「エミル」
アジトの廊下を歩くエミルを後ろから呼び止めたのはイクスだ。その呼び声にエミルは足を止め、イクスの声がした方へと振り返った。
「イクス? どうかしたの?」
「いや、大したことじゃないんだけどな……ちょっと聞いてみたいことがあって……」
歯切れの悪い言葉に、エミルは小首を傾げながらイクスの次の言葉を待つ。イクスの方はやはり歯切れの悪い言葉の通りに口ごもっていたが、大げさなほどに大きな深呼吸をしてからその口を開いた。
「この前の戦闘の時の話なんだけど」
「えと……僕、何か迷惑かけちゃった……?」
「違う違う! 助けてもらってばっかりで俺が申し訳なくなるくらいだったよ。そういうことじゃなくて……」
最早、反射的ともいえるだろうエミルの口をついて飛び出してくる心配の言葉を、勢いよく否定するイクスだったがやはりその言葉は詰まってしまう。どうやら、悪い話というよりはどのように言葉にすればいいのかを吟味しているというようだった。
「背中から羽が生えてるみたいに見える瞬間があって……あれはどういうものなのかなって気になったんだ」
「羽……?」
慎重派のイクスがやっとの思い出吐きだした言葉は、エミルの首を傾げさせる。本人としては思い当たる節はどうやらないようで、釈然としない様子はどこから見ても二人の会話の話題が繋がっていないことを感じさせた。
「ああ、コレットたちの背中にある羽……にちょっと似てた気もするんだけど。天使、だっけ」
「一緒にすんな」
「あ……」
「……ごめんね、イクス」
「いや、こっちこそごめん」
一瞬だけジロリと鋭い眼光を向け、声には腹に響くような迫力を備えた反論……というよりは純粋な否定の言葉はエミルのものであるが同時にエミルのものではない。彼の中にあるラタトスクという存在からの否定である。
ラタトスクからの突然の否定の声は、イクスにとって想定外で——今までは明確に二人の切り替わる瞬間が分かったが、先の浄玻璃鏡の一件でそれは少なくとも今のイクスには不可能で——あり、つい言葉を詰まらせてしまった。申し訳そうに頭を掻きながら視線を下に向けるイクスに対し、エミルもまた申し訳なさそうに視線を逸らす。
「羽かぁ、僕からは全然見えないけど何だかすごいね」
視線を逸らしたまま実感のなさを滲ませるエミルの表情は、どこか呆けたものだった。きっと、イクスに指摘された羽について思いを馳せているのだろう。その様子に、イクスは口からつい笑いを漏らした。
「僕……何かおかしなこと言ったかな?」
「そうじゃないよ。確かにそうだなと思って」
不安げな瞳を向けながらまたしても首を傾げるエミルに、漏らした笑みを噛み殺しながらイクスが声を返す。エミルからしてみれば、返ってきた言葉は決して自分の問いかけの答えにはなっていなかったが、不思議とそれでいいのだろうと思えた。
「イクス、そういうの好きだもんね」
「はは、まあな。やっぱり、カッコいいと思うものには憧れるよ」
コーキスから話に聞いたことを思い出しながら言葉を返したエミルに、イクスは照れ臭そうに頭を掻いてみせる。
「うん。それは僕もよく分かるよ。ほかの鏡映点の人たちを見てるとすごく憧れる」
言葉と比例するようにエミルの視線は、自信なさげに下へと落ちて声も少し小さくなった。その様子にイクスは何か言うべきかと悩んでいると、でも、という言葉とともにエミルの視線が再び上がる。明るい緑色の瞳に映るのは、先までの弱々しい気配ではなく決意の色だ。
「少なくともマルタは僕が……僕たちが守る」
いつもの少々気弱にすら思える姿からは想像もつかないような、はっきりとした強い意志を全身に迸らせる。そんな姿はイクスの目に、エミル自身の言うような憧れを抱く鏡映点たる人物達と遜色ないものとして映った。
「……そう思ってるんだけどね」
そしてまたいつものように眉を下げ、少し困ったように口角を上げてみせるエミルは、どこか照れくさそうでもある。
「すごいな、エミルは」
「そう……かな?」
「すごく、かっこいいと思う」
「……だったら、嬉しいな」
イクスは心の底から称賛の気持ちを込めた声をかけると、エミルから返ってきたのは控えめながらも素直な喜びの声だった。
「じゃあ、僕そろそろ行くね」
「引き止めてしまってごめん」
「ううん大丈夫。話してくれてありがとう」
エミルが折り目正しい態度で笑った次の瞬間、また彼の持つ雰囲気が変化する。今の彼はラタトスクなのだと、イクスにもはっきり感じることが出来た。先の発言のこともあり、イクスは無意識に緊張を感じ全身を強ばらせる。しかし、イクスの緊張とは裏腹に彼は満足気な表情——少なくともイクスの目にはそう映った——を浮かべるのみで踵を返した。
立ち去る背中を見送りながらイクスは、きっとエミルとラタトスクの関係が先日の一件で傍から見る以上に好転したのだろうと考えを巡らせる。
そんなイクスの考えを知る由もないエミルは、後ろを振り返ることもなく軽やかな足取りでその場を立ち去って行ったのだった。
