神童、そうもてはやされた存在はいつかはただの人になる。それが遅いか早いか、それぐらいの差しかない。
少なくとも一人の少年は鍵盤の神童と呼ばれ、そして早々に心が折れてしまった。大人の期待と欲望は幼かった少年には耐えきれず、表舞台から忽然と姿を消すに至る。類まれな音楽センスとそれを実現する技術、その全てを後押しする圧倒的な聴覚を持った紛うことなき天才であった彼だが、精神は現実に耐えられなかったのだ。
彼はそれからも神童と呼ばれた残滓に苛まれながら、ようやく静かな日常を生きられるようになっていった。しかしその代償はあまりにも大きく、かつて少年だった彼は求められたその欲によって家族が離散し、遠い親戚にあたる老人に引き取られることになったというその結果の上に成り立つ平穏なのである。
老人と二人暮らすなか、彼は思う。もう音楽には関わらないと。自分が音楽と関わればきっと誰かを不幸にしてしまうだろう、そんなことは二度とごめんだと、そう思わずにはいられなかった。
高校二年生になった彼――我妻善逸――は、一年の時と同じく押し付けられた風紀委員の仕事をこなすべく、チェックシートを片手に校門前に立ちながら珍しいことに自身の過去に思いを馳せる。思い出の性質上、あまり頻繁に考えたくなるようなものではなかったが、思い出してしまったものは仕方がない。
幸先が良いとは言い難い一日のはじまりに彼は、肩をがっくりと落として大きな溜息をひとつ吐いた。しかし溜息をついたところで何かが変わるわけでもない。背筋を伸ばし、善逸はその場でしっかと立ち直した。
入学式が終わってすぐの校門前は、真新しい制服に身を包んだ初々しさとあどけなさの残る生徒の姿が目立つ。希望と期待の入り混じる弾んだ音が鋭敏な聴覚を伝って耳へと飛び込んできて、善逸はほんの少し口角を上げた。
誰かの幸せを感じる音を聴くのが善逸はとても好きだ。それはネガティブな感情など一切ないあたたかで優しい、とても綺麗な音だからという理由に他ならない。欲や悪意に満ち歪んだ音ばかりを聴いて疲弊していた善逸の耳には、そういった音は何よりの癒しであり救いですらあった。
そんな明るい音の中でひとつ、無機質な音が紛れ込んだことを当然善逸は聴き逃さない。ちゃり、と鳴る小さな音は学生が登校してくるときに聴こえてくるものではなかった。
(何か飾りの音か? だとしたら、随分と堂々とした校則違反だな……)
大それた新入生もいたものだと驚きを感じながら、彼は音の主を探すべくさらに集中する。
その相手はすぐに見つかった。校門に向かって正々堂々と真っ直ぐ歩いてくる男子生徒は、見るからに真面目という様子の容貌ではあるのだが、その耳には花札のような飾りがついた耳飾りが下がっている。その飾りの部分が揺れて善逸の耳に無機質な音を届けていたのだ。
あまりのミスマッチさに善逸はその目を奪われてしまうが、負わされた役目は果たさなくてはならない。一歩前に踏み出すと、大きく息を吸った。
「君」と声をかけて、耳飾りをつけた新入生に向けて手招きをすると、彼はきょとんとした後に素直に善逸の方へと歩み寄ってくる。
「おはよございます」
「おはよう。君さ、その耳飾りが校則違反なのわかってる?」
「はい、分かっています……」
「だったらその耳飾りを」
「駄目なんです!」
彼はその誠実かつ穏やかな面持ちからは考えられないほどの勢いで、善逸の言葉に覆い被せて拒否の言葉を主張した。予想を越えた言動に、善逸は目を丸くしたが余程のことなのだろう、そう思わせるには充分過ぎる真摯な表情で必死に声を発する姿はその想いを聞き届けてやりたいとそういう気持ちにさせるものと感じさせる。
「……理由が、あるの?」
問いかける善逸に今度は耳飾りのをつけた新入生が目を丸くした。彼もまた善逸の言動は予想を越えていた様子だったが、次には大きく意志の強さを感じさせる瞳を輝かせる。
「はい、これは亡くなった父の形見なんです」
「えっ……そうなんだ、なんかごめんね」
「いえ。校則違反をしているのは本当ですから……それでも亡くなった父の形見をどうしても離しておきたくはなくて、俺のわがままなんです」
さらなる予想外に善逸は絶句するしか出来なかった。周りに人の死というものを身近に感じたことは今のところなかったが、こんな人の良さそうな目の前の生徒が自分の知らないような悲しみを背負っているというだけで胸が苦しくなるような、そんな気がしたのだ。
そして何より、彼からは嘘の音が全くしなかった。微塵もそんな気配はなく、心底誠実でそして暖かく優しい音が目の前の彼からは響いてくる。それは善逸の心を落ち着けて、彼の言葉も彼自身も信用に足るとはっきりと告げているようだった。
「……いいよ、そのまま行って」
「え? でも……」
まさかの善逸からの提案に、耳飾りをつけた新入生はありありと困惑の表情を浮かべてそれと相違ない声を漏らす。
「ほら、早く行かないと先生に見つかるだろ。見逃したのバレたら怒られるの俺なんだから、早く行きなって!」
「はい! ありがとうございます!」
善逸はどんと背中を押して、校舎側へと耳飾りをつけた新入生を強引に歩かせた。彼はつんのめりながらも感謝の言葉を述べてから歩き始めたが、すぐに振り返り「俺は竈門炭治郎といいます! 本当にありがとうございます! よかったらお名前教えてもらってもいいですか!」と恥ずかしげもなく声を張り上げるものだから、善逸は慌てふためいてしまう。
「我妻善逸! いいから早く行けよ」
ぶっきらぼうに応えてからあっちへ行けとでも言っているくらいの手つきで掌をひらひらとさせた善逸に対し、炭治郎と名乗った新入生は爽やかな笑みと共に立ち去っていった。なんと言えばいいのだろう、不思議さもありながら小気味よく誠実な印象とともに善逸の心があたたかくなる。
「かまど、たんじろう……かぁ」
口にした彼の名前の音がとても美しく、尊いもののように思えた。
この学校で、我妻善逸の神童と呼ばれた頃を口にする者は少ない。しかし、その妙に気を遣われてしまっているようにも思われて、逆に負い目を感じてしまっていたりもするのだが、それも一つの優しさなのだろうと善逸はそう思うことにしている。無闇矢鱈に面白おかしく騒ぎ立てられることを思えば、腫れ物に触るようであっても幾分にもましな状況だと考えていたからだ。
風紀委員の仕事である服装チェックを終えて教室に足を踏み入れても、授業を受け休み時間を迎えても、昼休みであったとしても善逸はずっと独りだった。件の騒ぎ立てられた一件が尾を引いていることはもちろんあったが、それを抜きにしても善逸は暇さえあればヘッドホンをつけて露骨に耳を塞いで全ての音を拒絶していたところも大きい。聴覚があまりに鋭過ぎる善逸にとって、日々を生きることもなかなかの苦労だった。音が身の回りに溢れすぎていてつい塞いでしまいたくなってしまうのだ。
今日も今日とて、善逸は授業以外の時間をヘッドホンを共に独りの時間に浸っていた。だが、その日常は崩される。昼休み、どうにも食事を取る気になれずにぼんやりしていた善逸の目の前に一人のクラスメイトが現れて、彼のことをじっと見つめて口を開いていた。ヘッドホン越しにもわかる言葉は「我妻、お前呼ばれてるぞ」というものだ。そして教室の入り口の方をはっきりと指し示している。
(誰だ……?)
目の前のクラスメイトに感謝の意をこめて会釈をしてから、指し示された方へと視線を移すとそこにいたのは今朝言葉を交わした耳飾りをつけた新入生、竈門炭治郎だった。
何故、この教室に彼が来たのか。そんな疑問をいただきながら善逸は机の上にヘッドホンを置くと、ゆっくりと炭治郎の元へと向かう。最初は上級生の教室へやってきたこともあって落ち着きのない様子を見せていた炭治郎だったが、善逸の近付いてくる姿に表情を綻ばせた。
「竈門くん、だったよね。どうしたの?」
「服装チェックのときのお礼をちゃんとしたくて、クラスとか聞いてないのに失礼かなとは思ったんですが来させてもらいました」
「いや、寧ろよく調べたよね……びっくりしたわ。別にお礼とかそんなのいいのに」
「だめです! お礼はきちんとさせて下さい」
炭治郎の物言いに、善逸はやはり真面目だなと心底そう感じて苦笑する。
「どんなお礼してくれるわけ?」
「我妻先輩は、パン……お好きですか?」
「好きというか、普通に食べるけど……」
「よかった! これ、どうぞ!」
差し出されたのは、言葉の通りパンだ。「え? なんで?」と、善逸の口からは思わず疑問の言葉がこぼれ落ちる。炭治郎がお礼をしたい、というのはあまりに律儀が過ぎるが言わんとしていることはわかるのだ。しかし、何故その品物に当たり前のようにパンが選ばれたのかがわからない。
「俺の家、パン屋なんです。今日はちょっと多く持ってきすぎてしまって……」
「あぁ、そういう……」
実際、昼食は済ませてしまっていたわけだが、それでもこの律儀さが今までに出会った誰よりも愛おしく思えて薄らと笑みを浮かべる。
「竈門くんは昼ごはんまだ?」
「はい、我妻先輩を探していたので」
「……一緒に食べる?」
気がつけば炭治郎にまた優しい言葉をかけてしまう。初めて会ってそう時間も経っていなかったが、善逸の耳に届く音が彼の好感度を自動的に上げていっているらしく、気がつけばすっかり炭治郎に甘さを見せてしまっていた。善逸の言葉に、朝と同じくその瞳をキラキラと輝かせた炭治郎は「はい!」と勢いの良い返事を返して笑う。
さすがに教室では善逸自身も去ることながら、炭治郎の方も大層居心地が悪いだろうということで連れ立って中庭へと向かった。昼どきとは言いつつも昼休みに入ってしばらく経っているということもあってか、生徒の数はまばらでまったりとした空気が中庭には流れている。適当な場所に腰を下ろして二人してパンを頬張った。
炭治郎は善逸の様子をじっと見守っている。自分の渡したパンの感想を待っているらしいことは、視線からも音からもよく分かった。
「美味しいよ、すごくね」
笑って見せた善逸の姿に、炭治郎はほっと胸を撫で下ろした様子で自身もパンを頬張る。幸せそうに笑う炭治郎の様子は、善逸のことも幸せな気持ちにさせた。
「よかったです。これで少しは我妻先輩に恩返しできたでしょうか」
善逸の様子をうかがう炭治郎の瞳は、自信なさげに揺れる。
「恩返しだなんて大袈裟だな。気にするなって言ったのに」
「気にしますよ……今まで、あの話をして信じてくれた人はいなかったんです。でも、我妻先輩はひとつも疑わずに信じてくれたから」
真っ直ぐ正直な視線が炭治郎から善逸へと向けられ、その真摯な瞳はすぐに笑顔と共に細められた。
「我妻先輩、俺……気持ち悪いと思われるかもしれないですけど、すごく鼻が効くんです。相手がどう思っているかとかそういうことが分かったりするくらいに」
炭治郎の告白に善逸は言葉を挟まない。その気持ちは痛いほどに分かったからだ。
「だからこそ、嬉しかったんです。今朝の我妻先輩から感じた匂いは、嘘のない優しくて凛とした匂いだったから」
「……買い被りすぎだと思うけど、そう言ってもらえて悪い気はしないかな」
返された言葉に炭治郎は、目に見えて安堵の表情をみせた。それから二人の間には取り立てて会話はなかったが、かと言って居心地が悪かったりというようなことは全くなく、今この距離感が心地良いと感じる。そんな感覚に、善逸は久しぶりにヘッドフォンなしで休憩の時間を過ごすことが出来たなと気付いた。
炭治郎の音があまりにも心地いいのだ。こんなにも、泣きたくなるような優しい音を聴いたことは今まで一度もない。こんな人が世の中にはいるのかと、心底そう思った。
炭治郎は我妻善逸という人物に見覚えがあった。初めて学校の校門で会った時から、なんとなく感じていた既視感は妹のとある言葉によって心当たりを得る。
『この前、テレビで見かけたんだけど……神童って呼ばれた人が弾くピアノがとても綺麗だった。どうしていなくなってしまったのかしら』
幼い時にテレビで取り上げられていた同年代の神童ともてはやされたピアニスト。名前はすっかり忘れてしまったが、その美しい金髪と鼈甲のような色をした瞳は物珍しさもあって印象深く記憶に残っていたのだ。
もしかすると、それは善逸だったのではないか。そう思い始めてしまうと気になって仕方がなかった。
とある昼休み、すっかり当たり前になった善逸と食べる昼食を取るべく炭治郎はその足を弾ませ、中庭へと向かう。毎度毎度、善逸からは嘘のないあたたかな気持ちになれるような匂いがしていて、炭治郎は一緒にいるだけで心地よさを感じていた。そして、対する善逸からも特に嫌がる様子もなく、何なら少し嬉しそうな感情を感じさせる匂いが漂ってくるくらいだ。そのことは炭治郎にとっても大変喜ばしく、嬉しいことだった。
「我妻先輩!」
「竈門くん、お疲れ」
「お疲れ様です」
にこりと笑う善逸は、最近お決まりになった場所である中庭のベンチに陣取っている。初めて一緒に昼食を取ってからというもの、隣に座るばかりで基本的には会話がない。たまに話すこともあるが圧倒的に無言の時間が長かったが、それでも不思議と落ち着くのだから不思議だった。
だが、今日は聞いてみたいと思っていることがある。昼食を口にする前に炭治郎は善逸の方へ身体を向けるとその口を開いた。
「我妻先輩、ちょっと聞いてみたいことがあるんですけどいいですか?」
「うん、どうしたの?」
善逸はほんの少し首を傾げて、炭治郎の次の言葉を待っている。
「前に教室に行った時、ヘッドホンをしてたじゃないですか。音楽、好きなんですか?」
炭治郎は当たり障りがない言葉で問いかけた。しかし、実際思うところとしてはもう少し別のことがある。どうにも善逸はいつも何かを抑えようとしているような気がしてならないのだ、そして件の神童と呼ばれたピアニストのことがちらついたというのもあった。
問いかけられた言葉に、善逸は小さく唸る。何度か口を開こうとしては思いとどまった様子を見せたが、ついにその重い口を開いた。
「俺ね、昔から耳がいいんだよ。この前、竈門くんが言ってた鼻が効くっていうのと似てるかもしれない……だから、あまり音が聴こえ過ぎるときついことがあってさ、ヘッドホンしてるとそういうのが遮られていいんだよ。音楽は……」
善逸はそこまで話して、言い淀んだ。ほんの少し無言の間があってからもう一度口を開く。
「音楽は、多分好きだと思う」
どうにもあやふやさが満ちた言葉は、炭治郎の鼻に届く匂いからは嘘を感じられず本人からしてもどう捉えていいのかがわからず、答えあぐねている様子がありありと伝わった。
「すみません……困らせてしまって」
「いいよそんな」
「あ。そんなに耳がいいならここで昼を過ごすのしんどくはないですか? もっと静かなところに……」
「ううん、大丈夫。不思議なんだけど、竈門くんといると周りの音が気にならなくなるんだよね」
「そうなんですか」
「うん。だから気にしなくていいよ」
そう言った善逸は、落ち着いた穏やかな表情をたたえている。その様子に胸を撫で下ろしながら、炭治郎は手元の昼食にありついた。
全ての授業が終わって、担任教師の手伝いに駆り出された炭治郎は心ここにあらずという様子でその場に在った。入学してしばらく、やっと学校にも慣れてきたが炭治郎の頭の中はすっかり善逸のことで占められている。クラスの中にも友人は多くいるが、善逸は恩義を感じている面を差し引いたとしてもどこか特別な感覚を抱いていた。
善逸と炭治郎が顔を合わせるのは服装チェックをしている校門と、昼食をともにとるときだけだ。正直なところ、友と呼ぶには烏滸がましい。一番身近な先輩、という表現が炭治郎から見るとしっくりくる。
炭治郎としてはもっと仲良くなれればとそんな風に考えていたが、いつも目にする善逸の様子は落ち着いているというよりは何かを抑えているように思えて、もしかしたらあまり誰かと関わりたい人ではないのかも知れないとも感じられた。もしこの感じているものが間違いでないのならば、それは立ち入ってはいけない踏み込むことはあってはならないのではないかと、炭治郎の心に不安を灯らせた。
気になって、気になって仕方がない。焦がれるような想いを抱いたのは、今までで初めての体験だった。炭治郎は手伝いをしている間も、そしてそれを終えた今もどうにも浮ついた感覚が抜けない。
時間はすっかり遅くなり、下校時間が近づいている。陽は傾き始めていて、校舎に差し込む光は橙色を帯び始めていた。
そろそろ帰らなければ、と急ぎ足で廊下を進む炭治郎の足が止まる。音が、聴こえるのだ。
――なんて美しい音なのだろう
炭治郎はどこからとなく聴こえてくる、ピアノの音色に嘆息した。特に音楽に詳しくなくとも感じる美しさと儚さは、炭治郎の心を惹きつけて離さない。
気がつけば炭治郎は、ピアノの音のする方へ吸い寄せられるように歩き始めていた。廊下をひたすらにあるき、階段を登り、未だ残る生徒たちの喧騒から離れた場所へと脇目も振らず歩いていく。
そしてついにたどり着いた先は、音楽室だ。中からは相も変わらずピアノの音色が響いてくる。炭治郎はそっと扉に手を当て開いて、ピアノを弾く主を邪魔をしないように音楽室の中へと身を滑りこませた。
再びそっと扉を閉じると、音のする方へ視線を向け、教室の奥にあるグランドピアノを奏でる人物を初めて確認する。鍵盤に指を走らせていたのは炭治郎の頭の中を占めている善逸その人だった。
彼は今まで見てきた様々な様子とはかけ離れた姿をしていた。少し丸みを帯びふっくらとした手を鍵盤の上に走らせながら、いつもとはまた違う落ち着きとともに奏でる音は、やはり儚く美しい。
ついつい、その姿に目を奪われて見惚れてしまう。炭治郎は言葉どころか、声も物音ひとつたてることなく、静かに奏でられる音色に聞き入った。
しばらく変わらぬ状況が続いたが、聴き惚れていたピアノの音色がついに止む。曲を弾き終えた善逸に、炭治郎は控えめながら拍手をもって讃えた。
「えっ……」
集中しきっていたのだろう、想定外の拍手の音は彼を戸惑わせるには十分すぎるものだ。
「竈門、くん?」
「勝手に聴いてしまってすみません」
「いや、いいけど……てか、いるなら教えてくれたらよかったのに! ここに何か用事? 邪魔だったよな、ごめん」
先程まで繊細なピアノの音色を奏でていた主とは思えないほど、そしていつも見せるよりもくだけた姿の善逸がそこにいた。
「大丈夫です、さっきのピアノが気になってここに来ただけなので」
はっきりとそう告げた炭治郎に、善逸はぽかんと間の抜けた表情を向けてから、次に照れ臭そうにはにかむ。
「何だか恥ずかしいな」
なおもはにかむ善逸の姿は、炭治郎の瞳に輝いて映った。
「俺、音楽のことはよく分かりませんけど、ずっと聴いていたくなりました」
「褒めても何もでないよ」
笑った姿は橙の光に照らされて儚く、そして美しい。炭治郎は自分の想いそのものに困惑しつつも、自然と善逸に微笑みかける。
「もっと自信を持ってください、あんなに素敵な演奏なんだから」
「自信、かぁ」
そう言った善逸の表情は、一気に自嘲の色を帯びた。
「先輩?」
呼びかける炭治郎の声に苦笑して、善逸は座っていた椅子から立ち上がるとピアノから離れていく。その背中は今にも消えてしまいそうに思えて、弾かれたように炭治郎は手を伸ばし口を開いた。
「待って、待ってくれ」
思いの外、大きな声を出してしまい炭治郎は慌ててその口を両手で覆う。呼び止められ、立ち止まった善逸からは驚いている匂いが漂った。当然だ、これで驚かない方がおかしいのだ。しかも大声だけでなく、敬語まで失ってしまった。引き止めた以上にそのことに罪悪感が渦巻いて、勢い良く頭を下げる。
「ごめんなさい、先輩にこんな……でも、我妻先輩がなんだか先輩がどこかへ行ってしまいそうに思えて……」
「やだなぁ、俺どこにも行かないよ」
「そう、ですよね」
「あとさ、別に俺に敬語使わなくてもいいよ? さっきみたいにさ」
「あ、それもすみません……」
「だからいいって」
善逸は炭治郎の真面目な返しに吹き出した。その様子には先ほどまでの様子は微塵も感じられず、ホッとしたような何とも言えない想いのいまま炭治郎は口を開く。
「なんで笑って……」
「ごめんごめん。真面目だな、と思ってさ……炭治郎は」
突然下の名前で呼ばれた炭治郎の動きは、頭も身体もその一切がまるで時間が止まってしまったかのように静止した。
「あ! 下の名前で呼ばれるの嫌だった? ごめん」
「違います! そんなことは……ない。俺も善逸と呼んでも?」
「おう、いいよ。だめなわけないだろ」
口角を上げながら善逸はまた歩き始める。そろそろ下校時間だし、帰ろうという言葉に従って炭治郎はいつの間にか荷物を手に取っていた善逸とともに廊下を進んだ。横に並び歩く二人の間に言葉はなかった。
善逸から感じられる匂いは、いつもよりも幸せを感じさせる爽やかなものと少しどんよりと重たい感情を伴ったものとが混ざり合っている。不安、なのかもしれない。
「善逸」
「うん?」
「違ったら申し訳ないんだが、昔……テレビでピアノを弾いていたのを取り上げられたことはないか?」
炭治郎の言葉に、善逸は廊下の真ん中で立ち止まる。大きく見開かれた瞳は大きく揺れ、先程の匂いなど比ではないほどの大きな不安が溢れた。最早、不安というよりも怯えに近いその様子は炭治郎を驚かせるには充分すぎるものだ。
「すまない、おかしなことを言った……」
「……炭治郎、お前、それ知ってたんだな」
「え、あぁ。自信はなかったんだけれどな。そんな話を聞いて、俺もその番組を見ていた記憶があったから……もしかしたら、とは思っていたんだ」
「なるほどね」
少し落ち着いてきたらしい善逸は、炭治郎の言葉に相槌を打ちながらもどこか考え込んでいる様子を見せる。その匂いを嗅いで何かを察することは簡単だが、どうにも今それをするのは無粋に思えた。だが何一つ言葉を発することなく、考えて込んでいるばかりの善逸に炭治郎はいてもたってもいられなくなる。
「善逸?」
呼びかける声に、ちらりと視線を寄越してから善逸はゆっくりとその口を開いた。
「小さいとき、ピアノを弾くのがとても好きだった。さっき弾いてて思った、こんなに好きだったのにって……でもさ、怖いんだよ。俺」
「怖い?」
「うん、すごく怖いんだよ……ピアノを弾くのがさ。あの頃、ピアノで妙に有名になってしまってもてはやされて、家族はおかしくなってしまった。全部、俺のせいで……だからさ……自分のことも、自分の音楽のことも信じられなくて……」
「そんなこと、言わないでくれ」
ぽつりぽつりと発せられる想いは、炭治郎がいつも思っていた善逸の抑えていた何かに相違なく、彼の声は息詰まってしまうような苦しさを帯びている。
「さっき善逸の弾いていたピアノは、暖かくてとても幸せになれるものだった。弾いていることが楽しいんだろう、ということもすごく伝わってきたよ。だからもっと……自分のことを信じて欲しい」
切実な炭治郎の訴えを、善逸はゆっくりと首を横に振った。
「どうして信じてくれないんだ」
切実な炭治郎の声が響く。
「お前のことは信じてるよ」
でも俺が俺を信じられないんだ、そう応える善逸の表情は諦めの気配を帯びながら苦しげに笑った。
「諦めないでくれ……俺のことを、俺の言葉を信じてくれるなら、俺の信じるお前を……どうか信じて欲しい」
「ありがとな……あのときの俺のことを知ってて、正面からぶつかってきてくれたのは炭治郎が初めてだよ。音だって嘘ひとつない、綺麗な音だしな」
善逸は表情を変えることなく、淡々と言葉を紡いでいく。
「お前の言葉なら、信じてみようかなって思えるのが不思議だな……」
「え?」
「……もう一度だけ、信じてみようかな。音楽への想いと、俺自身のことを。胸張って炭治郎の隣にいたいからな」
まるで告白のような言葉は、炭治郎の理解を超えてしまい下の名前を呼ばれた先ほどと同じく、完全にその動きを停止させてしまった。
「炭治郎?」
「俺も! 善逸の隣にいたいから、もっと頑張る!」
「ははは、何をだよ」
「いろいろ、いろいろだ!」
この瞬間、炭治郎は気付いてしまったのだ。この人のことが好きなのだと、初めて会ったその日からその匂いと存在にどうしようもなく惹かれていたのだと。きちんとその想いを伝えたい、だからそのために日々を頑張るとは本人に告げる訳には当然いかず、何とも中途半端に空回り気味な意思表示をするにとどまってしまった。それでもいつか、きっと。
――お前と会えて、よかったなぁ
