立ち上がり手を伸ばせど(tnzn)

全身に酸素が巡る。身体が応えるようにどくんと脈打ち、まだやれると訴えた。
頬についた傷からは血が溢れ、その感覚が煩わしいとでも言わんばかりに乱暴な手つきでそれを拭う。
「俺は、折れない……! 絶対に!」
戦意も覇気も失われていない、強く凛とした声が決意を口にした。彼の赫灼の瞳は強い怒りをたたえ、真っ直ぐに前を見つめている。
「往生際が悪いな」
明らかに人では無い存在が、それの目の前に立つ人間に冷たい言葉を落とした。
頭には角が生え、片方の手の先の鋭い爪からは血が滴り落ちていて、もう片方の手は乱雑に人間の首根っこを掴んでいる。黄色い羽織に金色の髪、その頭から血を流した人間はぐったりとしていて、ぴくりとすら身体を動かさない。
「お前は弱く、惨めだ」
それは意地汚く嗤う。言葉を向けられた人間は、ありありと怒りの感情を顔に浮かべ下唇を噛んだ。
「善逸を、返せ!」
叫ぶ声は悲愴、そして絶望と恐怖、さらに怒りと敵意を含んで辺りに響く。

――嗚呼、どうしてこんなことになってしまったのか。

そもそも、二人は任務で共に行動をしていた。いつもと変わらない、日常に等しいもの。その中に在る緊張を感じながら、二人は行動していたというわけだ。
「なぁ、炭治郎……すげぇ嫌な音が聴こえるんだよぉ……」
善逸が情けない声で語りかける。炭治郎はひとつ頷いて、真剣な表情で善逸を見た。
「俺の鼻にも嫌な匂いがする……鬼が近いな……」
「うえぇ……頼むよぉ、炭治郎ぉ。俺を守ってぇ……」
「前から言っているが、善逸はとても強いぞ」
「前から言ってるけど、それ勘違いだからな!」
実際のところ、炭治郎の言葉は正しいのだが善逸は頑なにそれを肯定しようとはしない。それは彼自身がその身の内に宿す、強さとも言える力を認識していなかったからに他ならなかった。
彼らがそうして言葉を交わしている間にも、辺りには確かに嫌な気配が満ちていく。鬼の匂い、鬼の音、何かが起こる予感、よくないことが起こる予感。二人が一歩ずつ足を進めるたびに強くなっていく。彼らの感覚の全てが、見えぬ鬼の存在と嫌な予感に貫かれ、足が竦んでしまいそうになった。
二人の口から、どんどん言葉が発せられなくなる。そしてついには無言となり、ただひたすらに歩いた。任務を果たすために。
彼らが肩を並べて歩くのは、人々の営みのある場所からさほど遠くない場所だ。だが、そこは樹々が立ち並び、空をも覆い尽くそうとせんばかりに生い茂った葉によって、より暗い闇を作り出している。
一言で言うならば、不気味な場所だった。
そんな場所の中でも、樹々がほんの少しだが少なくなっていて、若干見通しが良い場所まで二人はやってくる。
その場に立っていたのは、巨体を持つわけでも取り立てて小さな身体を持つわけでもない者。大きさとしては炭治郎と善逸の二人と大差ない。だが、遠くからでもはっきりとわかる頭から生えた角が、それが人間ではないことを如実に伝えていた。
「お前だな……!」
しんとした場に、炭治郎の声が響く。足を肩幅ほどに広げて立つ炭治郎の一歩後ろに善逸が、その身を震わせながらも立っていた。
「鬼狩り、か。いくら来ようと無駄というものだが、ご苦労なことだ」
炭治郎たちが討つべき者、鬼はあまりにも冷たい声で吐き捨てる。感情など皆無だろうと感じさせるその声は、淡々と炭治郎と善逸に蔑む言葉を向けた。
「……お前からは、多くの人間の匂いがする」
「ほう、匂いか。当然だな、数えることも馬鹿らしくなるほど人間を食らったのだから」
「それを許す事は出来ない」
「こちらからすれば、食事を邪魔されるということを許すこともまた出来ないがな」
炭治郎と鬼の間に火花が散る。彼らの言葉は万に一つも交わることのないだろう言葉だった。張り詰めた緊張感が辺りに満ちていく。
善逸は炭治郎から一歩引いて、やはり全身を震わせていた。
「鬼狩りよ、この頸をとることが出来るならばやってみるがいい。出来るのならばな」
鬼の殺気が満ちた声を合図に、この場にいる者たち全員に緊張が走る。そして次の一瞬には鬼の鋭い爪と炭治郎の黒い日輪刀の刃が、激しくぶつかった。
善逸はその二者の姿を震えながら見つめることしか出来ない。緊張と殺気に満ち溢れたその場を、彼にはどうすることも出来なかった。
「こんなものか、鬼狩り!」
鬼が露骨に煽る。普段であればもう少し冷静に対処が出来るはずの炭治郎だが、今はいつもよりも頭に血がのぼってしまっているらしく、必死に食らいついていった。
「まだ、まだだろう!」
「くそっ!」
余裕のある口ぶり、そして素振りを見せる鬼に対して、必死に決死に炭治郎が食い下がる。白熱し過ぎているその戦いぶりは、側から見ていて危うさすら感じさせた。
「炭治郎!」
善逸が本能的に危険を感じて、炭治郎の名を呼ぶがその声は届かない。何度呼んでも、声を張り続けても、炭治郎に善逸の声は届かなかった。
嫌な予感がする、善逸は一抹の不安を胸に呼びかけ続けるが状況は全く変わらない。焦りばかりが募る中、鬼と炭治郎は互いの獲物をぶつけ合い続けていた。
炭治郎が呼吸を使い、技を繰り出す。それを鬼がすんでのところで躱して、一撃を繰り出した。その応酬がただひたすらに続く。互いが互いに一撃を加えることは今の所ないままだ。
状況だけならば互角だが、どうしてだろうか互いの様子は全く互角とは言い難い。どちらかというと、炭治郎が劣勢に立たされているようにすら見えた。
仮初の拮抗。そしてその隙をついて、鬼の爪がひっそりとしかし確かに炭治郎へと伸びる。
「だめだ! 炭治郎!」
善逸は声を張り上げながら、咄嗟に足に力を込めて炭治郎と鬼の間に、自身の身を滑り込ませた。
善逸の声と気配に炭治郎は驚きとともに視線を向ける。
「善逸⁉︎」
驚く炭治郎と同時に、驚きながらも鬼の方はほくそ笑んだ。嫌な予感がじりじりと迫り来る。
次の瞬間には、鬼の鋭い爪が善逸の頭に届き掠めた。掠めただけであったはずだが、爪の通り過ぎた場所からは血が多量に噴き出して、善逸の金糸と炭治郎の視界を真っ赤に染める。がくんと体勢を崩した善逸は、その場に膝をついた。
「善逸っ!」
再び炭治郎は善逸の名を口にする。先程の驚きを帯びたものよりも、絶望に等しい衝撃の感情で満ちた声に、鬼は意地汚く嗤った。
「たん……じろ……っ」
途切れながらも善逸は炭治郎の名を呼ぶ。しかし、彼は身体を起こすこともままならず膝をついたままでいることだけで精一杯といった様子だ。
「命拾いしたな。金髪の鬼狩りが飛び込んで来なければ、お前が貫かれることになっていたぞ」
鬼の言葉は炭治郎の肝を冷やす。確かに善逸がいなければ自分は命を落としていたかもしれないという恐怖が、あとから襲いかかってきては身体を震えさせた。
そして、さらに追い討ちをかけるように鬼のもう一本手のが迫る。そして鋭利な爪が突き出されて、善逸のことを襲った。炭治郎は必死に手を伸ばし、彼を救おうとするが一歩及ばす善逸の脇腹を抉っていく。かろうじて善逸がほんの少しだけ身体を動かすことが出来たことで、致命傷は回避することができていたが、それでも重傷を負ったことには変わりなかった。
炭治郎は必死に善逸を庇おうと身を乗り出す。するとまるでその行動を嘲るように、鬼は一歩身を引いた。背に善逸を庇った炭治郎と一歩下がった鬼とは睨み合う格好になる。
鬼を睨みつける炭治郎の瞳は鋭く光り、それを受ける鬼は未だに余裕を見せ続けていた。
しばらく続いた無言の間を切り裂いたのは、鬼が再び身を動かすために地面を蹴る音だ。炭治郎は身構える。そして、真っ直ぐに放たれた爪の攻撃を刀身でしっかりと受けた。
鈍い音が響く。ぶつかり合う衝撃が、刀から炭治郎へと伝わった。その振動は、鬼の攻撃との拮抗具合を如実に示していて、一瞬たりとも気が抜けないことの証でもある。
「……っ」
炭治郎の口からは言葉にならない音が溢れて、それでも必死にその場で踏ん張った。鬼から向けられる圧は、はっきりと炭治郎に襲いかかってくる。その苦しさに耐えながら、炭治郎はその場に立ち続けた。
しかし、その拮抗は最も容易く破られる。それも鬼の手によって。
ぶつかり合っているその地点で、まだ鬼の方には余裕が残っていたのだ。炭治郎の方には反対に余力がなかった。その差は歴然としていて、炭治郎はなす術もなく押し切られていく。
そしてついには爪の先が、炭治郎の頬へと至り彼の頬を確かに切り裂いた。炭治郎はたまらず顔を背けると、傷を受けた場所に確かに痺れと痛みを覚える。
「……っ!」
刺激に思わず息を漏らすが、それでも鬼の方へと視線をもう一度向き直ると、炭治郎は再び鬼の方を睨みつけた。
「まだこんなものではない」
相変わらず余裕綽々といった様子の鬼が、再び手を伸ばし炭治郎に攻撃を仕掛ける。今度こそと思う炭治郎だが、どうしたことか息が上がり息苦しさばかりを覚えた。
呼吸の乱れは炭治郎の動きを鈍らせる。一歩でも動きが遅くなれば、それは戦いにおいて致命的だ。鬼の手が迫る中、この絶体絶命な状況に炭治郎は強引に動きの鈍った身体を動かそうとする。
しかし、一度動きをとどめられてしまった身体は、炭治郎の求めるものには程遠い緩慢な動作をすることしかままならない。
焦りばかりが募っていく。それでも彼の身体が突然早く動くことなどなく、死をも覚悟した次の瞬間。炭治郎の目には赤に染まりつつある金色が飛び込んでくる。
善逸だった。彼は最後の力を振り絞り、文字通り身を呈して炭治郎を庇う行動を選んだのだ。
ぐちゃり、と嫌な音と共に血の匂いが満ちていく。炭治郎の嗅覚から血の匂いが全身を駆け巡り、それと同時に自身の血の気が引いていくのがよくわかった。
もちろんその音と匂いの出どころは、目の前の善逸だ。彼が炭治郎を庇ったことにより、再び負傷しただろうことは明白だった。炭治郎の目からははっきりと確認できないが、それでも間違いなく善逸は負傷している。
炭治郎は現状に動けずにいた。反して鬼は容赦なく善逸の首根っこを掴むと、乱暴に自身の方ヘと引き寄せる。
「この金髪にお前は命を救われてばかりだな。お前は愚かな人間だ、あとはその愚かさに絶望し心を折るばかりだな」
どこまでも鬼の声は冷たく、その冷たさは炭治郎の肝まで冷やすようなものに思えた。だが、それを押しとどめる一つの存在がある。善逸だ。
鬼の手に落ちてしまった善逸を救わなければならない。そもそもこうなった理由が自身にある以上、ここで引くことなどあり得ないと炭治郎は自分自身を奮い立たせる。
強く意識して呼吸をする、巡る酸素が炭治郎を立ち上がらせた。血の廻りが良くなり、傷からは一瞬血が滲んだが、それも呼吸で押し留める。溢れた血を手で拭うと、鬼を鋭く睨みつけた。
「俺は折れない、絶対に!」
炭治郎の張り上げた声に対して、鬼は心底から煩わしそうな視線を向ける。
「往生際が悪いな。お前は弱く惨めだ」
鬼の言葉に怒りが溢れて止まらない。それでも炭治郎は、自身の中に満ちていく激情を必死に抑えながら口を開く。
「善逸を、返せ!」
叫んだ炭治郎に対して、鬼は醜悪に嗤った。
「せいぜい足掻いてくれよ、出来るものならな」
善逸のことを雑に掴んだまま、鬼は跳躍する。見かけからは想像もつかないほど高く跳ぶと、その姿は闇に溶けて消えた。
「善逸っ!」
慌てて炭治郎は駆け出す。辿るのは血の匂い、善逸の血の匂いだ。幼い頃からずっと、幸せの壊れる時に嗅ぎ続けてきた匂い。その血の匂いを必死にたどる。今度は幸せを壊さないように、大切な存在を取り戻すために。
炭治郎は走る。血をたどり、匂いをたどり続けた。

「起きろ」
地面に転がされ、さらに強い衝撃を受けた善逸は、うっすらとその両の目の瞼を開く。
視界は一面緑色。そして土臭さとざらざらとした感触が、善逸の肌に刺激を与えていた。
「うあ……」
口の中は血の匂いで満ちていて、声を出すと鉄の味が喉に広がる。とてつもなく気持ちが悪かった。
「どうだ、気分が悪いだろう」
「……っ」
「まぁ、悪いだろうな。鬼狩りの仲間とは分断され、お前自身は重症。気分が悪くない方がおかしいという話だ」
鬼は嗤う。善逸を見下し、その優越感に酔いしれているといった風だった。
「お前……いまに痛い目を見るぞ……」
地面に這いつくばったまま善逸は鋭い視線で鬼を見上げ、冷たすぎる声色で精一杯に凄んだ。
「はははは! 痛い目を見ているのはどっちだろうな!」
善逸の言葉を鬼は一笑に付す。
「……何がおかしい?」
鬼は途端に不愉快そうな様子で、善逸のことを睨みつけた。しかし、善逸は怯むことなく鬼のことを睨み返してやはり笑う。
「何も気付いていないお前は愚かだな、と思っただけだよ」
「糞が」
挑発的な善逸の言葉に、鬼が怒りの言葉を吐き捨てて彼の身体を蹴り飛ばした。その衝撃に受け身すら取ることが出来ずに、善逸は地面を転がる。苦しげな呻き声と血反吐が善逸の口から漏れた。
「気付いていない? 何がある、お前の妄想だ、幻想だ。くだらない言葉で苛立たせるなよ。残り少ないお前の命がすぐに尽きることになるぞ」
言い連ねる鬼は怒りに震えているように見える。圧倒的優位に立っているにもかかわらず、焦りすら感じさせた。
「げふっ……だから愚かだって言ってんだよ」
さらに挑発する善逸の言動に、鬼は再び彼の身体を蹴り飛ばす。先ほどよりもさらに容赦無く繰り出された蹴りは、善逸の鳩尾を直撃して彼の身体を衝撃とともに転がした。
善逸の口から再び血反吐が溢れる。もう声を吐き出すこともできなくなっていた。
「黙っていろ。死ぬのを早めたくないならな」
鬼の声に、言葉こそ返せずとも善逸は不敵に笑う。それが鬼にしてみるとどうしようもなく腹立たしく、苛立ちと不快感を抱かせた。どうしてこんなにも余裕を持って、この場にいられるのか。彼は絶体絶命の状況だ、それは間違いないはずなのに。ただただ、善逸の存在と彼の考えていることの分からなさに腹が立って仕方がなかった。
怒りは冷静さを失わせる。視野を狭めて、反応と対応を鈍らせるのだ。
「笑うな、笑うんじゃない」
善逸の腹立たしさばかりを感じさせる表情をやめさせようと、鬼は彼の身体を何度も蹴り飛ばす。善逸の身体からは大量の出血があり、さらには蹴られた衝撃で口から血を吐き出した。
「糞、腹がたつ! この役立たずの鬼狩りめ!」
鬼の怒りの声のに混ざって、善逸の耳には一つの音が届く。それは呼吸の音、燃えるような呼吸の音だった。
善逸が再びその口元に再び笑みが灯る。その様子に再び鬼が足を振り上げた時だった。
何かが燃えるような音がはっきりと響き渡る。そして、鬼の頸が落ちた。
「あ?」
現実をまだ認識できていない鬼は、間抜けな声をこぼすが、無常にも頸は転がりそれと身体も全てが少しずつ灰になっていく。その背後には炭治郎の姿があった。
「炭治郎!」
地面に這いつくばり立つこともままならない善逸だったが、炭治郎の姿を見てその瞳を輝かせる。しかしその姿を見た炭治郎は衝撃を受けた。彼がこんなにも傷つくまで自分には何も出来なかったのだという罪悪感が、胸にこべりつくような嫌な感覚を覚える。
「善逸! ごめん……遅くなった……」
「ううん、絶対来てくれるって思ってたから」
弱々しくも確かに笑う善逸は、言葉の通り信頼の視線を炭治郎に向けた。その姿に炭治郎はほっと息を吐いてから、善逸を引き起こして彼の身体を支える。
「しばらく歩くが辛抱してくれ」
「だい、じょうぶ。だから……」
炭治郎に支えられる感覚と、彼の音に善逸は安堵を抱いて気が抜けていくようなそんな感覚を味わった。生きている、炭治郎もい善逸もその実感をお互いから感じている。
心折れそうになろうとも立ち上がり、その手を伸ばしたことにこそ意義があり、支え合う二人が求めた結果を掴み取ったのだ。
君を失わない、その祈りを叶えて彼らは今確かにここに在った。