今日という日は特別だ。きっと特別な日になるのだ。
日が沈んでから、時間はそれなりに経過していた。すっかり闇が支配する頃合いだが、人工の灯火の気配はあちこちから溢れている。
人々の営みの色濃く感じられる街並みには見向きもせず、ただその道をひた走る青年の姿があった。
見るからに真面目という印象が先に立つ面持ちに、ぴしりと着こなされたスーツが様になっている。
彼は名を竈門炭治郎といった。炭治郎はひたすらに足を止めることなく道を走り続けている。その理由は義父より、大事な話があるから早く帰って来るようにと仰せつかったからに他ならない。
炭治郎は孤児だ。とはいっても生まれて間もなく施設へと預けられ、物心つく前には今の家に引き取られていたため、これといって不自由や親がいないという寂しさなどは感じたことはなかった。
炭治郎を引き取った家は、本当によくしてくれた。不自由も寂しさも取り立てて感じなかったというところに、それが裏打ちされていると言える。
愛情を受けて、血こそつながっていないが本当の家族にも等しいと炭治郎は心からそう思っていた。
義父は愛情をもちろん炭治郎に注いでくれた人に相違ない。しかし同時に、強く大きな影響力のある人物だった。その義父が大事な話がある、とそう言う。これは出来得る限り早く帰宅することが礼儀であろうと、炭治郎はそう考えているところも少なからずあった。
あまりにも必死に走り続けたせいか、髪も服も大きく乱れ、肩で息をするほどすっかり息が上がってしまっている。
それでもその結果は上々なもので、いつもの半分くらいの時間をかけたのみで自宅へとたどり着いた。
頑丈すぎる門構えを正面に、何かの施設なのかと錯覚するほどの警備員たちの姿を横目に見ながら、慣れた手つきで呼び鈴を鳴らす。
すぐに使用人の声が返ってきたかと思うと炭治郎の存在を承知し、堅牢な門がゆっくりと開いた。奥へと歩いていくその足取りは、今までの慌てようがどこ吹く風と言うようなほど、穏やかでともすれば威厳すら感じられる。
ゆっくりと炭治郎は庭を横切り、堂々たる足運びで自宅である家――と言うよりは邸宅と表現すべき佇まいの建物だ――の前までたどり着いた。
再び、今度は次の呼び鈴を鳴らすと、住み込みで働いている使用人が慎ましく扉を開いて、炭治郎を迎える。一見、無用心にも思われるが、この使用人は長年養父のボディガードを兼ねている凄腕といえる人物だった。不測の事態にも即座に対応し、養父の要望を違えることはない。
幼い頃より炭治郎はこの使用人のことを見てきたが、子供であった自身相手ですら、無駄も隙も一切なかったこの人物を心底尊敬するとともに得体の知れなさに恐怖していた。
そんな使用人に出迎えられ、炭治郎はそのまま廊下を奥へ奥へと向かっていく。目指す当然、養父の自室だ。一歩一歩、前に進むたびに踏みしめた床板が軋む。
その音は炭治郎の心を、ずんと重くさせた。
何の話だろうかと考えるだけで、不安な気持ちが膨らんでいく。何も想像が出来ないこの状況には、どうあっても心配が先に立ってしまうというものだ。
それでも立ち止まるわけにはいかない。炭治郎は歩き続ける、ついに一つの部屋の前にたどり着いた。扉の前で立ち止まると、大きく深呼吸を一つする。
よし、とまるで自分を鼓舞するかのように、声を出すとゆっくり右手を前に出して、扉を叩いた。
「炭治郎です」
「入りなさい」
炭治郎の声に養父が応える。その声は荘厳で限りなく重い。ずしり響く声から覚える緊張に、炭治郎は再び大きく息を吐いてから、扉の取っ手にゆっくりと手をかけた。
ゆっくりゆっくり開かれた扉の中には、滲み出る威厳とともに立つ養父の姿と、その隣に見知らぬ青年の姿を認める。
真っ黒なスーツに身を包み、ただ真っ直ぐそこに立つその青年は、美しい金糸の髪を持ち琥珀のような色をした瞳を炭治郎へ向けていた。初めて見る顔であるその人物に言い知れぬ恐怖を感じ、出来るだけ視線を向けないようにして炭治郎は養父に頭を下げた。
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
「いや、かまわんよ」
養父の許しの言葉に炭治郎は、その頭を再び上げる。
「お話がある、とのことでしたが」
「お前を、次の跡目の候補にしようと思う」
――ついに、この日が来てしまった。
炭治郎の引き取られた家は、少々特殊な家柄である。ただ大きな家、ということは当然のようになく、実のところいわゆるヤクザとしてその界隈に名を馳せている家なのだ。
“竈門”という家の名をその筋の者がにすれば、たちまちのうちに震え上がり、そしてひれ伏すとさえ言われるほどの影響力を誇る。
そんなこの家の跡目を、養父は炭治郎に継がせる決断を下した。そもそも、炭治郎が引き取られた理由が、男の子供が生まれなかったということが挙げられるのみというほど、深刻な後継ぎ問題がある。
だが、これは炭治郎としては本来は望まない展開だ。正直なところ、今サラリーマンとして働くことに楽しさや生きがいを感じているというところは大きい。裏社会の一端を垣間見てしまっているところもあって、堅気の社会のあたたかさが炭治郎の心に染みるのだ。
しかしそれと同時に、養父の決めたことには逆らえないということもまた、よく知っていた。この家に置いて養父の権限は絶対なのである。
「……はい」
本来の気持ちとは裏腹な答えを炭治郎は口にした。
「ただし、あくまでも候補に過ぎない。分家のものたちもまたお前と同様の候補を立ててくるだろう。炭治郎、お前は私が指名するということは有力な候補だ。誰よりも身に危険が迫る可能性が高く、そんな機会も多いだろう」
そこまで語り、養父は視線を炭治郎からそばに控える金髪の青年へと移す。青年は身動ぎ一つせず、ただ黙ってその場に在るのみだ。
「これはお前のために雇ったボディーガード、善逸だ」
「よろしくお願いします」
養父より紹介された青年、善逸が初めてその口を開く。少し幼さも感じさせるその声に感情はない。炭治郎はその姿と声に、人並外れた何かを感じ背筋にぞわりと寒気を覚えた。
全く隙のないその様子は、彼がボディーガードという仕事のためだけに生き、そのためだけに生かされてきたことをありありと感じさせる。
「……よろしく」
そうとだけなんとか言葉を返した炭治郎は、次から次へと前進を駆け巡っていく寒気に必死に耐え続けていた。
――この善逸という人は、自分なんかよりもずっとずっと深い闇の中を生きている。
善逸に纏わり付いた闇は、隠し切れないほどに深いものなのだろう。炭治郎の何かを刺激しては恐怖を抱かせる。だが、それでいてどこか寂しげにも思えてしまい、放っては置けない危うさもまた感じていた。
「炭治郎。お前はしばらく今まで通りの仕事をしながら、私の仕事も手伝いなさい。跡目の決まるその時まで、努力を怠らないように」
拒否を認めない断定的な言葉を受けて、炭治郎はただ静かに頷いてそれを受け止めることしか出来ない。
その様子を確認した養父は、下がりなさいと告げて善逸に目配せをする。善逸はその視線を受けて、足を踏み出すと炭治郎の隣に並んだ。そのまま、部屋の扉を開き外へと出て行く炭治郎に続いて、善逸もまた扉を出ていく。
廊下を歩く二人は無言だった。炭治郎は正直なところ、突然つけられることになったボディガードという存在そのものに困惑していたし、善逸の方は全くもって口を開こうというつもりすら感じられない。
しばらく廊下を進む。そのまま炭治郎は、自室へ戻ろうかとも思ったが、自身の胃が唐突に空腹を訴えてきた。
それもそうだ。仕事を終わらせて何かを口にする暇もなく、必死に自宅へと戻り、そのまま養父からの話を聞いていたのだから、腹も減ろうというものだ。
「あの……善逸さん?」
「呼び捨てで問題ありません」
「じゃあ、善逸」
「はい」
「俺は今から食事にしようと思うけれど、善逸はどうする?」
「後でいただきますので、問題ありません。お待ちしていますので、どうぞ食事を済ませてきてください」
炭治郎に対して返答する善逸の言葉は、どこか機械的で感情の機微の一つも感じ取れないほどまでに、淡々と冷たいものだった。
「一緒には、食べないのか」
「はい」
「……そうか」
善逸の頑なに変わらない言動に、炭治郎は見るからにしゅんと落ち込んだ表情する。そうこうしている間に、大きな食卓のある部屋へとたどり着いた。
この家はどこもかしこも、豪華な装飾に大きな部屋、という外からのみならず中側からも邸宅と評するにふさわしい家だ。初めて訪れる人間は、案内なしには即座に迷子になってしまうだろうし、なんなら入り口で立ち往生してしまうかもしれない。
そんな広いこの家の食卓の整えられた部屋には、人が少ない。炭治郎が帰宅する前にほとんどの家人たちが先に各々で食事をとってしまうからだ。
一人での食卓というのは正直、慣れた物でこそあるが、それでもやはりどこか寂しさを感じる。だからこそ、善逸と食事をすることを望んだのだが、それも叶わずいつものように一人の食卓だった。
善逸は言葉の通り、部屋の外で控えていて動こうとはしない。指ひとつ動かないその姿は、まるで人形のようですらあった。
食卓についた炭治郎の目の前には、すぐにあたたかい食事が用意される。水回りを任された使用人が常駐していて、夜食にまで対応してくれる徹底ぶりだった。
出された食事に手をつけながら、炭治郎は何度も何度も善逸の様子を伺うが、やはり微動だにしないその姿には心配すら感じた。
大慌てで食事をかき込んだ炭治郎は、控えていた善逸に早足で駆け寄る。その炭治郎の姿を一瞥してから善逸は、ゆっくりとその身体を動かし始めた。つきつ離れつの距離感を保ちながら、炭治郎の横をついて歩く善逸の姿は、動いているということ以外が、やはり先ほどまでと同様に人形のようにすら思われる。
言葉をかけなければ、一言すら発することのないそのボディーガードは、驚くほどに静かにしかし間違いなく全てに警戒して行動していた。
家の中なのだから、問題はないだろうと炭治郎は高を括っていたが、そういうわけでもないのかもしれない。養父に言い渡された“跡目の候補”という言葉の意味は、炭治郎が思う以上に重たいものだったのではないか。ということを、善逸の存在を通して思い知る。
周りで、信じることができるのは自分自身、そして養父ら家族とボディガードである善逸のみ。使用人すら本来は疑って生きなければならないほどの過酷、それが跡目のを目指す者には必要不可欠なのだろう。
炭治郎はそんなことを考えながら、善逸の方へと視線を向けた。その視線に善逸は、すぐに反応を示してほんの少しだけ首を傾げて見せる。
ほんの少しだが初めて見せた人間らしい行動に、炭治郎は胸がどきりとした。ぶつかった視線からは、ほんの少しだが疑問の色が見える。
何故かまでは分からないが、確かな緊張を感じて炭治郎は立ち止まった。当然のように善逸も立ち止まるが、その表情からは先ほどよりもありありと疑問の色を感じさせる。言葉を発するべく開いた口は、渇ききっていて炭治郎は自分が緊張しているのだと初めて知った。
何に緊張を感じているのか、というのもよく分からない。善逸という人物の存在そのものに対してなのか、それともつい今し方の善逸の様子をみたその意外性にだったのか。
結局、自分自身のことでありながら何一つ分かりはしない一度大きく息を吸ってから、炭治郎は意を決して口を開いた。
「今日は、この後どうするんだ?」
「どう、というと?」
「俺の部屋まで来たあとだよ」
「隣に部屋を用意していただいていますので、そちらで休みます」
「……少し、話をしないか?」
炭治郎の言葉に、善逸はほんの少し驚いたように、心なしか琥珀色の瞳を大きくして驚きをにじませる。
「どう、だろうか」
もう一度確認の言葉を重ねて、善逸の方を見つめる炭治郎の様子は真剣そのものだ。まじまじと見つめられて、善逸はどうしたらいいのか分からない様子でたじろぐ。
「少し……だけなら」
おずおずと答える善逸の様子は、最初の印象と比べてもかなり幼さを感じさせるもので、先に重ねて炭治郎の心臓がどきりと大きく跳ねた。
「そうか! ありがとう!」
新たな表情を見れたことへの喜びを感じて、きらきらと輝いた表情とともに善逸の手を取る。善逸はその行動が想定外だった様子で、すっかりその場で固まってしまっている。
「行こう!」
笑って炭治郎は善逸の手を引き、自室の方へと歩いていく。はじめこそ怖さばかりを感じていた善逸が、人形じみただけの存在ではなくきちんとしたあたたかさを感じる人間であったことを、心から喜ばしく感じた。
弾んだ気持ちは足どりとなって現れる。その軽い足運びは善逸を巻き込んで、炭治郎の自室の前に至るまで続いた。
自室の扉を開け放った炭治郎は、善逸をそのまま部屋の中へと引き入れる。つんのめりながらもなんとか体勢を整え、善逸は部屋の中へと足を踏み入れた。
炭治郎の部屋は、飾り気の全くない質素なものだ。物も少なく、整然と整えられた部屋は、ここで生活している人間がいるという存在感すら希薄だった。
「何もないが、適当に座ってくれ」
まるで友人を自室へ招いたかのような気楽さで、炭治郎は善逸を促す。一方の善逸はどうしたらいいのか分からないといった様子で、視線を右往左往させながら、促されるがままに近くにあった椅子へと、おそるおそる腰をおろした。
炭治郎は嬉しそうに表情を緩めながら、善逸の座る椅子のすぐ近くにあるベッドへと腰掛ける。
「話をしたい、ということでしたが」
「まずそれだ」
「は?」
確認をしようとする善逸の言葉を、炭治郎の主語のない言葉が遮った。訳の分からないままに、反射的に疑問を表す声が善逸の口から吐き出される。
「こういうときくらいは、敬語はやめてほしい」
竈門炭治郎という存在は、善逸にとって予想外、想定外の宝庫だ。考えも及ばないようなことばかりを口にし、驚きに開いた口が塞がらない。
「後は、善逸。君のことを教えてくれ」
「どうしてですか」
言葉を返すこともままならない善逸を置き去りにして、炭治郎は矢継ぎ早に要望を口にした。やっとのことで問い返す善逸の敬語に、露骨に口を尖らせて不快感を露わにする。
「……どうしてだ」
炭治郎のあまりにも分かりやすい不服の表現に、善逸は要望通りに敬語を廃した言葉を口にした。その訂正を受けて、炭治郎は満足げに再び柔らかな表情を浮かべると、問いに応じるべく口を開く。
「自分の背中を預ける人間のことを、何も知らないのは嫌だからな。仕事であり報酬を恐らく父から受けているだろうが、それでも報酬のみだけに止まらない信頼関係を俺は築きたいと心から思っているんだ」
裏側の世界で生きるには、あまりに甘くそして優しさに溢れた言葉だ。炭治郎は絵に描いたように真面目、そして誠実という様子を存分に見せつける。この家の跡目候補には人が良すぎるのではないかと、善逸の目から見ても不安になってしまうほどだ。
それでもその誠実さは、信頼に値すると善逸は即座に判断する。
「……二人きりでいる時だけだからな」
「ああ! それで構わない、承諾してくれてありがとう善逸」
「……俺は、ボディガードとして教育され、その教育の通りに生きてきた。その世界しか知らないし……あんたのように、普通の生活っていうものを送ったこともない」
ついに口を開いた善逸の言葉を、炭治郎は一言一句たりとも聞き逃すまいという決意のもと、ただ静かに耳を澄まし続けた。
「だから、こんな風に自分のことを誰か……ましてや守る対象に話すことは初めてだ。けれどさっきの“自分の背中を預ける人間のことを何も知らないのは嫌だ”というのは、納得できた」
「そうか」
「だから、俺は自分のことをきちんと伝える。……あんたも、俺にあんた自身のことをきちんと伝えろ」
「もちろんだ」
力強く肯定する炭治郎の声に、善逸は薄っすらとだが確かに微笑む。その表情は炭治郎の目には、また輝いて見えて喜びもまたひとしおだった。
「俺は孤児だったんだけれど、物心がつく前にはこの家に引き取られて、本当の家族ではないけれど本当に感謝しているんだ」
口火を切ったのは炭治郎の方だ。その言葉に善逸は聞き入っているが、その表情にはどことなく驚きの色が混ざる。
「お前も孤児なのか」
「……お前、も?」
「俺も孤児だ。孤児院でしばらく生活していて、今のところに引き取られた」
境遇が似ていたとは驚きだ、というのはお互いの表情がありありと物語っていた。
「そうなのか。何だか親近感が湧いたよ」
それからたくさんの言葉を二人は交わす。
例えばそれは自身の生い立ちであったり、例えばそれは身を寄せた場所の話であったり、例えばそれは手掛けてきた仕事のことだったり、彼らの人生の一端を語り合った。
「俺、すごく耳が良いんだよ」
突然そんなことを口にしたのは、善逸だ。
「耳?」
「うん、注意深く音を聴けば大体のことはわかる」
あまりにも唐突な話に炭治郎は、ぽかんと呆けた様子のまま固まったかのように動かない。
「例えば、あんたが嘘ついてるかどうかとかもわかる」
そういって全てを見透かすような目をする善逸には、底のしれなさを感じるばかりだ。
「あんたから嘘の音がしない、誠実で優しい音だ。だから、最初のときに黙っていた」
そう言う善逸の様子には、冗談も遊びも一切ない。これは真剣な偽りのない言葉なのだと言うことが、真っ直ぐに炭治郎に伝わる。
「もし、そうじゃなかったら?」
「そのもし、は無意味な気もするけど……まぁ、あんたの音がもっと猜疑心を掻き立ててくるような音だったら、その場でこの契約を破棄して帰ろうとは思っていたな」
やはり真っ直ぐな言葉を使い、善逸はそう言ってのけた。炭治郎はその迷いのなさに、最初に顔を合わせた時と同様に寒気が全身に走るのを感じる。破棄しようとしていたという言葉に、ほんのりとではあるが重苦しい感情が乗っていたように感じられたのだ。
曲がりになりにも裏社会で名の通った家に雇われているにもかかわらず、信用に足るものかであったり利用価値を見出せないものは容赦なく切り捨てようという、その潔さは一周して狂気が顔をのぞかせているようでもある。
「実際は、今こうしているのが答えだろ」
さらに重ねて善逸はそう言い放った。
「俺はボディガードをされる対象としては、問題ないということで大丈夫、なんだろうか?」
炭治郎は重ね重ね寒気を感じる、その恐怖を疑問の言葉にして口にする。問いかけらたものに善逸は、初めて吹き出した。
「言ったろ、今こうしているのが答えだって」
最初こそ人形めいてすら感じていた善逸の印象は、この数時間の間に様変わりしている。こんなにも可愛げを感じさせる青年だとは、ついぞ思わなかった。
「そろそろ今日は終わりにしよう。明日に響いてはよくないだろ?」
善逸はそう口にすると同時に、椅子から立ち上がる。まさしくお開きの合図だった。
朝の光が窓から差し込む。光の眩しさに炭治郎は、一度薄っすらと開いた双眸を再び閉ざしてしまった。珍しくあおるように飲んでしまった酒が効いている。机の上には携帯用の灰皿とタバコの吸殻も残っていた。
善逸が隣の部屋へと帰って行った後、すっかり目が冴えて眠れなくなってしまった炭治郎は、人前では嗜まないこれらをまるで自身を罰するように摂取していたのだ。
これは時折、ままならない感じた時やどうにも発散しきれないものがある時だけ行う、いわば逃避だった。昨晩は些かそれが過ぎたらしく、炭治郎の身体で重さと億劫さに姿を変えて彼の足を引っ張る。
それでも容赦なく、目覚まし時計が起床の時間を告げた。これは起きない訳にはいかない。
いつもと変わらぬ日常を過ごすようにというのは、養父にも昨晩に厳命されたばかりだ。そうでなくとも日々の仕事にやりがいを見出している炭治郎にとって、睡眠を貪るという欲望を選択することは有り得ないことだった。
ベッドの上で上半身だけ起こすと、昨晩に善逸が腰を下ろしていた椅子が視界に入る。
この睡眠を含めても半日程度で、炭治郎を取り巻く状況は劇的に変貌を遂げたのだということを改めて痛感していた。善逸はまさにその変貌の象徴とも言えたからだ。
大きく伸びをしながら深呼吸をひとつして、背筋を正す。今日から、昨日までとは圧倒的なまでに全く違う日々が始まるのだと、そんな実感の伴わない思いを胸に抱きながら、炭治郎はベッドから立ち上がると、重たい身体を引きずって身支度を始めた。
半ば気合で身支度を整えた炭治郎が部屋を出ると、そこにはすでに善逸が準備万端で立っていた。
「おはよう、善逸」
「おはようございます」
一瞬しかめっ面を浮かべた炭治郎だったが、すぐにその表情を整える。昨晩、善逸が口にしていた二人きりのときだけ、というのは不特定多数の目に晒されない状況、という意味だったらしい。
だが昨晩の会話を経て、少なからず琥珀色の瞳からは感情を読み取れるようになっていて、炭治郎は内心で拳を握りたくなるほどの喜びを噛み締めていた。
今日も善逸は真っ黒なスーツに身を包み、やはりぴんと背筋の伸びた姿は絵になるほどの美麗さがある。思わず見惚れてしまいそうになる自分を律しながら、炭治郎は朝食をとるべく廊下を歩いて行き、善逸も半歩ほど後ろから付き従っていた。
昨晩と同じように炭治郎が食事をとるなか、善逸は少し離れた場所に控えていて、食事を終えればまた付き従って歩く。彼らの間に表立った会話はない。
しかし二人の視線は雄弁に語る。それはまるで、数年来の親友同士でもあるかのような姿で、一晩にして関係性が全く別物へと変わっていることは間違い無かった。
職場の近くまでやってくると、炭治郎が善逸の方をちらりと見遣る。
「この後、俺は仕事だけど……」
聞こえるか聞こえないかというような、小さな声で声をかけた。
「大丈夫です、目立たないように控えていますので」
奇妙なまでに頼れるこの言葉は、確かに善逸が近くにいてくれるのだろうなと、確証がなくとも絶対的な信頼を向けるに十分すぎるものだ。
「じゃあ、頼むよ」
「はい」
その淡白なやりとりを最後に、二人は別々に歩き始める。炭治郎は慣れた道を進んでいくが、どうにも景色が変わって見えるのは、自身が抱く心象の差なのだろうか。
「おはよ、竈門」
炭治郎に声をかけたのは、同期のうちの一人だ。
「おはよう」
受け答えする声も表情も、人当たりよく爽やかなもので、声をかけてきた同期もまたにこやかな表情と共に通り過ぎていく。
それから、炭治郎は同期だけでなく先輩や上司たち、後輩からも声をかけられて一人一人に対して爽やか且つ人当たりよく応じた。
そう言った様子は、炭治郎の日頃の実直な行いがものを言っていると称しても差し支えのないものだ。その正直さが功を奏して、同期の中でも取り立てて良い成績を残し続けていることもまた、強く影響していることではあろうが、不可思議に思えるほどに炭治郎の近く長く留まる者はいない。
実は会社内で、まことしやかに囁かれている噂がある。それは炭治郎が、得体の知れぬ人物で有り、本性は冷酷にして残虐だとまでいう話すら存在しているのだ。
もちろんどれもこれも、全く持ってして偽りである。炭治郎は嘘がつけないほどに正直者であるし、自分よりも人の心配ばかりが先に立ってしまうようなくらいなのだ。
何故こんな噂が流れてしまっているのか。それは一重に炭治郎が、堅気の者とは異なる世界とつながる家に住うからだということが大いに影響していると言えるだろう。
知らないうちに少し浮いてしまっていて、どこにもいまひとつ馴染めないまま、炭治郎は日々を過ごしていた。
炭治郎自身も、引き取られた家のことを鑑みれば、あまり深く人と付き合いを持つことも憚られると感じて、どことなく距離を保っているところもある。それもまたこの中途半端な状況に拍車をかけているとも言えるが、こればかりはどうすることも出来なかった。
職場に到着すると、いつもと変わらない日々が始まる。ルーチンワークというやつを、ひたすらにこなしながら、多くの人々とコミュニケーションをとり、仕事をこなしていくこの感覚が炭治郎はとても好きだ。この瞬間にありふれた日常が、たまらなく愛しく感じられる。
昼を超えて、また同様の時間を過ごしていく中で、平和に時間は過ぎていった。
外出の予定のため職場から外へと出ていくと、善逸がどこからともなく姿を表す。
「問題はありません」
「うん、ありがとう」
短い言葉を交わしてから、炭治郎は速度を変えることなく歩き続け、善逸はその後ろに付き従った。実際、善逸の言葉通り何も問題が起こることもなく、ただ時間が過ぎ去っていく。
炭治郎は黙々と外出に際して与えらた、営業の仕事をこなして言った。人当たりの良さと、人懐っこさを感じさせる話し口は、取引相手に間違いなく好印象を与える。
好意的な関係を構築するにあたり、炭治郎のその人間性はとてつもなく効果的だ。それをいかんなく発揮して、今日もまた全力で仕事をこなした。
その全てを終える頃には、すっかり日は落ちて、あたりは暗闇に包まれている。炭治郎の表情は疲れきったものではあるが、その様子には達成感がにじんでいた。
「……はい。……はい、大丈夫です。では、このまま直帰させていただきます。お疲れ様でした」
電話での会話を終えるのを、善逸は隣で静かに待っている。炭治郎は端末を耳から離すと、善逸に対して小さく微笑みかけた。
「帰ろうか」
「はい」
雑踏の中、炭治郎は善逸に出来る限りはっきりと告げる。目立たないようにと行動しているのだろう善逸は、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せたが、すぐにその表情は淡白なものに戻った。
日の光が刺さなくなり、空には淡月が浮かぶ。街中は店や街頭の灯りに満ち溢れ、眠らない街などという言葉がしっくりくるような姿だ。
炭治郎と善逸はそんな夜の街を歩いている。二人の間に言葉はない。側から見れば彼らが連れ立っているのかどうかすら定かではないほど、なんとも形容し難い微妙な距離を保っていた。
しばらくその状態のままに歩き続けていたが、唐突に炭治郎が立ち止まると、ぐるりと後ろを振り返る。
雑踏のど真ん中で立ち止まる形となり、通り過ぎていく人々は見るからに不愉快そうな顔をしながら、炭治郎たちのことを避けて通り過ぎていった。
炭治郎は凍りついたかのようにそのまま動きを止めている。善逸もまた、何かを感じ取ったらしく、炭治郎と同様に振り返って防御の姿勢をとっていた。
「善逸」
「明らかな殺気です」
善逸の口から出た“殺気”という言葉に、炭治郎は再び凍りつく。今この瞬間、確かに世間一般の人間の言うところの非現実がすぐそこまで迫ってきていた。
「ここでは人が多すぎます」
「わかった」
状況を変えなければならない。こんな街中で平和な日常を壊すわけにはいかなかった。
炭治郎たちはもう一度、向き直るとこれまでとは逆で善逸が先導して歩く形で、早足にそのばから移動を始める。
善逸は何度も炭治郎の方を振り返り、目配せをしては少しずつ道を移動していった。いつもは通らないようなその道は、大通りよりも人は少なくとも往来が決してなくなることはない人目の少なからずある所だ。
堅気の者ではない以上、人目に触れない場所を好むと踏んだ上での判断だった。
正直なところ、炭治郎は不安で不安でたまらない。善逸を信用していないわけでは決してなかったが、この選択について正解なのかどうかがやはり疑問だったのだ。
「これでいいのか……?」
不安のあまり、炭治郎はつい善逸に尋ねてします。その言葉を善逸は手で制し、その視線が炭治郎を真っ直ぐ射抜くように強い意志とともに向けられた。
不思議なもので、この視線は炭治郎を一瞬にして落ち着かせる。善逸の視線から感じられた、守るという強い意志が炭治郎を支えた。
「ちっ……聴こえてるっての……このままここにいてください」
善逸は突然、顔をしかめると舌打ちをひとつ苛立ちを感じさせる表情ととともにうつ。そして炭治郎に対して、動かないようにのみいい服めた直後に力強く地面を蹴った。真っ直ぐ、まるでロケットエンジンをブーストでもさせたのというくらいの勢いで移動する。跳ぶという表現がぴったりくる移動動作の後、次には炭治郎の耳にもはっきり聞こえるような重たい打撃音と、低い呻き声が同時に響いた。
次の瞬間には炭治郎の隣に善逸が戻ってきていて、息ひとつ荒げもしない。全ては終わったように思えたが、善逸は全く警戒を解いてはいなかった。
炭治郎はじっと、その場であたりに気を配る。よくよく気配を探ってみれば、なるほど確かにまだ何者かが潜んでいるようだった。
養父に稀な話ではあったが、人の気配や殺気に関してあとは少なからず護身術の手ほどきを受けたことがある。それはこの時のためのものだったのだ、などと妙に炭治郎の感覚は俯瞰気味だった。日常から一瞬にして非日常に迷い込んでしまったことが、自身のおかれることになった状況を示している。望む望まぬに関わらず非日常は、昨日の晩のあの瞬間からいつでも炭治郎に牙を剥くようになってしまったのだ。
そんなことを考える炭治郎は、決して緊張感をなくしているわけではなかったが、どこか間の抜けた呆けているようなところがあった。それはほんの一瞬でも油断となって、敵へと伝わる。
炭治郎の肌に、一瞬だけだが風が当たった。それはなにかが勢いよく通り過ぎたような、そんな真っ直ぐな風だ。
「……っ!」
何が起きているのか、わからない。炭治郎の目の前で、善逸が身を挺して何かを阻んでいるということだけはわかる。
そしてその阻んだ何かを掴むと、美しいこの軌跡とともに鮮やかにそれを背負い投げて、地面へと叩きつけた。どんと音がするほどに激しく地面へと叩きつけられ、それからは蛙が潰れたような声が吐き出される。
動きを完全に停止したそれを、足蹴にしてから善逸は炭治郎の無事を改めて確認していた。
目の前の善逸の姿に炭治郎はただただ息を飲むばかりだ。養父に雇われたボディーガードは、まごうことなく一流の人物だった。
こんなにもすごい人物が自分を守ってくれるという事実は、当然彼の仕事なのだが驚きを通り越して感動的ですらある。
「お怪我はありませんか」
「大丈夫」
見るまでもなく当然だ。それでも確認を怠らず、炭治郎の声を受けてようやく一息ついた。この場は、善逸によって伸された二人の敵対者の存在以外、すっかり日常へとその景色を戻す。
「帰ろうか」
炭治郎の言葉に、善逸は静かにひとつ頷いた。善逸は端末で何かを操作した後、この一連の襲撃が始まる前と同じように炭治郎の半歩後ろをついていく。
まだその場を離れ切る前の二人の背後では、何か事後処理のようなことが始まっていた。善逸の行動はこのためのものだったのだが、やはり裏社会に通ずるものとして先の出来事を表沙汰にするわけにはいかない。その対処もまた必要な処理であり、堅気の世の中への礼儀でもあった。
慣れた動作で、いつもと変わらない冷たさと堅牢さをたたえた我が家へと炭治郎は足を踏み入れる。当然のごとく後に続くのは善逸だ。
まだ炭治郎と善逸が初めて顔を合わせてから、たった一日程度だったが状況は激変していた。こんなにもあからさまな変貌を遂げるとは夢にも思っていなかった炭治郎は、困惑というよりは混乱している。
しかしそれは現状に順応できずに、と言った類のものではなく先に見せられた非日常に身を置く善逸の美しさnすっかり虜になってしまっているというところにだった。
良識的な自身が押し止めようとする狂気にも似た想いは、冷静さを取り戻すほどに深く濃く刻まれて消せそうにない。こんな歪この上ない自分のことを、炭治郎はこの時この瞬間まで知りもしなかった。
すっかりこの非日常と、その象徴のような存在となっている善逸に、魅せられてしまっていたのだ。
我ながら可笑しい話だ、と炭治郎は思う。日常を好み生きてきたはずが、こんなにも非日常を、世の裏側を求めていたのだと知って堪らず自嘲した。
頭の中はそんな考えばかりが巡っていようとも、足取りだけはしっかりといつものように玄関先まで到着する。半歩後ろを相変わらず付き従う善逸は、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。しかし炭治郎の自嘲する顔が見えないように、善逸のその訝しげな顔もまた見られることはない。
お互いの意図や思いを承知することはなく、その場で二人がほんの少しだけ立ち尽くす。そしていつもと同じく開かれた玄関の奥には、やはり馴染みの使用人の顔があった、歴戦の手練れでもある彼は、炭治郎と善逸を一目見ただけで全てを察したらしかった。
「ご報告は必要ですか?」
迎え入れる挨拶よりも先に、こう尋ねてきたからだ。表情は変わりなく冷静さを感じさせるもので、さすがの貫禄だった。
「すでに対応済みです、問題ありません」
炭治郎よりも先に善逸がキッパリとその問いに応じる。いきましょう、そう誘う善逸に炭治郎は頷いて歩き始めた。
見送る使用人は、喜びに少しの悲しさ――いや、寂しさだろうか――の混ざった、そんな複雑な心を映したような表情だ。
使用人の視線を背にして歩く二人は、ずんずんと広い廊下を進んでいく。食事が必要だと考え、立ち止まった善逸のその腕を掴んで引くと、炭治郎は無言のままでまだ老化を進んだ。
困惑し狼狽すらする善逸の呼び声を一切無視して、炭治郎は自室の前までやってきた。そして目を白黒させている善逸を自室の中へと強引に引き込む。
引く手を振り払うことも、それ以外の対処も容易だったはずだ。しかしそれをしなかったのは、おそらく炭治郎が今の主人だからなのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
それがどうにも歯痒く、息苦しくも感じられて炭治郎はその表情を曇らせた。
「どうかしま……した?」
炭治郎の表情を覗き込む善逸の瞳は、ほんの少しではあるが不安に揺れている。敬語を口にしようとして、中途半端な言葉が妙にお上品に思えてつい吹き出してしまった。
「心配してるんだけど」
気分を害したようで、そこはかとなく膨れっ面にも見える不機嫌な顔は、少し気を許してきたらしく昨日とは打って変わって炭治郎同世代の青年であることを感じさせる。
「ごめんごめん、つい。心配してくれてありがとう、大したことじゃないんだ」
応えながらもなお笑いの止まらない炭治郎に、善逸は再び不愉快だと言わんばかりの表情を向けたが、すぐにその表情も消えてししまった。
「食事はしなくていいのか? 疲れているなら、俺はいない方が……」
「ここにいてくれ」
善逸の心配から向けられる言葉を遮って、炭治郎は希望を告げる。切実にそして真剣に見つめる炭治郎の様子に、先程のような冗談の気配は全く感じられない。
「わかった。食事は?」
「今は食べられそうにない」
「じゃあ、水分だけでも……」
提案に次ぐ提案を重ねようとした善逸の言葉がぴたりと止まる。絶句というその状況を作り出していたのは炭治郎だ。
唐突に善逸の腕を引いたかと思えば、そのまま抱きしめていたのである。
「は……? な……」
「少しだけ、このままでいさせて欲しい」
それは甘えと我儘だった。主人に逆らうことはないというそんな甘えと、ほんの少しだけ、この非現実の象徴を面の世界へ止め置きたい、そんな我儘だ。
案の定、善逸は炭治郎を拒絶することはない。困惑し切ったその様子は、申し訳なさを感じるほどあからさまなものだ。
「音を聴いても、いろんなものが混ざり合っていてよく分からない……けど、あんたに悪気がないのは分かる」
言葉の通り、確かに悪気は微塵もない。ただそれ故に、盲目的に信じてくれる善逸に対して、少なからず罪悪感が募る。
「ごめんな、善逸を困らせてしまった」
そっと身体を離しながら、炭治郎は己の我儘を詫びた。その言葉に善逸は大きく首を横に振ってこたえると、これで少しは落ち着いたかと尋ねる。
言われてみて改めて気付かされた。そう、落ち着きのない行動だ。思えば、襲撃を受けたあの瞬間から、落ち着きなど全くなかった。
ただそれはどこか高揚感にも似ていて、炭治郎は自身に対して若干の嫌悪感を抱かずにはいられない。
「ありがとう、大分マシに……」
「嘘だな」
容赦のない言葉が飛んだ。耳の良い善逸の前では、体裁を繕う言葉自体が全く以て無意味だった。
「遮ってごめん。けど、ああいうのがあった後だから余計……嘘はついてほしくない」
これはボディーガードとしてではなく、善逸という人間個人としての気持ちだ。
「まだ、昨日初めて会ったばかりだけど……あんたみたな音は今まで聴いたことがないんだよ。その音を曇らせてまでするようなことは、出来ればやめてほしいって思う……いや、今のは押し付けだな。ごめん。忘れて……」
「違う」
「え?」
今度は炭治郎が善逸の言葉を遮る。下を向いていて、先の騒動ですっかり乱れてしまった髪の毛も手伝って表情は全くうかがえない。
「確かに嘘はついていた、そこについてはすまない」
そう切り出した炭治郎は、絵に描いたように真面目で、四角四面という言葉ああまりにもしっくりきすぎる。そんな様子でありながらも、表情にくっきりと浮かぶのは苦悶の色だった。
「でも、善逸が言ってくれるようなそんな良い奴じゃないよ。今日のことにしたって、恐怖より先に今までになかった出来事を楽しんでいる自分がいた。そんな俺が普通なはずも、優しいはずもない」
苦しげな面持ちは、下を向いたままで有るため相変わらずはっきりとは見えないが、声色と肩を震わす様子からはそれが手に取るように分かる。
「怖い、のか?」
少なくとも善逸の耳に届く音はそう告げていた。
「そう……なのかも知れない」
応える炭治郎は、項垂れたままだ。自分でもよく分からない想いに、炭治郎はすっかり振り回されている。すっかり滅茶苦茶になってしまったその感情は、善逸の耳にもはっきりと届いていた。
「よく分からないんだ。今の自分のことが、今までの自分のことが、分からない」
「無理に結論を出さなくても良いと思うよ」
困惑に次ぐ困惑で、炭治郎は悶々と頭を抱える。そんな姿を見て善逸は、ゆっくりと言葉を選びながら話をはじめた。
「急に状況が変わったんだからさ、驚くってのが当然なんじゃないか? まぁ、俺はそういう普通って知らずに生きてきたけどな」
幾分かくだけた口調も相まって、善逸の言葉は炭治郎の胸の内にすとんと落ちていく。
「そのままでいい。あんたの思う通りにさ、やってもいいと思うぜ」
そこまで口にして、善逸は少しその口角を上げた。満面の笑み、というには程遠いがそれはこれまでの中で最も感情のあらわれた表情のように見える。
「ありがとう、善逸」
やっと項垂れていた頭を上げた炭治郎が、弱々しくながらも善逸に返すが、それはどうしようもなく頼りなげだ。
そんな炭治郎の姿に肩をすくめながら、ポンと軽く頭を撫でてやる。予想だにしなかった善逸の行動に、炭治郎はあたふたと落ち着かない様子を見せた。
「この部屋から出たら、気を張ってなきゃいけないんだからさ……今くらいは自分に正直になっとけよな」
きっと、これが日常になっていくんだなと、炭治郎はふとそう感じて、一気に気持ちが楽になっていくのを感じる。一人で背負おうとしていたものを、そっと支えてもらっているようなそんな感覚だった。
翌日が訪れて、やはり変わり映えのしない今までと変わらぬ一日のように錯覚する。
それでも炭治郎は知っている、これは仮初の姿なのだ。昨晩、善逸になんとか心を支えてもらって、前日の朝と変わらぬ振る舞いを出来ている。
自分の元にやってきたボディーガードが善逸で良かったと、心底思っていた。その善逸はまた、一日仕事をこなす炭治郎を近からず遠からずの場所から守っている。姿は見えずとも、感じる気配は炭治郎を安心させた。
また夜がやってくる。それを意識するだけで、なんとも形容し難い何かが炭治郎の中で膨らんだ。
――きっとまた、何かが起きる。
そんな予感がした。善逸もそれを感じているらしく、気配がぴりりと緊張を帯びている。
炭治郎と善逸は街中を歩きつつその視線を交わし、前日と同じく大通りを避けていくが、今回はいわゆる裏路地へと分け入った。
善逸曰く、得意の投げと足技については狭い場所の方が活かしやすいのだ。そして、広い場所だと対処が遅れる可能性を示唆し、不安げな表情を見せていたのは昨晩のことだった。
ならばと勝手を知った裏路地へと入り込むことを選択したというわけなのだが、今回は前回以上に多くの人間がいる。
見るからに街のゴロツキ、チンピラという表現が似合う彼らは、恐らく金で雇われただけの者だ。
二人はあっという間に、今にも襲い掛からんとしている人間たちに取り囲まれてしまう。
「これはさすがにヤバい、か?」
善逸が自身に問いかけながら、乾いた笑いを浮かべた。しかし、その瞳は決して諦めのそれではなく、はっきりと戦意を光らせている。
「護身術は使えますか」
「一通りは習っているよ」
「なら、できる限りこの場で防御に徹してください」
「わかった」
炭治郎の承知の言葉を聞くや否や、善逸はまるで躍り出るようにその場を飛び出した。
裏路地のほぼ暗闇の中、ぽつんと立つ街灯に時々照らされて映し出される善逸の姿は、灯りに金髪が煌めいていて、状況に対しては不謹慎であるがとてつもなく美しい。
正面に飛んで、ひと蹴りのうちに数人を倒れ伏せさせると、地面に降り立ち襲い来る者へ容赦なく回し蹴りを炸裂させる。
一撃のうちに気を失った人間が折り重なり、その姿は余裕すら感じさせた。圧倒的な様子に、襲撃してきたはずの彼らが気圧される。
一方の炭治郎にも当然のごとく襲い来る人間がいる。養父に直接手ほどきを受けた護身術で、攻撃の全てを受け流し善逸の言葉の通り防御に徹していると、目の前の人影が前触れもなく消え失せた。
それは暗闇に乗じて善逸が、その全てを容赦なく蹴り飛ばしてしまっていたからで、その証拠とでも言わんばかりに、壁にしたたか打ち付けられて呻き声が漏れる。
この歴然とした力の差を埋めんとして、次に彼らは手に鋭利な刃物をぎらつかせはじめた。確かにこの純然たる能力さを埋めるには、得物に頼るしかないことはあまりにも明白だ。
手慣れた様子で得物を構え、真っ直ぐ炭治郎の方へと駆けていく彼らを、善逸は片っ端から蹴り伏せていく。自身へと向かってくる者へは背負い投げを見舞い、その衝撃で確実に意識を奪ってしまう。
炭治郎はこの状況を戦々恐々としながら身構えつつ、じっと善逸のことを見つめていた。
やはりの姿は美しく見える。所狭しと動き回り、時には壁を蹴って縦横無尽に相手を圧倒する様子は、炭治郎の目にはまるで踊っているように映った。
あまりの姿に炭治郎の目はすっかり釘づけて、善逸に見惚れてしまう。その隙を、襲撃者が見逃すはずがない。
「お前を殺れば! 死ねぇ!」
ほんの一瞬でも防衛の動作の遅れは、身を守るにあたり命取りだ。炭治郎は、万事休すという状況にも考えを巡らせる。
しかし考えを巡らせたところで、失った一瞬が取り戻せることはない。打開の策を見出せぬまま、炭治郎に鋭利な攻撃が迫る。
「炭治郎っ!」
善逸の悲壮さをも帯びた呼び声が響いた。次の瞬間に炭治郎に襲いかかるはずだった襲撃者に、善逸が渾身の体当たりを見舞う。あまりの速度から繰り出されたそれは、半ば捨て身の攻撃だった。
だがものの見事にその体当たりによって、最後の敵は倒れ伏せる。その上に善逸がバランスを崩して倒れ込んだ。
「善逸!」
殺気と気配がないことを十分に確認し、炭治郎は慌てて善逸へと駆け寄る。
十分とは言えない灯りの下で、善逸はゆっくりと立ち上がった。その動作に違和感はない。
「大丈夫か、善逸。ごめん、俺が気を抜いたばかりに」
「全く……気をつけてくれよな」
確認がてら膝についた汚れを払い、呆れた様子でため息をついた善逸だが、次の瞬間には自分自身に唖然として間の抜けた声を漏らした。
仕事中にも関わらず、つい主人へ向ける言葉を間違ってしまったのだ。
「初めて、名前を呼んでくれたな」
その言葉の通り、炭治郎の名を呼んだこと、それが特に大失態と善逸は認識していた。しかし炭治郎は、そのことを嬉しそうに言う。
「すみません……こんな……」
「今は、いいだろ。今だけ」
深く頭を下げようとした善逸の動きを止めた炭治郎の瞳は、言葉同様に懇願の感情を映している。
「……うん」
肯定の言葉に安堵した様子を見せてから、炭治郎は破顔して次には善逸へと飛びついた。
突然抱きつかれて、善逸はどうしたらいいのか全くわからずに、行き場のなくなった腕を何度も揺らす。
あたりは死屍累々、少なからず襲ってきたものの血すら飛び散っているが、二人の様子はそんなもの存在すら感じさせない。
「また、名前を呼んでくれるか」
「あんたが……炭治郎が望むなら」
「もちろん」
その言葉を呼び水にして、まるで喰らいつくような口づけを交わす。そんなことをする関係性にないことはお互い百も承知していたが、熱を帯びた瞳にまるで吸い寄せられるように何度も何度も獣のように口づけを重ねた。
暗闇に紅が混ざり辺りをそめあげる。ほんの少しの灯りだけが、二人を見ていた。
