逢魔時、黄昏をまたぎ闇が空を塗り潰そうとしている。屋敷に明かりが灯りはじめ、あっという間に屋敷全体にぼんやりと淡い明かりが広がった。暗闇に灯った明かりに、善逸はほっと小さく息を吐く。
部屋には善逸と、炭治郎そして伊之助の姿がある。三人は夕食の時間を待っていた。
先程に善逸が息を吐いたことに、炭治郎がちらり一瞬だけ視線を向ける。しかし何を言うでもなく、視線を元のように戻した。善逸は部屋の中で体勢を崩し気味にしながらくつろいでいて、その近場で炭治郎もまた足を崩して座っている。同じように黄昏から闇に染まり行く空を眺めていた。二人とは別に縁側に腰かけたままの伊之助は見るからに退屈そうな様子で、おろした足をじたばたとぶらつかせている。
「腹減った」
「もう少し我慢だぞ、伊之助」
嗜める炭治郎の声に、ふんと露骨に不機嫌な声を返しながらも伊之助はまた縁側で足をばたつかせた。
二人の様子を善逸は静かに見つめたが、耳に入ってくる小さな違和感に気付き眉をひそめる。耳鳴りのようにも思われるその音は、間違いなく善逸の内から鳴る音ではない。そのことは鋭敏な聴覚を持つ彼にとって、当然のようにはっきりとわかることだったが、音の出所まではさすがに分からず耳をすませて音の正体を追いかけた。
「……え」
善逸の思わず漏らした声に、炭治郎と伊之助が視線を向ける。
「どうかしたか?」
「なんだよ、紋逸」
炭治郎からの問いかけにも、伊之助からの言葉にも応じることなく呆けた様子を見せるばかりの善逸だったが、そのうち顔面蒼白かつ恐怖の表情を顔に浮かべた。
「なにこれ! 変な音がするんだよ! 怖い、なんかいる! 絶対なんかいるよこれ!」
落ち着いて見えた次の瞬間には大騒ぎをはじめた善逸に、一言物申そうと縁側に座っていた伊之助も部屋の中へと戻ってくる。
「うるせえな! 何もいねぇだろうが!」
「ふざけんなよ、絶対いる! なんかいるよ!」
善逸は頑として譲らず、伊之助もまた自分の感覚を信じて譲らないため、平行線の応酬が続いた。
「二人とも落ち着け」
そう仲裁に入ったのは、もちろん炭治郎だ。
「紋治郎、止めんな!」
「……そうは言ってもな、このまま二人が言い合ってても何も分からないだろう?」
もう幾度かに一度しか正しい名前を呼ばれないと気付いてから、いちいち訂正するのは控えはじめた呼び間違いの訂正をぐっと飲み込んで炭治郎は伊之助を宥める。善逸の方はそっぽを向きながらも、本人曰く変な音はまだ聴こえているようで小さく震えていた。
「いるんだよ……聴こえるんだ」
少し落ち着きを取り戻した善逸が、やはり同じような言葉を繰り返す。
「悪いが善逸、俺も伊之助と一緒で特に何も感じない」
「分かってる。お前らの音は嘘ついてないもん」
「俺だって善逸が嘘をついていないのは分かる」
「けど、いねぇもんはいねぇ」
「伊之助!」
「……俺達にはわかんねぇ」
伊之助は口ごもるとふいとそっぽを向きそのまま、また縁側へと戻って行った。
「伊之助……」
「あいつ」
すっかり日の落ちた空を見上げて、伊之助はもう話す気はないらしい。
「俺達には分からないものが、善逸の耳にはきっと届いているんだろうな」
「……正直ちょっと怖いけどな」
薄く笑みを浮かべて善逸は、何も無い場所に手を伸ばした。そこにちらりと、何かが瞬いたような気がした。
すると、善逸の体が小さく震える。
「善逸……?」
「たんじろぉ……」
涙を目にあふれんばかりに溜めている善逸は、見るからに怯え切っていた。
「耳がぴりぴりするんだよ……何かいるんだって……」
いつものように縋り付いてくるでもなく、耳を塞いでその場で震え続ける様子は居た堪れなくなってくる。彼のことを落ち着けようと、ゆっくり背中をさすってやると、炭治郎の手にはじめはびくりと全身を震わせた善逸だったが、次第にその意図の通りにまた少し落ち着きを取り戻し始めた。
「びびり過ぎなんだよ」
伊之助は心底不機嫌な様子でそっぽを向いてこそいるが、善逸のことが気にかかっているようでその場から離れようとはしない。
そんな伊之助を見遣って、炭治郎は小さく微笑む。しかし善逸は相も変わらずな状態で、耳を自身の手で塞いだまま炭治郎に寄りかかるばかりだ。
何とかしなければ、といつもより弱々しい善逸の姿を見つめながら、炭治郎は胃を決した。
ずっとずっと、耳の奥がぴりぴりと痺れるような感覚が消えない。炭治郎も伊之助もなにも感じないと話していたが、善逸からしてみるとそれは、あまりにも信じられないものだ。
(こんなにずっと、音がするのに……何でだよ)
そんな恐怖を閉ざしてしまいたいという、淡い希望を抱きながら耳を塞いでみたところで何も変わらない。
風に枝葉を揺らす樹のようなものと、この世のものでは形容できぬ言うなれば異形のものが混じり合い、音という仮の体裁をなしている。
自分だけが感じているらしい、横暴にして理不尽な音が圧迫するように鳴っては、鼓膜だけでは飽き足らず全身へと振動を震えとして伝えた。
得体の知れぬ恐怖は、善逸を蹂躙してとどまることを知らない。救いは炭治郎と伊之助の存在だ。
“わからない”そう話しながらも、二人は善逸についてくれている。これほど心強いと思えることを、善逸は他に知らなかった・
「二人とも」
善逸の呼び声に、炭治郎も伊之助もその視線を向ける。
「ありがと」
続けられた感謝の言葉に炭治郎は微笑みを返し、伊之助は何ともむず痒そうな表情を浮かべたあと、猪頭をすっぽりと被ってしまった。
「善逸、まだ何か聴こえているか?」
炭治郎の問いかける声に、善逸は小刻みに何度も頷いて見せる。
「なら、原因を確認してみないか?」
「変な奴がいたらどうすんだよぉ!」
「確かに可能性はある……でも、このままじゃ善逸も辛いだろう?」
それもまた確かなことだった。何か恐ろしいことが起こるかも知れない、しかしじっとしていても何の解決も見れはしないのだ。
「それに俺も、伊之助もいる」
「あぁ?」
「伊之助、すっげえ嫌そうだけど……」
「来てくれるだろう? 伊之助」
「……」
炭治郎の問いに、伊之助は珍しくだんまりを決め込んでいる。
「……無理せんでもいいよ?」
そう口にする善逸の瞳は、会話を交わしていようとも恐怖に揺れていた。
「今日は特別について行ってやる! 俺様は親分だからなっ!」
豪快な笑い声とともに胸を張る。あえてなのか無意識なのか、いつもよりも更に大きな声が、今は善逸を心底安堵させた。
「どっちからその音がしているかわかるか?」
炭治郎はつとめて優しい声で、善逸に語りかける。善逸はその言葉にゆっくりと、指差しで示した。
廊下の奥を指し示した指のその向こうは、暗闇が広がっていて勝手知ったる場所であるはずなのに、伝わる気配はあまりにもいつもとは違うものだった。
「今、ぞわっとしたぜ……」
「匂いはいつもと変わらないが……、違和感はあるな」
二人の言葉に善逸は小刻みに何度も頷いて、必死にそれを肯定する。感覚がそれぞれ抜きんでたものがある三人でなくとも、はっきりといつもとは違う何かがあるのだと感じるだけのものがあった。
「ねぇ、本当に行くのぉ?」
一人しっかりと音で存在なき存在を捉えている善逸だが、あまりにも乗り気ではない。変わりなく恐怖が先に立っている模様で、小さく震えて炭治郎にしがみついていた。
ぎしぎしと床板の軋む音がする。その音は炭治郎と善逸、そして伊之助は廊下をゆっくりと進む、その足音だった。
一歩進むごとに、不穏な空気がまとわりつくのがわかる。ねっとりとした嫌な気配は、まるでその全てを絡め取ろうとでもしているかのように、三人を襲っていた。
「さすがの俺様も、こいつは気味が悪りぃぜ」
どうやら肌でその違和感を感じ取っているらしい伊之助が、晒された肌をさすりながら珍しく弱気な声で呟く。
「分かるの遅いわ……けど、ちょっとほっとしたかも」
相変わらず炭治郎にしがみつきながら、善逸は伊之助の方へちらりと視線を向けて弱々しく笑った。
善逸に続いて伊之助まですっかり静かになってしまい、三人は無言でゆっくりと廊下を進んでいく。その足取りに合わせて鳴る床の軋む音は、相変わらず気味悪く響いた。
いつもは感じないような反響の音すら感じられるように思えて、三人の背筋にぞわりとした何かが走る。幾度も幾度も嫌な気配が、彼らのことを襲っては誰からともなく廊下の真ん中で立ち止まり、しばらく立ち尽くしてからまた歩く、その繰り返しだった。
どれほどそれを繰り返した頃だろうか。善逸が突然、小さな悲鳴と共に耳を塞ぎながらその場にしゃがみこんだ。
「おい」
「どうしたんだ、善逸」
しかし、善逸はきつくきつくその耳を塞いで震えている。炭治郎達に分かることと言えば、彼にしか聴こえないような気味の悪い音が届いたのだろうということのみだ。
「赤ん坊の、笑い声がする……」
当然ながら炭治郎にも伊之助にも、そんな声は聞こえてこない。まして、この屋敷には赤ん坊はいないのだ。聞こえてくるはずなどない、だが善逸にはそれが聴こえている。
これはいよいよ、とんでもないことになってきていると炭治郎も伊之助も痛感しながら、ごくりと唾をのんだ。
震え、そして怯え切った善逸を連れ、なんとか廊下を進んでいく。得体の知れない気配に近づくほどに分かる、善逸の言葉に嘘がないということが。
はっきりとではないにせよ、遠くの方から赤ん坊の声、そしてはしゃぐ子供の笑い声が聞こえてくる。ぼんやりとしていて幻聴なのではと考えずにはいられないが、三人が同様の音を聞く幻聴というのは、どうにも現実的ではない。
――けらけらけらけら
子供達の笑い声が、不規則に響いてくる。ついには三人、それぞれの耳に惜しみなく届いてしまうようになった声に、炭治郎はギョッとした様子で黙りこくり、伊之助も慣れない感覚にまるで小動物のようにきょろきょろと辺りを見回していた。善逸もまた伊之助と同じくさながら小動物、という極度の緊張を感じさせるが、取り立てて彼が怯え切っているといった様相だ。
――きゃっきゃっ、けらけらけら
笑う声は大きく、そして増えていく。異世界へと誘おうとでもしているような、そんな不気味さがそこにはあった。
――ねぇ、そこの、――のおにいちゃん
途切れ途切れに声がする。笑い声たちとはまた違ったもので、どこか浮世離れしたように感じられるこえは、呼び掛けてくることをやめない。
次の瞬間に、再び善逸が膝から崩れ落ちた。彼の纏う雰囲気が明らかに変わる。
「善逸……?」
呼び掛けても、応えることはない。これまでのことが嘘のようにすっくと震えもなく立ち上がると、そのまま廊下を歩き出した。
「おい! 待て!」
伊之助の怒鳴る声に振り返った善逸は、眠りに落ちた状態でその双眸は閉じられている。
「……呼んでる」
ぼそりと呟くと、善逸は再び歩きはじめる。炭治郎も伊之助も黙って、そんな善逸を追いかけることしか出来なかった。
善逸を先頭にして、たどり着いたのは中庭だ。ぽっかりと穴の開いたような小さな庭には、大きな樹が一本だけそびえ立っている。
その樹の下には、何者かの気配があった。
「何だこれ、気持ち悪りぃ」
「この、匂いは……?」
伊之助はその感覚に慄き、炭治郎は得体の知れぬものが嗅覚を刺激する状況に、首を傾げるほかない。善逸は、相変わらず眠ったまま真っ直ぐに樹の根元へと歩いていく。
「善逸、どうしたんだ?」
「その子に呼ばれた」
善逸の言葉に表される“その子”はどこにもいない。この場には人の姿は三人、炭治郎と伊之助そして善逸のみだ。気配はあるが存在のない四人目が、善逸曰くいるらしいがそれは確認のしようがなかった。
「誰か、いるのか?」
「いる」
「見えねぇ……けど、気配はあるな」
気配が揺れる。そこには確かに、何者かがいた。
「……大丈夫、もう、怖くないよ」
善逸の慈愛に満ちた声が響く。すると揺れた気配は和らいで、先ほどまでどこからか聴こえてきていた赤ん坊の声やたくさんの子供たちの笑い声が、あっという間に薄れて消えた。
「終わった、のか?」
「多分……ふがっ……え、俺、何でこんなとこいるの?」
「戻ったな、弱逸」
「誰が弱逸だよ!」
いつもの調子に戻った善逸が、伊之助に思い切りよくつっこみを入れる。いつの間にか、不気味な気配をなくしていつもの様子を取り戻した屋敷に、ほっと胸を撫で下ろさずにはいられなかった。
――、――。
ふと、善逸が目の前の樹を仰ぎ見る。鮮やかに青々と生い茂る葉が、風に吹かれて揺れた。
「良かったねぇ」
ぽつりと炭治郎と伊之助には聞こえないような小さな声で呟く。ふわりと微笑み見上げた善逸に、まるで応えるように樹が風にそよいだ。
