あとは卵だけだ。
緊張の一瞬、とでも言いたげにオスカーが少しこれまでよりも真剣な表情を浮かべる。
スーパーで話していた言葉の通り、うまくいくかどうかを気にしているのは確からしかった。
「じゃ、いくよ」
表情そのままに言葉を紡いだオスカーに対して、ミオは小さくひとつ頷いてみせる。
穏やかな時間のその一頁であり、同時に今日の山場の一つでもあった。
卵を溶き味も整えてから火を通し、チキンライスを乗せてからがオスカーの頑張りどころだ。
先日のオスカーのいうところの微妙に崩れてしまった案件は、最後の最後で皿に盛り付ける際に発生した卵がまとまらないというものだった。ミオとしては「崩れたってほどじゃないと思うよ?」というところではあるのだが、オスカーはどうも納得できなかったらしい。
その時の二の舞にはならないようにと、オスカーは何度も意識しながら慎重に、しかし慎重になりすぎないようにオムライスの最後の仕上げに向かっていく。
卵に火を通しながら形を整えて、皿にくるりと綺麗にひっくり返した。
「やった。これ、ミオの分ね」
「うん、ありがとう」
形の整ったオムライスの乗った皿を手に取り、ミオはいつも自分の使っている場所に持っていく。
その間にオスカーはもう一度、今度は自分の分のオムライスに取り掛かっていた。次はそれほど緊張は見られない。
大抵はミオのものを先に整えてしまうため、練習なしの一発勝負という状況になることが多いということもあるのだろう。加えて、最悪自分のものは多少崩れたところで問題ないというところも合わさって、気楽さはかなりのものらしかった。
オスカーは今しがたと同じ動作を繰り返し、手際よくもう一つのオムライスを仕上げていく。
こういう過剰な緊張のない時の動作というのは、大概の場合において失敗を伴わない。今回も例外なくそれであり、最初のものと全く引けを取らないような綺麗なオムライスが、瞬く間に仕上がっていった。
笑顔で二人、食卓を囲む。目の前には大成功と言って差し支えのない綺麗なオムライス。オスカーの表情もどこか誇らしげだ。
どちらからともなく手を合わせ「いただきます」と声を合わせる。次に視線を合わせて笑顔を向け合うと、揃って二人でスプーンに手を伸ばした。
それぞれのタイミングでオムライスを口に運ぶと、二人とも満足そうに顔を綻ばせる。
「おいしいね」
幸せそうに笑って先に口を開いたのはミオの方だった。
「うん。形もだし味も美味しくできてよかったぁ」
向けられた声に応えるオスカーも、同じく幸せそうに微笑む。
「だから大丈夫って言ったのに」
「そう言ってもらえても、やっぱり緊張はするよ。かっこつかないけどね」
オスカーは答えながら、何度かフライパンを返す手の動きを空中でしてみせた。その動作にミオがまた微笑む。
「気にしなくていいのに。それに……さっきのかっこよかったよ?」
おずおずと、しかしそれでいて明確にミオは言葉を紡いだ。その言葉にオスカーは目を見開いて、次には細めて笑った。
「そうかな? オムライス返してただけだよ?」
「オスカーはいつもその……かっこいいから」
重ねられるミオの言葉に、オスカーの表情は満更でもないという照れ臭さと嬉しさの入り混じったものに変わっていく。付き合っている相手にかっこいいと何度も言われて、嬉しくないはずがなかった。
「ありがと」
そう言ってオスカーは満面の笑みをミオへと向ける。ミオの方は照れ臭そうにはにかんでから、そんな感情を誤魔化すかのようにオムライスをつついた。
穏やかで落ち着いた時間が、ゆっくりゆっくりと流れていく。少しの照れ臭さや気恥ずかしさも含みながら、普段と変わらない二人の時間が確かにそこにはあった。
言葉を多く交わし続けたわけではない。
それでも時折視線を絡め、また時折笑みを向け合いながら食事をする時間は、確かに幸せに満ちていた。
やはりいつもの通りに。
気がつけば目の前にあったはずのオムライスはすっかり胃のなかに収められ、空の皿を残すばかりとなった。
二人はまた手を合わせて「ごちそうさまでした」と行儀よく声を揃える。もう幾度目かもわからない笑みを向けあってから、美味しかったねと言葉を紡ぎあった。
「そういえば、クッキー残ってたっけ」
「まだあるはずだよ。オレ、お茶淹れるね」
「ありがとう」
少し前に二人で気に入って買ったクッキーを取り出したミオと、言葉の通りにお茶の準備を整えたオスカーは再び向かい合って腰を下ろした。
片付けの前のひと呼吸、とでもいうような穏やかな時間は改めて二人に幸せを感じさせる。
甘いものとあたたかな飲み物、そして大切な相手の姿は目の前に。
香りだけからではない、全てにおいて確かな幸せは今ここにあった。