兄弟にして師弟たる

 兄弟というものが必ずしも関わりがあり、そして必ずしも仲がいいものというわけではない。
 実際、兄の八雲と弟の賀九の二人も育つ過程で関わりはないままに生きてきた。
 彼らの場合は生まれた家があまりにも特殊で、八雲と賀九の間には埋まらないほどに大きく深い溝が作られていたということも起因している。
 優秀な家の跡取りと、不足ばかりの弟。
 彼らの家、神来社家での評価はこうだった。
 そんな二人が家の人間たちによって引き会わせてもらえるようなこともなく、八雲も賀九も口も聞いたことがない兄弟がいるという程度しか認識をしていなかったという状況だ。
 しかしそれも過去の話。
 今では二人で買い物へ出掛けたり、連絡も存外とまめに行う仲だ。事情を知らなければ、子供の頃からさぞ仲の良い兄弟だったのだろうと思われること請け合いなほどに。
 そんな八雲と賀九だが、二人の姿は今日とある剣道場にあった。
 普段は賀九が通い汗を流している道場だが、今日は二人以外に人の姿はない。貸切というやつだった。
 理由は賀九がどうしても八雲に一度、実戦稽古をつけて欲しいと要望したことに端を発する。
 二人の実家は怪異退治を生業としており、八雲は実際にそれを仕事として生計を立てている人間だ。
 彼は怪異相手に刀を振るい、斬り祓うことに長けている。そんな兄に剣道を嗜む賀九としては、直接稽古をつけて欲しかったのだ。
 そしてそんな、戦うことを本職としている人間と稽古とはいえ刀を交える以上、適当な場所を用意することも見せ物になってしまうことも避けたかった。
 その結果が、この八雲と賀九以外は誰もいない剣道場というわけだ。
「兄さん、準備は?」
 防具など一式を整えながら賀九は八雲へ問いかける。その八雲は何かしら準備は整えたらしい。傍目には普段通りの衣服と手に竹刀を握っている、それだけにしか見えないのだが。その様子では問いかけたくもなる。
「これで大丈夫」
 きっぱりとした口調で答える八雲は、竹刀を握りしめるばかりだ。準備は万端らしかった。
 これも本職ゆえなのだろうか。賀九としては、そんな些細なところだけでも力の差を感じずにはいられない。
 もちろん自身は剣道、しかも勝負を目的としない型を披露するものを主に嗜むばかりであるのだから、力の差などあって当然といえば当然ではある。だがそれでも思い知らずにはいられない。
 こんなにも、自身と兄には明確な違いがあるのだということを。
「……わかった」
 賀九は表情を引き締め姿勢を正すと、正面に立つ八雲を見つめる。
 視線の先の八雲は、やはり普段と変わらない様子で竹刀を握っているばかりだ。緊張は感じられないが、かといって油断をしているような風でもない。
 その姿は不敵という言葉がぴたりとくる。
「開始の声は賀九でいいよ。タイミングも任せる」
 八雲はそう言ってにこりと笑った。いつものようにだ。実力者からの配慮にして礼儀、それが今の発言のように思われた。
 賀九はひとつ頷いてから構えると、大きく深呼吸をする。
 これから始まるのは文字通り賀九が八雲の胸を借りる実践形式の稽古だ。八雲の言い方は不意打ちもまた良しとしているように見受けられたが、それは賀九にとってやってはならない事だった。
 正々堂々と、胸を借りよう。
「じゃあ行くよ……はじめ!」
 賀九の声が道場の中で響いた。
 声と同時に動いたのは賀九だ。しっかりと一歩、前に踏み出した賀九は懐に入り込もうと八雲との距離を詰める。
「真っ直ぐ過ぎる」
 八雲の指摘の声が飛び、次の瞬間には賀九の竹刀が叩き落とされた。
「……っ」
 一度詰めた距離をあけながら、後退とともに賀九は竹刀を拾い上げる。再び構えようと前を向くその瞬間、八雲が一歩を踏み込んだ。
「気を抜いたら、だめだよ」
 小さく、しかし確かな声は賀九の耳のすぐ近くから聴こえてくる。
 次の瞬間、防具越しに重たい衝撃が賀九に襲いかかった。
 賀九の口から鈍い声が漏れる。それでもなんとか足に力をこめて、この場所に踏みとどまった。ここで体勢を崩せば、劣勢どころかあっという間に敗北だ。
 八雲の口の端がほんの少し持ち上がる。その表情は、少なくとも賀九の目に八雲の表情は満足の色を帯びているように映った。
 だがそれも一瞬のことで、すぐに表情を真剣なものへと戻した八雲がさらに一撃を加える。
 加えられた衝撃は先ほどよりも強いものであり、賀九は必死に足に力を込め直しながら歯を食いしばった。そうでもしないと倒れてしまいそうだったのだ。
 ──このままじゃ、だめだ。
 圧倒的なまでの劣勢に陥った賀九に出来ることは少ない。だが手という手を封じられてしまったというほどの状況にまでは、まだ至ってはいなかった。
 賀九は一歩後退し、八雲との間に間合いを広げる。ここから仕切り直したい、というのが賀九の思うところだった。
 しかし八雲が易々と賀九の思い通りになってくれるはずもない。
 間髪入れずに八雲は一歩前へと踏み込む。間合いを広げて仕切り直そうという賀九の目論見は一瞬にして霧散、状況に変化は訪れない。それどこか主導権まで譲り渡してしまったかのような格好だ。
 先ほどまではまだ、賀九から動き出したことに連なる行動だった。八雲があまりにも余裕な表情を浮かべて行動をしていたためわかりにくくこそあったが、間違いなく主導権は賀九の側にあったのだ。優位性と言い換えてもいい。
 しかしそのアドバンテージを賀九はまさに今、譲り渡してしまった。八雲の腕が最低限の動きで振り動かされる。
 繰り出された攻撃は、最低限の動きで最大限の効力を発揮しながら賀九の胴体の正面と側面を打ちつけた。
 その衝撃に賀九の息が詰まる。強い衝撃は呼吸を阻害する、八雲の攻撃はそれほどまでに強力という証明だ。身体が反射的に悲鳴を上げるほどに。
 ろくに声を上げることすら出来やしない。飛んで途切れてしまいそうな意識を何とか保って、賀九は足を再び踏ん張る。
 そうすることしか出来なかった。なす術もないというのはこういうことを言うのだろう。
「賀九、このままだと状況は変わらないよ」
 八雲は静かに言った。これは戦う相手に向ける言葉ではなく、稽古をつける相手に向ける言葉だ。
 相変わらず八雲の攻撃の手は続いており、緩む気配などひとつもない。だが確かに教えの言葉は向けられていた。
 そもそも稽古が始まるとき、真っ直ぐに八雲の方へと向かってった理由は何だったか。
 
 先手を取るためだ。
 
 防戦するのではなく、一本を取るための行動だった。結果として目論見の通りにはならなかったが、それでも攻勢が変わるまでの戦況は悪くはなかったはずだ。
 状況を変える判断は良かった、しかし手段が適切ではなかった。そうであるならば、防戦するにしても先を見据えた行動をしなければならないだろう。
 今の賀九は八雲の攻撃を、ただその場を凌いでいるだけに過ぎない。完全なる受け身、というやつだ。
 確かにこのままでは逃げ続け、体力を削り取られて終了というのが関の山だろう。実戦としてはもちろん、稽古としても大層実りの少ないものとなってしまうこと請け合いだ。
 八雲がそれを賀九に伝えようとした、のかどうかは定かではない。だが賀九はそう受け取ることにした。
 考えること、勝利を、放棄してはならない。
 止まらずに考え続けること、勝利を目指し続けることは必要不可欠だ。
 現状は最悪。相手に主導権を握られ、防戦に終始している。やはり仕切り直しをすることは必須だろうというのは、序盤から変わらない賀九の認識だった。
 しかし問題は、どう仕切り直すかだ。
 先は後退し距離を置くことで仕切り直そうとしたわけだが、八雲は賀九のそんな考えを読み切った上で距離を詰めて自身の優位へと逆転させることに成功させた。
 つまり同じ手は通じない。当然だ。
 同じ手を試したとして、先よりも悪化した状況をさらに致命的な状況へと叩き落とすことは自明の理だった。
 そんな悪手を使おうというつもりは、賀九の中には全くない。先の二の舞は御免被りたいところだ。
 とは言ったところで、仕切り直し以外の策に取り立てて心当たりはない。こんなとき、己の経験不足を痛感させられる。
 普段は実戦的な形式を用いらない魅せる剣道を追求する賀九としては経験不足は承知のところではあるのだが、それでも剣道を嗜む一人としては複雑だ。
 思考をしなければならない。
 技術も力も経験も、全てが劣る賀九の出来ることは思考。そしてそれを工夫と実戦することだけだった。
 ただ真っ直ぐ斬り込んでいくことは既に試し、完全に見切られている。
 この後の選択肢としては、真っ直ぐ飛び込んでいくことを突き詰めるか、別の手段を模索するかというところだろうか。
 行動の分かれ道に立って、賀九にはどちらかを選択することしか出来ない。立ち戻って再選択という可能性はなきしもあらずだが、手練れたる兄がそれを稽古といえど許してくれるかどうかは甚だ疑問だ。
 ならば現状、実りある可能性の高い選択を行うことが賀九にとっては最善の選択肢と言えるだろう。
 そうは言ってもあまり迷っている暇も、熟慮を重ねる余裕もない。
 次の瞬間には賀九は再び真っ直ぐ、正攻法で木刀の刃を攻勢の手段として繰り出した。
 八雲の淡々としたものからほんの少しだけ動く。興味深そうに、そして嬉しそうに。
 賀九の手によって繰り出された一撃を、八雲は切先を当てることでいなした。
 さすがに一筋縄で行くものではない。それでさっきとは違う手応えはあった、ように感じられた。
 ひと太刀、一撃を八雲に与えるためにはどうすべきか。
 賀九は今し方の手応えを手がかりにして、ただひたすらに思考を続ける。
 未来を、一歩先を思うときに現在というのどうしても蔑ろになりがちだ。賀九の現状で言うと体の動きと思考がバランスを崩し、それによって勝負を決してしまうというようなところだろうか。
 その辺り賀九は冷静だった。頭の回転と身体の動作が必要以上に影響し合うようなことはなく、それぞれが別個に最大限の能力を発揮している。
 ただ、八雲がその何枚も上手だというだけだ。
 賀九の創意工夫の込められた攻撃のひとつひとつを、懇切丁寧に躱して落として無力化していく。何度も何度も木刀のぶつかる音が道場に響いた。
 基本的な賀九の方針としては、真っ直ぐにぶつかるということ。ただし、愚直にただ真っ直ぐ向かうだけではなく攻撃方法に趣向を凝らす。これまで培ってきた多くの太刀筋とその技巧をあらん限り駆使して、手数で攻めるという選択をした。
 経験を抜きにしたところで、純粋な体力や力など全て賀九が劣る。それは純然たる事実だ。
 他の部分でも勝るところがないというのもまた事実である以上、弱点を探して穴をつくような戦法では刃が立たないことは明白である。
 ならば得意な部分で勝負をかける、賀九はそう決めた。補うには諸々が不足であるならば、無理に補おうとすることはないという発想だ。
 賀九は流れるように次から次へと、連続で型を使って攻撃を繰り出していく。払い、突き、斬り、さらに払ってと型の応用の技を賀九は止まることなく八雲へと向け続けた。
 さすがの八雲もそんな賀九の止まらない連続した攻撃を受けて、躱わしてを繰り返すことしか出来ない。
 この試合で初めて、賀九が八雲に対して優位をとったと言える状況だった。
 八雲はそれでも表情ひとつ変えることなく、防戦に徹する。視線は鋭く、まるで射抜くように賀九のことを見つめていた。
 
 ──ねぇ、兄さん。稽古がしたいんだけど、相手してくれない?
 賀九が八雲にそんな誘い文句を向けたのはつい先日のことだ。
「なんで?」
「僕って型ばっかりやって来たけど、それでも剣道をやっている以上は相手のいる試合も必要なんじゃないかなって思って」
 何の気なく尋ねた八雲に対して、賀九の答えは想像を超えた真剣さがあった。
「……いいよ、仕事忙しくないし」
 八雲が誘い文句に対して肯定の言葉を口にしたことは、賀九にとって飛び上がるほどの喜びだったらしい。実際に飛び上がって喜んでいた。
「そんな喜ぶこと?」
「ダメって言われるかなって思ってたから」
 再び疑問を向けた八雲に賀九は、少し落ち着きを取り戻した後にそう言って苦笑する。
 そもそも剣道にしたところで、型を魅せるものを主に鍛錬している賀九と実践剣術と言って良いだろう八雲との差は天と地ほども開いたものだ。
 畑違いと言われてしまうのではないか、という懸念を強く抱いていた賀九としてはこの上なく嬉しいことだった。
「真剣に頼まれたら嫌とは言わないよ。ただし」
 八雲は強調するように言葉を区切る。
「勝負だから、稽古でも手は抜かないよ」
 変に手心を加えたりすることはしない、それは賀九が八雲に求めるところでもあった。
「もちろん。そのつもりで頼んでる」
「それなら俺から、もう言うことはないよ」
 そんな会話を、この稽古が成立した日に交わしたのだ。

 実際に交流が生まれてからの期間はけっして長くない。それでも、今はかつて関わることの叶わなかったことをもったいないことだったと感じるほどになっている。
 そんな賀九──弟だからこそ、応えたいと八雲は強く思っていた。だからこそ、賀九からの誘いに乗ったのだ。
 軽くとらえることなく、建設的な考えが根底にあると分かったからこそとも言える。
 それはやはり正しかった。八雲はそれを確かに感じ、あたたかな想いを抱く。
 日の少ないということこそあれ、やはり弟の成長というものは兄という立場において喜ばしいことだ。
 ただし。
 負けるつもりはない。
 兄という立場のみでなく、仕事において実戦の伴う八雲としては大学生で型をおさめているだけの賀九に負けることはあり得なかった。
 負けることそのものを選択するのは容易い。しかしそれは礼を失する行為であり、この上なくアンフェアだ。少なくとも八雲はそう思う。
 だからこそわざと負けるつもりなど、ひと握りの砂ほどもない。砂の粒子ひとつ分すらない。それが礼儀だろうと、八雲は木刀をしっかと握り直した。
 賀九が八雲に向ける剣戟は真っ直ぐで型に忠実、それでいて型にはまり過ぎない柔軟さを持ち合わせたものだ。いつぞやの経験もしっかり賀九の中に根付いているらしい。
 それは至極好ましい。実りとなっている状況に満足感を覚えつつ八雲はそれでも的確に賀九の攻撃を退け、落とし、躱していく。余裕に満ちた動作からだけでも実力差がはっきりと見えるものだが、創意と工夫を続ける賀九の姿は無謀ではなく果敢と言えた。
 賀九の振るう木刀の先が同じ軌跡を描くことは一度もない。同様の動きをするにしても全く動きを同じくすることはなかった。
 当然それは未熟ゆえのぶれなどではなく、試行錯誤の上で至ったものだ。日頃のたゆまぬ努力あってこそ成り立つ、とも言えるだろう。
 しかし八雲はその全てに捉えられることはない。全く無駄のない最低限の動きで自身を射程から外していく。木刀がぶつかり合っても芯を捉えるには至らないというわけだ。
 そんな攻防が道場で繰り広げられている。二人しかいないこと場所では彼らの打ち合う音、それ以外は静かなものだった。
 しばらくは拮抗──厳密には八雲が拮抗を選択──している状況が続いた。賀九はただ必死に、八雲はそれに応じる形だ。
 そしてその拮抗を崩したのは、やはりと言うべきだろう八雲だった。
 賀九の型の流れが途切れた瞬間、木刀が手元に引き戻されるその動作に切っ先を割り込ませる。
 こつん。
 少し抜けた音に続いて、道場の床に乾いた音を立てて木刀がこぼれ落ちた。もちろん手から木刀を取り落としたのは賀九だ。
「あっ……」
「油断したね、賀九」
 賀九の間抜けな声に笑いながら八雲は言葉を向ける。
 ここにこの手合わせの勝負は決した。
 一気に場の空気から緊張が消え失せる。木刀の打ち合う音以外は皆無だった、そんな緊張の時間がまるで嘘のように。
「うー……」
 一瞬の油断が命取りという言葉を体現する格好になってしまった賀九は、悔しさに口を尖らせる。しかし自分の油断が招いた結果であることもよく分かっているため、恨み節のひとつも発せないままだ。
「最初崩れかかったときは、よく持ち直したと思うけど」
 冷静な八雲からの総評は、賀九としても笑顔になれるものではある。しかし型の途切れるタイミングという油断をしてはならないところを突かれた手前、素直には喜びきれない所もあった。
 結局、賀九はただ曖昧に笑って八雲の言葉を受け止める。
「その感じだと反省点はきちんと分かってそうだね」
 言外の言葉を察せられて賀九としては複雑な顔をせざるを得ないが、的を射ているというよりも頭の中をまるで覗いてきたのような正確さだ。もう頷くことくらいしか出来ない。
 この歴然とした差は、まざまざと見せつけられた差は天と地ほどにも開くものだ。
 八雲の実力は実家でも屈指の実力者と謳われる人物だからということはもちろんだが、彼自身が努力と研鑽を重ねた結果なのだろうということは得物を交えるだけではっきりとわかる。
 賀九としてらそんな実力者と手合わせできたということは貴重な経験であり、頼み込んだ甲斐のある稽古だったと言えた。
 満足と疲労を同時に覚えながら、場に一礼をしてから賀九は移動した先で腰をおろす。目の前には八雲が賀九を見下ろしていた。
「兄さんすごいなぁ……でもお願いしてよかったよ。ありがとう」
「どういたしまして」
 疲れのひとつも見せることなく八雲は笑う。息の乱れすら感じさせない姿はさすがだった。
「……もう少し休憩したら、もう一回お願いしてもいい?」
 賀九の言葉に八雲の瞳が大きく瞬く。しかしすぐに柔らかく細められると、八雲が口を開いた。
「いいよ」
 返された言葉に賀九が「やったぁ」と疲れは滲んでいても嬉しそうに声を発して笑う。 今の道場に満ちる空気は間違いなく穏やかなものだった。