この身は主が為(コーイク)

 目前に広がる取り立てて代わり映えのしない光景。何事も大きな出来事が起こることなく過ごせている象徴である光景をぼんやりと見つめながらコーキスは、人知れず胸に手を当ててから大きく息を吐いた。
 彼のマスター、イクスの感じている尽きることのない苦しみとその音にもならない悲鳴をコーキスは確かにに感じ続けていて、それは胸につかえる異物のように彼の中に渦巻いて消えることはない。この感覚はコーキスにとって苦痛でもありそして希望でもある……息がつまるほどの苦しさは彼を追い詰めるものだが、これこそがイクスが存在している証明であり自分自身が存在する理由でもあるからだ。
 そんな複雑極まりない感情を抱かずにはいられない違和感を一瞬でも手放そうとした苦肉の策が、大きく息を吐くことだった。きっと気休めでしかない、頭ではそう分かっていてもなにかをせずにはいられない。
 一種の焦り、なのかも知れなかった。イクスのために何をすべきか、何が最善か、そう考えれば考えるだけ深みにはまって抜け出せなくなっていく。そうしている間にもイクスから伝わる苦しみと悲鳴が尽きることはない。気ばかりが急いてしまい、もどかしさが募るばかりなのだが足踏みするばかりでは状況を好転させることどころか、何一つ変わりはしないことは流石にコーキス自身で痛いほどに感じていた。
「何でこんななんだよ、俺……」
 不甲斐ない、ついそう感じてしまう。コーキスは立ち尽くしたまま、今度は一つ大きく溜息を吐いてから片方の手で目を多いながらがくりと肩を落とした。
 自分たちやこの世界に渦巻く状況は悪化していると漠然と感じるばかりで詳細は一向に飲み込めない、かと言って手をこまねいているばかりでもいられない状況は、コーキスにとってもどかしさを加速させる。
「…ス、コーキス!」
「!」
 すっかり思考の中に入り込んでいたコーキスは迫ってきた気配に気付かず、耳に届いた声に反射的に身構えた。が、そこにあるのはカーリャの姿のみだ。
「なんだ、カーリャパイセン驚かすなよな」
「パイセンじゃないです!しかもなんだとはなんですか!心配して来てあげたのに!」
 コーキスの肩に座りながら膨れっ面を作りつつ苦言を述べる彼女は、いつもと変わらない日常の象徴のようで、無意識にコーキスの表情がほころぶ。
「なんですか、気持ち悪い」
「気持ち悪いって……」
「気負わなくていいんですよ」
「え?」
「コーキスが頑張ってるのはみんな知ってます。無理だけはしちゃだめ……です」
 膨れっ面だったカーリャの表情はいつの間にか寂しげなものへと変わり、しかし真っ直ぐにコーキスを見つめていた。
「サンキュな、カーリャ先輩」
 少し照れ臭そうに頬を掻きながら笑うコーキスに、少し前までに纏っていた悲壮感にも似た空気は微塵もない。
「どういたしまして」
 彼の様子を見て、笑顔を浮かべカーリャは嬉しそうにコーキスの周りをぐるりと一周飛ぶと、先に戻ることを告げてまるで嵐のように飛び去っていった。カーリャの余韻はまるでキラキラと光り輝いているように思えて、コーキスは眩しそうに目を細くする。
 それでも思い浮かぶのは、胸を掠めるのはイクスのことばかりで自身の薄情さにコーキスは苦笑するばかりだ。

——マスターのためなら、俺は……

 大きく息を吸い込む。救い出す、その戦いに備える蓄えとでも言わんばかりに。