まだ太陽が昇りきる前、それでも爽やかで穏やかな朝が世の中に等しく訪れる中で、そんな空気に小さく緊張を走らせるような電子音が響いた。
御縁燈馬はゆっくりとベッドの上で手を伸ばすと、枕元に置かれたデジタル時計に軽く触れる。
すると電子音が止み、室内にはただただだ薄暗い静かな空間だけが残された。
大きくひとつ伸びをしてから、燈馬はベッドから立ち上がる。長身な彼の脚は大きめのサイズのベッドを選択していても、若干収まりは良くない。
だがそれがベッドから降りるまでの時間を早くしているというのも事実であり、それがどうにも燈馬としては複雑だ。
と言ってもそれを今更どうしようということもなく──どうすることも出来ないと言った方が正しいかもしれない──彼は普段と変わらない一日を始める。
ベッドから身体を起こした彼が朝支度を整えていく様は、あまりにも滑らかだ。
無駄な動きなどひとつもないと表現しても差し支えないだろう、それほどまでの効率的な動作を持って必要な支度をこなしていた。
もちろんその支度は今日も仕事へ向かうためのものに他ならない。
いつものように支度をし、いつものように仕事へ向かう。その流れは一連となっており、燈馬の身体にすっかり染み付いていた。
そんな動作で時間が狂うこともなく、彼は普段と同様の時間ぴったりに自宅を出る。
行く先は職場たる病院の建物だ。
街を歩く。職場まではさほど遠くはないのだが、それでも健康を考えて歩くことにしていた。
医者の不養生などと揶揄されたくもない。
そして純粋に健康でありたいという気持ちもあって、運動がてら少し歩いてから職場へ向かうのもまた燈馬の日課だった。
四季折々の様子を毎日視界に収めて、彼は職場たる病院へとついに足を踏み入れる。
今日もカウンセリングの予約が入っており、彼ら患者の話に耳を傾けることが燈馬の主な仕事だ。
あてがわれているいつもの部屋で、やはりいつものように準備をしている。今日ここを訪れる予定の患者たちのカルテを整え、部屋を軽く掃除をして、最初の患者に備えるのだ。
燈馬のカウンセリング予定は所属する同職の医師と等しく、設けられている時間枠を全て埋め尽くしている。偏りがあるわけではないと言っても、なかなかに細やかなスケジューリングが求められる。
当然だ。時間が伸びる分だけ後ろが伸びていくのだから。
そうなると困るのは、病院でもあるが何よりも誰よりも燈馬が、そしてその次には燈馬についている看護師たちだろう。
それで複雑な気持ちを抱かれるというのは、燈馬としては避けたいところだ。
やはり、共に仕事をする相手には敬意も配慮も最大限行いたい。不可能なことまで行おうとするつもりはなくても、可能な限りの努力を怠るつもりは決してなかった。
同じ部署で働く、医師や看護師などのスタッフと連携という名の確認をとってここからはほとんどが一人での仕事だ。
厳密に言えば、己と患者と向き合う様子が続くということになる。
ある意味では孤独であり、味方が近くにいないということもできる状況ではあるのだが、燈馬としてはそんな感覚は一切ない。
天職であろうと信じてやまないこの仕事を、今日もまた全うしていくだけだ。
そんな気持ちの準備を整える燈馬の耳に、部屋の扉を叩く音が届く。
「どうぞ」
燈馬は穏やかな声で応えた。
すると扉は控えめにゆっくりと開かれて、燈馬が想定していた通り最初の患者が姿を現す。
「……おはよう、先生」
俯きがちで視線を合わせないまま、最初の患者であるまだ年若い女性はぼそりと挨拶を口にした。
「おはよう」
視線が向けられなくとも燈馬は穏やかな表情で微笑む。
口数は決して多くない女性だが、礼儀を失することはなく、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
最近の調子について、今興味のあることについて、そんな取り止めもない話がこぼれ落ちていく。
黙っているよりはずっといい。
そうしているうちに、話が途切れてまた始まる。
燈馬はやはり穏やかに微笑んだ。
「今回も良い調子みたいだね」
そんな燈馬の言葉は、年若い女性の表情を少し柔らかくさせた。
御縁燈馬の仕事の大半というものは、人の話を受け止めることだ。
精神科医ということは、カウンセリングを行うということは、相手の状況や心を可能な限り正確に見定めることだ──と燈馬は少なくともそう思っている。
だからこそ燈馬はやってくる患者たちの言葉を全て受け止め、受け入れるのだがそれは彼を同時にすり減らしてしまう行為でもあった。
楽しいと、天職だと、そう思っていると同時に苦でもあるというこの矛盾。
それはストレスと言い換えることもできるものなのだが、やはりそれはそれとして仕事にはやりがいを感じている。
どうにも燈馬としては、一筋縄では行かないと思わずにはいられない。
己の気質についても思うところはなくもないが、今は仕事が第一だ。自分自身のことについては蚊帳の外。それが燈馬のいつものやり方だった。
数人の患者とのカウンセリングを終えて、少しばかり間のある燈馬はカルテを整えながらそんな思考を巡らせる。
今日は少しばかり感傷的かもしれない。
思考が普段よりもフラットさに欠ける、そんな気がした。
「お疲れ様です、御縁先生」
扉を控えめにノックする音のあと、声と共に姿を現したのは看護師の一人だ。
「お疲れ様です。どうかしました?」
普段と変わりない笑顔で燈馬は対応する。この部屋にはプライベートなるものはない。医師が留まり仕事をする場所以上の意味はなく、この状況は至極当然のものだ。
「次の患者さんについてなんですけれど……」
看護師は控えめに口を開く。
「はい、何でしょう?」
そんななんとも言い難い、どう前向きに捉えようとしてみたところで、良い印象を持つには向かない会話の始まりは、やはり憂鬱な内容だった。
看護師の話をまとめると、次の患者は前回の診察と今回の間にどうやら症状に変化があったらしい。しかもあまり良くない方向に。
最近は一人で診察に訪れていたが、今回は家族を伴っての来院となる旨の連絡が入っており、かつての症状の再発が見られることも家族から知らせられていた。
そんな話が伝えられるが、燈馬は表情ひとつも崩すことなく穏やかに頷いて見せる。
「わかりました、伝達ありがとうございます」
燈馬の言葉に看護師は安堵の表情を浮かべた。それは彼の様子が普段と変わりないことから、なんら問題もなければ心配することもないだろうという判断からくるものだ。
彼自身の狙いがそう感じさせるところにあるのだから、看護師の反応は言うなれば期待通りの結果とは言える。
実際のところのこの状況は本当に言葉の通りなのか、実情的には異なるのか、それすらも燈馬は伝えない。伝えるつもりが皆無なのだ。
今回は正直、現状では判断できないというところではある。
ひとつ確実にわかっていることは、患者自身の状態が前回の診察よりも前の段階で現れていた症状が再び発生しているということ。他の評し方をするのならば、状況は後退しているということはできる。
そして当人とはまだ状況が変化して以降、直接コミュニケーションを取れていない。つまりは判断材料に欠ける状況だ。
こういったところから今回は判断をするには至れないという結論に辿り着いたと言うわけだが、それもまた燈馬としては複雑なところではあった。
何も確認できていないというところはどうにも懸念材料だ。
なんにせよ、家族を伴ってその患者がカウンセリングに訪れるのを、今はただ待つことしかできない。
燈馬はひとつため息をついてから、今しがた看護師の帰って行ったばかりの扉を見つめた。
すると扉を叩く音が響く。
「どうぞ」
入ってきたのは、親に手を引かれる不機嫌そうな子供だった。
明らかに警戒した様子を見せながら、重たい足取りで歩く子供に燈馬は笑いかける。
「久しぶりだね、最近はどう?」
そんな問いかけに子供は答えようともしない。一度不安げな視線を燈馬に向けただけで、口を開くそぶりすらなかった。
「最近、ずっとこんな調子なんです」
先に口を開いたのは手を引いてきた親の方だ。
燈馬は曖昧な微笑みを返す。少し考えてから「わかりました、外でお待ちいただけますか?」と、親に退室を促した。
親は不安げに燈馬を見つめたが、これまで積み上げてきた信頼もあってか苦言を呈することはなく、静かに部屋を出ていく。
「溜め込むより吐き出してしまうといいよ」
扉の閉まる音を確認してから燈馬はそう言って、子供に対して先よりも少し悪戯っぽい笑みを向けた。
最後の患者が部屋を去り、扉の閉じる音が響く。
燈馬は大きく息を吐いてから、座ったまま大きく伸びをひとつした。
カルテを整えることも必要であり、それ以外にも細々とした仕事は残っている。だが今日の仕事の大部分は終わったと言っても過言ではない。
今日という日に大きな問題はなく、仕事においてもつつがなく、燈馬としてはありがたい限りの状況だった。
これならば特に問題なく、いつものように仕事をそして一日を終えることができそうだ。
燈馬はそのことに安堵する。
つい最近、いつものように仕事を終えることのできないようなことや、不可思議この上ないような出来事を体験したばかりだ。
普通、いつも通り、変わりのない状況、そう言ったものがいかにありがたく、いかに尊いものであるかを身をもって実感していた。
同時に何かを得るにあたって、何かが犠牲になっているということは往々にしてある。
それもまた痛いほどに感じる事実として経験したばかりのことだ。思うよりずっと、己は生き汚いというのは、歯痒さもあるのだが。
それでも戻ってくることの出来た日常を、厳密に言えばこれまで通りとは言い切れないにしても、これまで通りと言っても良いそんな日常を燈馬は大事にしたかった。
だからこそ、今日という日がつつがなく過ぎていくという現実が心から嬉しい。そう思っていた。
感慨に浸り、燈馬は次に今日の仕事もまたつつがなく終えるために手を動かし始める。その表情は満足が滲んでいた。
「お疲れ様でした」
周りにはそんな声が響き合う。
燈馬もまたその声に「お疲れ様」と返しながら微笑んで、職場である病院を後にした。
病院施設を出てすぐ、分煙化の進む時流に合わせて作られた喫煙スペースの方へと燈馬は足を向ける。
中にはぽつりぽつりと利用者の姿はあるものの、混み合っているという様子は見受けられない。この時間帯での利用者は、大抵似たようなものであり燈馬としてもそれを見越してのこの場所を利用している。
他の利用者から少し距離をとって居場所を定めると、通勤用の鞄の中からここでしか取り出すことのない煙草とライターを取り出した。
煙草の端を加え、慣れた手つきでライターを鳴らして火を灯す。ゆっくりと息を吸い込んで肺に空気を満たし、それを静かに吐き出した。
溢れ出た煙は上へ上へと上昇してその場の空気と混ざり合い、そして目には映らなくなっていく。
燈馬はその一連の動作を流れるように行なって、ほっと安堵したような表情を浮かべていた。
この瞬間が燈馬にとって一番落ち着く瞬間とも言える。誰かの目を強く感じることもなく、文字通りの一服の瞬間を味わえる瞬間だ。
燈馬は毎日、仕事を終えた後だけ煙草を吸う。もちろんタイミングは前後することもあるが、大抵は仕事を終えて煙草を口にするのが決まりだ。自宅でも職場でもそれ以外でも、煙草を吸うことはない。
ストレスが重なったりという、普段とは違う何事かが発生するならば状況は変わるが、
それはまた別の話だ。
言うなれば至福の瞬間を味わう、それが冬馬にとっては煙草を吸うということだと言えた。
息と煙を吐き、また再び空気を吸い込みながらじりじりと煙草が焼けていく。ただそれを繰り返すだけの時間だが、燈馬にとっては穏やかで落ち着いた、一人だけの時間だ。
煙草が次第に短くなっていく。近づく終わりを名残惜しそうに、燈馬はゆっくりゆっくりと煙草の煙を肺に吸い込んだ。
最後の最後まで煙草を満喫すると、燈馬は喫煙所を後にした。
「量が多くないとはいえ、お続けになると身体に障りますよ?」
喫煙所からさほど離れていない場所でそんな声をかけられる。声の主はわかっていた。
「君か」
視線を向けた先には認識していた通り、一乃瀬雅也の姿がある。
「こんばんわ、御縁様」
「……言ったはずだよ? 外では様をつけて呼ばないでくれと」
「……失礼しました。御縁、さん」
大分と馴染んできたやり取りを口にしながら、燈馬は少し笑って見せた。
「今日は何か用事があるのかな?」
「いいえ、今日は何も。少しお会いできたらという私のわがままです」
「なるほどね」
雅也は本人こそその認識はなかったようだが、燈馬としては彼は患者。否、だった。
不可思議な出来事を経て、その立場は変わったのだ。
雅也は自分自身の意思で燈馬と関わることを望み、燈馬はそれを否定しないでいる。
実際、否定する理由はどこにもないと思ったのだ。どうしたいかは雅也の自由であり、それを受け取りたくないと思うことが自分にはなかったというだけ。それだけだった。
過激、苛烈という部分はなくもないのだが、雅也は基本的に穏便かつ平和的な範囲に収まる手段で燈馬と関わろうとしている。何かしらに逸脱していない以上、燈馬としてはそれを否定する理由はない。
「けれど……よろしければ食事でもいかがでしょう?」
この問いかけはきっと準備を何かしらしているのだろう、燈馬はそんな風に感じて笑顔を返す。
「いいけれど、奢ってもらうつもりはないよ。だから店は今から決めよう」
言葉を返せば、雅也の表情に少し焦りが走るのが見てとれた。
どうやら直感は的を得ていたらしい。
燈馬は笑ってから「さて、どこがいいかな」と言いつつ、自身の端末で店の検索を始める。
それを慌てて覗き込みながら雅也は、どうやら必死に思考を巡らせているらしい。表情は真剣そのものだが、それはどうやって自身のペースへ持っていくかというところに終始するのではなかろうか。
そんな打算も混じる雅也の様子を見るのは、正直嫌いではない。己に正直なところは、燈馬にはないところでもある。
目の前で見るのはこの上なく新鮮であり、自分自身としても困ることはあれど楽しさの方が先に立つのだ。彼は決して友人ではないが、ただの他人というわけでもない。
燈馬から見て自身を信仰しているという不可思議な隣人は、やはり思考思案を巡らせている様子で、口を動かしあぐねていた。
それでも彼らは歩き始める。言葉の通りこの後、食事をして帰路へつき一日を終えていくのだ。
つつがなく過ぎていく時間、日々という捲られていく頁のひとつ。燈馬が変わらないで欲しいと願い続けるもの、そのものだった。
