幼い頃、憧れたことが賀九にはあった。
遠くに見るだけの存在である兄、八雲と言葉を交わして兄弟らしいことを何かしらしてみたい。
普通であれば当たり前に叶う、ささやかな憧れだった。
だが、彼らが生まれた神来社家は普通ではない。賀九のそんなささやかな憧れひとつ、叶えやしない家だった。
世間一般的な家とは程遠く、世間一般の家族とも程遠く。八雲はずっと家を継ぐために尽力する日々で、賀九と妹はそこに立ち会うどころか関わることすら許されることはなかった。
家を継ぐ者とそうではない者。
そういった明確な線引きが二人の間には存在していたのだ。
だが、状況というものは変わる。
八雲は家を出ていき、賀九は大学に通うまでの年齢に成長をしたとある日。
兄から直接、賀九に連絡があったのだ。
最初こそぎこちない関わりだったが、今ではすっかり打ち解けた仲へと変わっている。幼少の折に関わりがあったならば、きっと楽しかったことだろうと空想してしまうほどには。
失って通り過ぎてしまった時間を巻き戻すことは出来ないが、これから先の時間を可能な限り積み重ねていくことは出来る。
まるでこれまでの時間を取り戻そうとしてでもいるかのように、八雲と賀九は関わりを強くしていた。
今日も今日とて、二人で外出をしていたその帰り道だ。
賀九が買い物に付き合って欲しいと、そう頼んだことからの外出だった。
彼の手元には戦利品と言わんばかりの大きな荷物が存在を主張している。見ず知らずの者が見てもわかるほどの大きな買い物は、どうやら賀九にとって満足できる物だったらしい。
「兄さんのおかげで、良いのが選べたよ。ありがと」
「どういたしまして」
人懐こい笑みを浮かべる賀九に対して、八雲もまた笑顔を返した。どこからどう見たところで間違いなく仲の良い兄弟で、実際その通りに違いない二人は夕暮れの空の下を歩く。
「こういうの聞ける人がいなくて、すごく助かるよ」
「確かに、経験がないとわからないもんね」
二人は穏やかに会話を続けていた。
しかし、それを遮る気配があたりに満ちる。
平たく言えば、嫌な気配というやつだ。
八雲の表情から穏やかな色が抜ける。続いて賀九も表情を真剣なものへと変えた。
「兄さん」
「うん、わかってる」
賀九は緊張を滲ませながら声を発するが、その行き先である八雲は当然という風で緊張は全く感じさせない。
そうしている間にも、どんどんとあたりの気配は不穏で気味の悪いものへと変化していく。刻一刻、状況が悪くなっていっていることは明らかだ。
ごくりと賀九は唾を飲んだ。
「賀九、緊張しなくていいよ。手伝ってくれるなら助かるけど、最低限自分の身だけは自分で守って。出来るね?」
八雲の声は穏やかで静かに落ち着きを払ったもので、賀九の気持ちを少し穏やかなものへと変えてくれる。
賀九は小さく頷いて、手元の大きな袋から竹刀を取り出してしっかりと握った。八雲の方も肩から下げていた筒状の入れ物から刀を引き抜いて、腰に構える。
神来社の家の仕事であり、後を継ぐ形となっている八雲の仕事でもある怪異退治。それが今まさに始まろうとしていた。
賀九は八雲の足を引っ張ることはないようにと、竹刀を握るてに力をこめなおしながら周りの気配に集中する。
彼は怪異を視認することこそ出来ないが、その気配と音を察知することには長けていた。なお、妹は気配と音がわからない代わりに怪異を視認することが出来、二人でやっと一人前という能力の有し方をしている。
それに対して八雲は怪異を目でも気配でも音でも、どれひとつ不足することなく認識することが出来るのだから、彼が家を継ぐ者としてふさわしいということは火を見るよりも明らかだ。
それは有する能力のみにとどまらない。八雲は堂々たる振る舞いで、落ち着き払った様子から一点を見つめる。その姿こそ八雲の立場と能力、その全てを十全に用いる者の証左に見えた。
賀九も八雲が視線を向ける方から、確かに異質な気配を感じ取る。それだけに八雲の有する能力の高さは歴然と感じずにはいられない。
「いい? 賀九」
「……うん、大丈夫」
冷静な八雲の視線と、緊張を含んだ賀九の視線が交錯する。
そして二人は肩を並べたまま、異様なものの方へと視線を向け直した。
それはそこにただ存在して、静かながら確かに非現実から現実を侵食している。
賀九にはその姿こそ視認できないが、気配だけでも十分すぎるほどにその状況を認識する事ができた。加えて八雲の淡々と冷ややかな視線が、加わることで切羽詰まってこそおらずともよろしくない状況が継続しているということを、はっきりと示す。
八雲の視界に映る異形のものは、ゆらりと触手を伸ばして地面を、現実を侵食しているものだ。見える大きさそのものは人間と大差ないが、触手は長く伸ばすことができるらしい。どれほどが地面の下に潜り、現実を侵食しているかは八雲と言えど、今わかる情報だけでは判断しかねた。
「賀九。これは一応、伝えておくんだけど」
「何? 兄さん」
「あいつの影響範囲、かなり広いと見ていい。安全圏を確保できているとは考えないでね」
さらりと嫌なことを言う。
賀九は苦笑せずにはいられなかった。この状況で無駄な忖度は必要ないが、それにしたところで言い方があるというものだろう。
そういうところも含めて八雲らしいと言えて、やはり賀九としては苦笑せずにはいられない。
「……了解」
言葉を返しながら、もう一度しっかりと竹刀を握り直す。この手の事象は遭遇しないわけではないが、経験が豊富というわけでもない。
──きちんと、しないと。
自身の家がそういう稼業であるということを差し引いても、やれることをきちんとやらなければならないと賀九は気を引き締める。
それは不足ではあっても能力を持つということへの自負と、そして本来は不要であるにしても兄にとって何かしらになりたいという気持ちもあった。
そんな緊張感を隠そうとしない賀九に、ちらりと一度視線を向けてから八雲が普段通りの笑みを浮かべる。
「大丈夫。なんとかする」
八雲の言葉には絶対の自信と、それは偽りにならないだろうという確信めいたものを感じさせるものだった。本人もそう思って疑わないこと、それが過剰ではなく事実であることがひしひしと伝わる。
「うん」
賀九は八雲の言葉に笑顔を返した。少し硬さは残っていたが、先ほどまでのような過度の緊張はもうそこにはない。
八雲は頷いてから真っ直ぐ前に向き直ると、刀の柄を撫でた。
ぶちぶち、ぎりぎり。
嫌な音が鳴る。
何かを引きちぎり、破壊する音。
それは二人の耳にはっきりと届いて、不穏な気配を作り出す。重くのしかかるような圧迫感が迫ってきた。
音はずっと重たく響きながら、その位置を少しずつ変えていく。
「移動してる……?」
気配を探りながら賀九は首を傾げた。もちろん最大限の警戒は怠ることなく。
八雲は賀九の言葉に答えない。ただ静かに前を見据えて、そこには油断も隙も全くなかった。それこそ人間らしいものが抜け落ちてでもいるかのように。
子供の頃、賀九の遠目に映ったどこか人間離れした言葉も交わしたことのなかった兄の姿が重なる。
だがそんなことを考えている場合ではない。
それを必死に振り切って、賀九はもう一度意識を音と気配に集中させる。
すると、音は移動の速度をぐんと上げて二人に向かって近づいてきた。音がどんどんと大きくなり、それは轟音となって二人に襲いかかる。
地面の舗装された道路のアスファルトを突き破って飛び出してきたのは異形の触手だった。
衝撃でアスファルトが砕けて飛び散る。
賀九には触手自体は見えなかったが、そこに何かが飛び出してきたことと当然ながらアスファルトの欠片たちは視認できた。
先の八雲の言葉にあった通り、影響範囲はかなり広いらしい。
八雲も賀九もそれぞれ後方へ退きながら、それでも彼らめがけて飛ぶ欠片を得物で払い落とす。
刀の鞘と竹刀に当たる欠片の軽く鈍い音が、この場の重たい音たちに混ざり溶けて消えた。
触手はうねりながら八雲と賀九に等しく襲いかかる。その勢いは凄まじく、速さはかなりのものだ。
それを八雲は再び無駄なく最低限の動きで払い落としていき、賀九もまた気配と音で察知してしないで叩き落とす。
しかしそんな防戦一方で何かが変わることはない。状況を変えるには打って出る必要があった。
とは言っても、それを相手が簡単に許すわけもない。本体はまだ遠く、視認はできる距離だがそれだけだ。異形のリーチの差はアドバンテージとしては決定的で、人の身には絶対に持ち得ないものだった。
「兄さん! このままじゃ……」
賀九は自身でわかることを八雲がわかっていないはずはない、そう頭ではわかっていてもそれを口にせずにはいられない。
「わかってるよ、大丈夫。任せて」
焦りを含んだ賀九の声に、八雲は穏やかに答えた。冷静かつ落ち着きを払ったその声は、賀九から焦りの感情を取り除いていく。
「……うん」
考えてみるとこの手の対処は八雲の本職だ。その彼に少し状況がわかるという程度の自身が口を出すことは、あまりにも筋違いに思われた。
口を出すな、そう言われても仕方がないような状況で突き放されなかっただけでも上々。それどころか八雲は賀九を気遣うように言葉をかけた。
話して、関わらなければ八雲のこういったところを知ることは、賀九には叶わなかったろう。
遠くから見るだけだった頃の八雲は、やはり人間離れした得体の知れない存在でしかなかったのだ。
笑顔も、穏やかな口調も、気遣いも、遠くからでわかることはない。
知った今だからこそ、先の言葉に偽りがないことがわかる。信じられるものだと、確信を持てるのだ。
八雲は穏やかな眼差しを賀九に送ってから、異形の方を向き直る。相変わらず本体は距離を置き、触手がうねるその様は間違いなく非日常に住まうものの姿に相違ない。
だが当然、そういうものを相手にした仕事をしている八雲が、この程度のことで怯むわけもなかった。
再び刀の柄にゆるりと触れる。それは次の動きをするという合図のようにも見えた。
「兄さん」
「なに?」
「……後ろは、僕に任せて」
賀九の口から発せられた言葉に、八雲は少し驚いた様子で目を見開いたがすぐに笑みを浮かべて「うん、頼むね」と言葉を返す。
姿が見えない以上、先手を打って出ることも本体を見極めることも賀九にはできない。しかし裏を返せば、それは向かってくるものには対処ができるということでもある。
八雲を主戦力として十全に機能させるには、露払いを引き受ける者が必要だ。その点において賀九はうってつけと言えた。
地面を蹴り動き出す八雲に、つかず離れずの場所を賀九が行く。
本体に近づかれることを拒否するかのように、これまで以上の触手が地面から、空中から、正面から二人の方へと一斉に向かった。
正面のものは八雲が全て刀を抜かず払い落としていく。地面からのものや空中にあるもの、そして背後から己に向かうものの全てを賀九は対処していかなくてはならない。
──集中、集中、集中。
気配と音、その全てに意識を集中させて賀九は型通りの動きを次から次へ繰り出して彼には見えない何かを弾き落としていく。
実戦的とは言い難い動きではあるが、動作としては無駄のない流麗なものだ。破壊力よりも見目を、攻撃力よりも型そのものの美しさを強調していく性質の動作ではあるが、攻撃力よりも軌道を逸らす目的としての使用にあたっては効果は十分に上がる。
次から次へと繰り返す動作は前進して払い、横を払い、反転して防ぎ払うという動きを繰り返していった。
しかし八雲が前に進めば進むほど、向かってくる触手の数は増える一方だ。どんどんと賀九の処理する攻撃の手も増えていく。
──このままの動きじゃ、僕が先に追いつけなくなる。どうする。
見える限界にほんの少しの焦りが滲むが、身体だけはひたすらに動作を繰り返し続けた。
叩き込んだ動きの反復は賀九の得意とするところだ。だが、それだけではすぐに不足と限界がやってくる。
きっとこのまま賀九が処理できなくなったところで、八雲は難なく処理してみせるだろうがそれでは意味がない。
──僕が自分で言ったんだ。任せてって。
そして八雲から、役目を任された。その期待を裏切りたくはなない。
絶対に。
賀九は竹刀を握る手に力を込める。
目の前の兄ならどう動くか、その動作を思い描きこれまでの型とは全く違う動きを繰り出した。
それは型通り四角四面の動きとはまた違う、美しさを含みながらも実戦的な動作だ。
竹刀の刃部で近くの衝撃を払い、前に進んで最低限の動きで見えぬ何かを払い落とし、さらにその動作の延長で身体を翻して背面の全てを地へ落とす。
先ほどまでのものよりも明らかに動作の量が減り、無駄がさらになくなり動きが洗練されていた。
──これなら、いける。
生まれた余裕に胡座をかくこともなく、より無駄なくより洗練された動作を賀九は繰り出して八雲の後ろを守り続ける。
八雲はそんな賀九の気配を背中に感じながら、前だけ見つめていた。
背中は預けた、ならば自分が見るのは前だけだ。そんな気持ちがあった。
正直に言えば正面以外の触手について賀九が任せてと話した時、いつまでそれが頼れるものかとそんな勘定をしているところはあったのだ。
実際、最初はこのままでは賀九の方が追いつけなくなるだろうとは容易に想像できた。直接は見ずとも気配で大抵のことは把握できる。見限ってしまうことは簡単だが、それをするつもりは微塵もなかったため背後にはある程度注意を向けつつ動いていた。
だが、それは間違いだったのだ。誤算と評してもいい。
それも良い方向へ事が運ぶ誤算だった。
今はもう八雲は全く背後に注意を向けていない。賀九に任せて問題ないことは背中から伝わってくる。
であれば、八雲のすることは一つしかない。
この向こう、先にいる本体を叩き状況を終わらせる。
こんな強引な消耗戦は長い時間続けられない。何より賀九が先に動けなくなってしまうだろう。
そんなことになる前に、全てを終わらせるのが一番だ。
八雲は正面から相変わらず襲いかかってくる触手を払い落としながら、近づいてきた本体を見据えた。
人間と大差ない大きさ、腕に等しい部分が無数に分岐して触手に姿を変えているらしい。
触手を一本一本自在に操るというところは面倒だが、本体は今も後退し逃げようとしているだけに弱点はここにあると思っていいだろう。加えて触手を扱うには別の場所から遠隔的に操作をすることは出来ないようだ。それが出来るのであれば、本体をこの場に晒してはいないだろう。
──なるほど、大体絞れた。
ここまでの判断は一瞬だった。あとは仕留めるのみ。
ゆるりと柔らかな、それでいて全く無駄のない動きで指が柄を撫でる。次にはほんの少し足を引いて、力を込めた。
地面を踏み締め、込められた力を反動に八雲は身体を異形の本体へ向けて直進させる。
当然のように触手は八雲の動きを止めようと襲いかかってきた。異形としてもここを通しては自身の存在に直結する。当たり前と言えば当たり前だった。
速度を保つなら、多少自身が傷ついてもとそんな考えが一瞬だけ八雲の中にちらつく。
優先するものによってはその選択は正解だ。何よりも威力を攻撃力を取るのであれば、多少は犠牲にしたところで致命的ではない。
以前の八雲であればそう判断し、動いただろう。
しかし今は、その選択をすると悲しむ人間がいると知っている。八雲の背中を守り続ける賀九はもちろん、友も、一番大切だと思う人も。
──無理にとは言わねぇけど、出来るだけ怪我なく帰ってきて欲しい。
そんな言葉を思い出して薄く微笑む。そして八雲は本体にまだ至らぬところで、鯉口を鳴らして音と同時に触手を一瞬で全て斬り落とした。
もちろん少なからず速度は落ちるが、そこで止まるはずもない。目的はあくまで本体、そしてこの状況の根本からの改善だ。
ただ真っ直ぐ、ひたすらに真っ直ぐ本体へ。
異形の方は触手を再生させながら、言葉にもならず意味のひとつすら伝わりようのない、そんな咆哮を大きく上げる。
ノイズのようでもあり、悲鳴のようでもあり、そして威嚇のようでもある咆哮は確かに八雲へと向けられ、彼を異形がはっきり敵と認識したことは間違いない。
だが、八雲としてはそんなことは瑣末なことだ。
再び、一度はおさめた刀の柄を指で撫でてからの真横に一閃。
先ほどとは比較にならない、今度は断末魔の悲鳴が異形から溢れる。
身体を上と下で二つに分けられてしまった異形にはもう、なす術はない。
「弱点をこちらに晒した時点でお前の負けだった」
八雲はもう何もできない異形にそう言ってから、白刃を鞘へと再びおさめる。
「次はこんな風にならないようにね」
悲しげな表情を浮かべながら、八雲は最後にそう言って踵を返した。
その後ろでは異形がその存在を失い、この場は無事に非日常からの帰還を果たすに至る。
「賀九、お疲れ様」
ゆっくりと歩き、八雲は賀九へと声をかけた。視線の先には当然ながら賀九の姿がある。
賀九は疲労困憊という様子でその場に座り込み、肩で息をしていた。
「に、兄さん。お疲れ……って息ひとつ上がってない……」
「まぁ、本職だしね?」
八雲は賀九の言葉の通り、息が上がるようなことはもちろんなく、普段と全く変わらない様子で微笑む。
「うう……もうちょっと訓練とかしたほうがいいのかな?」
「いや、その必要はないよ」
きっぱりと言う八雲の様子に、賀九は絶句した。自身としてはやれることをやったつもりでいたが、不足だったのかもしれないという不安に苛まれたからだ。
しかし八雲の口からは「期待以上、よくやってくれたよ」と言葉が続く。
賀九としては胸を撫で下ろすばかりだ。
「本当にありがとう、助かった」
「……足を引っ張らなくてよかったよ」
大きく安堵の息を吐いた賀九に対して、八雲はやはり微笑んでから「帰ろうか?」と言葉をかける。
「うん。疲れた……」
「だろうね」
兄弟は二人、平和を取り戻した道を歩く。
今度の道には、不穏はない。先に待つのは日常のみだった。
