旧故よ今生は穏やかたれ(tnzn)

 黒の絵具で塗り固められたように真っ黒な空には、星のひとつも見えない。街の明かりは煌々と灯り、その主張の激しさはそこにあるはずの淡い星の光を奪い取ってしまっていた。
「チュン! チュンチュン!」
 そんな漆黒の空を一羽の雀が舞う。雀は夜でも飛ぶことが可能であると言うが、特に今晩は飛び辛かろうと思わずにはいられない。
 そんな中でも雀は必死に羽ばたいて、とある家のベランダへと降り立った。鳴きはしなかったはずだが、すぐにベランダの戸が鈍い音と共に開き中から住人と思しき人物が姿を表す。
 少年とも青年とも評することができる、成長期の只中にあるらしい彼は黒を基調とした服で全身を包んでいる。大きなフードを目深に被り、足は膝までの長さに動きやすさを重視した靴を履いていた。肩から腕にかけてと腰から膝へと向かう身体の、横側にのみ黄色のラインが入ったデザインはまるで闇に浮かび上がる光のようだ。
 彼は大きく息を吐くと、手に持っていた大きく細長い筒状の鞄を襷掛けにして背負い、雀に手を伸ばす。その手を伝って雀は肩口まで登るとぴたりと寄り添い、彼もまた雀にちらりと視線を向けた。
「はぁ、やだなぁ…何徹してると思ってるんだよぉ……」
「チュン……」
 開口一番飛び出す不服の言葉に、雀は呆れた様子でひと鳴きする。人間ならばジロリと刺すような視線が向けられているだろうことが容易に想像できる雀の様子に、彼は思わず溜息を吐いた。
「よし……行こう、チュン太郎」
「チュン!」
 深く被ったフードから覗くのは重めに切りそろえられた金髪と、金色の瞳とその瞳の下に深く刻まれた隈だ。その表情から疲れを見え隠れさせるが、それ以上に悲壮さすら思わせるほどの使命感をたたえている。チュン太郎と呼ばれた雀もまた彼の方の上で居住まいを正して真剣さをうかがわせていた。
 彼は軽い身のこなしで手すりの上に飛び乗ると、どんと手すりを蹴って夜の街へと跳躍する。その姿はまるで空を待っているかのようだったが、彼には誰も気付かない。淡々とビルの谷間をぬって進んでいく彼の面持ちは、感情の色の消えた冷たいものだ。
「チュン!」
「ん?」
 チュン太郎のひと鳴きに、彼はビルの屋上に降り立ってその動きを止める。そして耳に手を当てると、そのまぶたを閉じた。
 しばらく耳をすましている様子だったが、彼は次の瞬間に一度閉じたまぶたを開くと再び足に力を入れて跳躍する。それまでは移動を目的とした動きだったが、この瞬間のそれは対象となるものを目指して空から地上へと降っていた。彼の向かう先には、どこから見ても異形の何某か――彼らはその異形を鬼と呼んでいる――が人を襲っている姿がある。彼の仕事は鬼が姿を表す夜に、彼らを見つけてはそれを狩るのだ。
 遥か昔から続く人間と鬼の戦い、その術を受け継いで鬼殺しを成す者たち――鬼殺隊という存在。公にもならず、人知れず活動を続けるこの組織に所属し、夜な夜な鬼を滅する。彼もまた例外なく、鬼を滅するべく背負った細長い鞄から得物を手に取る。それは鞘に納められた刀であり、降下するなかで彼は手にした刀を構えると視界に捉えた鬼を見据えた。
 シィィィィ、と空気の漏れるような音が響く。鬼が空を見上げた次の瞬間、目にもとまらぬ一太刀が見舞われた。己が死したかどうかすら分からぬうちに、身体が崩れ灰になっていく鬼に目もくれず、彼は地上へ降り立つと抜き放たれた刀を鞘に納める。
 鬼に襲われていた人は、突然現れた鬼を狩る者の姿を見つめ呆気に取られていたが、彼は口に人差し指を当てて小さく笑って見せた。その様子は〃これは内緒だよ〃という口止めとも言えるような、無言の圧力すら感じさせる。そして、当たり前のように通り過ぎて行くとその場を離れた。
「チュンチュン」
「一体じゃ足りないっていうんだろ? 分かってるよ……次は……」
 チュン太郎の鳴き声に応えた彼は先ほどビルの上でしたように、また立ち止まって耳をすませる。
「こっちか」
 その耳で場所を突き止めたようで、力を込めるようにして態勢を低くすると再び地面を強く蹴って空へと舞い上がった。その次にビルの壁をどんと蹴り、ビルの谷間をぬって進む彼の金色の瞳は、まっすぐ前だけを見定めている。真っ暗な漆黒の空と、明かりの灯る街に挟まれその隙間に出来た道を進むような彼の姿は相変わらず人の目には限りなく映りにくいものであったが、とてつもなく美しいものだった。

 しばらく彼は空を駆けていく。慣れた様子で建物の屋根を、屋上を、壁を使い移動していくその姿は、人間離れしたものとも思われたし、それでいて闇夜に浮かぶ美しい姿でもあった。
「そこか……! あっ……」
 空から先と変わらぬように鬼の存在を見た彼の金色の瞳が、驚きに大きく見開かれる。そこには鬼と、鬼に襲われる年格好の近しい一人の学生服を身に纏った生徒の姿があった。赤みのかかった髪の毛に、紅の瞳が暗い街中にあってもよく映える。
 その紅い瞳の人物と鬼狩りの彼との視線が一瞬、交錯した。鬼狩りの彼は小さく肩を震わせて、その瞳を閉じると思い切り壁を蹴りながら一度は納めた得物を再び手の内へ戻しながら、真っ直ぐ鬼の方へと突き進んだ。
 先と同じくシィィィと空気の漏れる様な音が響く。まるで雷鳴がくすぶるような音は、鬼にも鬼に襲われていた彼にも等しく届くが、彼らへ音が届く頃には全てが終わっていた。
 落雷があったかのような大きな音と共に、一瞬前までそこにいたはずの鬼だけが忽然と姿を消している。何が起こったのか分かるはずもなく、これ以上開かないほどその紅の瞳を見開いている学生服を纏う人物は、その場にへたりこんだ。その見開かれた瞳には闇に浮かぶ、鬼狩りの彼の姿がはっきりと映る。
「あ……あの……」
 赤い瞳の人物は、必死にその口を開くのだが過剰すぎるほどの緊張は、急激な喉の乾きを引き起こし、声は枯れてかつ続きもろくに話すこともままならないほどに咳き込んだ。
 咳き込んで止まらなくなる様子ををちらりと見遣ると、鬼狩りの彼は口を開くことなく空へと舞い、そして姿を消してしまった。
「チュン?」
 再び空と街の間まで戻った彼の肩口から、チュン太郎の鳴き声が耳に伝わる。若干、首を傾げるような仕草を見せるチュン太郎に対して彼は、笑みを浮かべた。しかしその笑みは、決して明るいものではなく、悲痛さすら感じさせるような重く苦しいものだ。
「大したことじゃないよ。〃今〃の俺の学校での後輩で、〃昔〃の俺の大切な人だったんだ」
 落とすように小さく呟いた言葉は、諦めと息苦しさを含んでいて、その声色に等しい表情は涙を流さずとも泣いているようであった。
「チュン……」
 チュン太郎もまた、その言葉に悲しげに鳴く。そうすることしかチュン太郎には出来なかった。
「ありがとな、チュン太郎。次に行こうか」
「チュン!」
 夜明けにはまだ遠い闇夜を彼は舞う。その耳を澄まし、狩るべき鬼を仕留めるために。

「ふぁ……」
 キメツ学園の正門前、一人の生徒が盛大な欠伸をしながら立っていた。
 手元にはチェックシートの挟まれたバインダーを携え、通り過ぎていく生徒たちのことを記録している。服装チェックというやつだ。
 チェックの結果、たまに素行不良な生徒に声をかけたりもするのだが、須く無視もしくは反発され理不尽な結末ばかりを迎えている。
 そんな彼は、昨晩に鬼を狩り続けた金髪に金色の瞳を持つ鬼狩りであった。昨晩とは打って変わって、どこか頼りなさすら漂わせているが、時折光る金色の瞳の鋭さは健在である。
 しかし彼は風紀委員というだけで、朝から謎の理不尽な労働をさせられて、寝不足は深刻を既に通り越して苦行であった。
 ここまで来れば腹立たしくもなろうというもので、思わず今度は口から溜息と怒気の混ざる声を吐き出す。
 しかしすぐにその様子を引っ込めて、淡々と服装チェックをすることに徹し始めた。
「我妻先輩!」
 大きな足音と共に、我妻のことを呼ぶ声が響く。その声に我妻は振り返らずに小さく肩を震わせた。
「おはようございます、我妻先輩!」
「……おはよ、竈門くん」
 全力で駆けてきた様子だが、疲れたという姿でもなく力強く挨拶の言葉を投げかけてきたのは後輩の竈門である。彼は本来ならば校則違反であるピアスをつけてきているのだが、これは父の形見だから見逃して欲しいと懇切丁寧に頼み込まれるのだ。どうしても、その情に訴えかけて来られる様子には弱く、ついつい我妻も彼のことを見逃してしまう。理由はそれだけという訳ではないが、直接的な理由は間違いなくこれだった。
 竈門の挨拶に応えながら、ゆっくりと我妻は声の方へと振り返る。赤身がかった黒い髪の毛に、紅い瞳を持つ彼はまごうことなく昨晩、我妻が鬼から助けた人物であった。
「先輩、昨日の夜はどこにいましたか?」
「へ? なんでそんなこと訊くの?」
「昨日の晩、先輩によく似た人を見かけたので気になって」
「……へぇ、そうだったんだ。俺は昨日の夜はずっと家にいたよ?」
「そう……ですか……すみません、変なこと訊いて」
「いや、いいけどさ……やっぱり、そのピアスしてるよねぇ……」
 戦々恐々とした我妻だったが、竈門の方も自信が無いのだろう。食い下がってくるようなことはなく、あっさりと引き下がった。そして我妻は務めていつも通りを心がけながら、呆れた様子で風紀委員としての仕事をこなす。
 しかし、竈門は特に気に止める様子もない。これを日常と思われるのも問題ではあるのだが、残念なことにいつもと変わらない風景だ。
「父の形見なので!」
「知ってるよ……全く、せめて隠す努力をして欲しいんだよねぇ……」
「俺は後ろめたいことはしていません!」
「はいはい、わかってるよぉ~」
「我妻先輩!」
「分かったって、見逃すから早く教室行きなよ」
「あの、そうではなく……」
「え? じゃあ、何なの?」
 耳の飾りの話をしていたはずだったが、竈門からするとその話はもう終わっていたらしい。その言葉に驚き、ぽかんと口を開けた我妻の呆けた表情は、いかにも間抜けなもので堪えきれなくなった竈門はついに吹き出した。
「なんでもないです、無理はしないでちゃんと休んでくださいね」
 止まらない笑いを漏らしながら真面目な言葉を紡ぐ竈門の様子が、伝染したかのように我妻もまた吹き出す。
「ありがとね、早く行きなよ~」
「はい」
 校門をくぐり校舎へと向かいながらも何度も振り返る竈門の様子を、視界に入れぬように努めながら我妻は苦虫を噛み潰したような表情で空を仰ぎ見た。
 雲ひとつない快晴、しかし心は晴れない。我妻の中に浮かぶのは“昔”の、今とは違う時代を生きた過去の自分の記憶だった。彼はいわゆる前世の記憶というものを有している。それは我妻にとって宝物のようでいて、無慈悲に全てを消し去る怪物のような、形容しきれない複雑な想いを抱かせる記憶だった。
 その記憶の中には竈門の姿もあり、前世の彼は鬼に家族を殺され自身もまた鬼との戦いの中で命を落とすという末路を迎えている。どうしても、我妻にはそれが許せず、歯痒さを感じずにはいられない。何が許せないか、それは竈門ほどに優しくていい奴に訪れる仕打ちとしてはあまりに残酷が過ぎていることだった。そして何より前世の我妻は竈門へと好意を抱き恋仲であったこともあり、彼には生きて欲しかったしその隣に自分もいたかったと、痛烈なまでに思う。
 だからこそ、今度こそ自分が彼を守るのだと我妻はそう心に決めていた。彼を守るために常に寝不足になろうとも鬼を狩り、彼を見守るために何がなんでも学生である自分を勤め上げること、それが自身にいま最も必要なことなのだと我妻は毎日をただ必死に生きている。
 今日も生きなければと大きく深呼吸をして見上げた視線を戻しながら、両手で頬をぱんと叩いた。
(――絶対にお前を守ってみせるよ、炭治郎)