きらめきセンチメンタル(tnzn)

 空の色が青から橙へと染まる。寂しい気持ちが膨らむ頃には、楽しく遊んでいたはずの友達が一人、また一人と、家へと帰っていく。大半の家では「暗くなるまでには帰ってきなさい」と言い含められているだろうから、当然のことではあるのだが。
 そしていつもぽつんと一人、取り残されてしまう。
 誰かがいれば話もできる、気を紛らわすことは造作もないことだ。だが、誰もいないと話は違う。
 一人取り残されて炭治郎は途方に暮れていた。彼の両親が営むパン屋はいつも盛況で、真っ直ぐ家に帰れば特に忙しい時間帯とぶつかってしまう。迷惑はかけたくないと少し遅めの時間まで、家の外で時間を待つように心がけているが寂しさばかりはどうしようもない。
 公園のベンチに腰を下ろして、大きなため息を吐きながら空を見上げる。昼間と夜の境目の空が炭治郎の視界を染めた。
「ねぇ」
 突然かけられた声に炭治郎は驚いてそちらを見る。そこにはフードを深く被った同じくらいの年齢と思しき少年が立っていた。フードの中からちらりと除く金髪が沈みゆく太陽の光を受けてキラキラと輝き、蜂蜜のような明るい色の目がおずおずと炭治郎に焦点を合わせている。
「おれ?」
 何が起きているのかわからず尋ねてみると、フードの少年がこくんと一度頷いた。
「あそぼ?」
 今度は誘い言葉とともに首を傾げる。
 炭治郎の脳裏に母親の『知らない人について行ってはだめよ?』という言葉がよみがえった。
 だが、人間は禁じられるとそれをおかしたくなってくるものだ。
 誘う蜂蜜色の瞳に意識を吸い寄せられるように、すっかり目の前のフードの少年しか目に入らなくなっていく。
 周りの景色も、音も、匂いも、全てが遠く意識の外へ追いやられてしまうような不思議な感覚だった。
「少しだけなら、いいよ」
 気がつけば炭治郎の口は肯定の言葉を紡ぐ。ほんの少し、小さな棘のような違和感を覚えたが、それはすぐに消えてしまった。
 肯定の言葉を聞いて、フードの少年は嬉しそうに笑う。それだけで十分な気がした。
 少年は炭治郎の隣に腰を下ろすと何を言うでもないが、やはり嬉しそうな表情を浮かべている。そんな少年へ視線を向けながら、炭治郎は口を開いた。
「名前……名前を、おしえて?」
 少年は少し考えるようにしてから「善逸」と小さな声で応える。
「善逸。俺は炭治郎、よろしく」
 炭治郎が微笑みかけると、善逸は落ち着かない様子でもじもじとしてから、先程よりもさらに嬉しそうな様子で大きくひとつ頷いた。ばたばたと手足をばたつかせ、全身で喜びと照れくささを表現していることを如実に伝えていて、炭治郎まで照れくさくなってくる。
「なに、してあそぶ?」
 炭治郎が問いかけ、善逸が視線を合わせた。
「いっしょにいるの、たのしい」
 善逸はそう答えて笑う。その笑顔はまるで宝石のように輝いていて、炭治郎は目を奪われてしまった。そして同時に思う、フードがなければもっとキラキラと輝いているのだろうと。
 炭治郎が善逸のフードに手を伸ばすと、彼は驚きに目を丸くした。
「これはとったらだめ」
 ほんの少し身体を引いて、両手でフードをぐっと押さえる。
「なんで?」
「じぃちゃんが、とったらだめって」
「そっか……」
 善逸の口調からは絶対の意思が感じられて、炭治郎は項垂れるばかりだ。見るからにがっかりさせてしまっただろう状況に、善逸は目に見えてあたふたとし始める。
「あ、あの、あのね!」
 炭治郎へと必死に声をかけた。その声に、項垂れていた炭治郎の視線が善逸の方へと向く。
 すると善逸は手のひらに石をいくつか乗せて「見ててね?」と炭治郎に笑いかけた。次の瞬間にはその石たちに柔らかな光が灯る。にわかには信じられないような光景に、炭治郎はただ息をのむばかりだ。
「手品!」
 手品というよりは魔法のようなその状況は、善逸が意図して起こせるものらしい。彼の満面の笑みがそれを物語っていたし、慣れた様子と弾む声がさらに説得力を与えていた。
 炭治郎にしてみれば、驚きばかりのこの状況下に唖然としてしまう。しかし善逸の手品と称する光景に目を奪わたこともまた事実だった。
 しばらくすると、善逸の手の上の石たちは光を失い見慣れた姿に戻る。それまで食い入るように善逸の手元を見つめていた炭治郎は、ぱっと顔を上げた。
「ぜんいつ!」
「うぇ⁉︎ はい!」
「すごい! きれいだった!」
 鼻と鼻がつこうかという程まで顔を寄せ、炭治郎はその瞳を好奇心で輝かせる。
「あっ、えっと……うん」
 善逸は突然の距離の変化に分かりやすく狼狽え、そしてはにかんでみせた。その姿に炭治郎は微笑み、楽しげにベンチの上で地面に届かない足を揺らす。横に並ぶ二人の影が夕日に照らされ長く伸びた。
 共有する時間は癒しを覚えるもので、二人から緊張の色が消えるまで時間はそうかかることもない。
 その日から、二人は夕暮れの頃に遊ぶ友となった。

 炭治郎はそれからというもの、夕暮れがやってくるのが楽しみで仕方がない。あまり長い時間を共に過ごせる訳でもなく、ふたりぼっちであるために出来ることに制限もある。だが、そんなことはあまりにも瑣末に思えてくるほど善逸との時間は楽しく、そしてあっという間に過ぎ去ってしまうものだった。
 しかし、もっと遊びたいと思う頃には善逸は姿を消してしまう。夜がやってくると、彼は「じゃあね」とだけ言い残してどこかへ帰ってしまうのだ。炭治郎は善逸がどこから来てどこへ帰っていくのかも知らないままだった。
「なぁ、善逸」
「うん?」
「善逸はどうして夕方にしか来ないんだ?」
 それはふと疑問に思ったことだ、降って湧いた程度で特にこだわりも何も無い。
 だが善逸はぴりっと全身に緊張を走らせ、明らかにぎこちない動作で炭治郎の方を向く。フードの下からのぞく瞳には動揺の色がはっきりと浮かび、何度もなにか言葉を紡ごうとした口が閉じては開き、そしてまた閉じることを繰り返した。
「善逸?」
 まさかこんなにも様子が変わるとは思いもよらず、炭治郎は申し訳なさを感じつつ善逸の様子を窺う。向ける目は申し訳なさそうに伏し目がちだった。
「炭治郎、ごめんね」
 善逸は何故か謝罪の言葉を口にする。二人の視線が絡み合い感情がぶつかると、炭治郎の中に嫌な予感が影を落とした。
「……ぜん、いつ。何を」
「俺、炭治郎と会えて……ちょっとの間だったけど遊べて楽しかった」
「え……」
 それはまるで……否、別れの挨拶そのもので炭治郎のことを困惑させる。あまりにも唐突すぎることに、全くついていけない。
「なんで……」
 善逸は炭治郎の疑問に答える様子もなく、ただ微笑むばかりだ。
「なぁ、善逸……どうして?こたえてよ……」
 炭治郎の瞳には涙が滲む。せっかく仲良くなれたと思ったのに、そう考えると悲しくて仕方がなかった。炭治郎の姿に善逸の様子もまた苦しげだ。
 しばらく続いた無言の間の後、善逸が重い口を開いた。
「本当はないしょなんだ……けど……」
 悲しげに目を伏せる善逸の姿は夕日と共に消えてしまいそうで、炭治郎の中には焦りばかりが募る。それでも善逸の次の言葉を待つほかない。
「炭治郎にはとくべつ、な?」
 そう言う善逸に炭治郎の目はくぎ付けだった。いつもよりも人ならざるものの気配を発し、それでも目をそらすことの出来ない存在感。
 強引に視線を引き付けられるようなそんな感覚が炭治郎の全身を支配する。
「俺、人間じゃないんだ。とても弱くてダメな化け物なんだよ」
 再び口を開き善逸は語り始めた。あまりにも突飛すぎる言葉はにわかには信じがたい。
「じいちゃんには人間と関わるなって言われてた。けど、どうしても俺……一度見かけたことのあった炭治郎と、話してみたかった。だから、じいちゃんに頼んだんだ……」
 現実離れしすぎた話に炭治郎はただ唖然とする。だが、善逸のことを怖いとは思わなかった。
「じいちゃんはさ、炭治郎が俺のこと探ろうとしたり正体を知ってしまわなければいいって許してくれた」
 そう言って善逸は視線を落とす。表情は見るからに悲しげで、炭治郎にもう善逸とは会えないのだろうと感じさせるには十分過ぎた。
「炭治郎、さっき何で夕方だけしか遊べないのかって言ってたよね?」
「……うん」
「それは、この時間しかこの姿でいられないからだよ。他の時間は炭治郎が見たら怖くなっちゃうから」
「そんなこと!」
「だから絶対見せられないんだ」
「……」
 善逸の言葉には強い拒絶と絶対の決意が滲む。それは決められたことでもあり、彼自身もまたそれを望んでいないのは見るからに明らかだった。
「だから、ごめんね」
 空は夕焼け色から夜へと変わりゆく。善逸の言う見せられないものへ変わってしまう刻限は、すぐそこにまで迫っていた。
「もう、会えないの?」
「うん。約束だから……」
「ごめんな、俺があんなこと聞いたから」
「ううん、炭治郎は悪くない。俺は一日で終わっちゃってもいいって思ってたから、こんなにたくさん遊べて嬉しかったよ」
 善逸は悲しげだが言葉の通り満足感も帯びた笑顔を炭治郎に向ける。
「もう行かなきゃ。ありがとう、炭治郎。元気でね」
 ふわりと微笑み、善逸は歩き出した。
 空にも街にも闇が迫り来る。善逸は今まで頑なに拒んでいたフードをとり一度だけ振り返ると、涙をこぼしつつ笑顔のまま炭治郎に手を振った。
 金髪が夕日の最後の光を映し煌めく。
 フードの中からはひょこりと耳がはねた。それは人間のそれとは全く異なり、頭の上で小さく存在を主張しその形は犬や狐を思わせるもので、炭治郎は目を見張る。善逸の言葉を信じないわけではなかったが、この不思議な体験は実際の出来事なのだと炭治郎に強く感じさせた。
「俺こそありがとう!」
 やっとそうとだけ告げると、善逸の姿は訪れた闇に溶けて消える。
 それは炭治郎にとって、ほんの一瞬でありながらそれでいて永遠にも等しい、まるで宝物のような記憶となった。

 きらきらと輝く宝物、そんな記憶を胸に抱いて炭治郎はいつしか高校生になっていた。
 記憶は少し色褪せて、それでもなお美しく輝いている。善逸を探してみたりもしたものだったが、そうすることもいつの間にやら諦めてからというもの、遠くなった幼い日の思い出は炭治郎を支えていた。
 新しい学校にも慣れ、友達も出来て不自由はない。けれどどこかこの現実が、遠いもののようにも思えてくる。
 実際、そんなことは全くないのだが、どうにも炭治郎は自分だけがどこかに囚われているような不思議な感覚を覚えることがあった。そういう時は決まって、幼い日の善逸の笑顔が目に浮かんでくる。
 彼は今、どうしているのだろうか。そんなふうに思わずにはいられなかった。
 そんな妙にセンチメンタルな気分に引かれるようにして、炭治郎は一人で橙色に染まった帰り道を歩く。奇妙なまでに静まり返り、人っ子一人見当たらない。
 
 ――こんなに人の通らない道だったっけ……?
 
 ふと疑問を抱いた、抱いてしまった。
 途端に背筋が凍るような、そんなおぞましい気配を感じる。目に映る景色は間違いなく見知ったものなのに、まるで見知らぬ場所のようにすら思えた。目に映るその全てが黄昏の色と漆黒の闇へと染まっている。
 ここは、知らない場所だ。
 炭治郎は直感的にそう感じ、恐怖する。助けを求めようにもここには誰もいない。まるでただ一人終わりゆく世界に閉じ込められてしまったような、圧倒的な孤独と絶望。炭治郎はそれにただ震えることしかできず、自身を折れぬように奮い立たせようと足掻くもその努力は虚しく散る。
 別の何かの気配がした。それはおおよそ人とは思えないようなおぞましく禍々しい、平たく評するに化け物が存在しているとしか思えないものだ。
 
 ――落ち着け、落ち着け、落ち着け!
 
 炭治郎は大きく何度も深呼吸をし、何とか自身に落ち着きを取り戻させようと足掻く。しかし〝落ち着かなければ 〟と意識していることそのものが、気が動転しているということへの証左に他ならない。
 必死に気配の根源を探ろうと駆け出しては視線をさ迷わせる姿は、冷静さを失ったもの行動でしかなかった。
 得体の知れぬものへの恐ろしさを本能的に炭治郎は、その正体を確認することによって軽減しようとしていたが、必ずしもそうとは限らない。正体がわかったからこそ恐ろしい、という存在もある。
 さ迷った炭治郎の目の前に姿を現したのもまた、そういった類の存在だった。
 再び炭治郎の背筋が凍る。
 化け物はこの世のものとは思えないような、自然には絶対無いだろう世界を冒涜するかの如き造形だった。どこで物を見ているか分からない無数の瞳からは、はっきりと殺意と狂気を帯びた視線を感じる。
 今まで感じたこともないような恐怖、命の危険を伴ったものが炭治郎の全身を駆け巡った。指先は震え、膝は笑い、一歩たりとも動くことすら出来ない。
 炭治郎は強く自身の死を予感する。覚悟はない、ただ判然と事実としてこれから自身の命は散るのだと、それしか考えられなくなっていた。
 死を予感すると今までの記憶が走馬灯のように次々と思い出すと聞き及んでいたが、炭治郎の脳はあまりの恐怖にそれすら拒絶しているらしい。
 得体の知れない化け物は炭治郎の二倍は優に超えるだろう巨躯を操り、一撃浴びせられればひとたまりもないだろう太く屈強な腕に力を込めた。
 炭治郎の口からひゅっと息が漏れる。もう声もろくに出せやしない。それほどまでの死の恐怖は目前にまで迫っていて、風前の灯火だった。
 化け物の腕にさらに力がこもり、ぐんとしなる。もう駄目だ、そう思ったとき視界の端に金色が閃いた。
 次の瞬間、炎と呼ぶにはあまりにも強い金の色を帯びたものが炭治郎を掠めていく。それは一直線に化け物の方へと向かい、轟音と共に炸裂した。そこまで大きなものではなかったが、その威力は目に見えて大きなものだ。実際のところ炸裂したそれの威力で、化け物の巨躯は大きく仰け反りぐらりと揺らぐ。
 その衝撃に化け物が咆哮したとき、炭治郎の手を強く引く者がいた。恐らくは化け物に一撃を見舞った攻撃の主だろう。
 助かった、炭治郎は握られた手の温もりを確かに感じて安堵した。手は強い力で炭治郎を数歩後ろへと後退させ、逆に手の主が前に進み出る格好になる。
 炭治郎は尻もちをつきそうになるのを何とか足を踏ん張り踏みとどまると、目の前には自身とあまり体格の変わらない人のような形をした何者かの姿があった。人のような形をした、というのは目の前には人のシルエットこそ持っているが、臀部あたりからふわふわとした大きな尻尾がはえていて頭の上にも獣のような耳が乗っているという理由に他ならない。ざっくりと切り揃えられている金髪が揺れた。
「そのままそこに居て!」
 顔の見えない目の前の何者かは怒声を炭治郎に向けて発すると、強く地面を蹴って化け物へと向かっていく。化け物の方もまたようやく体勢を立て直し、金髪に向かって動き出した。
 ドン、と轟音が響き地面が揺れる。
 互いは怯まず、化け物が先程の炭治郎に対して向けたように腕をぐんとしならせ金髪へと襲いかかるが、それをいとも容易く身をひと捻りして躱した。その身のこなしは軽く、踊っているようですらある。
 あまりの鮮やかさに炭治郎の目は釘付けだった。瞬きをすることすら勿体なく思えてくる。それほどまで美しく目を惹き付ける姿はこの世のものとは到底思えなかった。
 ちらりと一瞬、金髪の人に似た人でない何者かの横顔が見える。その時、炭治郎の脳裏には幼い日に夕陽のなかで笑っていた善逸の姿が浮かんだ。
「ぜん……いつ……?」
 思わず口から言葉が漏れる。その音に反応して、善逸と思しき存在の頭の上に鎮座する獣を思わせる耳――尻尾の形状を考えると狐に近いものだろうか――が、ぴくりと反応した。
「善逸、なんだな?」
 善逸らしきそれは応えない。しかしその反応からも、先の横顔からも、見まごうはずがなかった。会いたいと願いつづけた善逸が目の前にいるのだと、それだけで炭治郎の瞳には涙が溢れてくる。
 嬉しいと駆け寄って会いたかったと伝えたい。だがそれが許されるような状況では決してなかった。化け物は未だ目の前にいる、炭治郎や善逸に対し敵意と殺意をむき出しにして、襲いかかってきている只中だ。
「……っ!」
 化け物の腕を避けながら、善逸は躊躇なく懐へ飛び込む。化け物はその巨大な身体ゆえに懐へ入ればそこは即ち攻撃の死角だ。善逸を見失った化け物はほんの一瞬だが、動きを止めて目標を定め直そうとする。
 それは善逸にとって好機に他ならなかった。
 ばちばちと電気が弾けるような音が鳴る。最初はほんの少しの小さな音だったが、徐々に音は大きくなり、善逸のことを淡い光が包んだ。そして善逸はあらんばかりの力を込めて底掌を放つ。
 化け物はその攻撃を防御することと叶わず、まともに食らったその場所には善逸を包むものと同質だろう光が灯った。やがて光は化け物の身体にじわりじわりとひび割れを生じさせ、ぼろぼろと身体を崩壊させていく。
 化け物に為す術はない。身体はみるみる瓦解し崩れていく。化け物はもがくことすらもままならず、咆哮のひとつもないままその場で崩れて灰になった。
「ふぅ……」
 善逸の口から安堵の息がこぼれる。そして灰と化したそれに見向きもせず、くるりと振り返って炭治郎を見つめた。
「大丈夫? 怪我はない?」
 善逸に声をかけられても炭治郎は応えることはおろか、話すこともままならない。それは身の危険が去ったという安堵と、改めて恐ろしいものと対峙していたのだと言う恐怖が入り交じり、炭治郎を混乱させていたからだ。
「炭治郎……だよね……?」
 そう尋ねて覗き込む善逸の視線には不安の色を帯びる。
 すっかり大きくなった――それはお互い様だが――善逸の姿は、記憶に残る彼と同じく頭の上に獣の耳のようなふわふわとしたものが乗っていて、立派な尾があることには驚いたが声も匂いも蜂蜜のような色をした瞳も同様だった。
「やっぱり……善逸、だったんだな……」
 自分の言葉に、この状況が絶望的ではないと実感出来て自然と炭治郎の瞳からは涙がこぼれる。
「わ、わ! 泣くなって! すぐ連れて帰ってやるから!」
 炭治郎の様子に善逸はあたふたとするばかりでどうしようも出来ない。そんな姿にほっとしつつ、炭治郎は善逸に微笑みかけた。
「取り乱してしまってごめん、助けてくれてありがとう」
「あ、いや……別に!」
「もう一度、会いたいと思ってたんだ」
「忘れてくれてよかったのに……」
「忘れられるわけない!」
 善逸の言葉に、炭治郎は必死の形相で反論する。
「え、と……?」
 炭治郎の様子に善逸は面食らってしまい、驚きに目を瞬かせた。
「俺は、ずっとずっと善逸のこと……」
 善逸は炭治郎が言葉を続ける前に、彼の口元に手を出して声を出すことを押しとどめる。よくよく感覚を研ぎ澄ませば、炭治郎にもはっきりと感じられるほのに明確な殺意がどこからが向けられていた。
「行こう」
 善逸は炭治郎の手を取り歩き出す。幼い日を思い出す、炭治郎の胸には多くの思いが去来していた。だが、それに浸る余裕はまだない。
「炭治郎、俺の手を離さないで。あとは振り返らないこと」
 そう言って善逸は炭治郎に笑いかけると、手を強く握り直して前に進む。
 炭治郎は善逸の言葉通りに前を向き、振り返らないことを胸に何度も念じながら手を引かれて歩いた。
 一瞬目の端に何かが瞬く。それが何なのか確認したい、振り返りたい、という気持ちを必死に拒絶し善逸のことだけを見つめて走り続けた。
 一心不乱に走り続けていると、やがて善逸がその足をぴたりと止める。続いて足を止めた炭治郎に善逸が語りかけた。
「もう大丈夫だよ」
 その言葉は炭治郎に安堵と、そして脱力を与える。善逸の手を握ったまま地面にへたりこみ、ほうけた表情で善逸を見上げた。
 ふふ、と笑い声を漏らしたのは善逸だ。
「助けられてよかった。改めて久しぶり、炭治郎」
 炭治郎の手を引き立たせてやると、嬉しそうに瞳を輝かせる。
「うん、久しぶり。ずっとずっと、もう一度会いたくて探していたんだ」
 恥ずかしげもなくそう言ってのける炭治郎に善逸は思わず赤面してしまった。
「……昔と変わらず馬鹿正直だな……」
 ぼそりと呟いて、幼い頃と同じようにフードをすっぽりと目深にまで被る。獣の耳を隠すという理由も当然あるのだろうが、照れ隠しという面もあるだろうことを察し炭治郎は笑った。
「なに……?」
「いや。やっぱり善逸は可愛いなと思って」
「かわっ……⁉︎」
 笑う炭治郎に口をとがらせていたはずの善逸だが、続けられた言葉にただでさえ赤面させていた顔をそれこそ茹で蛸のようにさらに赤く染めあげる。本当に湯気のひとつも上がってきそうな善逸の狼狽ぶりに、炭治郎は首を傾げた。
「……っていうか、お前……こんな人間でもないやつ喜ばせてもいいことないぜ?」
 自嘲気味な言葉とともに視線を逸らすと、善逸の肩に炭治郎の手が乗せられ揺らされる。突然の出来事に視線を戻した善逸の視界に、炭治郎の悲しげな表情が飛び込んできた。
「そんなこと、言わないで欲しい」
 必死に、そして切実に、炭治郎は半ば懇願するような言葉を口にする。
「俺は善逸が笑ってくれるなら嬉しいよ」
 そして重ねられる言葉は再び善逸のことを赤面させた。
「だからそういう……!」
 善逸はまた視線を逸らすが今度は照れを隠すためだ。全力で。それが伝わるからこそ炭治郎は微笑む。再び彼と言葉を言葉を交わせたことも、それ以前に再び会うことが出来る日が訪れたということに、喜びをひたすらに感じていた。もうすぐまた会えなくなってしまうのだとしても。
「なぁ、善逸……」
 炭治郎が善逸に呼びかけた瞬間だった。耳を塞ぎたくなるような異音が響く。不愉快極まりなく、気がふれてしまいそうだ。
 善逸が炭治郎の手を再びとり走り出す。遠くへ、遠くへ、音の届かない場所へ。
 手に伝わるぬくもりがなければ本当におかしくなってしまっていたかもしれない。炭治郎は手の感触へ意識を集中させ、二度手を引かれるままに走る。
 二人はただ必死だった。異音は無機質に、そして容赦なく二人を追いかけてくる。地の果てまで追い回されるのでは、そんな不安が炭治郎の中で大きくなり膨らんで行った。だが、善逸は違う。彼は何かを探していた。
「炭治郎!こっち!」
 ぐいとひときわ力強く炭治郎の手を引き、善逸は道をひとつ曲がる。そこには大きな鳥居がそびえていた。善逸は迷いなく鳥居をくぐりその先の神社の境内へと飛び込む。
 するとそれまでの不愉快な音はぴたりと止んだ。そこにあるのは静寂と、息切れの荒い音だけだった。
「炭治郎……大丈夫……?」
「ああ……げほっ……なんとか……」
 善逸はその炭治郎の声にほっとした様子を見せると、大きく息を吐く。
「少なくともしばらくは安全なはず」
 それは絶対の言葉ではなかったが、今の炭治郎には充分だった。境内の隅で炭治郎は地面にへたり込む。正直なところ、もう限界だった。
「ごめん、無理させて……」
 申し訳なさそうに善逸が項垂れる。頭の上の獣耳までしゅんと折れて下を向いていて、こんな状況ではあるが微笑ましい姿に炭治郎の口からほんの少しだが吹き出すような笑い声が漏れた。
「善逸は悪くないよ……助けてくれてありがとう。俺は善逸に救われてばかりだな」
 へたり込んだまま善逸のことを見上げて微笑む。その様子に善逸もほんの少し口角を上げて応えた。
 しかし状況がこれで劇的に変わる、ということではない。問題は依然として山積し、さらに積もっていくばかりだ。善逸から見ても問題がある状況を、炭治郎から見ると問題と言うよりは混乱や混沌と言った言葉の方が相応しいかもしれない。
「……なぁ、善逸?」
 悶々としていたこの場の空気を切り裂いたのは炭治郎の声だ。
「善逸のわかる範囲で構わないから、何が起きているのか……俺に教えてくれないか?」
 真剣な面持ちと真剣な声で炭治郎は善逸へ願い出る。自身の身に降りかかっていることだ、知る権利は当然あるのだが善逸はそれを若干躊躇しているようだった。
「頼むよ、善逸。俺は、このまま何も知らずにただ助けられるなんてごめんだ」
 はっきりと告げる炭治郎の表情は引き締まってそれていて覚悟の滲んだものだ。
 善逸は息をのむ、この覚悟に応えない訳にはいかない。わかったよ、と言葉を返して頷いて見せる。すると炭治郎は今度は表情に安堵の色を滲ませた。
「元々、小さい時に俺たち遭遇した――あのときからはじまっていたんだよ」
 善逸はそう言葉を切り出す。

「俺の……妖怪の気配が、炭治郎に残ってしまったんだ。だから、他の人間に比べて見つけられやすくなって……」
「え……でも今まではこんなこと一度も……」
 応える善逸の言葉に、炭治郎は驚きを隠せない。言葉の通りこんな不可思議な経験をするのはこれが初めてだ、少なくとも炭治郎の記憶には他にこのような経験をしたというものはない。
「今までは俺の……師匠が守ってくれていたんだ。でも……」
 悲しげに地面に視線を落として、何かを我慢するように肩を震わせる善逸の姿は、何かをこらえているように思えた。炭治郎はただ、黙ってその悲しげで苦しさをも覚える声に耳を傾ける。
「そうもいかなくなっちゃって……今まで退けられてたものまで炭治郎に向かうようになりはじめているんだ」
 俺が力不足なせいでごめん、と最後にぼそりと呟いた謝罪の言葉が力なく地面に落ちた。善逸は立ち尽くしたまま、あからさまに目の前に座り込む炭治郎から視線を逸らし俯く。
「善逸」
 炭治郎が呼びかける声は凛としていて、そして穏やかだ。
「俺は、やっぱりもう一度会えてとても嬉しいよ」
「けど……俺のせいで、お前はあいつらに狙われて。俺と会わなかった方が……!」
「そんなことを言わないでくれ!」
 善逸の言葉に、炭治郎は弾かれたように立ち上がると、首を横に振る。それはどうしても否定しておきたい言葉だった。
 善逸は目の前の炭治郎に驚きの視線を向けながら呆然としている。
「何度でも言う、俺は善逸に会いたかったし会えてとても嬉しい! 例え俺に危険が多く迫ろうとも、あの日のことは大切な宝物のような思い出なんだ。だから、会わなかった方が良かったなんて……言わないで欲しい」
「炭治郎……」
「善逸のせいで、なんて思うことはないよ。全てわかっていたとしても俺は善逸と会える、言葉を交わせることを選択するから」
 善逸の驚きの感情を映している瞳には涙が浮かび、口角がほんの少し上へ持ち上がった。
「お前、どれだけ俺のこと好きなんだよ……」
「多分、善逸が思うよりもすごくだろうな」
「ふ……そこは断定しろよ」
 二人は言葉を交わし、笑い合う。幼い頃以来に顔を合わせたとは思えない、そんな姿だった。
 ずん、と重たい音が響く。それはまだまだ遠くで鳴る小さい音だったが、少しずつ近づいて二人を脅かそうとしているようだった。
 猶予はあまりない。善逸の顔が緊張で引き締まる。
「炭治郎。この状況をひっくり返せるかもしれない方法がひとつある」
「そうなのか⁉︎」
「うん……けど、成功するかは分からないし……成功しても炭治郎には負担をかけてしまうことになると思う……」
 少し申し訳なさそうに視線を落として、善逸は言葉を選びながら語った。炭治郎は向けられる言葉に対して真剣に耳を傾けながら、大きくひとつ頷く。
「どんな方法なんだ?」
 先を促した言葉に善逸は、緊張とともに大きくひとつ呼吸を置いてから再び口を開いた。
「お前が、俺を使役する……って方法だよ。けど、俺は見よう見まねでしかその儀式を知らないんだ……だから……」
「しえ……き……」
「うん、使役」
 炭治郎の呆然としたオウム返しに、善逸は何でもないふうに答えた。だが炭治郎は、むっとした表情と共に善逸に顔を寄せる。
「え……なに……?」
「使役、というのは何だか嫌だ。善逸を道具みたいな扱いにするみたいで……嫌だ」
 まさかの言葉だ。炭治郎の考えは善逸とはあまりにも違い、そしてあまりにも優しかった。
「お前さぁ……」
「え、俺……おかしなことを言ったか?」
「言ってねぇよ……お前あまりにも良い奴すぎるし、優しすぎるだろぉ……」
 炭治郎にしっかとしがみつきながら善逸は情けない表情を見せる。
「そうか?」
 ぐいぐいと強い力で泣きつかれながら、炭治郎は首を傾げた。それは炭治郎にとってあまりにも当たり前の事だったからだ。
「そうだよぉ……」
 ひとしきりすがりついてからやっとその身体を離すと、へにゃりと柔らかな笑みを浮かべて炭治郎を見つめる。
「使役、ってのはお前が俺の力を共有出来るってことだ。そこからどうするのかは炭治郎次第だよ。……それに成功すると決まった訳でもないしな……」
 諭す言葉に続き発せられる言葉はどうにもアンバランスで、決まりが悪い。だがそこに垣間見える優しさを、炭治郎は嬉しいと思った。
「……そうすることで、善逸の役に立つことができるなら……俺は試してみたい……!」
 そう口にする炭治郎はすっかり覚悟を決めていて、強い意志の宿る黄昏色の瞳が善逸を見つめる。善逸は口角を上げて、その口から言葉を紡いだ。
「役に立つのは俺の方だからな」
 二人の覚悟はここに揃う。現状の変化を望み、不確定なものへ委ねる覚悟が。
「じゃあ、始めるよ……?」
 善逸の声に炭治郎が緊張と共に頷く。それを確認して、善逸がなにか言葉を唱え始めた。
 炭治郎の耳にはただの音にしか聞こえない。それはきっと善逸が話していた見よう見まねの儀式が始まったのだろう。
 善逸の身体の周りには光がいくつも浮き出て、ただでさえ非現実さを感じさせるこの瞬間に幻想の気配を与えていた。
 光はぽつりぽつりと増え、善逸の周りに集まる。まるで彼自身が光を放っているような姿から炭治郎は目が離せずにいた。
 善逸は相変わらず何かを唱え続けていたが、その口をふと止めて柔らかな視線を炭治郎へと向ける。炭治郎の心臓がどきりと音をたてて跳ねた。
「炭治郎、俺を信じてくれる?」
 そう言って善逸は炭治郎へと手を伸ばす。
 この手を握れば全てが変わる、そんな気がした。確信はない。けれど、全身の感覚がそう告げていた。だか、炭治郎が躊躇することはない。
「もちろん」
 はっきりと言葉を返しながら、炭治郎は伸ばされた善逸の手を取る。何かが全身を駆け巡る、不快感はない。
 それはあたたかく、そして力強さを感じて炭治郎は流れ込む何かに身を任せる。善逸を包んでいたはずの多くの光が、炭治郎をも包み飲み込んだ。
 だが、それは一瞬の出来事で瞬きをすると何事もない。光は消え、胸の奥に流れ込んだ何かの残滓が残る程度、不思議な感覚だった。
「炭治郎、大丈夫?」
 善逸の声も瞳も不安に揺れる。
「ああ、大丈夫。何ともないよ……それより」
 問いかけられた言葉に応えながら炭治郎は目を見張った。善逸の姿が大きくでは無いが、それでも明らかに変化していたからだ。さっきまでは尾がひとつ、存在は主張していたが狐のような尾があっただけだったが、今はそれが幾つにも重なっている。昔、絵本か何かで見た九尾の狐という妖怪の姿に今の善逸はよく似ていた。
「え? それより、何?怖いんだけど……」
 その事に気付いていないらしい善逸は、やはり不安げに炭治郎を見つめる。
「しっぽが……増えてる」
 事実を端的に伝えてみると、驚きに瞳は大きく見開かれたあとに「えっ?」と困惑の声を漏らして振り返った。
「は? え? 嘘……うそうそうそ、嘘でしょ⁉︎」
 善逸は一気に混乱に陥る。自分の何かが変わるのは想定していなかったらしい。何度も振り返っては前を向き、何度も何度も確認する。何度確認しても変わらないのだが、それでも確認を繰り返す様は小動物にも似て落ち着きは皆無だ。
「何で?」
 炭治郎に疑問を投げかけたところで答えが得られる訳でないが、それでも問わずにはいられない様子だった。落ち着きのないその様に、逆に炭治郎はほっとする。
「分からないけど、かっこいいと思うぞ」
「そう? そうかなぁ~」
 満更でも無さそうに善逸がだらしなく笑った。
「その顔をはだらしないけどな」
「容赦! 容赦がない!」
 突然、天国から地獄へ突き落とすかのような言葉に善逸は反射的に返す言葉を紡ぐ。
 束の間の平和の後ろで、重たい音が響いた。より近づいてきている音は圧迫感を増し、二人へと向かってきている。
 ごくりと炭治郎が唾をのんだ。緊張と恐怖、それが一度に押し寄せて来るが炭治郎は決して一人ではない。善逸が共にいる。それは間違いなく力強い支えであり炭治郎の折れない理由にもなっていた。
「……行こうか、炭治郎」
「……ああ」
 取りあったままだった手を一度固く握りしめ、そして手放すと二人は肩を並べて同じ方向を向く。音の主の方へ向かえば間違いなく待つのは恐怖と緊張、そして戦いだ。だが、炭治郎に怖さはない。善逸がいれば大丈夫、自然とそう思えた。
 神社の出口に立ち、善逸は確認するように炭治郎を見つめる。炭治郎はその視線に応え、ひとつ大きく頷いた。
 そして一歩を二人は踏み出す。無意識にまた手を繋ぎ、護られる場所からその身を外へと向けた。
 次の瞬間、先程までより数段大きく耳に音が響く。どぉん、と鼓膜を震わせる轟音と音に伴う地響きは不安な気持ちばかりを駆り立てた。
「善逸」
「うん?」
「ここは街、だよな……?」
 炭治郎の顔ははっきりと青ざめている。
「大丈夫、人間はお前だけだから」
「え?」
 想像していなかった答えに炭治郎は思わず間抜けな声を漏らした。善逸に連れられどこへ来てしまっていたというのだろうか。
「……他の人とか被害とか、そういう心配してるんだろ?」
「え……うん……」
「ここは炭治郎の生きてる場所と、さっき迷い込んだ場所の狭間だから。人間はいないんだよ。炭治郎以外は」
 またしても想像していなかった言葉に、開いた口が塞がらない。
「急いでたし、俺こっちの方が慣れてるから……追いかけてくるとは思わなかったけど」
 しかし、そう言われるとほんの少し前まで身を寄せていた神社のことも納得が行く。善逸の慣れた場所、彼の安全圏だったという訳だ。
 結果として、炭治郎がはじめに抱いた心配は杞憂だった。それを知ることが出来ただけ良かったと思い直して、炭治郎は改めてまっすぐ前を向く。
 響く轟音と伝わる衝撃は、確かに近づいてきていた。確実に迫り来るその圧迫感と対峙しなければならないことを感じ取りながら、二人は手を取り肩を並べて進む。
 当然ながら足の向く先は音と緊張の発生源、あの巨躯を持つものの方へだ。
「炭治郎。炭治郎はあいつと出くわしたらじっとしてて?」
「え……?」
「……俺に任せろ、って言ってんの」
 善逸の方を向いた炭治郎の視界には、彼の自信と余裕溢れる姿が映る。その全てが炭治郎に大丈夫だと告げていた。にこりとしてから炭治郎は善逸に頷いてみせる。
「分かった、任せるよ」
 その言葉に今度は善逸がにこりとして、頷き返した。
 ぐい、と善逸が炭治郎の手を引く。固く握られた手からは少しの緊張と、それを超えた自信がはっきりと伝わった。
 強い圧力がこの場を支配する。それは件の存在との再びの遭遇を意味していた。
 再び目にする巨躯に抱く恐怖は、完全に失われた訳ではなかったが先程相対したときとは段違いだ。その感覚は炭治郎にしても、善逸にしても同様に抱いたものであり、ほんの一瞬交わった視線からもありありと伝わる。
 炭治郎の手を握る善逸の手がほんの少しだけ強ばり、次の瞬間にはそれを引くと善逸の背の後ろへと彼を誘った。
 相対した化け物は狙う対象の動きに目に見えて動揺を示す。そしてその身体をアンバランスに揺らした。化け物は動きを止めざるを得ない。
 それこそが善逸の狙いだった。
「分かりやすくかかってくれて助かる……!」
 言葉と共に善逸は不敵に笑む。空いたままの手を前にぐんと前に突き出すと、手の中には大きな黄金の光が塊となり集約した。善逸と再会した時に炭治郎が目にしたもの同質のものなのは目に見えて明らかだが、規模が段違いだ。手の中に収まらずはみ出すほどの大きさ、そして光の集約の密度も比ではない。あまりにも高密度に密集した光を、目で見るのは困難になっているといえた。
 その黄金の光の塊を、容赦なく目の前の化け物に向けて放つ。打ち出す強い衝撃で善逸の身体は大きく後退するが、炭治郎がそれを必死に支えた。
 化け物に勢いよく向かった光の塊は、一瞬のうちに巨躯を崩壊させる。ぱらぱらと形を保てなくなった身体から細かな破片のようなものがこぼれた。
 気がつけば跡形もなく化け物の身体は崩れ去り、最早存在の証明もない。はじめからここには何もなかった、それほどの静寂だけがこの場に残った。
「……善逸」
「……炭治郎」
 善逸は炭治郎を振り返り、炭治郎は善逸を真っ直ぐ見つめる。唖然とした様子は、頭が追いついていない証拠だった。
「良かった……」
 炭治郎は安堵で膝から崩れ落ちる。しかし善逸の方はその場で下を向き、心なしか震えているようにも思われた。
「善逸……?」
 不安とともに見上げると、善逸の目と視線が合う。キラキラと輝く視線は興奮を示していた。
「さっきのすご! なにあれ! 必殺技みたい!」
 早口にまくし立てながら、全身から喜びと興奮を爆発させる姿はまるで子供のようだ。
「お、落ち着け……善逸」
 宥めてはいるが正直なところ炭治郎も少なからず興奮していた。それもそのはずで、幼い頃テレビで見て憧れた世界が目の前に拡がっているような、そんな感覚を覚えずにはいられなかったのだ。
 絶望的にも思われた状況をひっくり返したこともあって、二人の興奮は頂点に達していた。
「これが落ち着いてられるかよ!炭治郎が教えてくれたやつみたいだろ⁉︎ すっご……」
 先程の感触を辿るように手をぐっと握りしめ、そしてまた開く。繰り返すうちに善逸の口からは感嘆の声が漏れた。
「確かにすごかった」
 善逸の言葉にそう返しながら、炭治郎は自分の教えたものとは何だったろうかと思考を巡らせる。
「どぉん! ってでかいの出たから、内心ビビってたけど上手くいって良かったぁ~!」
 炭治郎から見ていると善逸の言葉のようなビビる、という様子は全く感じられなかっただけに驚きがあった。善逸は安堵の表情を浮かべて、次に炭治郎へ満面の笑顔を見せる。その表情に炭治郎もまた安堵を抱きながら口を開いた。
「俺が教えたって、もしかしてアニメとかの必殺技……?」
「そう! 必殺技! 大きくてかっこいいのがどぉんって出る、って言ってたヤツ!」
 確かに言われてみればその通りだ。善逸の先程放ったものは正しく幼い頃に見たヒーローの必殺技そのものだった。炭治郎から見て善逸の存在もヒーローに等しく、それはとても相応しいものように思える。
「カッコよかったよ、善逸」
 口をついてこぼれた言葉に炭治郎自身が赤面し、言葉を向けられた善逸もまた、突然の言葉に赤面してしまった。
 こそばゆい空気が二人の間を流れていく。しばらくは居心地の悪いようで、そうでもない不思議な雰囲気の中、二人は黙りこくっていた。
 その静寂を破ったのは善逸だ。
「炭治郎、お前の日常に送って行ってやるよ。行こう?」
 にこりと笑って、また再び炭治郎へと善逸は手を差し出す。炭治郎は当たり前のように握り笑顔をうかべるが、幼い日のように突然の別れを迎えるのではと不安を拭えなかった。
「ここに来た時と同じ、絶対に振り返らないこと。絶対だからな」
 念を押す言葉に炭治郎はこくりと頷く。
「そんな不安そうにしなくても大丈夫だって」
 自分の抱く不安と、善逸の言う不安はどのくらい近しいものを指しているのだろうか、不安は膨らんで行く一方で炭治郎はただ悶々としてしまっていた。しかし、ここにとどまる訳には行かないこともよくよく承知していて、気持ちの間で揺れ動くことすら出来ない。
 しなければならない選択ははっきりしているのだから。我儘とともに選択を拒絶出来るほど子供でもない。
「ほら、いくぜ?」
 善逸は容赦なく炭治郎の手を引き歩き始める。炭治郎は再び振り返らぬようにと意識しながら歩くことしか出来ない。複雑な思いが入り混じるが、それをぐっと堪えて炭治郎は足を進めた。
 街の姿は消え、ここはどこなのか地面がどこにあるのかすら分からない。善逸の気配と握られた手だけが唯一信じられる。それ以外はあまりにも非日常が溢れていて、つい振り返ってしまいそうになることを炭治郎は何度も必死に堪えた。
 ふわりと覚束なかった足元に唐突に感触が戻る。地面を踏みしめる感覚に炭治郎は心から安堵した。
「もう大丈夫」
 善逸の声に周りを見渡せば、そこは夜を迎えた学校からほど近い馴染みの道だ。炭治郎の中で安堵の気持ちが大きく加速する。
「……帰って、きた?」
 安堵の気持ちに反して実感のわききらない複雑な思いが、疑問の言葉となって溢れた。
「うん。ここは炭治郎のよく使ってる通学路……のはず」
「……そこは自信無くなっちゃうんだな」
「あはは」
 善逸は頭を掻きながら苦笑する。そのとき炭治郎は目の前の善逸の姿に違和感を覚えた。何かが違う、と少し思案したところでハッとする。
「善逸、耳も尻尾もない!」
「ないんじゃなくて、隠したの!」
 炭治郎がポンと手を叩きながら口にした言葉を、少々食い気味に善逸は訂正した。
 善逸の頭の上に乗っていたはずの獣のような耳も、狐を思わせる大きくふわりとした尻尾も、忽然と姿を消している。炭治郎の目にはそう映っていたが、善逸の言葉の通りであれば彼自身の意思で隠したらしい。
「だって、誰かに出くわしたら炭治郎を困らせちゃうだろ……」
 小さな声で善逸は付け加えて、露骨に視線を逸らした。
 炭治郎を思い行動する善逸の姿は、向けられた当人にはこの上なく嬉しいものだ。嬉しいなどと言い言葉だけでは言い表せないほどの思いが溢れ、炭治郎は反射的に善逸に抱きついた。
「わ! ちょ! こら! やめろって、炭治郎!」
 言葉では拒絶しながらも、満更でもないらしい善逸は力なくもがくふりをするばかりだ。傍から見るとただじゃれ合っている人間が二人という様子だが、それでもおそらく目は引くだろう。
 その事に思い至った炭治郎が、身体を離しながら善逸を真っ直ぐ見つめた。
「このあと……どうするんだ?」
「一緒にいるよ?炭治郎と」
「え……?」
「待って、ダメ?ダメなの?」
「だめじゃない!」
 炭治郎は善逸のまくし立てるような言葉を、遮って答える。
「また会えなくなるんじゃないかと思っていたからびっくりしてしまった……一緒に、いられるのか?」
「ほら、今の俺は炭治郎に使役される身だからさ。炭治郎に拒絶されない限りは一緒にいられる……いさせてくれよ」
「俺は断ることも拒絶することもないよ。善逸のことずっとずっと忘れられなかったんだ。使役とか関係なく、一緒にいて欲しい」
 緊張に視線を右往左往させていた善逸に対して、炭治郎の応えた言葉ははっきりとそれこそ告白かなにかのような決意を持ってつむぎ出されていた。善逸がその言葉に破顔する。
「もちろん」
 見るからに幸せな表情を見せながら、善逸は炭治郎に応えた。微笑み合う二人の横をバイクが通り抜けていく。その大きな音に、善逸がびくんと身体を震わせた。
「善逸!」
 善逸の様子を確認するや否や炭治郎は弾かれたように彼の名を呼ぶ。その表情は驚きに満ちていて、手は落ち着きなくあたふたと動いていた。
「え、なに?」
 炭治郎の様子に善逸はまだ大きな音に脅えながらも首を傾げる。すると炭治郎の手が善逸の頭の上に伸び、そのまま押さえつけるように乗せられた。
「ちょっと! なになになに!?」
 何が起きているのかわからないという様子で、善逸は目の前の炭治郎を見つめて落ち着きなく乗せられた手を見上げる。
「み、耳……」
「耳?」
「いま耳が……出てきた」
「えっ……」
 炭治郎の動揺した言葉に、善逸の動揺が重なった。そっと善逸が頭の上に手を伸ばす。それと同時に炭治郎が頭の上に乗せていた手を離すと、ふわりとした柔らかな感触が善逸の手に当たった。
「え」
 善逸自身も思いもよらない感触だったらしく、そのままぴたりと動作を止める。しばらくじっとしていたが、もう一度手の感触を確かめてから愕然とする。
「……しまえてると思ったのになぁ……」
 そんな善逸の様子を見つめどうしたものかと炭治郎は思案していたが、ふと手を打って彼の背後へと回った。
「なに? え? なになに?」
 善逸の方も何が始まるのかと不安を抱きながら、炭治郎の方へと振り返ろうとする。
「善逸、そのままでいてくれ」
 制止する炭治郎の声に、善逸は困惑するばかりだが一先ずはその言葉に従った。
 すると、すっぽりと頭を何かが覆う。善逸の服についているフードだった。
「うわ……びっくりしたぁ……」
「ごめんごめん。けど、なんだか懐かしいな」
 炭治郎はそう言って懐古に目を細める。当然ながら、思い起こすのは幼い日。きらきらと光り輝く宝物のような思い出だ。
「確かに……あの頃から、尻尾隠すのは大丈夫だったんだけど耳隠すの苦手だったんだよ……」
 善逸の方は懐古とともにほんの少し苦々しさの混ざった表情で笑う。だが、彼にとっても 炭治郎と同様に幼い日の思い出は輝かしいものなのは確かで、二人の間には柔らかな雰囲気に満ちて行った。
「あ、でも……どう説明したら……」
 途端に炭治郎の表情が不安に染まる。だが善逸の方は疑問も不安もなく笑った。
 善逸の笑顔の意味がわからず、炭治郎は首を傾げる。
「俺が家族にきちんと説明しないと……」
「大丈夫だって。ほら」
 深刻さを増した炭治郎の様子をやはり笑顔で見つめながら、善逸は言葉を発した次の瞬間には姿が掻き消えた。何が起こったのか分からず炭治郎は辺りをぐるりと見渡すが、善逸の姿はどこにも見当たらない。
「善逸っ?」
 善逸の名を呼ぶ炭治郎の声には焦りが滲む。しかしそれは杞憂だった。先程までと同じ場所に、善逸の姿が再び浮かび上がったからだ。
「ごめん、驚かせたみたいで。でも俺、うおわ⁉︎」
 事のからくりを説明しようとした善逸の口が止まる。炭治郎がしがみつくほどの勢いで善逸に抱き着いたのだ。
「びっくりさせないで欲しい……」
「ごめんって」
 善逸の肩口に顔を擦り付けながら、炭治郎はくぐもった声で不服を告げる。その炭治郎の背中を子供をあやすようにさすってやりながら、善逸は困り顔で笑うことしか出来ない。
「でもさ。自由に姿は消せるから、説明とかそういうのは気にしなくていいって! な?」
 落ち着かせようと必死になっている善逸の姿に、炭治郎ははっとしてから弾かれたように素早く身体を離した。
「炭治郎?」
 一歩後ずさり何も言わない炭治郎に対して、今度は善逸が首を傾げる。
「みっともないところを見せた……」
 炭治郎はぼそりと小さな声で呟き頭を下げた。
「ごめん」
 その姿に善逸は慌てふためく。まさか自身の軽はずみな行動で、彼をこんなにも動揺させてしまうとは思いもしなかったからだ。
「いや、俺こそ! ごめん……」
 しゅんと項垂れた様子はまるで子供のようで、申し訳なさが募った。
「姿は見えなくても一緒にいられるんだよな?」
 仕切り直すように炭治郎が問いかける。その言葉に善逸は大きく頷いて笑った。
「さっきは本当に何も見えなかったけど、透明人間……みたいなものなのか?」
「うーん、まぁ……そんな感じかな」
 次の質問に少し考えてから、曖昧に答える。どうやら説明は苦手らしい。
「見えないだけで、ちゃんといるよ」
 そう付け足して笑う。ずっと姿を消していてもいいものを、そうしないところに炭治郎は何となし嬉しさを感じて善逸に笑い返した。
「早く帰らないと、家族に心配かけちゃうんじゃないか?」
 善逸の言葉にはっとする。辺りは一面暗く、ぽつりぽつりと明かりが灯るほどの時間が訪れていた。普段これくらいの時間に帰る時は連絡をすることを欠かしたことがなかった炭治郎だが、今回は家族に遅くなる旨は知らせていないことを思い出したのだ。
「善逸、帰ろう!」
 しっかと善逸の手を握り、炭治郎は言う。
「えっと……それじゃ、俺、姿消せないんだけど……?」
 ぐいぐいと手を引かれ、半ば引きずられる格好で善逸は問いかけた。しかし炭治郎は意に介さないといった様子で、ずんずんと道を進んでいく。より人の営みをつよく感じられる街中へと二人は進み出て、そのまま炭治郎が導くままに善逸は歩き続けた。
 交わす言葉はない。けれど、手のぬくもりは確かだ。
 善逸は嬉しい反面、困惑していた。炭治郎が嬉しそうにしてくれていることは自分のことのように嬉しい。けれど自分という存在は隠さねばならないものであり本来は個を強く持ちすぎてはいけないものではないか、そんな風に考えている善逸にとって今の状況は自分の考えとは真逆のものだと、そう感じずにはいられなかった。
 だが、隣で笑う炭治郎はいつかの幼い頃のように楽しげで。彼にとって善逸の存在は、妖怪である以前に尊重された個であると言葉がなくともはっきりと伝わった。
「……ありがとな、たんじろ」
「どうかしたか?」
「ん? 何でもないよ。炭治郎は物好きだなと思って!」
 ほんの小さな感謝の言葉は炭治郎の耳に届かず、照れ隠しの言葉となって消える。だが、善逸にとっては伝わらなくともいいと、そんな風に思う言葉であり、これでいいのだろうという気持ちとともに笑った。
 二人は住宅の立ち並ぶ道を歩く。すると炭治郎が善逸の手を握ったまま立ち止まった。そこはあの公園だ。
「懐かしいな……」
 一度遠くを見るように目を細めてから、炭治郎は善逸に笑いかける。
「うん、懐かしい……」
 炭治郎に応えながら善逸はあの日と変わらないベンチを見つめていた。あの日、善逸がここに来て炭治郎へ声をかけなければこんな日は訪れなかったのだ。
「あの日、会えて本当に良かった」
 しみじみと炭治郎は言う。そして「声をかけてくれてありがとう」と言葉を続けた。炭治郎の言葉に善逸は微笑む。
「こちらこそ、出会ってくれてありがとう」
 繋げた言葉に炭治郎は一度目を見開いてから、愛おしそうに再び目を細めて笑った。
 二人の脳裏にはあの日の幼い自分らの姿が映る。宝石のようにきらきらと輝いて、すっかり遠く色褪せかけていた思い出が鮮明に色鮮やかに蘇った。時間を共にしたのは短い時間だったが、その時間はかけがえのないものであったのだと再確認する。
「行こう、善逸」
「うん」
 再び炭治郎は善逸の手を引いて歩きだした。振り返ることはない、目の前に、隣にお互いがいるのなら。

 ――世界は無数につながっている。

 そう話し出したのは善逸だ。彼らは炭治郎の自室で膝を突き合わせていた。炭治郎の性格そのままにきちんと片付けられた室内は、この姿が日常的なのだとはっきり感じさせる。感嘆の息をもらしながら善逸は炭治郎に向き合った。
 そして炭治郎が開口一番つげたのが、自身が何に関わることになったのかを教えて欲しいという言葉だ。
 炭治郎に問われずともそのことはきちんと話すつもりでいたが、まさか向こうから先に尋ねてくるとは思いもしなかった。
 当然、炭治郎には知る権利がある。善逸が説明する義務もまた等しく存在する。同意の上とはいえ、ろくな説明もなく日常を捻じ曲げてしまったのだ。そうすることが正当だと善逸は口を開く。

 ――世界は無数につながっている。無数の世界は全くの別物という訳ではなく、背景を同じくしたものなんだ。
 さっき俺が、炭治郎を引っ張って行った先を思い出してもらうと少しはわかりやすいかなと思うんだけど……景色は見たことのある場所なのに、人間がいなかっただろ?あそこは俺たち妖怪が多く住むところだ。同じ街に住んでいても、同じ場所にいても、本来は存在を知ることもましてや繋がることも無い。ベースになる世界に、いくつもの層を重ね合わせたような場所っていうのが俺たちがそれぞれに住む場所なんだよ。
 で、小さい頃に俺たちはあっただろ?それは本当はしちゃいけないことだった……その結果として、炭治郎のまわりが少しだけ層になった別の世界に干渉してしまうようになったんだよ。
 さっきも言ったと思うけど、今までは俺がじいちゃんって呼ぶ凄い妖怪がいてお前のこと守ってくれてた。でも、じいちゃんにはもうそれが出来なくなってしまって……それでも炭治郎のまわりは相変わらずほかの階層に干渉をしていて、俺のせいだってこともあるし助けたいって思ってあの時に炭治郎の所へ来たんだ。
 ただ俺はじいちゃんと違って弱いから、一人じゃどうすることも出来なかった。
 そこで、さっきの儀式だよ。
 じいちゃんの話ではそれぞれ別の世界の存在同士が手を取り合うことを契約する、ってことらしい。俺たち妖怪は基本的には何者にも属さない、けど本質的には使役される立場にあるとかで。きちんと儀式で契約して、認める相手と並び立つことで生み出される力があるんだってさ。
 妖怪を使役する側はすごく燃費が悪くなるらしい……なんかごめん……――

 善逸はそう語って頭を下げたのだった。
 驚きの言葉はたくさんあり、どこから反応したらいいものかすら炭治郎にはもう分からない。しかしそれでも言えることはある。
「俺が思ってたより、平和的で良かったよ」
 大事に足を突っ込んだことは間違いない。だが、それはそれとしてもっとなにか代償を求められて、といった幼い頃に子供向けのいろんなものから知った物語にある〝契約〟と同じように考えていた炭治郎にとって、言葉の通り何倍も平和的だったのだ。特に燃費のあたりが。
「でもな、でもな! 元々俺のせいで、さらに俺がやらかした感じな訳だろぉ⁉︎ これってさぁ!」
 善逸の方がことをより深刻に捉えているのか、土下座まで始めてしまう始末だ。
「顔を上げてくれ! 善逸!」
 肩を掴んで善逸の身体を起こすと、炭治郎は真っ直ぐに善逸の蜂蜜色の潤んだ瞳を見つめた。
「俺は後悔なんてしていない! だから謝らないで欲しいんだ」
「たんじろぉ……」
 潤んだ瞳からはついに涙が溢れる。そして心底嬉しそうに破顔した。
「ところで」
 炭治郎がおずおずと口を開く。善逸はその真意を図りかね、首を傾げた。
「燃費ってなんだ?」
「……妖怪と別の存在が使役関係を築くためにはエネルギーがいるんだってさ」
「エネルギー?」
「うん……昔、じいちゃんを使役した人は食事の量が増えたみたい」
 燃費、その意味を知り開いた口が塞がらない。なおのこと平和的だった。
「じゃあ、きちんと食事しないとな!」
「ええ……」
 やはり深刻さの段階が、二人の中では異なるらしい。どうも拍子抜けしてしまう。
「善逸は食事するのか?」
「ん~? 俺は食事はしてもしなくても大丈夫だよ」
「そうなのか……」
 みるからにしゅんと悲しそうにする炭治郎に、善逸は再び首を傾げた。
「なんで?」
「一緒にご飯を食べるって俺はとても幸せな事だと思っていて……だから……」
「食べなくても大丈夫だけど、食べることはできるよ?」
 善逸の言葉に炭治郎はぱっと目を輝かせるが、すぐにまたそれを曇らせる。
「……無理、させることにならないか?」
「気にしすぎだって。大丈夫だよ」
 ほほ笑みかける善逸の様子に、炭治郎はようやく納得と安堵を得てほっと胸をなでおろした。
「なら、今度一緒にご飯を食べよう!」
「うん、楽しみにしてるよ」
 やっと二人は笑い合う。善逸はどうやら食事以外も人間が日常的に行っているものの大半は特に必要としていないらしい。本当なら睡眠もいらない。
 それを知った炭治郎は驚きに目を丸くしたが、食事の話の時と同様に出来ないわけでないと告げられて改めて存在が根本から違うのだと思い知らされる。食事も睡眠も善逸にとってはあってもなくても変わらない、娯楽にも似たものだと言うのだからそれは人間のは別の存在なのだと再認識せずにはいられないというものだ。
 それでも善逸は炭治郎に可能な限り合わせて行動した。さすがに彼の家の人間には存在を認識されないようにと思うと全部とは行かないが。炭治郎と同様の行動をしながら、善逸はどこか楽しげにも見える。初めてのことに瞳を輝かせ、尋ねては感心する、興味と好奇心のかたまりのようでもあった。
「あ、帰ってきたな。炭治郎」
 部屋を空けていた炭治郎が戻ってきたのを認めて、善逸は床にペタンと座ったまま見上げながら部屋の主を出迎える。安心しきっているのか頭の上にはふわふわとした獣の耳に似たものが乗っかっていて、被っていたフードも取り払っていたためその存在はよりはっきりと見えた。
「ただいま」
 炭治郎は善逸の言葉に応えながらにこりと笑う。そしてベッドをおもむろに整え始めた。
「寝床か?」
「うん、そうだよ」
 炭治郎に確認しながら善逸の瞳は興味に輝いていた。善逸は炭治郎の住まう、本人曰く世界の階層にやってきてから何事にも興味津々なのだ。特に炭治郎の部屋にやってきてからの彼は見るからに瞳が輝き、場合によっては先程のように何かを問いかける。
「善逸の普段の生活とは違うのか?」
 炭治郎はそう問いかけずにはいられない。
「全然! どんなもんか知ってはいたけど、見るのは初めてなんだ!」
 興奮した口ぶりで返す善逸はベッドを見つめ、他にも炭治郎の部屋にあるものを見回してはその表情が輝いた。この部屋へやってきてから、説明をしなければならない話をしたり部屋の主が不在の状況が続き、善逸としてはやっと今になって緊張が解けたのだろう。本当に今、彼は楽しげだった。
「俺は今まで、善逸がどんな風に生きてきたかの方が興味があるよ」
 そんな炭治郎の言葉にも生返事をするばかりの善逸は、ベッドに釘付けだ。
「ベッド、使ってみるか?」
 炭治郎の問いに善逸は頭の上の耳をぴんと立てて分かりやすく興味を示すが、すぐに首をぶんぶんと横に振る。
「それは炭治郎のだから」
 自身に言い聞かせるようにそう口にすると、座る身体を硬くした。必死に我慢する姿はどこか愛らしさを感じさせる。
「いいよ、ほら」
 誘うように手をベッドの方へと向けると炭治郎は善逸に笑いかけた。善逸はじっと炭治郎のことを見つめていたが、おそるおそるその場に立ち上がってベッドの方へと進みでる。炭治郎はその動作に対して肯定するように大きくはっきりと頷いた。
 次の瞬間には善逸がベッドの隅に腰を、これもまたおそるおそる下ろして緊張に身体をまた硬くさせる。その緊張に頭の上に乗る獣のような耳の毛は逆立っていた。しかし、身体同様に緊張を帯びていたはずの表情はみるみる悦に入って、その瞳には興味が光る。
「やわらかい……!」
 座ったまま両手をベッドについて力を込めてぎしぎしと揺らすと、ベッドに合わせて善逸の身体が小さく上下に弾んだ。この動作は更に善逸の目を輝かせた。
 炭治郎はそんな善逸の姿をベッドの脇から見つめて微笑む。
「善逸さえよかったら……一緒に寝ないか?」
 誘う炭治郎の言葉に驚き、善逸はまた頭の上の耳をぴんと立てた。炭治郎の様子を窺い顔を覗き込む。炭治郎はやはり笑顔で、それこそ純粋な笑顔を善逸に向けていた。再び善逸の目が輝く。
 大きく頷いた善逸の表情は興味に少しの緊張を帯びていた。
 善逸の隣に腰を下ろした炭治郎は、再び善逸に笑いかける。炭治郎にはにかんで返しながら善逸は何度もベッドを弾ませた。二人の身体が弾む。それは二人の気持ちのようでもあった。
「なぁ、善逸?」
「なに?」
 その表情を真剣なものにして炭治郎が呼びかけ、善逸はベッドを弾ませる手を止めて首を傾げる。
「小さいとき、一緒にいた時間はほんの少しだったけど……本当に楽しかった。今思えば俺、あの頃が本当に善逸のこと好きだなって思う」
「……好き?」
「うん、好き」
 はっきりと繰り返される好意の言葉に、善逸は面食らった。まさかそんな風に言われるとは思いもしなかったからだ。呆けてしまって空いた口が塞がらない。
「善逸?」
「ふぇ?」
「……いや、だったか?」
 心配そうに覗き込む炭治郎に、ぶんぶんと横に首を振って嫌ではないということを主張する。それはもう必死に主張していた。
「それなら良かった」
 嬉しそうに笑む炭治郎につられるように善逸は口を開く。
「俺も、好きだよ」
 返ってきた言葉に炭治郎もまた驚くが、あまりの嬉しさからそのまま善逸のことを抱きしめた。
「わ! え!?」
 驚きの声が善逸の口からもれるが炭治郎は彼を抱きしめたままはなそうとしない。
「ごめん、嬉しくて……つい」
 謝罪の言葉を口にしながらもやはり身体を離すつもりは毛頭ない、そればかりか善逸を抱きしめる腕は力強くなるばかりだ。ついには善逸のことを抱きしめたまま、ベッドに身体を横たえた。
 大きな衝撃は弾んで柔らかで、善逸は初めての感触を覚える。だが抱きしめられている感触もまた初めてのもので、これらは善逸に照れくささと興味とを同時に与えた。
 ただひとつはっきりしていることは、幼い頃とは比べものにならないような溺れてしまいそうな幸せの中に善逸はいるということだ。こんなに幸せでいいのかと、不安すらよぎるほどな幸せ。
 甘く、暖かいものに包まれて喜びと幸せに善逸は目を細めた。本来なら眠らずとも良い身体が炭治郎のこの瞬間を欲する。必要とされているのだという実感は、善逸を炭治郎に擦り寄るように身体をよせさせた。
 言葉はない。これが炭治郎への答えだった。
 ぬくもりとともにゆっくりと眠りに落ちていく。炭治郎にとっても善逸にとっても、等しく幸せが訪れていた。

 音がする。嫌な音だ。聴いているただそれだけで圧倒的な不安を抱かせる。
 重なり合っていて存在から不愉快を抱き、ぬくもりの残滓がなければ気がふれそうだ。何も見えない、ただただ不穏な音だけが響く。
 ――炭治郎。どこ。
 求める手は何にも届かない。祈る気持ちも空回り、息苦しさが善逸を支配した。
 苦しい、ただただ苦しい。どうしたらいいのか、その思考もままならなくなって行く。それでも必死にもがき足掻き手を伸ばした。
 ――せっかく会えたのに、好きだと言ってもらえたのに!
 こんな自分のことを好きだと、認めてくれた存在。彼の元に帰りたい。帰るのだ、そう強く念じた時だ。
 炭治郎の声が、聴こえたような気がした。

「善逸」
 炭治郎の呼び声に善逸はぱちりと目を開く。目には朝日が眩しく映り、すっかりねむりにおちていたらしいことを思い知った。
「たん、じろぉ?」
 渇ききったそして間の抜けた声で炭治郎のことを呼ぶ。
「おはよう、よく眠れたみたいだな」
 上から覗き込む炭治郎は善逸が目を覚ましたことを確認すると、太陽にも等しいのではと思うような眩い笑顔を浮かべた。善逸は眩さから逃れるように仰向けからうつ伏せに体勢を変えると、全身で大きく伸びをひとつして身体を持ち上げる。
「おはよ、たんじろ」
 先程の寝ぼけまなこなど嘘のようにへらりと表情を崩して昨日と変わりのない姿を見せた。
「もう少ししたら学校に行くんだが、一緒に行くか?」
「もちろん!」
 首を傾げながら問いかけた炭治郎に対して、胸を張り善逸は肯定の言葉を口にする。頷く炭治郎には心なしか嬉しそうに見えた。
 炭治郎は支度を済ませ、家を出る。視界には入らないが善逸も当然共に在った。
 炭治郎の視界にはいつもと変わらぬ通学路が映っているはずなのだが、いつもよりもきらきらと輝いているように思えてくる。運ぶ足も、それ以前に全身が軽い。あまりの変化の訪れだが、すっかり浮き足立った炭治郎がそれを意識することはなく、ただただ気分よくご機嫌な朝だ。
 身体を完全に消して意識のみとなった善逸は、炭治郎の様子を窺いながら彼の姿に満足感を覚えていた。
 昨日を境に炭治郎から〝普通〟は失われてしまったが、自身のエゴとも言えるこの状況を彼が受け入れてくれているということが嬉しい。
 今実体があれば口笛のひとつでも服ほど、善逸もまた上機嫌だった。
 炭治郎は真っ直ぐに学校へと向かう。その軽く楽しげな足取りは傍から見ても分かりやすいもので、何かいいことがあったのだろうかと見知らぬ者であっても思い至るようなものだ。
 二人が再会に至った場所を抜け、炭治郎は自身の通う学校の校門をくぐった。校門へと至る道から生徒たちの数は増え続け、炭治郎が校門をくぐる頃には多くの生徒の姿が認められる。まさにこれぞ日常の象徴、そう言える見慣れた光景だった。
「よ、おはよう」
「おはようございます、村田さん」
 声の主に炭治郎はにこやかな表情と共に快活な声を向ける。村田は炭治郎のひとつ先輩で、面倒見と人の良さを尊敬してやまないそんな人物だった。
「今日は何だかいつもより上機嫌だな? いいことでもあったのか?」
「そうなんです、すごくいいことがあって」
 このやり取りを見つめながら善逸は、自分の存在について飛び出しやしないかと気が気ではない。炭治郎を信用していないわけではないが、人間は時として軽く口を滑らせてしまうことがある。そのことを善逸はよく知っていた。
「そうなのか?」
「はい! 小さい時に遊んでた友達に久しぶりに会えたんですよ!」
「へぇ」
「突然いなくなっちゃったきりだったので、嬉しくて」
「それは良かったな、前言ってた友達だろ?」
「はい」
 炭治郎と村田は言葉を交わしながら校舎へ向かって行く。
 善逸の心配は杞憂だったようでほっと胸を撫で下ろした。炭治郎の嬉しそうな様子を改めて見て、その感情は自身に向けてくれているのだと善逸は幸せな気持ちになる。もう一度出会ってから、何度幸せな気持ちを抱いただろうかとそんなことを考えながら自然と口元が綻んだ。
「今日は部活、行くのか?」
 村田の尋ねる声に善逸は無意識に首を傾げる。
「そうですね、先生に手伝いを頼まれなければ早めに行きたいです」
 炭治郎の返答に村田がひとつ頷いた。今日は手合せが出来そうだな、などと話す村田の声は少し弾んでいて、上機嫌さを感じさせる。
 善逸は何があるのだろうと思うばかりだった。
 校舎へ向かう途中、炭治郎と村田は別々の方へと向かい始める。炭治郎の歩く道に人の姿はない。
「なぁ、たんじろ」
「わ!」
「あ、ごめん……」
「いや……姿が見えなくても声は聞こえるんだな」
「届かせようと思えばな」
 堪らず声をかけてしまった善逸の姿はやはり見えない。透明人間が声を発したような状況に炭治郎は驚きの声を漏らした。
「……で、どうしたんだ?」
 仕切り直すように咳払いをひとつしてから、炭治郎は善逸に向けて声をかける。
「部活ってなに?」
「ああ、学校の授業とは別の活動だよ」
「活動……?」
「色々な種類があるんだけど、俺は剣道をやってる」
「剣道……」
 善逸にしてみると聞いたこともない言葉ばかりが踊る。それでも炭治郎の口ぶりも表情も楽しげであることから。きっとそれは楽しいものなのだろうと結論づけた。
「今日の放課後に顔を出そうと思っているから、一度見てみてくれ」
「分かった、楽しみにしてるよ」
 善逸の声に炭治郎は自然と笑みをこぼす。
 炭治郎は再び生徒たちの気配の多い場所へと出た。これはと思い、善逸は再び口を噤んで炭治郎についてまわる。慣れた足取りで炭治郎は校舎の中へ入ると、すれ違う人に会釈をしたり、挨拶をしたりしながらひとつの部屋に入った。真っ直ぐにひとつの席へ向かうと、机の上に鞄を置く。
 近くの席にいる生徒たちから口々に挨拶が発せられ、炭治郎はにこやかにそれに応じた。
 鐘の音が鳴る。それまでざわついていた室内に規律が満ちた。立ち歩いていた者たちは慌てて自身のあてがわれた席へと戻り、皆が皆着席する。
 程なくしてやってきた大人が口を開き、部屋の中はその声以外しんと静まり返っていた。これが学校ってやつか、善逸は目の前に広がる見たこともない光景にただただ感心する。炭治郎の日常の一片を垣間見て、本当に彼は自分とは別の世界を生きているんだなどと、奇妙なほどにすとんと落ちる実感を抱いていた。

 何度目かの鐘の音が鳴る。
 昼頃の鐘の音の後にもあたりに喜びが満ちていたが、比ではない開放感が学校そのものに満ち溢れていた。
 炭治郎は手早く荷物をまとめると、周りの人々に挨拶の言葉を口にして部屋を出る。善逸はずっと声を出すことも存在を誰かに気取らせることとなく炭治郎を見守っていたが、今までよりも彼の足は軽やかに運ばれているように思えた。
 きっと〝剣道〟だ。
 当然ながら善逸は炭治郎についてまわる訳だが、今日一番の軽やかな足取りは少なくともこれから向かう先が気の向く場所なのだということを強く感じさせた。
 炭治郎の今日一日利用していた棟を後にして、一番大きな校舎へと一目散に向かう。そして早足に階段を登ると、大きな扉の前に行き着いた。扉の奥からは人の気配とざわめきが溢れてくるが、それの同時にこの場そのものからは神聖さが感じられ善逸の見えぬ全身を貫く。この場は特別だ、確かに、間違いなくそうだった。
「炭治郎」
 誰もいないことを確認して、扉を開こうとしあ炭治郎に声をかけた。突然の声に炭治郎はびくりと肩をふるわせたがその後に「どうしたんだ?」と応える。
「剣道って奴は神聖なんだな」
 感じたままに善逸は呟いた。それは文字通りの正直な気持ちだ。感覚で伝わるなにか、直感的ながら確かな代物。人間ではないからこそなおのこと感じ入るものだった。
「神聖……そうだな。そういうところもあるかな」
「すごいな」
 しみじみと感じ入る声を上げる善逸に炭治郎はひとつ頷いてから扉に手を伸ばす。
 引き戸になっている扉に手をかけて引くと、一気に中からの音や気配そして匂いが溢れ出した。
 丁寧な動作で靴を脱ぎ、一礼をし、挨拶の声をかけ、炭治郎は道場の奥へと向かう。善逸にその所作はあまりにも美しく、そして流麗に映った。
 炭治郎は自身の道着に手早く着替えて、既に練習をはじめている部員たちの中へと混ざっていく。防具に覆われていても伝わる真剣さや緊張感は善逸にとってとてつもなく新鮮で、夢中で炭治郎を目で追いかけていた。
 それだけで時間は瞬く間に過ぎ去る。道場には「ありがとうございました!」と折り目正しい挨拶が響いていた。

 片付けを終え、礼とともに道場を去ろうとした炭治郎に声がかかる。
「お疲れ!」
 村田だった。彼もまた片付けを終えたばかりの様子で、練習でかいた汗がまだ滲んでいる。しかし彼の黒い髪は不思議なくらいさらりと艶やかで、炭治郎の目から見てもこの上なく不思議だった。
「お疲れ様です」
 炭治郎はカバンを持ち直しながら村田の挨拶に応える。いつもと変わらず人あたりのいい先輩だと思いつつ、にこやかな表情を浮かべた。
「今日こられてよかったな」
「はい、テスト休み明けだったので全然上手く動けなかったです」
「真面目だなぁ、お前」
 穏やかな会話だ。部活という共通の話題を口にする彼らは相変わらず誰にも視認されない姿で見守っている善逸にとって、微笑ましくもあり羨ましくもある。善逸はほんの少しだけ視線を落とした。
 校門を抜け、道なりに進んでしばらく行くと道が別れている。その分岐点で二人は挨拶を交わすと別々の道を歩き始めた。
 あたりに人影はない、人の気配もない。
 ふわり、と何もない場所から善逸の姿が浮き出た。無から有が生み出されたような様子に炭治郎はつい驚いてしまう。
「……すぐに慣れろとは言わないけどさぁ」
 まだ驚いてしまうだろうとは想像していても、炭治郎の反応の露骨さは少しばかり寂しいものがあった。そのことについて善逸は思わず口を開いてしまう。開かずにはいられないと言った方が正しいかもしれない。
「ごめん、努力する……」
 しょんぼりと項垂れながら炭治郎は謝罪の言葉を口にする。その姿に善逸は罪悪感を抱きながら、曖昧に微笑んだ。
「なぁ、炭治郎」
「うん?」
「お前、あの、剣道ってやつ上手いんだな」
 善逸の言葉に炭治郎は首を横にふるふると振った。
「まだまだ、はじめたばかりだよ」
「そう? 見てた感じ様になってたけど」
 善逸は首を傾げて見せる。炭治郎はにこりと笑って「そう言ってもらえるのは嬉しいよ」と告げた。
「正直さぁ、かっこいいなぁ~って思った」
 炭治郎へ話すというよりは、独り言をぽつりとこぼすような声を落とす。
 昨日と同様にフードを被ったまま善逸は空を見上げた。視界には茜色の空が広がる。目深に被ったフードに上部がほんの少し阻まれた空は窮屈そうに彼には見えた。
 本当は自分の知らない炭治郎の姿を見ているのがさみしいと、思っていたのだが口は開かない。言っても仕方がないことだと言葉を飲み込もうとした。
「善逸?」
 炭治郎の声に視線を戻すと、底には空よりも赤い色の瞳が真っ直ぐ善逸のことを見つめる。それは射抜くようでありながら、不安に揺れていた。
「ごめん、炭治郎。なんでもないよ」
「なんでもないなら謝らないでくれ……さみしい気持ちになってしまう……」
 さみしい、自分の覆い隠そうとした気持ちと同じものをはっきりと口にする炭治郎に、善逸はハッとする。こんな風に伝えてもいいものなのか、そんな驚きとともにこの気持ちは伝えてはいけないものではないと知った。
「うん……ごめん。嘘ついた。なんでもなくない」
 善逸は眉を八の字に下げながら呟く。
「さみしかったんだ、本当は。炭治郎が知らない世界にいる。それが、さみしかった」
 さらに重ねて呟いて、善逸ら視線をを地面へ落とした。すると、その視線を持ち上げようと炭治郎がそっと善逸の頬に手を添える。驚きとともに善逸は炭治郎のことを見上げた。
「たん、じろ……」
「さみしい思いを、させてしまっていたんだな。ごめん」
 驚きの感情を浮かべながら炭治郎を見つめるばかりの善逸は、口を開いても言葉をつむぎ出すことが出来ない。反して炭治郎は善逸の頬を撫でて目を細めた。
 慈愛に満ちた視線は柔らかく善逸に向けられ、それはほんの少しだがはっきりと熱を帯びている。
「べ、別に! ちょっとさみしいかもなって思っただけだしっ」
 この空気と炭治郎の熱を帯びた様子に耐えきれず善逸は大声をはりあげた。しかし炭治郎は意に介する様子もなく、もう一度善逸の頬を撫でる。善逸の全身にぞくりとした感覚が駆け巡り、思わず声がこぼれた。それは拒絶をあらわすようなものでは決してなく、甘く蕩けそうなものだ。
 善逸の様子に炭治郎は、はっとしてから手を離し申し訳なさそうに項垂れた。
「ごめん、善逸……」
「えっと……」
「調子に乗ってしまった……」
 変わらず申し訳なさそうにする炭治郎に善逸はつい吹き出してしまう。
「別に嫌とかじゃないからいいって。ただ、今やることじゃないとは思うけど」
 悪戯っぽい笑みを浮かべながら善逸の口からは照れの含んだ言葉が紡がれた。炭治郎がその言葉に申し訳なさと照れくささを混ぜたような気持ちを抱きながら笑い返したときだ。
 空気が、気配が、空が、反転する。
 善逸は炭治郎を背に守りながら身構えた。
 美しく鮮やかであったはずの茜色の空は不気味な緋色へ変わり、正しくこれが逢魔が時と思わせる。昨日と等しい、人間の存在が皆無の世界に善逸と炭治郎は足を踏み入れた。
 立ち尽くすだけで世界が変わる、その様子は炭治郎にやはり恐怖を覚えさせるがぐっと足に力を込めてしっかりその場に彼は立つ。
「炭治郎っ」
 鋭さを帯びた善逸の声が向けられた。振り返った善逸と炭治郎の視線がぶつかる。互いの無事を確認したことで、二人からは安堵の息が漏れるかすぐな全然の方には緊張感が戻った。
「……なぁ」
 口を開いたのは善逸だ。
「今回は、ちょっとやばそうな気がする」
「え?」
 善逸の表情はいたって真面目な様子で、決してその言葉が嘘でも冗談でもないと伝えている。それでも炭治郎は問い返さずにはいられなかった。
「昨日のやつより、気配が全身にびりびりくるんだ。理由とかそういうのは言えないけど感覚がやばいっていってる」
 この言葉を口にしていても善逸から怯えや恐怖の気配はない。警戒心と決意、そしてほんの少しの殺気が混ざり合う。辺りは静寂に包まれ不気味かつ異様な雰囲気を醸し出し、これは良くないことの前触れかとすら考えてしまうほどの不安を抱かせ止まらない。
 炭治郎は昨日の出来事を思い出しながら、自分が何かを引き寄せるくせに何も出来ないという状況に対して、やるせなさを感じた。姿は見える、それに伴い気配も感じる、ただそれだけだ。本当にそれしかできないのだと改めて悔しさで炭治郎は下唇をぐっと噛む。
「……」
 息を漏らすばかりで言葉は出ない。
「炭治郎?」
 蜂蜜色の瞳が振り返って炭治郎を見つめた。
「大丈夫、大丈夫だよ」
 善逸の口から言葉が紡がれる度、改めてやるせなさや悔しさが波打ち際で押し寄せてくる大波のように寄せてくる。そんなふうに言わせたいのではない。炭治郎は何か言おうと思うが、気持ちがどうしても胸の内に渦巻く悶々とした思いは言葉に出来なかった。
 しかし、この場に容赦も慈悲も一切ない異質な気配が溢れる。
 ゆらり、陽炎のような歪んだ気配とともに今まで何者の姿もなかったはずの場所に、突然なにかが現れた。それは儚さと狂気を併せ持つ女性――に見える。
 きっとこの存在を受け止めてはいけない、理性はそう告げていた。だが、本能はまるで術にでもかかったかのように惹き付けられる。恐ろしい程に。
 炭治郎は何度も何度も首を横に振っては視線を外そうと試みる。しかし出来ない、寧ろそうするほどにたまらなく視線を向けたくなってしまうのだ。欲求はただただ膨らむばかり。自分の意思とは関係なく、興味と欲求を強引に膨らまされているような、気持ちの悪い感覚だった。
 善逸の方はというと、彼もまた不思議な感覚に抗っている最中だ。強引に視線を縛り付けられるような耐え難いなにかが善逸の身体を支配しようとしていた。
 ――吐き気がする。
 善逸は唾を吐き捨てた。まだ何もしていない目の前の存在を睨みつける。
「……目的はなんだ」
 唾同様に言葉を吐き捨てた善逸に、彼女は目を見張った。
「お前のような下等な妖怪が、私の魅了を退けるとは。想定外だ。面白いことよ」
 そう言って口元を隠すように笑う。優雅で艶やか、それでいて妖艶な姿はやはり目を引き不思議な感覚を覚えさせた。彼女の言うところの〝魅了〟というのも、あながち間違いではないらしい。
「質問に答えろ。目的はなんだ」
 彼女に再び問いかける善逸の声はあまりにも冷たいものだ。ひやりと寒気すら感じさせるその声に、抗い難くなるほど彼女に惹き付けられていた炭治郎がその呪縛から解き放たれる。
「……っは! 善逸!」
 呼びかけてくる炭治郎の声に、安堵の息を漏らしながら善逸は大きくひとつ頷いてみせつつ、得体の知れぬ女を凝視していた。
 彼女のこの場へ姿を現した様子からも気配からも、そして善逸へ向けた言葉からもその存在の正体が人間でないということは明白だ。その警戒から善逸はただひたすらに彼女を睨みつける。
 そんな緊張を帯びた状況であるにもかかわらず、彼女はクスクスと愉快そうに笑っていた。
「ふふ、まあ余裕のない。目的などお前からしてみれば知れたこと。その人間を食らうのみ」
 惑わすような声色で、残酷な言葉を口にする。彼女の口は三日月のような弧を描き、美しい形に笑みを浮かべた。しかし、美しいとともに異様さを感じさせる。
 その笑顔は能面のように貼りついたものだったからだ。感情は一切ない、ただただ形だけのもの。感情の伴わない笑顔は空虚で不気味、それゆえに彼女の存在もまたこの上なく不気味に思えた。
 〝食らう〟という言葉とともにう炭治郎に鋭利な殺意が向けられる。炭治郎はその身に突き刺さる殺意に身震いするが、それでも毅然と善逸の後ろから怪しげな女の形をした何者かを見つめた。
「恐怖に飲まれぬところも気に入った。堪能して食らえそうだ」
「……好きにさせると、思ってんの?」
 歪んだ笑みを浮かべていた彼女に、楯突くように声を発したのは善逸だ。相変わらず炭治郎を庇うようにしてその場に立ち、揺らぐことも全くない。あまりにも好戦的とも言える様子は、彼女の顔に不愉快という色を貼り付かせる。
「それに引き換えお前は何なのか。存在そのものがこの上なく不愉快で、邪魔立てしようという意図しか感じぬ。気分が悪くなる」
「あんたの存在に気分が悪くなるってところは同意するわ。俺とこいつの繋がり、あんたほど力があるならわかるはずだ。黙ってどっかいってくれよ」
 強い拒絶の感情を乗せた善逸の言葉は、彼女の冷たい笑いによって一蹴されてしまった。愉快ということでもなく、楽しいというものでもない。ただただ、相手を馬鹿にしていてかつ見下している。そんなものだ。
「お前らの間に契約が結ばれている、それがどうしたというのか。より強き者が全てを蹂躙し、より美しきものが全てを手にすることは、世の摂理。はぐれ狐の童と私では格の違いがありすぎる。身の程を弁えるがいい」
 再びの冷たい声は、彼ら以外は誰一人村んざいしないこの道に、寒々しいほどにひやりとした音で響き渡る。その音すらもひたすらに空虚で、ひたすらに無をも感じさせるのは炭治郎にしてみると恐怖だ。
 だが、それでも、善逸は彼女の声を音を笑い飛ばす。吐き捨てるように、その全てを笑い飛ばして彼女へ相変わらず鋭い眼差しを向けていた。
「言ってだめなら、仕方ない」
 善逸がその言葉を吐いて身構える。
 彼の手にほんのりと黄色い光が灯り、火花が弾けるような音が響いた。昨晩のそれよりは小さいものではあったが、威力は十二分に見て取れる。
「やり合おうというか。いいだろう、受けて立とうではないか」
 彼女の口が再び三日月の形に歪み、あまりにも鋭利な手の爪を光らせた。もちろん人間のそれには程遠く、見るからに強度と殺傷能力の高さを感じさせ、加えて彼女からは強者の余裕とでもいうようなものが漂う。
 善逸の当初の見立てでは彼女の方が圧倒的に強い、その可能性を口にしていたが炭治郎の目には少なくとも同等、そういった力量感を肌身に感じていた。
 だが実際に相対している善逸は違う。彼女は今、本気を出していない。目の前で嗤うこの化け物は、その力を一端しか見せることなく隠しているのだ。
 対して善逸は始めから全力である。これでは圧倒的に不利な状況であることは、火を見るよりも明らかだ。このままでは炭治郎を守りきれない、その焦りは全身を駆け巡り、不安となって善逸の手を震わせた。
「善逸?」
 炭治郎にしてみれば不可思議な状況だ。勝ち目のないという状況には見えない中、善逸の様子だけが明らかに不安に萎縮していくのだから。
「炭治郎、絶対にそこから動かないで」
 振り返ることなく背中からの疑問の声に応え、善逸は全身に力を込める。彼ら以外は誰もいない道路の中央で、善逸と得体の知れぬ異形の女が睨み合って、お互いの様子を見定めんと探り合っていた。
 重く冷たい緊張が二人の間に満ちていく。一触即発という状況の中で、永遠のような一瞬のような時間が流れた。
 次の瞬間、激しく二人の手――否、爪がぶつかり合う。鈍い音とともに、互いの爪同士がそれを弾き、それでも二人は譲らない。
 顔を突き合わすようにして、二人ともが相手に殺意のこもった視線を向ける。視線だけで相手を貫くことが出来るのであれば、恐らく彼らの視線はお互いを貫いていただろう、そう思わせるほどの冷たく鋭利な感情が彼らの視線には含まれていた。
 彼らの様子を炭治郎は固唾を飲んで見守ることしか出来ない。ここを動かないように、そういい含められている現状は、あまりにももどかしいが何も出来ないこともよくわかっているからこそ、やはり何も手を出せなかった。
 今まで、これほどまでに自分自身の無力さを呪ったことがあっただろうか。そんなことを考えてしまうほどにはもどかしい。
 善逸の口にした〝やばいかもしれない〟という言葉が、どうにも不安を煽る。大丈夫だと信じているし、疑うつもりもないが、誰よりも彼自身の言葉であることがどうしても心配を大きくさせるものであり、目の前の状況を見守るにも不安が募るのだ。
 自分は彼に守られることしか出来ないのだろうか。そんな疑問が炭治郎の胸に浮かんでは消えた。
 それでも今のところは、善逸の言葉の通りこの場にとどまり続けることしか出来ない。おそらく善逸はその言葉を前提に行動をしていて、前提が崩れ去ってしまえば善逸の行動にも影響を及ぼしてしまうことは間違いないことだ。それだけは、どうしても避けたい。
 だからこそ、炭治郎は何も出来なかった。
 そんな炭治郎の様子について、善逸には感じる余裕がない。彼の言葉の通り、心配は現実となって現れてており、じりじりと善逸は劣勢に立たされつつあった。
 拮抗していたかのように思われた状況は、相対する彼女によってバランスが崩壊させられていて、すっかり相手が優勢へと転じてしまっていたからだ。
 ぎりぎりとぶつかり合った爪が鈍い音をたてる。最初こそ押し留めつつあった善逸だが、すっかり彼女に押し切られることのみを回避するにとどまっていた。それが精一杯、とでもいうような状況に、ほんの少しも余裕など生まれてくるはずもない。
 ただ、この爪が炭治郎へ及ばないように防ぎ続けるだけで精一杯というのが、善逸の今置かれている現状だった。
「先の勢いはどこへいった?この程度のものか」
 余裕を滲ませ、彼女は容赦なく善逸を煽る。善逸の渾身の攻撃もするりと躱されてしまい力量の差がはっきりと見て取れる状況へと変化していた。力の差以外にも、場数、経験、そういった物が明らかに善逸と比べ相手の方が何倍も上手だ。
 善逸の顔には焦りと悔しさが滲む。しかし歯を食いしばり彼女へと向かう、そうすることしか出来ない。目に見えた劣勢だった。
「善逸っ!」
 悲痛とも取れる炭治郎の声が善逸の背後から飛ぶ。
 こんな悲しい声を出させたいわけではないのにと、善逸の心は苦しみで埋め尽くされた。こんな声を出させないために、悲しい気持ちを取り去れるようにと昨日、意を決して炭治郎の前に飛び出したはずなのに。
 昨日の目的を今日には果たせなくなってしまっているなど、滑稽とすら感じられる。こんな不甲斐ない自分に出来ることなんて、あるのだろうか。
 不安に身体が押しつぶされるような、そんな不穏な感覚。そして目の前には、今にも善逸の命を刈り取らんと凄む圧倒的な力を見せつける異形の女。
 
 ――諦めるな。
 
 今は亡き、善逸の尊敬する師の声が蘇る。
 そう、諦めてはいけない。優しくそして厳しかった師に幾度となく諭された言葉だった。
 まだやれることがあるはずだ。諦めたらそこで全てが潰えてしまう。炭治郎を助けるどころか、みすみす目の前の敵に差し出してしまうことになってしまうのだ。
 そんなことをさせてなるものか、善逸の心が再び奮い立つ。まだやれる、まだいける、まだ出来ることはあるはずだ。
 ふと、善逸の脳裏に炭治郎の〝剣道〟に勤しむ姿がよみがえる。
 次の瞬間には思い切り力を込めて、ぶつかり合う爪を善逸は大きく弾いた。その衝撃は善逸の身体もそして彼女の身体も等しく弾いて後ろへ一歩よろめかせる。
「炭治郎」
 すかさず背後の炭治郎に善逸は呼びかけた。
「善逸、大丈夫なのか⁉︎」
 その声はやはり不安に揺れている。申し訳なさを感じつつ、善逸は再び口を開いた。
「正直、あんま大丈夫じゃない。だから、ごめんだけど手伝って欲しいんだ」
「て、つだ……い?」
「うん。ごめん、守るとか言っておいてこんな……」
 申し訳なさそうに項垂れる善逸に対して、炭治郎は即座に口を開いた。
「俺に出来ることがあるなら、なんだってやるぞ」
 それは反射的な言葉のようでもありながら、思慮の足りた言葉でもある。善逸はそれまで目の前の敵に警戒するために炭治郎の方へは視線を向けぬようつとめていたが、あまりの驚きに後ろを振り返ってしまった。
 善逸の視界に飛び込んできたのは、目を輝かせている炭治郎の姿。それは心底からの喜びに満ちていて、善逸をただ驚かせた。
 ――炭治郎は守られたかったわけじゃない。俺と並んで立ちたかったんだ。
 そのことを思い知って、善逸はほんの少し口角を上げる。
「俺と一緒に、戦ってくれ」
 もう一度、前を向きながら善逸はそう言葉を紡いだ。
 目の前では異形の女が再び体勢を立て直しつつある。もう猶予はなかった。
「もちろん!」
 炭治郎の肯定の言葉を受けて、善逸は手の中に光を集めていく。それはあっという間に形を変えて、剣道で使われる竹刀にも似た形をとって輝きはおさまっていった。
「これを使って、自分の身を守ってほしい。どう動くかは炭治郎に任せる、俺が合わせるから」
 善逸の手から炭治郎の手へ武器が手渡される。そして頼んだよ、と口にすると善逸は振り返ることなく地面を蹴って走り出した。
 誰かを守りながら戦うことと、そうでない戦いは全く意味合いが異なる。それは、戦う動きに対する制限の違いだ。
 守る対象がいるということは、どうしても動ける形が制限を強く受けてしまう。その対象を守り切ることを最優先とするため、どうしてもそうなってしまうのだ。
 一方、その必要がない場合はそういった制限がなくなる。これが利となるかそうでないかは、戦う者のそれぞれの特性によるだろうが、少なくとも結果として枷となってしまっていたものがなくなることは、マイナスに働くという結果になることは決して多くはない。
 善逸の場合もこの変化はマイナスには作用しなかった。彼の持ち味は本来速さ。移動と攻撃それぞれに素早く手数の多いその手法は、相手を撹乱させ翻弄するのにはもってこいだ。
 だがそれをいかんなく発揮させるためには、出来る限り制限のない方が好ましい。加えて、誰かを守るという戦い方に善逸はまだまだ不慣れだった。
 だからこそ、今この瞬間からの善逸こそが本来の姿。先程までとはまるで違う動きに、異形の女も思わず後ずさる。
 とてつもない速度で突っ込んできたのだから、無理もない。
 炭治郎が動いていないことを確認して、善逸は目の前の彼女を撹乱するように動いては攻撃を、そしてまた動いては攻撃を仕掛ける。その速度に女の方も防戦一方という状況だった。
「これが、本来のお前の姿か」
 防戦しつつもまだ余裕を崩すことはなく、彼女の口から発せられたのは大きな態度から繰り出される言葉だ。
「こんなもんだと、思うなよ!」
 しかし、善逸はまだまだと言わんばかりに速度を上げて彼女へと襲いかかる。がきんと爪と爪が再びぶつかり合う音が響いた。今度の音は先ほどよりも強く、そして鋭い。それだけの勢いが善逸の一撃にも、それを受ける女の一撃にも確かにあった。
 ずん、と重たい衝撃がぶつかり合う先から伝わる。痺れるような感覚が全身を貫くが、だからといってこの場を譲れる訳もない。
 しかし、何故か女の顔には余裕が戻る。先ほどと変わらず、善逸の方が優位と思われるこの状況でも、だ。彼女の様子に、善逸にも緊張が走る。これは何かがある、と思ったが既に遅かった。
 女の爪がぐんと伸び、善逸のことを押し返したのだ。想像しなかった動きに、善逸の対応が後手に回る。強引に一歩後ろへ下がらされる形になり、無理矢理に弾いた爪は方向を変えた。
 爪の不規則な動きを視線で追いかけようとしたとき、見るまでもなく気づいてしまう。
 
 そう、爪の向いた先は炭治郎だ。
 
「炭治郎っ!」
 さすがに身を守れるように武器を託したとは言っても、こんな攻撃を防ぎ切れるとは到底思えない。間に合うだろうか、否、間に合わす。意地でもだ。
 善逸は、決死の思いとともに手を伸ばす。炭治郎に届こうかという彼の手と、女の伸ばした爪とが交錯した。
 炭治郎の目が驚愕に見開かれる。それもそのはずだ。目の前に伸ばされた善逸の手が、手首から切り飛ばされて宙を舞っていた。
 何が起きているのだろう、もう炭治郎には何が何だか分からない。ただ、分かることは善逸の手首は身体から切り離されてしまったということだけだった。
「――っ!」
 声を出すこともできない、息をのむこともままならない。日常には起こり得ない恐怖、あり得ない絶望が目の前に広がっていた。
「炭治郎! 落ち着いて、大丈夫だから!」
 善逸が炭治郎を背に庇うようにして立つ。しかし、あまりの衝撃は炭治郎の全身を強張らせ言葉に反応を示すことすらままならない。
「炭治郎っ!」
 何度も善逸が炭治郎の名を呼ぶ。その間にも伸びた爪が二人に襲いかかるが、善逸が何とか攻撃を片手で防いでいた。
「息をしろ! 炭治郎!」
 その言葉でようやく炭治郎は、自分が息を止めていたことに気づく。慌てて大きく息を吸って、そして吐き出した。
 少しだけ思考が自由になる。目の前の善逸の方てからはボトボトと血が落ちていたが、それでも善逸は戦っていた。
「ぜん、いつ……! 手が……!」
 やっとのことで口から言葉を吐き出した炭治郎の顔面は、血の気が引いて青白い。だが、チラリと振り返り善逸の顔もまた蒼白さをはっきりと感じさせるものだった。
 決して、大丈夫というわけではない。だが、炭治郎を落ち着かせるために必死に平静を装っているのだと思い知らされる。
「手は、何とかなるから。それより、今はこいつの方を何とか……しないと!」
 善逸の言う通りだった。件の異形の女は善逸たちとは距離をとって戦い始めている。対して善逸も炭治郎も、距離らしい距離をとって戦えるような攻撃手段はほぼないに等しい。
「善逸! 昨日のブワッと飛び出した奴は使えないのか⁉︎」
「は⁉︎ 何それ、昨日⁉︎」
 炭治郎の言葉に声を荒げながら返した善逸だったが、ようやっと言葉の指す真意に思い至る。
「無理!」
 そう断言した善逸は、昨日の攻撃は余力を溜める時間が必要であることを告げた。現状、防戦に努めなければならない善逸に、炭治郎の言うような攻撃に余力を回せるだけの余裕はないというわけだ。
「じゃあ、その余裕があればいいんだな」
 炭治郎は善逸に渡された武器を握る手に力を込めた。
「炭治郎?」
 善逸の耳に届いた炭治郎の声からは、緊張と決意が感じられる。その様子からは心配や不安、そういったネガティブな感情が善逸の中で次から次へと溢れて止まらない。
「俺が時間を稼ぐ」
「は⁉︎」
「それしかないだろう!」
「けど!」
 はっきりと告げられる炭治郎の言葉を受けて、善逸はそれを肯定できないと食い下がる。守りたい人間を危険に晒すなど断じてあってはならないと、確固たる思いを帯びていた。
 しかしそれを超えてなお、炭治郎は譲らない。頑固すぎるまでに譲らないのだ。
「俺だって、善逸の役に立ちたい! 俺のせいで善逸を傷つけたからこそ!」
 ここまで言われてしまうと、善逸としても断りきれないものがある。この必死な姿にはどうにも弱い。
「……わかった、すぐに何とかするから。ほんの少しだけ……頼む」
「ああ!」
 折れる形で炭治郎に協力を仰ぐ声をかけると、彼は誇らしげに応える。自分自身の望んだ形になったと、嬉しそうにすら見えてくるほどだ。
 善逸は不甲斐なさを感じながらも、同時に嬉しさを感じる。並び立てるということ、それは少なからず善逸の夢見たことでもあったからだ。それがいいことかどうかは度外視して、そういう気持ちは確かにあった。
 炭治郎が善逸の後ろに立つ。相変わらず女の異形からの攻撃は激しいものだったが、炭治郎の動きに気づかない彼女ではない。
 
「相談事は終わったか?」
 相変わらず余裕綽々という様子で、善逸と炭治郎を交互に見つめながらにんまりと彼女は笑った。
 攻撃の手は緩まない。善逸へと的確に向けられる伸びる爪の攻撃は止むことはないままだ。何度も何度も鈍い音が響く。その勢いは風となって善逸を、そして炭治郎を襲ったが二人がそれに臆することはなかった。
「ああ、おかげさまでな」
 善逸は女の言葉にありったけの皮肉の色をのせて応える。ほんの少しの虚勢と満ち溢れる自信を携えて。
「ならば安心してその人間を私に捧げるがいい」
「断る」
「……まだ諦めぬというか」
 女の顔が不愉快の感情とともに歪む。善逸のはっきりと口にした拒絶は、女の冷静をほんの少しだけだが崩していた。
「諦めるわけがないだろう」
 そこに畳み掛けるのは炭治郎だ。本当は昨日の今日で、こんな得体の知れない存在に戦いを挑もうだなんてどうかしている、という気持ちが胸の内にはある。
 だが、それ以上に善逸と並び立てることに喜びを覚えているところも確かにあった。
 守られるだけではいたくない。
 それは炭治郎が昨日、善逸と再会してから何度も何度も思っていたことだった。そんな複雑ながらも前向きな思いを言葉に乗せて、炭治郎は異形の女を睨みつける。
「やはりお前は良いな。さぞ美味だろう。身の程を弁えず、争う矮小な存在はたまらなく愛しくなる」
 反して彼女は炭治郎の言葉を受けて、うっとりとしつつ言葉を紡いだ。人間に対してと、彼女と同じ妖怪に対して向ける感情は、あまりにも著しく異なっている。差別と言っても申し分ないだろうその言葉たちは、炭治郎にそして善逸に不愉快な気持ちを吐き気のもよおすような嫌な感覚を覚えさせた。
「……気持ちの悪い奴だな」
 耐えきれず吐き捨てた善逸の言葉に、女の鋭い視線が飛ぶ。
「下等な妖怪に何がわかる。私はお前とは次元が違う存在だ、理解できようはずもない」
 攻撃の手を彼女は一度緩めながら、善逸に蔑みの視線と自身へ歪んだ愉悦の感情を向け歌い上げるように言葉を口にした。
「それについては同意するわ。わかりたくもないし、わかろうと努力の一つもしたくない」
「ふん」
「俺も、理解しかねる。存在に優劣を勝手につけることに何の意味があるんだ。人間も妖怪も、その中での多くの違う存在たちも、等しい。平等な存在のはずだ」
「思いの外、理想を語るな人間」
 じろり、と善逸に向けたものと同質の感情を乗せた視線が炭治郎の方へも向く。それは彼女が炭治郎へ向けたはじめての敵に対する反応だった。
 だが、それを受けても炭治郎は怯みはしない。その程度で怯むわけにはいかなかった。
「お前も所詮、下等妖怪に毒された存在ということか。残念だ。けれど、私が食らえば我が血肉となり高次の存在の一部になれる。光栄に思うといい」
 女の顔にはこれまでにないほど狂気的な色が浮かび上がる。これが彼女の本性、とでもいうのだろうか。驚くほどの豹変ぶりだった。
「それが本当にいいことだと思うのか?」
「当然だ」
 再度の炭治郎からの問いかけに、当然の如く女の異形は肯定を繰り返す。
 それはまさしく永遠に辿る平行線の示唆。
 であるならば、これ以上の言葉はいらない。炭治郎は善逸に与えられた武器を構える。
 女もまたその手を構え、体勢を整えた。緊張の空気が流れる。重苦しくそして張り詰めた雰囲気の中、互いが様子を窺い睨み合う。
 炭治郎からすると、目の前の彼女と距離を取るのは得策ではない。当然だ。武器は手に持つ竹刀のようなもの。伸びる爪とは圧倒的にリーチの差がある。
 これを打ち崩すには多少危険を冒しても、間合いに入り込むしかない。時間を稼ぐという目的のためにも踏み込むことは必須と言えた。
 ――大丈夫、俺はやれる。
 剣道で鍛え上げた精神統一で緊張をおさめていく。真っ直ぐに異形の女のことのみを見つめ、全身に力をこめながら武器を構えて握り込む。
 さすがに人間相手に遅れをとるとは彼女も考えてはいないらしい。見下すように炭治郎のことを見つめて、だがそれでも油断と隙はなく構えていた。
 先に踏み込んだのは炭治郎だ。一直線に間合いを詰め、彼女の方へと向かっていく。それは彼の性格そのもののように真っ直ぐに、最短距離を突き進んだ。
「馬鹿正直な人間だ」
 冷たく侮蔑する声とともに、容赦なく彼女の手元から鋭利な爪が繰り出される。何とかそれを躱しながら、炭治郎の身体は彼女の目の前へと躍り出た。
 武器で攻撃を防ぎ、躱して防ぎ、懐へと飛び込む。素早く仕舞い込まれた爪が、容赦なく炭治郎の腹部へと向けられた。このままでは刺し貫かれてしまう。絶体絶命の瞬間だった。
「後ろへ飛べ、炭治郎!」
 鋭い善逸の声に引っ張られるようにして、炭治郎は後方へと飛ぶ。すると入れ替わって善逸が女の間合いへと一気に飛び込んで、落とされなかった方の手にありったけの力を込めて叩き込んだ。
 すっかり意識を炭治郎に集中させてしまっていた女にはなす術もなく、叩き込まれた攻撃によって身体はみるみる崩壊し始める。
「な……」
「油断したな。俺を、俺たちを弱いものとみくびったのがお前の敗因だ」
 善逸は先ほどよりもさらに蒼白さの増した顔で、地面に膝をつきながらもはっきりと女に言葉を放った。
 女は口惜しそうに表情を歪めるが、もう口から言葉を紡ぐことすらままならない。何ひとつままならないまま、彼女はこの世から消えた。全てを恨むような瞳を最期まで残して。

「善逸っ!」
 彼女の全てが消え去ることを確認して、炭治郎は善逸の方へと駆け寄っていく。血を流しすぎたのだろうことはあまりにも明白だったが、どう対処していいかは全く想像が付かない。それでも駆け寄らずにはいられなかった。
「ごめ……俺……」
「謝らなくていい! 寧ろ、謝らなければいけないのは俺だ。ごめんな、善逸」
 力なく、苦しげな黄色い瞳は必死に炭治郎を見上げる。このままでは命が失われてしまうかもしれない、という不安が炭治郎の胸の内を埋め尽くした。
「俺にできることはあるか、何でも、何でもするから……」
「手……」
 言葉を口から発するのも精一杯という様子の善逸が、途切れた言葉と視線で示したのは彼の切り落とされてしまった手首だ。
「拾ってくればいいのか?」
 問いかけてみれば小さく善逸が頷く。
 炭治郎は慌ててそちらへ向かうが、手を伸ばしてみてそのあまりの残酷かつ絶望的な状況に、その場で立ち尽くしてしまった。だが、善逸は命を落としてしまったわけではない。
 自分自身を必死に鼓舞して、善逸を助けるんだと奮い立たせて、ようやっとそれを手に取ると善逸の元へと持ち帰った。
「あり、がと……」
「他は、他には何かあるか?」
 善逸は炭治郎から自身の手を受け取りつつ、もう一度弱々しいながら口を開いた。
「……俺は、大丈夫。って……祈って、欲しい」
「当たり前だ!」
「おねが、い」
 冗談などでは決してない、真剣な眼差しに炭治郎は言葉を重ねることをやめ、善逸を前にして静かに祈る。
 ――善逸は、大丈夫。昨日やっと再会できたんだ、やりたいことだってたくさん……たくさんあるんだ。
 すると、善逸の切り落とされた手首のあたりから柔らかな光が溢れる。何が起こっているのかわからず、しかしその光の存在ゆえに凝視することも叶わず、炭治郎はただ祈ることしかできない。
 しばらくして光が収まると、そこにはすかり元通りになった手を持つ、善逸の姿があった。肌の色はまだ青白さが残っているが、少し前よりは格段にましだ。
「善逸!」
 劇的に改善した姿に、炭治郎は思わず善逸のことを抱きしめる。抱きしめずにはいられなかった。胸の内に安堵と喜びの感情を置き止めることなど、できようはずもなかったからだ。
「だから言ったろ、大丈夫って」
「あれのどこが大丈夫なんだ!」
「俺は妖怪なんだぜ? 人間とは違うの」
 すっかり調子を取り戻した善逸の言葉を聞くと確かにその通りなのだが、かと言ってそのことに実感が伴うわけでもない。善逸の言う、人間とは違うという言葉があまりにも悲しく炭治郎には感じられて、善逸を抱きしめる腕の力を強くした。
「人間とは違うけど、善逸は善逸だ。傷ついら苦しいし、辛いし、悲しい。しかも、俺のせいで……」
「……それは違う。俺が力不足だったからだ」
「そんなことない。今回だって善逸は俺を守ってくれた」
「それは」
「けど!」
 炭治郎にしては珍しく覆い被せるような言葉のタイミングに、善逸は思わず息をのむ。この場には二人しかいなかったが、それでも何となく気恥ずかしく思えてくるような何かを感じた。
「俺だって守られるだけじゃ嫌だ。だから、役に立てたことは嬉しいんだ」
「全く……炭治郎は頑固だな」
「よく、言われるよ」
 善逸はほっとしたのか、炭治郎に身を預けて彼の首元に顔を埋める。
「無事でよかった。善逸」
「うん……ありがとな」
 昨日よりも確実に激しい死闘は、こうして幕を閉じた。そして共に在るということを、再びその手にする。
 二人の立てた契約は、誓い。共に在る必然を手にするべく、二人は戦い続ける。