閉塞に伝う涙(tnzn)

「俺のものになってくれ」
 炭治郎の声は切実で、そして必死な想いを乗せながら真っ直ぐに善逸へ向けられる。
 気持ちはとても嬉しいものだ。自分と同じ気持ちなのだから。
 しかしそれはいけない、いけないのだ。
「無理だよ、炭治郎」
 善逸は今にも泣き出しそうなほど瞳を潤ませて、明らかな拒絶の言葉を告げる。
「……無理なら、どうしてそんな顔をしているんだ?」
 その問いかけに善逸は、反射的に顔を背けた。
 それは全くその通りだ、実際は目の前にいる炭治郎のことが好きで好きでたまらない。それはきっと表情だけでなく、炭治郎の嗅覚にも如実に伝わっていることだろう。
 だからこそ、これ以上見られてはいけないのだと露骨なまでに善逸は下を向いた。
「こたえてくれ、善逸」
 相も変わらず切実な炭治郎の声が、この場に響く。しかし善逸は応えない。
「お前のことは好きだよ。大事だって思ってるけど、それだけだから」
 顔を上げることなく、吐き捨てるようにそう言うと、善逸は炭治郎の顔を見ることなくその場を立ち去っていく。炭治郎が何度も善逸の名を呼ぶ声が、遠ざかる。
 とうとう一度たりとも振り返ることなく、善逸は屋敷の廊下を抜けた。
 
 
 
 炭治郎に友愛や親愛とは別の情を抱いたのは、いつだったか。気がつけば、恋慕の感情が大きく膨らんでいた。
 善逸はあてがわれた部屋で一人、大きなため息とともに腰を下ろすと、ふと炭治郎への想いに耽る。
 最初は淡い恋心、憧れと羨望にも似た想いだった。それがいつしか、恋慕となり大きく大きくはちきれんばかりの想いとなって、彼自身の身のうちに巣食うようになっていたのだ。そのことを思い出して、善逸の表情は自然と苦虫を潰したように渋いものになっていく。
 いつからだったか、炭治郎には幸せになって欲しいと今までにも増して願うようになっていた。そして、思ったのだ。
 自分のこの恋心は、炭治郎の幸せの妨げになるのではないか、と。
 そう思い至ったときに、善逸はこの想いを誰にも告げることなく墓まで持っていこう、と硬く決意した。鼻の効く炭治郎のことだ、善逸の恋する心には気付いてしまうだろうが、そこは意地でも拒絶するしかないと硬く硬く誓ったのだ。
 先ほどの炭治郎は、驚きや困惑そして不安の全てをありありと感じさせるような様子だった。辛く苦しげなその様子は、善逸の気持ちをも重くさせるものだったが、それで後に引けるという訳でもない。
 ぶんぶんと音が鳴るほど大きく横に頭を振り、鈍りそうになる決意をもう一度奮わせる。自分の抱くこの想いを自覚したときから、誓ったことを無に帰すわけにはいかない。
 はぁ、と重たいため息が善逸の口から溢れた。
 縁側から見上げた空は明るく、そしてあざやかな空だ。その抜けるような青い空に善逸の金の髪は煌めいたが、その様子とは真逆に彼の表情はため息と同様に、重く塞ぎ込んだものだった。
 
 彼の耳は多くを捉える。それは誰かの感情や考えていることを察するにあまりあるほどに、多くの情報を彼にもたらす。
 その音から溢れてくる情報は、炭治郎がが相手であったとしても当然ながら例外ではない。先ほどの炭治郎からは、力強くもいつもよりも速さの増した鼓動と数が増えそして浅さを感じさせる呼吸、それらの音がはっきりと感じられた。嘘のつけない炭治郎の表情や、音とはまた別の正直すぎる様子もあって、彼の想いはきっと自身のそれと同じなのだと察するには充分すぎる。
 それに加えてあの言葉だ。いわゆるひとつの落とし文句、と評するにふさわしいそれに、善逸の心は大きく揺さぶられた。
 だからこそ逃げ出したわけなのだが、これが何の解決を導かないこともまた確かなことで、頭を抱えずにはいられない。
 悶々している善逸の耳に、縁側の床を強く踏みしめる音が届いた。そして、その音を起こしている主が、炭治郎であるということも同時に察してしまう。
(逃げなきゃ……!)
 その想いは無意識に足を動かして、縁側を降りると履物のないことを厭わず中庭へと飛び出して、庭の奥の大きな木の上へとてつもない勢いで登っていった。まるで走るように登った木の上で、善逸は身体を小さく丸める。
 逃げるというと前々から木の上だった。無意識の動作でこそあったが、どうやら知らずのうちに高いところにいる方が安心だと思っているらしい。
 善逸は妙に冷静に自身の動作を分析しながら、炭治郎の近寄ってくる足音に耳をすませた。
 炭治郎の嗅覚はその鋭敏さで、おそらく善逸の居場所を承知することだろう。そのことを想定するだけで、大きなため息を再び吐き出さずにはいられない。
「善逸! そこにいるんだろう!」
 案の定である。
「こたえなくてもいいから、聞いてくれ」
 しかし、炭治郎の言葉は予想外のものだった。
「俺は、これから任務に行く。だから……次に会えたときには話を聞いて欲しいんだ」
 その声に視線を落とすと、木の下に立ち善逸の方を見上げている炭治郎の表情は、きりりと引き締まったものだ。視線が絡まった次の瞬間、炭治郎は微笑んでからくるりと背を向けた。
 迷いない足取りに裏打ちされた足音と、いつも通りの泣きたくなるような優しい音が遠ざかっていく。そのことに安堵とほんの少しの寂しさを抱いた。
 だが炭治郎の言葉に対して、どう返事をすべきかは彼の中で答えをだせぬまま、炭治郎はついに見えなくなる。音も随分遠ざかり、ついには聴こえなくなった。
 
 
 
 あれからどんどんと、日が経っていく。お互いに単独で任務に出ていたり、休息日がまったく噛み合わなかったりと、思った以上に炭治郎と善逸は顔をあわせることが出来ないままだ。
 任務から解放された善逸は、あてがわれた部屋へと戻ると、畳の上に大の字になる。相も変わらず任務をこなしたという記憶も実感もなかった――気を失って、目を覚ませば鬼は退治されているのは何度経験しても、あまりにも不可思議で慣れないものだ――が、それでも今日も生きて戻ってこられた、ということだけは素直に喜ばしい。
 いつかの任務の折に、自身の命の危うさを感じた日も、人の死を目の当たりにした日もある善逸だからこそ、それだけは確かな感情として胸の奥に根付いていた。
 だが、その小さな幸せが崩れるような絶望の音が聴こえた気がして、善逸は弾かれたように上半身を起こす。確実なことは何ひとつない、そのはずなのにどうにも嫌な予感が善逸の頭の中を占めていた。
「善逸さん! いらっしゃいますか!」
 急ぎ廊下を走る足音と、息が上がり焦りをも感じる大声が響く。声の主は、アオイであった。
 いつもは厳しくも礼儀正しい彼女だが、そんな彼女が少々荒っぽい手つきで、善逸にあてがわれた部屋の出入口を開く。
「よかった! すぐにこちらへいらしてください!」
 肩で息をしながらも必死に声を張ると、すぐに踵を返して元来た方へと引き返し始めた。驚くばかりの状況だが、その焦りようから後を追いかけなければならないことだけは理解して、善逸は彼女の後を追う。
 アオイの向かった先は、病室だった。この一帯は個室が集まっている場所である。あたりは消毒液やいろんな薬の匂いが、善逸でも察するほどに色濃く立ちこめていて、否が応でも不安が膨らんだ。
「こちらです」
 アオイがとある一室の扉を開くと、部屋の真ん中に置かれたベッドに人が横たえられている。
 姿を見なくても分かる、そこにいるのは炭治郎だった。いや、本当はこの部屋に近づいた地点でそうなのだろうとは思っていたのだ。この部屋からは弱々しくこそあるが、善逸の好いている炭治郎の音が確かに聴こえていた。
 実際にベッドに寝かされている炭治郎には意識がなく、見えるところだけでも包帯や湿布が目立つ。一層強く感じられる薬の匂いは、拒絶したい思いとは裏腹に炭治郎が重症であろうことを善逸に強く認識させた。
「たんじろ……う?」
 そう呼びかけるのがやっとで、それ以上の言葉が全く続かない。そしてもちろん、炭治郎からの声は返ってこなかった。
「善逸くん」
 部屋の入り口から、しのぶの呼ぶ声が響く。彼女はいつもと変わらぬ静かな様子で、善逸の隣まで歩いてきた。
「炭治郎くんですが、いつ目を覚ますか分からない状況です」
 しのぶは口を開くと、善逸を慮りいつもよりもさらにゆっくりと言葉を紡いだ。
「治療を施せることは全て行ないました。命の危険もまた去った後です、ただ意識ばかりはこちらからは知ることが出来ません」
 淡々と伝えられる言葉は、確かに善逸の耳に届くが全てが素通りしてしまっているような、それほどに何も彼の中には入って来ない状態だった。呆然として、受け入れ難い目の前の状況に、ただただ頭を鈍器で殴られでもしたが如くの衝撃だけが全身を駆け巡る。
「善逸くん?」
 目の前の彼の様子に、しのぶは再びその名を呼ぶが、やはり反応は返ってこない。さらに善逸の名を呼びながら、しのぶは彼の肩を大きく揺すった。
 ようやく、善逸がしのぶの方を見つめて息をのむ。
「落ち着いてください。炭治郎くんは、ちゃんと生きています」
「……はい」
「時間がかかってしまうかも知れませんが、必ず目を覚ましますから。他の方にも現状をお伝えしておきますので、炭治郎くんのことをお願いしますね」
 しのぶは善逸の肩を今度はぽんと叩いて、部屋の外へと歩き出した。善逸はしばらく彼女の背中を見つめていたが、そのあとはしのぶのいなくなったその空間だけを見つめている。
 文字通りの茫然自失、アオイはその場に残っていたが善逸の様子は見るに耐えなかったようで、思わず目を逸らした。
「……何かあったら、呼んでください。すぐに来ますから」
 そうとだけ声をかけると、アオイもまたそっと病室を出て行く。取り残された善逸は、一人ベッドの横に置かれた椅子に腰を下ろして、瞼が閉じられたままの炭治郎をじっと見つめた。
「……何でだよ。話をするんじゃなかったのかよ……」
 発した言葉が呼び水になって、善逸の瞳からは次から次へと大粒の涙がこぼれ落ちる。一度こぼれはじめた涙は止めどなく溢れて、どうしようもない。
 困惑で堰き止められていた感情とともに、一気に流れ出してしまい誰もいないのをいいことに、善逸は大声をあげて泣いた。
 こんなはずではなかった、こんなことになるのならばと、善逸のなかで先日の出来事への後悔の念が膨らむ。後悔しても仕方がないとは分かりきっている、たとえそのようにしていたとしても、この現状がかいひできるわけでもないのだ。それでも後悔せずにはいられない。
 そして、ふと気付く。こんなにも、炭治郎のことを想っていたのだという事実に。
「こんなこと……ある……?」
 泣き腫らし、水分のすっかり失われた喉から、掠れきった声で吐き出した言葉は正しく信じられないという意図を如実に表する言葉だ。善逸自身、驚きとともに自分の抱いてきた感情を思い知ってしまった形となり、それをこの言葉でさらに思い知ってしまったとも言えた。
 自分の口から出た信じられないような声とに一度はぎょっと目を丸くするが、すぐに目の前の炭治郎へと再び視線を移して、その瞼を落としたまま動く気配のない様子を黙って見つめる。
 あらためて見る炭治郎はやはりというべきなのだろうか、とても整った顔立ちをしていた。精悍かつ凛々しい顔立ちは、平時であれば口惜しさすら感じそうなほど整ったものだ。そんな炭治郎の双眸が今にも見開かれるのではと感じるほど、彼は静かにただ眠っているように思えた。
 痛々しい手当ての後はあるが、それ以外は顔色が悪いというわけでもなく、表情はもちろん息遣いひとつまでも乱れのない、そんな様子であることが、善逸に炭治郎の状況をかえって強く実感させる。
 しのぶの言った、いつ目を覚ますかわからないという言葉が、善逸の脳裏に染み付いて離れない。彼女は必ず目を覚ます、と話していたがそんな保証がどこにあるというのだろう。
 確かに、もうすぐ目を覚ますのかもしれない。だがしかし、それは逆に全く目を覚さないままなのかもしれないという、そんな漠然とした不安をも掻き立てた。
 大きいため息が善逸からこぼれる。
「たんじろ……頼むから、早く目を覚ましてくれよ」
 届いているかも分からない懇願の言葉を呟いて、無造作に放り出された炭治郎の手を握ると何度も何度もその手の平を撫でた。
 すると、もう枯れてしまったと思われた涙が再び彼の瞳にたまる。こぼれた涙は善逸の口元をつたい落ちていく、それは悲しみに満ちていてほんのりとしょっぱかった。 
 
 
 
 あれから幾日も経つが、炭治郎のようすは相変わらずだ。毎日、善逸は炭治郎の病室へと通い詰めている。任務があろうともその直前まで病室で過ごしては出かけていくようになった。
 今までよりもさらに深くなった目の下の隈が、善逸の苦悩を感じさせるが誰一人として声をかけることが出来ずにいる。伊之助ですら、今の善逸に声をかけることははばかられる様子で、特に彼の前で炭治郎のことは絶対口にしない。まるで触れることそのものを恐れているような、そんなまるで腫れ物を触るかの如き扱いは、今の善逸にとっては都合が良かった。
 こんな姿を誰かに長い時間見られることは気が引けるところもある、そして何よりいまは誰かと話をしたいとは到底思えないのだ。だからこそ、どんな心境であれ触れずにいてくれることは、善逸にとって大変都合が良いと言えるというわけだった。
 しかし、それにしてもだ。驚くほどに炭治郎の容体は、全くと言って良いほどに変化がない。相変わらず、側から見る分にはまるで眠っているかの様子で、聴こえてくる音だっていつものそれと変わらないものなのである。
 幾日か前と変わったところがあるとすれば、それは炭治郎の側ではなく善逸の側での変化だった。毎日かかさず炭治郎の病室に通いながら、少なからず冷静さを取り戻して泣きじゃくることもなく、ただ黙って甲斐甲斐しく炭治郎の世話を焼く。
 まるでいつもとは真逆の様子に、二人のことを遠くから見知っている程度の人たちからは、気味悪がられてしまうほどだ。すっかり口数が少なくなってしまったことも、その一因として大いに一役買ってしまっていた。
 ただ淡々と日々が過ぎていく。当然、任務に行くのは怖いし嫌だったが、炭治郎がかつて言ってくれた「お前は強い」その言葉を胸に何とか乗り越えていた。
 毎回任務から帰還するたびに、今日こそは、今回こそはという淡い期待とともに炭治郎の病室へと足を運ぶのだが、残念ながら今のところは変わりがない。今度もまた同様の結果であることに善逸は、がっくりとその肩を落として、すっかり定位置となったベッド脇の簡素な椅子へと腰を下ろした。
 自然とその口からは重苦しいため息が落ちる。ため息ばかりつくと幸せが逃げる、というのは誰に聞いた言葉だったか、などと然程気にもかけていないことを思案してみても、その考えはぐるりと回るばかりで、何ひとつ結論を導き出せない。
 どうにもそんな上辺だけの考え事を滑稽に繰り返すことしか出来ず、その有り様にやはり善逸の口からはため息が漏れる。堂々巡り、というやつだった。そして相変わらず炭治郎の手を握っては、手の平をそっと撫でる。
 これはすっかりお決まりとなった炭治郎に対する善逸の行動だった。
 どう見たところで善逸が日に日に疲弊しているのは明白だったが、それを止めることは誰一人として出来ずにいる。それほどに声をかけるまでもなく、明確な拒絶を全身から漂わせていたのだ。これは自身がもうすでに選んだことだという、そんな明確な意思が確かにあった。 
 善逸は、今の自分を炭治郎が見たら何と言うのだろうと、そんなことをおもむろに考える。炭治郎のことだ、無理をしないようにとかちゃんと休むように言うのではなかろうかと、そんな発言を想像してみると奇妙なまでに忠実に彼の声が思い浮かんで、善逸はその口角をほんの少しだけ上に持ち上げた。
 そしてどこかで安堵する。音は記憶から抜け落ちていきやすい、きちんと炭治郎の声を思い出せるということへの安心だった。
 やはり、このまま目を覚まさないのではという、不安ばかりが付き纏う。世の中に必ずや絶対はない、それは善逸が今まで生きてきた中で何度も経験してきた恐怖であり、それはいつも善逸のすぐ後ろに在るものだった。
 それ故に信じるに足る何かがある、ということはまだ信じられる確固たる理由であったし、自分の自身の介在できる余地がまだあるのだとも思える。きっと大丈夫だと、楽天的過ぎるかも知れないなけなしの言葉で、自分を励ますことだって出来るのだ。
「なぁ、炭治郎……聞いてほしいことがさ、俺にも出来たんだよ」
 だから目を覚ましてくれ、そう続けようとしたが善逸は目の前の様子に、息を飲むことしか出来なくなる。
 炭治郎の瞼が小さくだが動いたのだ。そして、薄らとその瞼が上がり、赫灼の瞳が世界を映す。
「ぜん……いつ……」
 途切れながらも発せられたその声に、善逸は幾日ぶりかの涙を流した。
「ごめんな……心配かけて」
 炭治郎は弱々しく笑って、その表情と同様に微かな力ではあれど、確かに善逸が握るその手を握り返す。
「ほんとだよ、お前……」
 握り返された手のあたたかさを確かに感じながら、止まらなくなってしまった涙を流しつつ笑顔を向け返した。
 
 
 
 あれからはすぐまた眠ってしまった炭治郎と話すことはかなわなかったが、その間にしのぶたちに彼のことを話して、皆で喜び合った。善逸もほっと一息つけたわけなのだが、ここで新たな問題が持ち上がる。否、もともとあった問題が再び重要性を増したという方が正しいかもしれない。
 炭治郎を看るなかで、自分の想いをあらためて痛感する日々を送ったわけなのだが、だからといってそれを当人に伝えるかどうかというのは別の問題なのである。
 これまで伝えない、というつもりでいた。今回の出来事はその善逸の決意を根幹から揺るがす、そんな出来事に違いなく再び頭を抱えるという状況を生み出したのだ。
 それでも善逸の足は自然と、炭治郎の病室へと向かう。ここ数日の間にすっかり癖になってしまっていた。
 病室の前で耳を済ませてみれば、寝息は聴こえてこない。それは炭治郎を起こしてしまうこともないが、起きている彼と対峙しなければならないということでもあった。
「善逸?」
 嗅覚に鈍りはないらしい。彼の呼び声に緊張と喜びと解せないという気持ちを入り混じらせながら、善逸はゆっくりと病室の扉を開く。
「よ、炭治郎」
 出来うる限り明るく、つとめていつも通りにと意識した動作は、どこかぎこちなくそして硬さのあるものだった。
 炭治郎はベッドの上で半身を起こしていて、申し訳なさそうに眉を下げながら口を開く。
「昨日はゆっくり話もできなくて……ごめん」
「何でお前が謝るんだよ」
「だって……俺から、帰って来たら話を聞いてくれと頼んでいたのに」
 あまりの生真面目さは、善逸を破顔させるには十分過ぎるもので、そんな炭治郎らしさに吹き出さずにはいられない。
「どうして笑うんだ」
「ごめんごめん、お前って真面目だよなって思ってさ」
 炭治郎は善逸の言に不服極まりない表情を浮かべていたが、口はつぐんでいる。
「炭治郎の言おうとしてたことは、大体わかってる」
「だろうな。それでもちゃんと、俺の口から言葉にして伝えたいと思ったんだ」
「やっぱり、真面目だよな。いや、この場合は頑固の方かも」
「どうしてそんな風に言うんだ」
「ごめんって」
 今までとさして変わりのない言葉の応酬に、お互いの緊張がとけていくのを、嗅覚であるいは聴覚で確かに感じていた。

「正直、恥ずかしいってのはあるんだよね……」
 しばらくの無言の間のあと、口を開いたのは善逸だ。その言葉を受けて腕を組み考え込むようにしていた炭治郎が、決意を固めた強い眼差しを善逸へと向ける。
 これは件の話が始まるだろう、善逸は無意識のうちに身構えた。
「改めて話をさせて欲しい。善逸、お前のことが好きだ」
「知ってる」
「味気がないな」
「そう言われてもなあ」
 炭治郎の真っ直ぐな言葉をいなすように、善逸は飄々と言葉を返し、それに苦笑が返ってくる。
「善逸からは、甘さと硬い決意の匂いを両方感じていたんだ。でも、俺の勘違いじゃなければ……」
「待て待て! 待って!」
 どんどん言葉を紡いでいこうとする炭治郎を、善逸は必死に制した。このまま自分の想いを、彼に告げさせることだけは何としても避けなければならないと、全力で先の言葉を押しとどめる。
「ちゃんと俺から、言わせてくれよ」
「分かった」
 なんとか炭治郎の口を止めることに成功し、善逸は悩みに悩んだが自分の想いをはっきりと伝えるべく、大きく息を吸った。
「俺も炭治郎と同じ気持ちだよ。これまでは絶対伝えないつもりだった」
 そう切り出した善逸の言葉に、炭治郎が食らいつかんばかりの勢いでベッドの横に座る彼に顔を寄せる。
「何故なんだ」
「……お前から聴こえてくる音は、さっき話してくれた気持ちだって分かる、十分過ぎるくらいだった。でもさ、俺としては有り得ないって思うわけよ。だって俺だぜ? 自分じゃ好かれる理由が全く思い当たらないのね」
 不服を口にしようとしている炭治郎を、善逸は再び手で制すると次の言葉を紡ぐために口を開いた。
「あと、俺は……炭治郎には幸せになって欲しいわけ。だからさ、俺じゃなくてもっともっと他の人と、素敵な時間を過ごしてさ……幸せになって欲しいって思うんだよ」
 善逸の歯切れの悪い言葉を受けて、炭治郎は下唇を噛み下を向きながら口を固く結んでいる。その表情を見せないようにと下を向いていたのだろうが、間近にいる以上ありありと炭治郎の感情は耳からもそして視界からも伝わって来た。
 いま、炭治郎は怒りに震えている。それは恐らく自身に対してだろう、善逸は炭治郎とのこれまでの関係性と、これからの関係性の変化を覚悟しながら、発せられるだろう何がしかの言葉をひたすらに待った。
「善逸、どうしてそんな風に言うんだ」
 やっと吐き出された言葉は、抑えられた怒りと疑問の感情が絡み合うものだ。しかそれは、問いただすものというよりは、困惑しているようでもあった。
「俺は、善逸が好きで、お前と一緒にいることが幸せなんだ。それじゃだめなのか?」
 さらに紡がれる言葉は、先のものよりも一段と疑問の色を強く帯びて、善逸への明確な問いかけとなる。
「……そういうことじゃないんだって。きっと俺なんかより、炭治郎に幸せを感じさせてくれる人がいるはずだし……」
「そんな言葉が聞きたいんじゃない!」
 善逸の言葉を遮って向けられた炭治郎の叫びは、あまりにも悲痛なもので善逸は全身が強張るほどに驚きに震えた。
「俺が知りたいのは善逸の気持ちだ。さっき、好きだと話してくれた……お前がどうしたいのか、それを知りたいんだ」
「だめだって、そんなこと言うなよぉ……」
 あまりにも強く、そして熱い炭治郎の言葉に、善逸の固く誓ったはずの決意が揺らぐ。訴えかけられる言葉に、意識が引きずられそうになっているのがよく分かった。
 その瞳からは我慢ならなかったと言わんばかりに、涙が溜まる。
「ごめんな、泣かないでくれ。でも、あまりにも音と言葉が違いすぎて、俺も戸惑っていて……善逸の本心を教えて欲しいんだ」
 頼む、そう懇願するように炭治郎は言ってから、涙こそ見せないが彼もまた泣きそうな様子で善逸に笑いかけた。
「……俺さ、本当に炭治郎が好きだよ。けど不安なんだよ、お前の邪魔になるんじゃないかって。だから、だから……」
 すっかり止まらなくなってしまった涙をぼろぼろとこぼしながら、炭治郎に切実な言葉を向ける。善逸の言葉は彼の本心とその奥にあった不安を曝け出していて、そのおぼつかなくなっていく言葉は押し留めていた自分への嘆きのようでもあった。
「善逸、俺は今すごく嬉しいよ。こんな顔をさせておいて言うことではないのかもしれないけれど、気持ちをぶつけてもらえることが本当に嬉しいんだ。こんな気持ちになれるのに、お前の存在が俺の何かの邪魔になるなんてない、絶対にだ」
「……とんでもねぇ炭治郎だな」
 炭治郎の強く明るく前向きな宣言によって、善逸の頑なだったものが解かれていく。
「なぁ……善逸?」
「なによ」
「俺と、恋仲になってはくれないか」
「……お前、物好きだよね」
 善逸の表情に柔らかな気配が混ざり、それをまるで狙いすましてでもいたかのように炭治郎は、改めて告白の言葉を口にした。その絶妙なところで伝えられた善逸の想像とはまた違った、二人の関係性を変える言葉にどうにもくすぐったさを感じてしまう。
 茶化すような言葉を返しながらも、その裏側に確かに乗せられてい肯定という名の答えを、炭治郎は確かに感じ取り微笑んだ。
「善逸も人のことは言えないと思うぞ」
 返される言葉に、涙を拭いながら善逸もまた笑い返す。
 そしてここに感じる静かな幸せに目を細めた。