どうしてこんなにも眠たいのだろう、よく分からない……ぐらぐらと揺れる視界にも灯りがもれている場所は分かった。とりあえずあそこまで、あの場所までは行こう。ただただ眠たくて、眠たくて仕方がない。
ああ、やっと灯りが近くなってきた。あいつはいるだろうか、あいつの音を聴きたいなあ……でも、自分の気持ちが伝わったら今までみたいには出来なくなってしまうのだろうか。何故だろう、頭が回っていないのか変なことばかり考えてしまう。
彼はぐらりとよろめきながらも歩き続けた。彼の頭の中は想い人のことばかりだがこの想いを伝えてはいけないと、普段は律しようとしている想いだ。今だけは、今だけはとまるで呪文のように唱え、灯りのあふれる扉のすぐ目の前でついに彼は倒れた。
大きい門構えの建物の中から、人影がひとつ飛び出してくる。倒れた彼に駆け寄った人影は、必死に彼の名を叫んだ。
『――!』
誰かの声が聴こえた気がした。それはとてもとても苦しくて、辛くて、受け止めることも怖くなるようなものに思える。
実際は誰が何を言ったのかもよく分からない。というのも今、彼は自分自身のことすら分からないのだ。彼にとって確かなことは視界に入る景色と、自身で握る手の感触、そして己の耳に入ってくる音だけだった。しっかりと二本の足で地面に立ってこそいるが、その地面はどこかへ続く一本道だという目に見えるもの以外は、やはり何も心当たるものがない。
自分がどんな人間でどんなふうに生きてきたのだろうかという、そんな疑問は彼の中に浮かび上がってきたのだが、同時にそれを思い出すのは何故やらしてはいけないことのように思われて困惑する。その想いを困惑ごと振り払おうと彼は、何度も何度も首を横に振った。ぶんと音が鳴るほどに激しく首を振り、更には大きく深呼吸をしてまでその全てを遠ざけようと彼は躍起になる。
そんな風に考えて、そんな風に行動してしまっているあたりに、もう強く意識していることを思い知らざるを得ないが、そこはもう気にしていては負けだろうと妙な割り切りとともに意識を強引に周りへと向けてみることにした。
すると先ほどまでは気がつかなかったが、彼を取り巻く景色は絵に描いたように鮮やかでいて美しく、世界の美しさの全てをここに詰め込んだ宝石箱のような輝きに満ちていたということを知る。彼は思わずその目を見張り、じっくりと辺りを見渡した。
少し落ち着いてきた彼は、やっと自分の手掛かりについて模索し始める。どうしてここにいるのか、ここで何かをしていたのか、その前は何をしていたのか、自分の名前や立場、そう言ったことについてその場に立ち尽くしたままで思案を巡らせてみたところでやはり状況は変わらない。
「もうこのままでいっか」
声に出してみると、その言葉が妙にしっくりきた。そうか、このままでいいのかと思ったのだ。
ここにいればさっきの声を聴いたときみたいに苦しい気持ちや辛い気持ちになることもない、何かを思い出すことを怖く思うのならこのままの自分でここにいれば平和なのだと。
しかしその言葉がしっくりとくる一方で、ほんの少しだけ違和感もある。これでいいのか、本当にいいのかという疑問と疑い。大切なことを忘れているような、そんな気もしているのだ。だからこそ最初の自分の案に両手をあげては賛同しきれない。どうしてだろうか、この相反する想いに振り回される格好になり彼は、悶々として堪らず乱暴に頭をかきむしった。自身の視界にもちらりと映る金糸のような髪の毛は、本人の手の乱暴に耐えきれなかった数本がはらはらと落ちる。
『珍しい髪の色をしているよな』
今度ははっきりと誰かの声が彼に届いた。だが、周りには人っ子ひとりいやしない。首を傾げながら「どうせ気持ち悪い髪の色だよ」と前髪を掴んで吐き捨てる。
『そんなことはないよ! 光の下できらきら光っているみたいで綺麗だと思う!』
誰のものかも分からない、幻聴かもしれないその声に彼は息をのんだ。その声は嘘の気配など微塵も感じさせることなく、優しくそして愛しさをも覚える。相も変わらず声の主についても自分についても、思い出せそうにはなかったが心が少し暖かくなったように思えた。
「なぁ、お前は誰なんだ?」
問いかけてみたところで、もちろん答える者がある訳ではない。大きく溜息を吐くと諦めの面持ちとともに空を仰いだ。眩く輝く空には雲ひとつない、まさに快晴というやつだった。しかしその空に反して彼の胸には暗雲がたちこめつつある。
先ほどの声がまだ耳に残っていて、何度も反芻してみるほどに思うのだ。やはりこのままでは、後悔するのではないか、忘れていてはいけないことがきっとあるのだ、とそれは彼の内から何かが囁いてきてるような気さえしてくる。
「俺は……」
空を仰ぎ見たまま彼は困惑し切った様子で眉を下げて口を開いたが、そうしたところで変化が訪れるという訳でもない。輝く世界の中にあって、自分だけがまるで異物のようだと思えてくるほどだ。
「やっぱり俺はだめだよ」
そんな弱音を空に向けて放つ。
『お前はすごいやつだよ』
また同じ声がする。やはり嘘のない優しい声は、彼に真っ直ぐな言葉をむけてくるのだ。自分は何もできない、今だって自分のことも声の主のことも思い出せてやしないと彼は自身を責めるが、まるでそれえを見越していたように例の声が語りかけて来た。
『すごく感謝しているんだ』
そんなはずはない、彼は反射的にそう思う。自分は誰かに感謝されたりするような人間ではない、と思いながらもそうありたいとどこかで願っているからだろう、真っすぐな感謝の言葉が少しこそばゆい。ただ、悪い気は決してしないものだった。
何故だろうか、唐突にこの声の主のもとへ帰らなければと、強く強く思う。伝えなければいけないことがあったはずだ、落ち着いて話さなければいけないことがあったはずだ、辛くて苦しい気持ちもあるけれど今こそちゃんとしなければ。
そして彼は双眸をゆっくりと閉じた。
「んあ!」
どうにも間の抜けた声がこぼれ落ちる。少しかすれ気味な声は、あまりこの口から音を発していなかったらしいことを如実に伝えていた。
そして、ぱちりと大きく開かれた相貌は目前の見覚えのある顔を捉える。身体の感覚から察するに横に寝かされているのだろう自身の目の前に顔がある、ということはどうやら覗き込まれているらしい。しかし、寝起きだからかそれとも他の理由があるのか、相手の顔を見ても名前が思い出せない。
そうしている間にも目前にある顔はどんどんと不安げだった表情が、みるみる安堵の色に染まっていく。彼から見て現状は少なからず改善はしている様子だった。
「よかった……やっと起きたんだな、善逸」
彼の目の前にいる人は笑みを溢して、名前を呼んでいる。どうやら自分の名前は善逸というらしいと、まだ舞い戻ってはきてくれない記憶を他所に認識した。目の前の人物は誠実を絵に描いたような表情と折り目正しい姿勢で善逸と向き合っている。そしてその声、それは聞き覚えのある――この状況からして間違いなくお互いは面識があるだろうことは想像に難くないが――懐かしさと優しさと誠実さを感じさせるものだった。
彼、善逸の耳にははっきりとこの声の記憶が残っている。だがどうにも声の主、ひいては目の前で笑顔を浮かべている彼のことが思い出せないのだ。知らないはずはないのに。
「善逸?」
名前を呼ぶ声に、疑問の色が濃くなる。善逸の様子を察しているのかどうなのか、目の前の彼の様子は疑問と少しの驚きとが混ざりつつもその大半を安堵が占めていた。そしてその根底にある優しい音は、居心地の良い安心できる音だ。
「なぁ、善逸。お前が任務の後から突然目を覚まさなくなって、いろいろ考えたんだ……本当に怖かった。でも……」
そこまでで一旦言葉を切ると、目の前の彼は大きく息を吸って意を決した様子でもう一度口を開いた。
「だからこそ、この気持ちに嘘はないと思えた。俺は、お前が好きだよ……愛してる」
全身が粟立つような感覚が善逸を襲う。
――愛してる
この言葉が善逸の耳から全身を駆け巡り、全てを揺り動かした。その激しい衝撃は身体を預け切っていた布団から、反射的に上半身を引き起こしてしまうほどだ。そしてその衝撃は突如として彼が見失っていた記憶を舞い戻らせる。
善逸の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと流れて止まらない。
「ぜん……っ!」
「たんじろぉぉぉぉ!」
彼、炭治郎が善逸の変化に対応するよりもさらに早く、布団を抜け出た善逸が突撃でもしているかのように泣きついた。胸元に顔を寄せて泣く善逸はまるで子供のようで、炭治郎もされるがままになっている。
背中をゆっくりとさすってやりながら、優しい声色で問いかける炭治郎に善逸は何度も頷いてみせた。
「俺も、俺もなっ! 炭治郎のことが好きだよ! 愛してる」
ほんの少し前までの重く靄のかかったような、はっきりとしないようにすら感じられた意識はどこへやら。善逸は今やしっかりと目の前の炭治郎を認識しその想いを告げる。嗚咽混じりに惜しげもなく告白の言葉を述べる善逸に対して、心嬉しい様子で表情を綻ばせて炭治郎は回した手に力をこめた。
それでも疑問が全て解消された、という訳ではない。
「な、たんじろ。俺、どうしたんだっけ? さっき、お前は任務から帰ってきた俺が目を覚まさなくなったって言ってたけど……あり得なくない……?」
「心配したんだぞ!」
「いやそれは申し訳なかったと思うけども!」
そうじゃなくて、と語気を強く詰め寄られて単独任務の帰りに屋敷の前で倒れてから眠り続けていたという事の顛末を聞かせた炭治郎だが、どうにも腑に落ちないらしい善逸の様子は煮え切らない。
嘘だ、と反射的に善逸は思う。でも炭治郎から聴こえる音は、いつもと同様に泣きたくなるような優しい音と、緊張と安堵を重ねたようないつも通りとは言い難くとも、そこに嘘の音はなかった。
その耳に届く事実は嬉しくて、しかしどうしたらいいか分からずに善逸は戸惑う。そして隠し通すと硬く誓っていたはずの想いを半ば勢いと共に炭治郎に向けて解き放ってしまったこと、結果として想いあっていたという事実も衝撃だった。
「善逸」
その困惑もきっと炭治郎の鋭い嗅覚に捉えられてしまっているだろうことを伺わせる声色で呼ばれて、ぞくりと身体の芯が震えるような感覚を抱く。
「愛してるぞ」
やめろよと言ってやろうとしたその口を炭治郎のそれが塞いだ。やはりこの考えも含めて筒抜けらしい、敵わないなと思いながら口づけを受け止める。
ふと口が離れた瞬間、善逸ははにかんで「俺も」と返してみせた。
