とある日の始まり(tnzn)

 ――夢をみた。
 それは、それは、あたたかな夢で、自分自身がどうなってしまったのかと一抹の不安を感じてしまうほどのものだ。
 こんな幸せがずっと続けばいい。そんなことを祈りながら夢から醒める。
 
 善逸の視界に飛び込んできたのは、見慣れない天井だ。白いクロスで覆われ、格子状の柄が入っている。そんな天井の白はまだくすみが少ない綺麗なものだった。
 それもそのはずで、ここに善逸が住み始めたのはごく最近だ。大学の二回生になってすぐここに引っ越してきた。今はその年の五月、まだまだ生活感が不足している頃合いだ。
「ぜんいつ?」
 隣から彼を呼ぶ声がする。ふわふわとどこか夢見心地な様子の感じられる、ひとつの布団を共有している声の主は、同居人であり恋人でもある炭治郎だ。
「あ、起こしちゃったか。悪い」
 眉尻を下げながら善逸は隣に視線を向ける。
 炭治郎はいつも朝が早く、寝ぼけている姿を見かけることはほぼない。そんな彼が見せる貴重な姿は、善逸としても大層喜ばしいものと言えた。
「そろそろ、起きる……」
 のそりと身体を起こそうとする炭治郎の手を引いて、善逸はへらりと笑う。
「もうちょっといいじゃん。今日は俺たち二人とも昼からなんだしさ」
 身体を起こしかけた炭治郎が手を引かれたことにより、ぐらりとバランスを崩して倒れ込んだ。ぼすん、と大きく少しばかり間の抜けた音が鳴る。
「な?」
 小言のひとつでも言おうと善逸の方へ顔を向けてみれば、彼のだらしなくそれでいて幸せに満ちた笑顔があって、炭治郎はなにも言えなくなってしまった。その不服を示そうにも、口を尖らせるだけでやっとだ。
「……今のそれは、ずるいと思うんだが」
「なにがずるいのかわからんのだけど……それより、お前さぁ! なにその音!」
 今度は善逸の不服が表明される番だった。彼の冴える聴覚は、炭治郎から聴こえる音を無視することは出来ないようだ。
「どんなだ、俺にわかるように説明してくれ」
「……めちゃくちゃ、速くて、でかい音。ずるいと言いつつ興奮してるとか、どういう状態だよお前」
「善逸が悪い」
「俺のせいかよ!」
「当たり前だ、お前がずるくそして可愛らしいことをするのが、とても良くない」
 この上なく言いがかりじみていながらも、あまりにも真っ直ぐな物言いに善逸は返す言葉を失う。
 その様子に満足げに微笑んで見せながら、炭治郎はぐいと善逸を引き寄せて口付けた。
「んっ! お前! 突然っ!」
 次の瞬間には弾かれたように唇も、そして身体さえも離しながら、善逸が顔を赤くして不服の言葉を口にする。
「仕方がないだろう? こうしたかったんだから」
 炭治郎は珍しく、悪戯めいた笑みを浮かべていた。彼は寝起きだと、いつもよりも箍が外れるらしい。四角四面、真面目、という言葉を絵に描いたような普段の姿はどこへやら、自身を律する気持ちが緩んでいるようだった。
 正直なところ、善逸としてはいつも必死に頑張っている炭治郎の姿を見続けている手前、自分と二人でいる時くらいは気を休めていてくれればとは思っているので、喜ばしいことではあるのだが。
「もう、だめなのか?」
 こてんと首を傾げて見せる炭治郎の姿は、いつもの姿よりも幼く思えてどうにも拒絶し難いものがある。
「……もうちょっとだけな」
 昼からはお互い講義なんだからな、と言い添えてから善逸は再び炭治郎に体を寄せた。
 布団のと身体が擦れる音がする。そして続いて口づけの水音が響いた。何度も何度も響く音は、二人が幾度も深く唇を重ね合っていることの証明だ。
 熱い吐息が二人の口から何度もこぼれ落ち、混ざり合っていく。互いが互いを求め合い、この先へこの先へとまるで急かし合うかの如く食いつき合う姿は、止まることを知らないのではないかと思われるほどだ。

「たんじろぉ……だめぇ……」
 唇を重ね合ってどれほど経ったのか。ゆるゆると炭治郎の身体を押しながら、善逸は体裁だけの拒絶の言葉を口にした。それはどう考えても嫌がっているというものではなかったが、その意思表示そのものを無碍にするというのも憚られて、炭治郎は嫌々ながら善逸の言葉の通りにする。
「何故なんだ? 善逸、嫌ではないだろう?」
「嫌じゃないよ? けど、時間……」
 口づけにすっかり蕩けきった様子を見せながらも、善逸が壁にかけられた時計を指差す。
 時計の指している時間は、そろそろ昼に差し掛かろうという頃合いだ。支度を始めなければ二人とも講義に遅れてしまうだろう。
「あ……」
「な?」
 すっかり時間が過ぎ去っていたことに炭治郎は驚愕し、善逸もまた苦笑した。
「家事! してないぞ、善逸!」
 がばっと大きな音をたてて炭治郎は飛び起きる。そのあまりの勢いに善逸が、ぐぇと間抜けな声を発しながら布団の上を転がった。
「あ、ごめん」
「いや……いいけど……」
 自身の動きの勢いがつきすぎていたということに、驚きと申し訳なさを抱きながら当然のことのように善逸に頭を下げる。炭治郎のそんな動作は、布団の上に突っ伏した状態になってしまった善逸の目には映っていない。返す言葉もくぐもっていて、顔を上げるにはまだ至っていなかった。
「家事は、今日は仕方ないだろ……誘ったの俺だし、あとで俺やるよ」
「でも、今日の当番は俺だし……」
 炭治郎は善逸の提案に頑なに食い下がるが、善逸もまた譲る気はない。しかし、この応酬をいくら続けたところでそれもまた、彼らの状況からすると時間の浪費以外の何者でもなかった。
「……その話は、お互いが家に帰ってきてからにしよう、いいな? 善逸」
「……良くないけど、わかった」
 互いが口を尖らせ、ほんの少し頬を膨らませ、これでもかというほどに不服を主張していたが、結局のところここが妥協点というあたりで強引に折り合いをつける。
 そのまま布団を後にして、炭治郎は簡単な食事と身支度を準備し始め、善逸はやっとよろよろと布団がら抜け出てきた。
 もうすでにパンの焼ける香ばしい香りが部屋の中に漂う。善逸は、すんと鼻を鳴らしてから身支度を始めた。
「何か食べて行ったほうがいいだろう?」
 その言葉の通りに整えられた食卓は、トーストにスクランブルエッグまで添えられていて、善逸は目を見張る。
「相変わらず手際がいいなぁ……正直、めちゃくちゃ助かるよ。いつもありがとな」
 感謝とともに笑顔を浮かべる善逸は、そのまま食卓について炭治郎の準備した食事に手を合わせた。
 炭治郎もすぐに食卓について、二人はあっという間に食事を平らげていく。正直なところ、ゆっくりしている時間はなかった。
 食事を終え、二人はそれぞれの食器などを片すと、あっという間に互いの身支度の続きを進める。とは言っても、講義を受けて帰ってくるというそれだけのための準備は、大して時間のかかるものというわけではなかった。
「善逸、忘れ物はないか?」
「お前は俺の親か! 大丈夫、昨日ちゃんと用意したし」
 ツッコミを入れながらもしっかりとした返事を返す善逸に、炭治郎はにこりと微笑む。
「じゃあ、また。あとでな?」
 そう言って善逸の頬に口づけた。
「おま! 不意打ちはやめろよな!」
「戸締り頼む!」
 悪びれた様子もなく炭治郎は玄関から飛び出していく。ため息を大きく吐いて戸締りをしている善逸だったが、実際のところその表情はだらしのなくにやついたものだった。
 
 ――今日も一日が始まる。
 夢に見た、明るくそしてあたたかなものにも引けを取らないそんな一日が。
 他愛もない、変化もない、しかし平凡かつ平和に一日が今日も始まるのだ。