海からの風が今日も駆ける。海に面したパルマコスタならではの湿気と、海の香りを乗せた風の通り道にエミルの姿があった。
水面の際に作られた頑丈な木の手摺に、ほんの少し体重を傾けながら目をつむり、耳を澄ましているようにも思える彼の様子は見るからに穏やかなものだ。パルマコスタは活気ある街だが、その活気もひと段落し落ち着きはじめる頃合だったこともあって、より一層エミルとエミルを包む世界は柔らかで優しいものに見えた。
「エーミル!」
そんな彼の背中から明るく弾む声はマルタのもので、エミルの口元には自然と笑みが刻まれる。振り返らずとも愛しい人の声だ、聞き間違うことなどあり得ない。
「どうかしたの?」
「ううん、どうもしないよ。とても平和だなって思って」
純粋な疑問を投げかけてくるマルタに、エミルは体勢を変えることなく言葉の通り、平和を噛みしめつつ問いに答えた。
「そっか。そうだね」
エミルの感慨のこもった言葉に、マルタは彼の背中を見つめてどうにもたまらない気持ちを抱かずにはいられない。すっかり見慣れた姿ではあるが最初に出会ったとき——当時マルタの瞳には驚くほどフィルターがかかっていたが、その点を無視したとしても——それよりもずっとずっとエミルの背が大きく見えるようになっていたからだ。前々からエミルのことを愛してやまないマルタではあるが、ふとした時など何度惚れ直してきたことだろうか。そう考える今この瞬間にも平和を尊び噛みしめる彼に惚れ直しているのだから、この手の感情を病と形容するのも合点がいくというものだ。
「マルタ?」
声をかけてきたかと思えば、後ろで黙りこくってしまったマルタにどうしたことか、とエミルはちらりと視線を向けつつ呼びかけてみる。
「エミル大好き!」
唐突な声とともにエミルの背に衝撃が走った。衝撃の正体はマルタが理由で、彼女が背中から思いきりエミルに飛びついたからに他ならない。不意の衝撃にエミルは必死に踏ん張って、何とかことなきを得る。彼女にカッコ悪いところは見せたくないという、その一心だった。
そんなエミルの奮闘を知ってか知らずか、マルタはしっかと背中から彼のことを抱きしめる。
「ありがとう、マルタ。僕も大好きだよ」
返す言葉にありったけの愛情をのせるエミルの声も表情も、言葉に負けじ劣らずの慈愛に満ちたものだ。その返答を受けたマルタもまた、幸せを表情に溢れさせながら、まるで甘える猫のようにエミルの背に顔を擦りつけた。
