闇紛れ、こと成すを(tnzn)

 それは雨の日のことだった。
 分厚く重たい雲から大粒の雨が落ちてくる、気の滅入るような晩のこと。
 一人の子供が通りを走っていた。
 鮮やかな黄色のレインコートに揃いの靴を履き、コートのフードをきちんとかぶって手で押さえながら、子供は必死に駆けていく。
 目深にかぶったフードからはみ出す少し長めの髪の毛と、睫毛の長いぱっちりとした目元は、きっとその子供が少女であろうことを思わせた。
 道を違う様子もなく、一目散に駆けて行く少女には童しても早く家に戻らなければならない理由がある。
 それは時間だ。空模様からは今の時刻を予測することは不可能に近かったが、彼女が友人宅を出た時に既に門限は目と鼻の先まで迫っていた。少女ははっきりとそれを覚えていて、親との約束を違えぬためにひた走っている。
 そういう訳もあって、息も絶え絶えですっかりバテてしまっていることも見て取れるほどの様子の少女だが、それでも彼女は足を止めようとはしなかった。
 視界の暗さ、雨による感覚の狂い、そして激しく打ち付ける雨粒の音の煩さ。
 その全てが少女に襲いかかり、結果として本当の恐怖の襲来を悟らせなかった。背後から忍び寄る異形に、こんな状況下では気付けようはずもない。
「おじょうちゃん」
 この世のものとは到底思えないような、寒気と吐き気を催す声。少女は反射的に走る速度を上げようとするが、肩にとんとなにかが触れる。
 するとどうしたことか、身体がぴくりとすらも動かせなくなってしまった。
「いい子だねぇ」
 そんな声に少女の全てが凍りつき、口を開くことも出来ない。もう少し早く友人の家を出ていたら、と後悔するがそれも後の祭りだ。
 ついには家族のことや友人たちのことなど、彼女が身を置くコミュニティの人間たちの顔が次々と思い浮かぶ。それは所謂、走馬灯というやつだった。
(お父さん、お母さん……ごめんなさい)
 約束を守らなかったその報いとでもいうかのような状況に、少女は心の中で何度も両親への詫びの言葉を紡ぐ。
 もうだめだと思ったとき、雷の落ちたかのようあ轟音が響いた。
 少女の後ろから、地面をも震わせるような音の主の、圧倒的な存在感が伝わる。やはり少女は動けぬままだったが、その彼女を救い上げる者がいた。
「もう大丈夫だ」
 その声は優しく、ほっとするような落ち着きがこもっている。少女を救い上げ腕に抱いているのは、彼女からしてみればかなり年上の青年のようだった。
 青年は目深まで衣服のフードを被り、その衣服は上から下までほぼ真っ黒だ。肩からかけた筒状の長細い入れ物は、左腰のあたりでピタリと止まっている。上着の両肩口からそれぞれの腕のところに青緑のラインが入っているのと、靴が鮮やかな赤であること以外は、闇に溶けてしまいそうなほどの黒に身を包んでいた。
 少女を腕に抱き、軽やかに青年は跳躍する。まるで雨など気にも止めず軽々と舞い上がる様子は着地するその瞬間まで、美しく無駄のない動きだった。
「ここにいれば安心だよ」
 青年はにこりと微笑みそう言うと、葉の生い茂る街路樹の根本に少女をそっと下ろして、自身は再び跳躍する。
「善逸!」
「大丈夫、今のは落とした!」
 青年に善逸と呼ばれた人物は、呼ばれるなり即座に応じた。
 彼、善逸もまだ少女を助けた青年と同じく、真っ黒な上下に、肩から下げた細長い筒状の入れ物。上着のラインと靴は黄色という似たような出で立ちで、目深に被ったフードからは、金色の髪がのぞいている。
 善逸の前には、ぼろぼろとなにかが崩れて灰のようになっていた。そしてそれも消えてしまう。
 あの轟音とともに何かが起こっていたことだけは確かなようだった。
「炭治郎、女の子は?」
「ああ、大丈夫だ」
「よかった。あとは伊之助だな」
 少女を助けた炭治郎と呼ばれた青年と、善逸が言葉を交わしていると少し離れたところから、大きな金属音が鳴る。
「猪突! 猛進!」
 次の瞬間には黒に毛先だけ青の混ざる肩口くらいまでの髪をなびかせ、その声が聞こえていなければまるで女性と見紛うような人物が、炭治郎と善逸のもとに姿を現した。
 彼もまた真っ黒な上下に細長い筒状の入れ物を背中に二つ背負い、一部に帯びる色は青という服を身に纏う。
「全部落としてやったぜ!」
「さすがだな」
「あったりまえだ!」
 炭治郎に褒められ、言葉よりも伊之助は得意げだ。少女のいる場所から、彼らの声は聴こえないが、身の危険が去ったことはよくわかった。少女の全身から力が抜けて、その場にへたり込む。
 するとすぐに彼女のもとへ青年のうちの一人——炭治郎——が駆け寄ってきた。
「怖かったよな、もう大丈夫だから」
 そう言ってレインコート越しに少女の頭をそっと撫でる。少女は相変わらず腰を抜かしてしまったままだったが、かけられた言葉と撫でられたてのぬくもりに微笑んだ。
 まるでエスコートでもされているかのように少女は扱われ、ようやっと立ち上がると彼女に炭治郎がにこりと笑いかける。
「家まで送って行くよ」
 そう言う炭治郎の姿は少女には眩しく、輝いているように思えた。
 手を繋ぎ家へ向かって歩き出す頃にはすっかり雨も止み、雲の隙間から星の輝く夜空が覗く。
 すっかり晴れやかな表情の少女と炭治郎はその下をともに歩き、善逸と伊之助がゆっくりと距離を取りつつそれに続いた。
「あの子、炭治郎に惚れたな」
「あ? 何だそれ」
「お前はやっぱお子ちゃまだよなぁ」
 見るからに意地の悪い笑みを浮かべながら善逸は、ちらりと横目で隣を歩く伊之助を見遣る。
 伊之助は不服そうに声を張ったが、そんな二人の騒ぐ声は少女には全く届いていない。彼女はすっかり炭治郎に釘付けだった。
 そんな彼らの動きは、少女が立ち止まることで共に止まる。
「ここ……」
「ここが家か」
「うん」
 そんな確認のやりとりを終えると、つないでいた手を離しつつ炭治郎が少女に視線を合わせようとしゃがみ込んだ。
「約束してほしい。今日見たものについては誰にも話さないって」
「どうして?」
「俺たちのことも、君を襲った奴のことも、本当は秘密にしていることだからだよ」
 そう答えて炭治郎は口に人差し指を当てると、内緒だとでも言わんばかりにして微笑む。
 あまりにも絵になる姿は少女を見惚れさせたが、彼女はそれでも何度も何度も頷いて見せた。
「だいじょうぶ、やくそくできるよ」
 少女は少し寂しげだったが、それでも精一杯の笑顔を炭治郎へと向ける。
 炭治郎は再び微笑んで「えらいぞ」と言いながら彼女の頭をまたくしゃりと撫でた。少女は嬉しそうに目を細めたあと、名残惜しそうに一歩また一歩と離れて行く。
「助けてくれてありがとう。ばいばい」
 そう告げて三人——主に炭治郎——に手を振ると、くるりと背を向けて彼女は自宅の中へと消えて行った。
「良かった、ちゃんと迎えてもらってる」
 善逸の口から零れた言葉に、伊之助はちらりと少女の家に視線を向けて口角をあげ、炭治郎は嬉しそうに破顔する。
「助けられて本当に良かった」
 三人の歩く足取りは軽やかで、達成感に満ち溢れたものだった。
 
 炭治郎たち三人は同じ組織に所属している。
 その名も、鬼殺隊。彼らは遥か昔から闇に蠢く鬼を討ち、人知れず人々の生活を守り続けてきた。
 日の光のもとには鬼は姿を現せない。鬼は陽光を浴びれば全てが灰となり消えてしまうからだ。
 だからこそ、鬼殺隊の面々は太陽の沈んだ後に己たちの手の届く範囲は少なくとも守るべく活動し、鬼との戦いを続けていた。
 
 ——ガガッ、ザー
 
 三人の耳についている小さなイヤホンから、ノイズ音が漏れる。
『炭治郎くん、任務は完了しましたか?』
「しのぶさん! はい、問題ありません」
 イヤホンから次に聴こえてきたのは、おっとりとした女性の声だ。炭治郎にしのぶと呼ばれる彼女は、後方支援を一手に取りまとめている鬼殺隊の幹部の一人だった。
『いい返事をありがとうございます。ではこのまま次のところへ。お願いしますね』
 
 ——ブツン
 
 イヤホンのノイズ音が止む。
 通常であれば、しのぶから次に向かう場所を指定されるのだが、この三人については少々特殊だった。
 炭治郎が嗅覚、善逸が聴覚、伊之助が触覚。それぞれに特化した感覚を有していて、三者の能力を組み合わせれば鬼を発見することは容易だ。
 しかも現代社会、逃げる場所も隠れる場所も限られるコンクリートジャングルともなれば、その索敵は格段に難易度が下がっていく。
 だからこそ、彼ら三人を組ませて遊撃的に動かすことは長所を活かすと同時に、隊全体にとってもプラスに働くという訳だった。
「それにしても因果な話だよなぁ」
 周囲に対して耳を澄ませながら、善逸が呟く。
「何がだ?」
 炭治郎もまた、己が嗅覚を働かせつつ善逸の呟きに疑問の言葉を投げかけた。
「だってさ、そもそも前世の記憶なんてもんがあるだけでも腰抜かしそうだったのに、そのとき関わりのあった人たちが今もまた周りにいるって、不思議な感じしない?」
 側から聞いていれば、突然おかしなことを言い始めたと思われても仕方がないような善逸の言動は、聞くには突飛なものだったが当人たちからしてみれば大しておかしな話でもない。
 何故なら善逸の言葉は純然たる事実であり、鬼殺隊に属する人間の大半がそういった、前世の記憶を有する者で構成されているからだ。
 三人ともが例にもれず、かつての記憶を持ち善逸はそのことを前提として今の話を口にしているというわけだった。
「不思議というか、縁があるとは思うかな」
「俺は面白けりゃいいぜ」
「伊之助お前またそんなこと言って……でもま、お前の場合は嫌なら一人でやるもんな。結局、俺たちの縁ってやつが満更でもないってことだろ?」
 からかう気持ちの前面に押し出された善逸の言葉に、伊之助はふいと露骨にそっぽを向くだけで、先の威勢の良い言葉からは一転して何も応えない。
 よく見てみればほんのり耳が赤くなっていて、善逸の言葉が図星だったことをありありと伝える。
 炭治郎と善逸は一度顔を見合わせると、にんまりと笑い合って少し前を歩く伊之助の背を、ばんと叩いた。
「ってぇな!」
 その声は不服というよりは照れ隠しに近く、そのまま足を止める子となくずんずんと伊之助は歩いて行く。
「さっさと行くぞ!」
 先導しているようでありながら、その実はただ照れを隠したいだけという伊之助の姿は、あまりにも炭治郎と善逸の目に微笑ましく映った。
 
 すっかり雨が上がったあとは、あっという間に暮れかけていた日はその姿を隠し、ついには夜の帳が下される。
 月のない夜は、鬼にとっては恰好の活動の頃合いだ。
 炭治郎たちがかつて生きて鬼と戦った頃とは違い、鬼は新月の夜に力を増す。闇を好み陽光を避けることは同様だったが、新月の夜の鬼の強さは厄介だった。
 しかしそれは、鬼殺隊に属する皆が承知していることでもある。だからこそ、今宵は隊に属する多くのものが、それぞれの割り当てられた範囲を守り切るべく活動するよう指令が出されていた。
 その指令に従って炭治郎たちもまた、今まさにこの瞬間も鬼を探して感覚を研ぎ澄ませながら活動している。
 すると先行していた伊之助が立ち止まり、ぶるりとひとつ身震いをした。それは誰よりも早く、伊之助の触覚がなにかを感じて、その身を震わせたことに他ならない。
 そしてその正体が把握できない伊之助ではなかった。
「来やがった。やっぱり月のない夜は、こうでなくちゃな」
 にやりと口角を上げて伊之助は一目散に駆けていく。こうなっては呼び止めるだけ無駄だろう。
「もう行っちゃったよあいつ……相変わらずせっかちだよなぁ」
「無理はしないでくれると良いんだが……善逸、俺たちも……」
 そこまで口にした炭治郎の言葉はおろか、彼の身体の動きそのものが止まった。善逸も同様にその身を硬らせ、じっとその場に止まっている。
 二人の表情は同様に緊張で引きつり、何かが彼らに迫っていることを感じさせた。
「鬼の、匂いがする」
「鬼の音だ」
 炭治郎と善逸が、それぞれの感覚が導き出した答えを口にしたのは、ほぼ同時だった。
 その彼らの言葉通り、ややもせぬうちに暗闇の中からまるでこぼれ落ちたかのように、人ではない者の影が広がる。そして、素入れは地面から形を成し、異形はここに姿を現した。
「ひっ、出た……」
「この一帯に広がっている匂いの主、みたいだ」
「いきなり親玉に出会しちゃったわけね……はぁ」
「協力して行くぞ、善逸」
「はいはい、分かってるよ」
 一見、軽口を叩いているようでありながら、そこには確かな近著王冠があり、どんどん闇から一つの形へと変わって行く鬼への油断は全く、それと対峙するから。
 それはまさしく人間とは一線を画す、異形の者と言う言葉がしっくりくるような存在だった。人々の生活の象徴ともいえる灯火から遠ざかり、新月の闇の中にあって尚重くはっきりと感じられる存在感は、ビリビリと空気をも震わせる。それほどの圧迫感を持って、鬼はただそこに立っていた。
 炭治郎は全身から嫌な汗が吹き出してくることを強く感じていて、彼の鼻に届く鬼の臭いもまた、身体の芯へ恐怖と緊張を刻む。
 ちらりとうかがった善逸の様子は、先ほどまでとは打って変わって、あまりにも静かで落ち着いたものだ。こういう時に善逸は、意図的に感情を削ぎ落とす。それはとてつもなく頼りになると同時に、危うく不安すら覚えるほどでもあった。
 鬼と炭治郎、そして善逸が睨み合う。ほんの少しだけ動いただけでも全てが変わってしまいそうな緊張感は、指の先をピクリと動かすことすら憚られた。
 誰の体も動かない、誰の口も動かない、そこにはただ重苦しく静寂があるのみだ。
 ここで浮き足立ってしまった者が、最初にやられる。そのことはあまりにも明白で、更に緊張を強いられるというこの連鎖が重ねて空気を張り詰めさせた。
 そしてしばらく続く均衡。それを、あえて破るような息遣いをしたのは、まさかの鬼だった。
『不毛だ、とは思わんか』
 闇より出て、闇を纏う鬼が問いかける。
 その声は寒気というよりは怖気の走るような、そんなものだった。
 臨戦態勢を崩すことも、言葉を返すこともなく、二人は鬼の様子をうかがっている。
『悲しいのぅ』
 男なのか女なのか、それすらもろくに判別できないような声で、感情を鬼は言葉にした。しかし鬼からは言葉通りの感情は伝わらず、それどころか二人それぞれの鋭敏な感覚を持ってしても、全く何も感じない。
 言うなれば無、であった。
 感情というものを何処かへ捨ててきてしまったのかも知れない、そう思わせるほどの何もなさは、やはりそれは人ではないと実感するには十分過ぎることだと言える。
 炭治郎は目の前の鬼の様子を見つめながら、その目的を図りかねていた。
 彼の鼻に届く匂いは鬼の方に企みがあることを、その感情をはっきりと伝えている。だが何を企んでいるのか、それがさっぱりわからない。
 目的を探ろうにも相手の情報があまりにも少なく、判断を下すための材料が大いに不足していた。善逸も同様らしく、動き出せるだけの決め手に欠けるという様子が、炭治郎にはっきりと伝わる。
『悲しいのぅ』
 まるで老人のような口調で鬼は言うばかりで、何を仕掛けてくるでもない。それはどうしようもなく恐ろしく、そしてこの上なく不気味だった。
 二人は腰に下げた筒状の入れ物に手をかけたまま、全く動けない。
 どれほどの時間が立っているのか、それすらもうすっかりわからないまま、鬼と鬼狩りたちは相対し続けている。緊張は極限にまで達していて、少し前まで以上に空気がピリピリとしていた。
 低く構えた善逸の、左腰の筒にかざした手がぴくりと揺れる。
『こ れ を 待 っ て お っ た ぞ !』
 それは一瞬、しかしこれは鬼にとって狙い澄ました一瞬で、闇にも等しき漆黒を纏い鬼は善逸に向かっていった。
 その速度はあまりにも速く、瞬きをする間に善逸の目と鼻の先にまで到達する。
 だが善逸は怯む様子ひとつ見せることなく、それどころかにやりと不敵に微笑んだ。
「俺も、待ってたよ……!」
 鬼の操る漆黒が、善逸のことを覆うように襲うが、それでも彼の余裕は崩れない。
「今だ! 炭治郎!」
 善逸の鋭い声が飛ぶ。
 その声に応えるのは言葉ではなく、ゴォォっとまるで何かの燃えているような音だ。
「ヒノカミ神楽! 円舞!」
 あっという間に鬼の背後を取っていた炭治郎が、筒状の入れ物から抜き放った黒く輝く刀で美しい円の軌道を描く。
 その軌道が鮮やかに鬼の頸をはねて、それは無残にも地面に転がった。鬼は状況を正しく理解するに至っていないのか、崩れゆく身体をただじっと見つめている。
 善逸は今にも飲み込まれそうになっていた漆黒から解放され、その反動でぐらつく身体をなんとか踏ん張り立っていた。
「善逸、大丈夫か!」
 刀を納めた炭治郎が、慌てながら善逸の元へと駆け寄る。
「大丈夫、大丈夫」
 そう応える善逸は笑顔こそ浮かべているが、それはどこか弱々しい。次に大きく深呼吸をすると、改めて足に力を込めた。
「ほら、大丈夫だよ」
 両手を広げてそう言って見せる善逸を、炭治郎はそのまま抱きしめる。
「おま、何やって!」
「本当に良かった、大丈夫だってわかっているはずなのに、心配で! もしものことがあったらと考えてしまっていたから……!」
 これまでの凛とした姿は見る影もなく、子供のように善逸に抱きつく炭治郎の様子は、言葉の通りの心配と不安とをありありと感じさせた。
 されるがままになっていた善逸も、炭治郎の背中に腕を回して抱きしめ返す。心配してくれていたという、その気持ちが彼には心から嬉しかった。
「うん、ありがとな。大丈夫だから、な」
 善逸の言葉に炭治郎は大きく何度も頷いてから、その顔を互いの鼻がついてしまいそうな位置まで持って行く。今度は、満面の笑顔を浮かべてもう一度頷いた。
「よく頑張ってくれたな、善逸。本当にありがとう」
 感謝の言葉を返されて、善逸は大きく驚きにその目を見開いてから微笑む。微笑まずにはいられなかった。
「うん」
 善逸はほんの少し、涙ぐむ。炭治郎の想いが言葉から、声から、表情から、行動から伝わってきたからだ。
 それは善逸に幸せな気持ちを抱かせる。
「おい」
 少なからず乱暴さも感じるその声に、炭治郎と善逸ははじかれたように身を離した。
「い、伊之助……」
 善逸は思わず苦笑する。炭治郎も言葉こそ発しないが、表情は善逸と同じくだった。
「お前ら、次いくぞ」
 気を遣っているのか、どこかそっけない伊之助の姿に、炭治郎と善逸は申し訳なさを感じつつ苦笑する。
 これが、彼らの辛くも幸せのある日常だ。