お菓子をくれなければ悪戯をするぞ。
その言葉は毎年やってくるイベントごとで、人々が楽しく口にする決まり文句だ。その言葉はもちろん、ハロウィンというイベントを楽しむためのもので、それ以上の意味はないのだが、炭治郎はその言葉に悶々としてしまっていた。
今、炭治郎の脳裏には一人の人物の顔が浮かんでいる。毎朝、ほぼ必ず風紀委員として校門の前で服装チェックに立っている先輩だ。
生真面目な炭治郎が、父親の形見である耳飾りをつけて登校してくることに苦言を呈しながら、否定することもなくそっと校門をくぐらせてくれる。学年はひとつ違うが、服装チェック以外でも関わり合うことは多く、時間をともにして言葉を交わすことは多い。
そんな先輩に対して炭治郎は恋慕の想いを寄せていた。そのことを口にするつもりはないが、ふとした時に考える。
先輩は、もしもこの気持ちを伝えた時に受け入れてくれるのだろうか。
そんな風に。だが、それはできない。
仲の良い先輩と後輩、友人、それ以上の存在となることを心のどこかで望んではいても、本当にそうすることは憚られる。この関係、これまで築いてきた関係が壊れてしまうことは、避けたいことだった。
だからこそ、炭治郎はこうして悶々としてしまっているわけで、それはいつまでも歯止めが効かないまま時間が過ぎ去っていた。
夕食を終え、家族たちが全員風呂を終えるのをひたすらに待っている。その間はいつもであれば、宿題や予習など翌日に向けての行動にあてているわけなのだが、ここ最近はハロウィンのせいでそれもままならない。
思わず唸り声を漏らした時だ。
「……お兄ちゃん!」
真横から声がする。声の主は、妹の禰豆子だった。
「わ、びっくりした!」
「もう、お兄ちゃんったら! 呼んでも上の空なんだもん」
そう言うと禰豆子はほんの少しだけ頬を膨らませて見せる。
「ごめんごめん」
「最近ずっとそんな感じだけど、どうしたの?」
やはりここ数日の状態は、少なくとも禰豆子には筒抜けらしかった。炭治郎は困った様子で頭を掻き、眉を下げながら笑う。
「俺、そんなに上の空だったか……?」
「竹雄も花子も茂も、お母さんだって気づいてるよ。六太だって、私にお兄ちゃんが変だって言ってきたくらいなんだから」
禰豆子の返す言葉に炭治郎はその困った笑みを引きつらせた。家族全員に漏れなく心配されていようとは思いもしなかったのだ。
「……なぁ、禰豆子?」
呼び掛けられる声に、禰豆子は小さく首を傾げる。
「ハロウィンの悪戯ってどんなものなんだろう?」
炭治郎の問いは禰豆子を面食らわせるには十分なものだった。それでも彼女はその問いに真剣に考えを巡らせ、導き出したものを伝えるべく口を開く。
「確か、本来のハロウィンではお家に生卵投げつけたりするみたいだけど……」
告げられた答えに、炭治郎は思わず笑い出してしまった。それもそうだ、彼の考えていた悪戯というものとは全く違うものであり、そもそもそう言ったことを悶々と考えているのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
しかしその唐突な炭治郎の様子はかえって禰豆子を不安にさせた。
「お兄ちゃん……? 大丈夫……?」
当然の反応だ。問われたことに正しく答えてみたところ正しく答え、その質問をした当人が笑い出したのだから。
「ごめん、兄ちゃんの考えすぎだったみたいだ」
「そうなの?」
「うん。心配かけてごめんな禰豆子。もう大丈夫だよ」
「なら良いけど……」
どうにも納得がいかないという様子で禰豆子は言葉を濁したが、それでも炭治郎が驚くほど清々しい表情でいたのを見て、首を横に何度か振った。
「お兄ちゃん、お風呂入って? みんな終わったから」
「ああ、ありがとう」
それはいつもと変わらない、炭治郎の長男の顔だった。
ハロウィンの朝もいつもと変わらない朝だ、と思いたかった。だが、近寄ってくる友人は見るからに悪巧みの顔をしている。
「お、おはよう……伊之助」
「おう! それより、菓子をくれ!」
トリックオアトリートですらない。直球でお菓子だけを要求してくる伊之助に、炭治郎は苦笑するしかなかった。
「二人とも何やってんの?」
「紋逸! お前もだ、菓子をよこせ!」
「それただの強奪だろ! ていうか、学校に露骨なお菓子持ってくるのって、一応は校則違反なんだけど……」
「おはようございます、我妻先輩」
「おはよ、竈門くん」
伊之助は、標的を炭治郎から紋逸と呼び掛けた――実際は、善逸だ――校門のところにいつも通り立っている彼へと切り替える。標的とされた善逸はというと、呆れた様子で風紀委員らしい指摘をした。
校風としては自由なキメツ学園だが、それでもこの手の決まりごとはしっかりとしている。炭治郎もそのことを思い出して、何かを持参することをやめたのだった。
「なんだよ、お前ら二人ともケチだな」
「ケチとか言うな! 菓子パンだったら後でやるよ!」
「おおお! 約束だからな! 鈍逸!」
「だから何でお前、そんなバリエーション豊富に人の名前間違えるんだよ……ってもういないし!」
善逸の恨み節の相手であった伊之助は、素早く校門をくぐって既にもうこの近くには姿がない。善逸の言葉は行き場を失って、虚しく響いた。
「我妻先輩」
「ん~? なに?」
「トリックオアトリート……って言ったら……あ、いや何でも……」
昨日の晩に考えていた悪戯、その言葉から無意識に連想していたことが炭治郎の頭をかすめる。慌てて訂正してみたところで、もう既に後の祭りだった。
善逸は何か思うところがあった様子でひとつ頷くと「菓子パンはさぁ」とおもむろに話し始める。
「え?」
「菓子パンは、さっき伊之助に約束した分しかないんだよな。だから、竈門くんにそれを言われると、悪戯しか選択肢がない」
そう言った善逸の表情こそ、悪戯そのものとでも表すのが一番しっくりするようなものだ。
「竈門くんに俺が、トリックオアトリートって言っても、特にお菓子とか用意してないだろ?」
善逸の問いかけの意図がわからないまま、こくんとひとつ炭治郎は頷く。その言葉の通りではある、だがそれが何だと言うのだろうか。
「じゃ、お互い悪戯しあうしかないな」
にやりと口角を上げる善逸からは、企みの匂いがした。
◇◆◇◆
このことは放課後にな、と善逸に言われてから炭治郎は昨晩とは違う意味で悶々としていた。
企みの匂いは確かにあった、だがそれは悪い意味の企みではなく、何か狙いがあると言うものでそれ以上の他意は感じなかったからだ。
キメツ学園に入学してから出会った程度の付き合いではあるが、それでも半年程度になる。その間見てきた善逸は、決して悪意ある企みをする人物ではない。
そうでなければ、こんなに気になったり――恋慕の情を抱くようなこともないだろう。
だからこそ、なにが始まるのか、なにが行われるのかがどうにも気になって仕方がなかった。
やっとその放課後がおとずれる。周りは相変わらずハロウィンに浮かれきっていたが、その空気をものともせず、終礼と同じくして炭治郎は教室を飛び出した。
だが、そこで一つのことに気付く。放課後に、どこでなにを、ということは全く確認していないし言われてもいなかったと。
立ち止まってもう一度考えてみたところでその事実が変わることはなく、事実上の立ち往生をせざるを得ないという状況だった。
昼休みも一緒に過ごしてはいたのだが。終始、善逸と伊之助の菓子パンの攻防戦を見せられる羽目になり、気がつけば昼休みの終わりを告げる予鈴がなっていたのだ。
(もしかして、あの言葉が嘘だったのでは……いや、嘘の匂いはしなかった。なら、忘れているだけ……だとしたら、善逸のクラスに行けば……!)
炭治郎は善逸の所属するクラスに向かうべく、全力の早歩きで廊下を移動し始める。学年の違う善逸のところへ向かうには、階層を移動しなくてはならない。早足であっという間に炭治郎は階段を駆け上がる。
「お、いたいた。竈門くん!」
階層を移動したところで、善逸が炭治郎を呼ぶ声が響いた。そして炭治郎のすぐ目の前に、善逸がその姿をあらわす。
「我妻先輩!」
「ごめん、詳しいことなにも決めてなかった……」
「いえ、俺も確認しなかったので」
お互いが申し訳なさそうに声を掛け合った。苦々しい二人のやりとりが続く。
「こっち。ここいつも放課後は使ってない教室だから」
会話が途切れた時に善逸が手招きながら歩き出した。炭治郎はその招きに応じて歩き出す。
善逸の示した教室は、部活に使用されていないとあるクラスの教室だった。すっかり人の居なくなった教室は、がらんとしている。
「我妻先輩。お互いに悪戯って言ってましたけど」
「それなんだけどさ……どういうのが悪戯って言うんだろうね?」
炭治郎の言葉に応えた善逸は、苦笑していた。だが、炭治郎の鼻に届く感情の匂いは色々と入り混じってはいるが、企みの匂いが相変わらず強い。
「俺は、それが分からなくて……先輩のしたいことも想像が出来ないです」
「そんな緊張しなくてもいいって。俺も竈門くんがなにを想像したのかまでは、分からないし」
あまり余裕のない炭治郎に対して、善逸は幾ばくか余裕を残しているように思える。少なくとも炭治郎にはそう感じられた。
「ね、竈門くん?」
「はい」
善逸は炭治郎に呼びかけながら、顔を寄せる。炭治郎の心臓が大きく跳ねた。
「俺、さ。竈門くんのこと、炭治郎って呼びたいんだけど良い?」
まさかの申し出に、拍子抜けせずにはいられないが、それは嬉しいことでもあり炭治郎は呆けた顔で頷く。
「あの……俺も、善逸って呼んでも良いですか?」
返す問いかけに、善逸は驚いた様子でその目を見開いた。しかしすぐに満面の笑みを浮かべる。
「もちろん。敬語もなしでいいぜ?」
その応えに炭治郎の瞳は、わかりやすく輝いた。
「悪戯、っていうのは正直なところ建前でさ。俺、炭治郎に伝えたいことがあるんだよ。何だか、騙すみたいになってごめん」
善逸は炭治郎の反応をうかがいながら、次の言葉を紡ぐ。
「何か、企みというかそんなことがあるんだろうなとは思っていた……から……」
「え、そんな俺わかりやすかった」
返された炭治郎の言葉は、善逸にとっては想定外だったようで、それこそわかりやすく驚いて見せた。
「違うよ、俺は鼻が効くからそういうことには敏感な方なんだ」
「へぇ……俺の耳みたいなもんか……」
「善逸も?」
「うん。俺、生まれつき耳がよくてさ……音で大体のことは分かるんだよね」
唐突に知ったお互いの近しい特性に、炭治郎も善逸もその表情に安堵の色を浮かべて照れ臭そうに微笑み合う。
「俺さ、炭治郎のこと好きなんだよ……気持ち悪いかもしれないけど、恋愛の方の好きな……」
一転して無言の間が二人の間に流れた。善逸は先ほどとは打って変わって青ざめた顔色をしている。口にする言葉について、選択を間違えた、失敗したという手応えのなさを感じ続けていた。
炭治郎はその言葉を受けて、完全に動きを止めてしまっている。それは機械で言うところのフリーズしているように思えるほど、微動だにしなかった。
「ご……ごめ……忘れ……」
「俺も……そうなんだ」
善逸は炭治郎の言葉の意味が理解できず、呆けた顔をするばかりだが、それでも自身の思い描いてしまった最悪の事態が起こったわけではないのだとはわかって、ほっと胸を撫で下ろす。
「善逸のこと、好きだよ」
改めて告げる炭治郎の言葉に、善逸の瞳には涙が浮かんでいた。
「本当……に……?」
「嘘なんてつかない。実は昨日もずっと、善逸のことを考えていたんだ」
「え?」
炭治郎は視線を露骨に善逸から外しながら、昨晩のことを正直に告げる。それは、炭治郎にとっては恥ずかしく、言うなれば醜態を晒すことに他ならなかったが、それでもきちんと伝えたいとそう思っていたのだ。
すると、そんな炭治郎の告白を聞き終えた善逸は、小さく笑い声を漏らした。
「善逸?」
「いや、まさか俺とお前が一緒のこと考えていたなんてなぁ……って思って」
照れ臭そうに微笑む善逸に、炭治郎もまたはにかんで見せる。本当に驚きの出来事としか言いようがない。
「な、たんじろ?」
「ん?」
「俺と、付き合ってよ」
「もちろん。むしろ俺から言わせて欲しかったことだ」
相変わらず二人の間に恥じらうような空気は流れているが、そんな様子もまた微笑ましく思えた。
善逸は頬を赤く染めながら、ゆっくりと炭治郎に顔を寄せると、そのまま頬にほんの少しだけ触れる程度のキスをする。
すぐに顔を離して、今度は耳までも真っ赤に染めた善逸の姿は、炭治郎の目にはとても愛らしく、可愛らしい存在として映った。
気持ちが昂り、愛しさが膨らんでいくのが分かる。炭治郎はその昂りのままに善逸のことを強く抱きしめた。
誰もいない教室の、少し開いた窓から風が吹き込みカーテンを揺らす。それはまるで、二人の姿を覆うようだった。
「善逸は、あの時……なにを企んでいたんだ?」
抱擁の時間を終えた二人は横に並び立っている。炭治郎は今朝のことがふと気になって問いかけた。
善逸の方はもうすっかり失念してしまっているのか、ぽかんとした表情を浮かべるばかりだ。
「今朝の話だよ」
炭治郎の言葉に、善逸も合点がいったらしい。納得した様子で手を叩いた。
「告白するのは流石に勇気がなかったから、空き教室でほっぺにキスしてやろうって思ってた」
答えはいましがたの善逸の行動そのもので、今度は炭治郎が納得した様子でひとつ頷く。
「思った通りの行動をしていたんだな」
「そうだよ! お前が……炭治郎が、予想外すぎただけで……」
口を尖らせる善逸に、炭治郎は笑い声を漏らした。それはまたしても可愛らしいと感じてしまったことを誤魔化す意味合いだったが、善逸はそうは感じなかったらしい。
「笑うなよ! 心臓が、まろび出るかと思ったんだからな……」
やはりを耳まで真っ赤に染め上げて、視線を逸らし俯く善逸は炭治郎にとってあまりにも可愛らしく愛おしい存在だ。
「きっとこれからもだから、慣れてくれ」
気持ちのありったけを言葉に込めて、そして耳にそっと口付ける。善逸の身体が小さく跳ねた。
この悪戯をいなせるようになるには、骨が折れそうだ。
