いとしい人(コーイク)

 窓から部屋に風が吹き込む。風は優しく柔らかで、あたり一帯が平和であることを感じさせた。
 そんな風の吹き込む部屋は殺風景なもので、ベッドが一つと机と椅子のセットがひとつ、それだけの簡素なものだ。そしてそのベッドの端、窓際に神妙な面持ちで腰掛けているコーキスの姿があった。
 この部屋はコーキスにあてがわれたものであり、彼が部屋の中にいることは至極当然のことなのだが、神妙な面持ちと落とされた視線は平和の香り漂う部屋にはいかにも不釣り合いに見える。彼の様子は何か重要かつ重大なことを思案しているだろうことを伺わせて、部屋の殺風景さ——部屋をあてがわれたはいいが、何をどうしていいかわからなかった結果である——も手伝って深刻な様相を呈していた。
(マスターは俺のこと好きだって言ってくれるけど、それってどんな好きなんだ?)
 日頃からイクスは、コーキスを好きだと臆することもなく花咲くような笑みで告げる。その言葉を、その声を思い出しては困惑するばかりだった。
 イクスの言を思い返しては答えの見えない問いかけは空回りするばかりで、導けるはずもない答えをただひたすらに思案する。少なくともコーキスから見たイクスの発する好きという言葉は、純粋な好意と言うべきか存在を肯定する意味で好意的なものではあったがそれ以上に含むところはなく、それ以下という訳でもない、欲求や欲望からはかけ離れているように感じられた。
 一方のコーキスはといえば、もちろん彼の認識するイクスが抱いているだろう感情に近しいものを持ち合わせてはいたが、それ以上に渦巻くような別の感情が多くを占めていて、コーキスとしてもどうにももどかしい。
(きっと俺の好きって気持ちと、マスターの好きって気持ちは違う……でも、どうしたら良いんだ?)
 生み出されてからそう日も経たないコーキスとしては、今起こっていることすべてが新鮮で目新しく、そして困難の連続だ。まさに今、その困難に直面している訳なのだが、本人はおろかマスターであるイクスからしてもまさかこのような形でコーキスが頭を抱える日が来ようとは思いもよらないものだった。
 どうすれば良いのかは知っている。相手に好きだと、ただ伝えれば良い。分かってはいるのだが、いざそうしようと思えば思うほど遠回りになってしまったり、明後日の方向へ行ってしまうようなズレた会話をしてしまったりと、散々な有様を幾度となく経験して自室で消沈しているという、打ちひしがれ傷心仕切っているという訳だった。
 魂すらも吐き出してしまいそうな大きなため息を吐くのと同じくして部屋の扉をノックする音が鳴り、その音はコーキスの耳にも届く。
「はい」
「コーキス、入ってもいいか?」
 億劫さを感じつつもノックの音にコーキスが応えると、扉の向こうからイクスが声を発した。耳に飛び込んできたイクスの声に、反射的に身体を強張らせながらもコーキスは緊張をほぐすように大きく深呼吸をする。
(落ち着け俺……!)
 内心で必死に自分へ語りかけ、胸に手を当ててもう一度深呼吸をしてから、ゆっくりと扉へ近づくとその扉を開いた。扉の前にはこえの主であるイクスが、見るからに心配そうな様子を隠すことなく立っている。
「マスター……」
「何かあったのか?コーキス」
 ぎこちなく歯切れの悪いコーキスの様子に、イクスは今にも泣き出してしまうのではないかというほどの表情を浮かべて問いかけた。
 しかし、そんなイクスの様子に罪悪感を覚えつつもコーキスは問いかけへの返答が出来ず、への字に口を結ぶ。イクスにもちろん非はないが、コーキスの抱く想いを告げることはやはり憚られたのだ。
 押し黙ってしまったコーキスを見て、イクスは悲しみの色をたたえた瞳を伏せる。
「話してくれないと分からないよ……コーキス」
 小さく消えてしまいそうな声でそう告げたイクスに目を伏せたままで、表情も先と変わらず悲しげで今にも泣き出しそうなままだ。
「ごめん……マスター」
 困惑した様子で視線を右へ左へと彷徨わせて、コーキスは気まずさを体現するように露骨なまでにイクスから視線を逸らす。
「俺に何か悪いところがあったなら……」
「違う! マスターは悪くない」
「じゃあ、なんで……?俺のこと避けてるだろ?」
 イクスの悲壮感すら感じさせるほどの切ない声色に、コーキスはたまらず息を詰まらせイクスの方へと視線を向けた。
「それは……」
 やはり言葉を詰まらせてしまうコーキスだったが、イクスの切なくそして場違いだとはわかっていても美しく見えるその表情から目が離せなくなる。こんな顔をさせてはいけない、どんな結果になろうともきちんと話をしようとコーキスに決意させるには十分すぎるほどの状況だった。
「コーキス?」
 彼の決意をこめた表情にに、状況が変わったことこそ分かるもののどうしたものかわからないまま、イクスの口からは疑問を込めた声が発せられる。
「俺、マスターのこと……好き……です」
「俺も好きだよ」
「多分、俺の好きとマスターの好きは違うから……」
「……違うって?」
「マスターのこと独り占めしたいし、こうやって二人だけだと嬉しいけどドキドキするし、マスターに触れたい……とか思ったりするんだ。これって、何か違うだろ?」
 思ったことを正直に述べるコーキスのことを、イクスはただただ黙って見守りながらコーキスの言葉の一言一句も聞き逃すことのないように耳をすませていた。
「それで……どうしたらいいか分からなくて……」
 心底申し訳ないといった様子で、途切れ途切れの言葉を必死に紡ぐと、コーキスはしゅんとして視線を床面へと向ける。
「こんなのカッコ悪いし、変な事言ってマスターを困らせたくなくて」
 一人自分へ呟くように小さくもらして、コーキスは眉を下げて気持ちを誤魔化そうとでもしているかのように笑った。
「困ったりしないよ……俺だって同じだから」
 イクスの発した言葉はコーキスにとって予想外、斜め上、想定を越えた、それだけの言葉を並べてもまだ不足するほどの驚きに頭を打たれたかのようで、その衝撃にぐらりと世界が歪むような錯覚すら抱いたほどだ。
「おな……じ……?」
 目を見開き、信じられないという様子でコーキスはイクスへと視線を向けると、イクスは今までのもどかしさや悲しさをたたえた表情ではなく、部屋を訪れてはじめての笑顔を浮かべていた。
「そう、同じ」
 イクスは笑顔のままコーキスの言葉を肯定し、頭をぽんとひと撫でする。イクスと同じくコーキスもまた、先ほどとは打って変わって花が咲いたような満面の笑顔を浮かべて、猫のようにイクスへと擦り寄った。
「コーキスと同じように、俺も思ってるんだ」
 イクスの同意の言葉を受け、コーキスは大声で笑いはじめ、その目尻に涙が溜まるほどの大笑いはイクスを唖然とさせる。
「……いきなり、どうしたんだ?」
「いや、俺……一人で突っ走っちゃって、バカだなぁって!」
 問われた言葉への返答を告げながら笑うコーキスの表情は晴れ晴れとしていて、屈託のないその表情は呆然としていたイクスを再び笑顔にさせるには充分なものだった。
「コーキスはバカじゃないよ。だって、そうやってたくさん考えて悩むってことがその証じゃないか」
「マスター……」
 優しく柔らかな笑みとともにイクスの口から発せられた言葉に、コーキスはじっと聞き入ったあと感慨深げに声を落としてからしばらく無言のまま真っ直ぐな視線をイクスへと向けていたが、我慢できないと言った様子でがばりと飛びつく。
「うわっ」
「マスター! 俺、マスターのこと大好きだ」
 勢いよく飛びついてきたコーキスの身体と気持ちを必死に受け止めて踏ん張りながら、イクスからも背中へと手を伸ばして抱き締めるような形になっていた。コーキスはそのままイクスの首筋に顔を埋めて微動だにせず、今という時間を噛み締めて堪能しているようですらある。
「俺も大好きだよ、コーキス」
「うん。ありがとう、マスター」
 慈しむような笑みとともに告げられたイクスの気持ちを、コーキスは彼の首筋に顔を埋めたまま嬉しそうな声を上げた。
「ふふ……くすぐったいよ」
 コーキスの息があたり思わず声をもらしながら降参だとでも言いたげに回した腕で背中をとんとんと叩くイクスだったが、その声に構うことなくコーキスは首筋に埋めた顔を擦りつけるようにしてから今度は耳元に口を寄せ
「マスター、大好き」
と低い声で囁く。その声は、いつものコーキスからは考えられないほどに妖艶な色を帯びていて、イクスをただただ困惑させた。想像を超えたコーキスの変貌にイクスは思わず肩を震わせて身体を一度離そうともがくが、それ以上の力で抱き締めるコーキスの腕から離れることができない。
「ちょ、コーキス!」
「びっくりした?」
「……っ」
 必死に状況を変えようとするイクスを抱き締めたままコーキスがもう一度耳元で囁けば、先ほどと同じように肩を震わせて今度はその動作を全て止めてしまう。そっと身体を離して見つめたイクスは耳まで赤く染まり、恥ずかしさからだろう若干目が潤んでいた。
「マスター可愛いなあ!」
 たまらずコーキスはそう告げると先ほどまでの妖婉さすら感じた様子は何処へやら、屈託のない明るい表情で笑う。そして、そのまま流れるようにもう一度イクスのことを抱き締めながら、しばらくこのままでいさせて欲しいと呟いた。
「うん」
 肯定を言葉で示しながらイクスは、先ほどよりも赤く染まった頬をコーキスに軽く寄せるともう一度背中に腕を回す。その腕の感覚にコーキスは嬉しそうに目を細めると、イクスを抱き締める腕に力をこめ直した。