それは何の変哲もない、ある日のことだった。善逸は待ち合わせのために外出したのだが、早く着きすぎてしまって文字通り手持ち無沙汰だ。
待ち合わせの場所で待ち続けるには、あまりにも早く周りをぐるりと歩いて時間を潰そうと考えた彼は、手元の時計を確認しながら歩き始める。
街は活気に満ちていて、往来は人で溢れていた。屋根の下に続く商店街を、目的地を決めずにふらりと巡る。
今日は何をしようか、どこへ行こうか。想像力を働かせながら、近場を回っていく。その周辺は遊び慣れていて、いわば庭のようなものだ。
そんな馴染みの道のうちの一本、何の変哲もない道を曲がった時のことだった。
ザザ、とまるでノイズのような音が耳につく。あたりの様子は変わらない。多くの人の往来が自然と行われている、商店街の道のひとつ。それ以上でもそれ以下でもなかった。
そうであるにも関わらず、音だけが不鮮明だった。だが、音楽を聴きながら歩いている善逸にとってその問題は、手持ちの機器の故障の可能性を意味する。
(え、マジで……このタイミングで壊れる?)
衝撃を受けながら、再生していた音楽を停止した。
ザザ、とやはりノイズのような音が耳につく。おかしい、音楽は止めたはずなのに。雑踏のざわめきが途切れるような感覚は、善逸の背筋にぞわりと嫌な予感を走らせる。
恐る恐る善逸は、この音の真偽を確かめるべく耳につけていたイヤホンを外した。閉塞されていた耳が解放されるような、そんな感覚に続いて再び音の途切れる感覚がある。
つまるところ、今の行動に意味はなかった。直接、善逸の耳に届く音そのものが異変をきたしてしまっていたのだから。
(何これ、何これ……! どういうこと、俺死ぬの……?)
途端に不安が押し寄せてくる。経験したこともない恐怖が襲いかかってきて、善逸は全身冷や汗まみれになりながら、視線を右往左往させた。
それでも彼の目に映る往来の人々の様子が、何か変わるわけではもちろんない。それがまた善逸には、どうしようもなくもどかしく思えた。
この場所に、この道にいてはいけない。善逸は焦り、走る。しかしノイズのような音が消えることはなく、寧ろ増していく一方的でそれは恐怖となり善逸の心の焼きついて離れない。
それでも、逃げなければと善逸は走る。足を止めたその瞬間だった。視界から雑踏が遠ざかる。視線の先にある道の奥に、真っ黒な影だけがあった。
(何……? 何なの? あれ……)
ただ真っ黒なシルエット。本当にそれだけの人影だった。何かが焼けたような、焦げ臭匂いが鼻をつく。
真っ黒なそれはゆっくり、ゆっくり、移動を始めた。ゆらり、ゆらりと揺れながら。
それは覚束ない足取りの人間のように思えて、そんな影がどうしようもなく善逸に恐怖の感情を刻んだ。
善逸は影を背にしてきた道を戻る。転がるように、ひたすらに、必死に駆けた。何度もよろめき、こけてしまいそうになるのを堪えて、ようやっと道を抜ける。
するとノイズのような音は消え、嘘のように活気に満ちた往来だけがそこにはあった。焦げ臭いももうすでになく、善逸の前に広がっているのはいつも通りの、よく知る商店街の姿だ。
「善逸……?」
背後から自身の名を呼ぶ声に、瞳に少し涙が滲む。振り返ってみればそこには、待ち合わせをしていた相手である炭治郎の姿があった。
「たんじろぉ」
「どうしたんだ、何かあったのか?」
「聞いてくれよぉ」
涙ぐみながら善逸が口を開き、事の顛末を語り始める。彼は無事に戻れたのだ。
彼の歩いた道沿いには、かつて大きな建物で火事が起こり、多くの人が被害にあったという。
影はその時の、苦しんだ人々が助けを求めた姿――だったのかも知れない。
