神の使いたる龍の者

 雑踏の中に紛れ、人間たちの間を抜けていく。
もちろんそれは当たり前のことであり、周りの誰も振り返りもしなければ気にかけもしない。
疑問を抱くようなことももちろんなければ、違和感を抱かれることすらもなかった。
彼──八雲は多くの人間の中にありながら、たった一人だ。
するりと人混みを抜けて、暗い路地の方へと八雲は入っていく。これまでの人の気配が満ちていたのとは正反対の、全くと言っていいほどここは何者の気配もない場所だった。
そこで八雲はひとつ息を吐く。ここまで来たら、もう大丈夫だろうと安堵の表情を浮かべた。
姿勢をまっすぐに整えて、もう一度大きく息を吐き出す。
するとふわりと、どこからか淡い光がこの場を満たし始めた。眩しすぎず柔らかな光が路地を照らし、そこにはどこまでも清浄な空気が溢れた。
やがて八雲の身体に変化が起こる。彼は人間の形をしていたはずだが、その形状の大半はそのままに長い尾が地面にまで伸びた。尾の部分には鱗がびっしりと並び、淡い光に照らされて銀の色に光る。
そして特徴的な変化を見せたのは頭の部分だ。角のようなものが頭から二本、上に向かって伸びたのだ。
動物で表現するならば鹿の角のようなものがそこにはあった。厳密には神の御使たる神龍である彼にその表現は全く適切ではなかったが。
「ふぅ」
窮屈さが少し和らいだことに対して再度、八雲は息を吐き出した。
神の命により人間の中に紛れて生き始めてどれくらいの時間が経ったろうか。人間を助け、時に見極め、仕えている神の求めるままに行動を続ける。それが今の八雲のやるべきことだった。
正直なところ、人間に対しては微塵もこだわりはない。悪感情もないため、特に強く思うところもなく淡々と仕事をこなしていると言ったところだった。
一つ不便なことがあるとするならば、人間たちの世の中に適応し続けるためには本来の姿をとることが許されないということだ。完全な龍の姿で行使する能力と不完全に人の形の残った姿で行使する能力は、歴然とした違いが発生する。それは、八雲にとって非効率なものに思われた。
神に仕える者という立場がなければと、そう感じることはあまりにも多い。
それでもその縛りを受けてなお、八雲は人間と共にあり、神の代弁者として人知れず世に在る。
それでも本来の姿から程遠い状態で居続けることは窮屈であり、同時に力を使い続けるものであるゆえに、その調整を行う必要があった。今この瞬間がその調整を行う瞬間なのだが、今回は少し焦ってしまったのだろうか。油断していたらしい。
路地の近くに、人間の気配を感じた瞬間には時すでに遅し。八雲の視界に、一人の人間の姿が映る。
その人間は少し離れた場所に立っていたが、八雲のほうを見つめて呆然としており彼の姿が人とは異なるものであることは認識している様子だった。少しくすんだ赤い色の髪の毛もった青年の丹色の瞳は、まっすぐに八雲のことを見つめている。
この姿を見られてしまったからには、記憶を奪ってしまわなければならない。それは神の命を遂行するためには不要のものであり、八雲の存在を知る者が増えるということは純粋な不利益にもなりかねなかった。頭ではわかっている。
だが、どうしてか、八雲にそれはできなかった。
丹色の視線が相変わらず真っ直ぐに八雲を捉えている。八雲もまたまるで釘付けにでもされてしまったかのように真っ直ぐ、紺桔梗色の視線を向け返していた。
「お、お前……何者、なんだ?」
恐る恐る、赤い髪の青年は問いかける。
「……見たらわかるでしょう? 人間じゃないものだよ」
八雲は問いに対して静かに、そして冷たく答えた。