夜は静かだというのは幻想だ。もちろん人によって変わるところはあり、静かに感じる者も静かに感じない者もいる。
ここに肩を並べて歩く二人は、まさしくその二分された存在のそれぞれだ。
片や夜に静けさを覚えることのない神来社八雲、片や夜は静かだと感じている朱央恒人だった。
だが、夜が静かでないことを当然としている八雲は、騒がしさを感じていることすら気取らすこともしない。
付き合いが始まった当初から変わることなく、八雲は穏やかに笑うだけだ。そして恒人は事実としては知ってはいても、自身はその実感がない以上想像はしにくい。
つまるところ、今日もまた普段と変わらない様子で、肩を並べて言葉を交わして歩くばかりだ。
「急に呼び出したのに、店行くの付き合ってくれてありがとう」
「いや、これくらいはかまわねぇよ」
苦笑いする八雲に対して、恒人はひらひらと手を振って笑って見せる。
運営する喫茶店を早めに閉じて八雲の予定に合わせる格好になった恒人だが、それを全く気にしている様子はない。
八雲は可能な限り、急な呼び出しはしないようにしていたが一人でいくことが憚られる場所へ行くにあたっては、友人の少なさも手伝って白羽の矢は必ず恒人に立つ。
そして恒人もまた八雲の誘いを余程のことがない限り断りはしないというところもあり、彼らが連れ立って行動する状況はある種、必然とも言えた。
普段と変わらない時間、楽しく言葉を交わす夜。それはとても心地の良いもので、二人が関わり続けてきたこれまでの象徴でもある。
しかし、そんな時間が終わるのもまた一瞬だ。理由はあまりにも端的で、あまりにも強引な外的要因だった。
八雲の表情が一瞬にして強張る。
「……八雲、どうした?」
恒人も緊張を声に表しながら問いかけた。
そもそも八雲の表情がこうも強張ったところを、恒人は見たことがなかったのだ。
ただ事ではない何かが迫っている。
それは八雲の感じるものの大半を見聞きすることの出来ない恒人にもはっきりとわかることだった。
「……ちょっと、これはやばい……かも」
大抵のことを一人で片し、乗り越えてきている八雲の口から発せられたものとは思えないような歯切れの悪い言葉に、恒人はただただ戦慄する。
嫌な予感、という言葉すら生易しく感じられるほどに危険が差し迫っているのは間違いない。
恒人は急にやってきた、あまりにも現実味のない危機的な状況にごくりと唾を飲んだ。
「お前が言うなら、相当やばいってことだな……」
「そう思ってくれてた方がいいよ。けど、絶対になんとかする」
八雲の言葉には基本、嘘も偽りもない。だからこそこれから起こる何事かは、間違いなく二人の身を脅かすものなのだろう。しかし同時に、八雲としては勝機のない事象では決してない。
それを感じさせる八雲の言葉に、恒人は緊張と共に安堵する。楽観はせずともきっと事態は好転するはずだ、と信じることが出来たからだ。
「恒人、これお願い」
そう言って八雲が手渡したのは、いわば今日の戦利品だ。今回の目当ての品であり、目標の商品であるそれが収められた袋を恒人はしっかりと受け取る。
「おう」
恒人が勤めて普段の通りに振る舞えば、八雲はそれに薄らと浮かべた笑みで応えた。
同時に、ずんと重たい空気が満ちていく。
八雲は緊張と共に、その手に仕事道具である得物を手にした。
この場には既に恒人ですらはっきりと感じ取れるほど、異質で重たい空気が満ちている。それにさらに圧迫感が加わって、息苦しいほどだった。
そして〝それ〟は〝それら〟は現れる。
恒人の目には映ることがないが、それでも息苦しさを感じるほどの圧迫感は、さらに重みを増した。
八雲は大きく見開いた瞳で目の前を凝視する。彼の視界には道を埋め尽くさんばかりの異形の姿が映っていた。
「……百鬼夜行の方がまだ可愛げがあるなぁ」
ぼやく八雲の言葉に恒人がぎょっとする。
百鬼夜行が鬼や妖怪が夜中に徘徊している行列のことだということは、恒人も言葉の意味としては理解していた。それの方が可愛げがある、とは一体どういう状態なのだろうか。
考えるだけで寒気が全身に走る。
だが見えないものに対しての対処法など、恒人に分かろうはずもない。ただ静かに八雲の近くに立っていることくらいしか思いつきもしなかった。
「そんなに……やばいのか?」
「大分ね」
意を決して恒人が尋ねた言葉に、八雲はいつもと変わらない口調でいつもよりも深刻な言葉を紡いで返す。
少なくとも恒人が知る中では一番よろしくない状況だが、八雲は穏やかで落ち着いているように見え、感情的とは程遠かった。
それでも、ほんの少しだけ、苦しげに表情を歪める。それは苦笑と言うにはあまりに苦々しく、だが深刻さには欠ける表情だ。
「……俺はどうしておけばいい?」
「とりあえず、そこにいて」
八雲は恒人の問いに答えてから、一歩前に進み出る。動作からも声からもはっきりと緊張を感じさせ、恒人はより一層気を引き締めた。そして言われた通りにすることのみに注力する。
相変わらず恒人の瞳には何も映りはしないが、八雲の瞳は真っ直ぐにただ前を見据えて自身で言った百鬼夜行の方がまだ可愛げがあるという異形たちを凝視した。
やはり変わらず道を埋め尽くさんばかりの異形たちは、じりじりと距離を詰めて八雲たちに殺気を飛ばす。
わかってはいたことだが、やはりこの場を何事もなく適当にやり過ごすことが出来ないのは火を見るよりも明らかだ。向けられる殺気がそのことを如実に物語る。
殺気はもちろん八雲のみに向けられているのではない。見えずとも気配は恒人にも届き、恐怖や怖気を彼に与える。
「……っ」
嫌な汗が恒人の全身から吹き出してきてとまらない。それでも八雲の言葉を守り、その場を一歩たりとも動かないままでいる。
八雲はちらりと恒人の様子を確認して、さらに異形の方を確認するがすぐに飛びかかってくるような気配はない。どうやらじっくりと品定めでもしているらしい異形たちは、じりじりと距離を詰めてこそきているがそれだけだった。
「……今のうち、かな。恒人」
そう言ってちらりと八雲は恒人に視線を向ける。
「なんだ?」
「ちょっとこっちきて」
手招かれて恒人が進み出ると「そのまま動かないでね」と穏やかに八雲が呟いた。恒人の肩に手を乗せた八雲は、ぐいと身体を引き寄せて正面で向き合う形に半ば強引に整える。
「な、何だ……⁉︎」
「じっとしてて。今から、俺の目で見えてるものを共有出来るようにするから、それを使ってあいつらのいる先へと抜けて」
「は⁉︎」
「見えるものを避けて、真っ直ぐに走っていってくれたらいいよ。あとはこっちでなんとかするから。いいね?」
八雲の有無をも言わせない言葉に気圧される格好で恒人はただ頷いた。そうすることしか許さないと言わんばかりの圧迫感が、八雲の視線には含まれている。
それだけ彼が必死なのだろうことも窺い知ることができ、やはり恒人は何も言葉を発することをしなかった。出来なかったというのが正しいところではあったが。
恒人の無言を肯定と受け取って、八雲は大きく呼吸を一つしてからさらに一歩前に進む。目と鼻の先に恒人の顔と八雲の顔が並んだ。
あまりにも近くにある八雲の顔に、恒人は息を呑んで顔を背けそうになるが、その行動は許されない。
何故ならば恒人の顔に八雲の手が伸ばされ、動作そのものを止められてしまっているからだ。固定された恒人の額に八雲のそれが近づけられる。
「待て、待て待て待ってくれ。何を……」
動揺から反射的にそう声を上げる恒人だが、口元に人差し指を立てて当てた八雲に「静かにして」と制されて所在なさげに視線を彷徨わせた。
どんなに恒人が動揺したところで八雲の動作が止まることはなく、二人の額が触れる。恒人はその感触と熱に緊張を覚え、身体をかたく強張らせた。
どんなに身体は緊張していても、感触そのものが変わるわけではない。そして視界を占める整った八雲の顔もまた、変わることはないものだった。
やはり緊張が恒人を占める。それでも目の前の八雲の様子は変わることなく真剣に思われた。
強く額を押し当てて、八雲は目蓋を閉じる。それに倣うようにして恒人もまた目蓋を閉じた。
触れた場所から体温が伝わる。同時に何かいつもとは違う視界を感じ取って恒人が再び目蓋を開けば、目の前には八雲の紺桔梗色の瞳が真っ直ぐに見つめてきていた。その中には恒人の丹色の瞳が映る。
不思議な感覚だった。普段とは何かが決定的に異なる感覚に、恒人は少なからず困惑をしながら視線を八雲から逸らす。
すると、世界は一変していた。
厳密にいうと、恒人の瞳に映る世界は一変していた。
目の前の道には何もなかったはずだ。少なくとも恒人はそう認識していた。しかし今は目の前には道を埋め尽くさんばかりに、見たことのない何かしらがひしめき合っている。
恒人は再び息を呑んだ。今回の行動も緊張からくるものではあるが、先ほどの緊張とは性質から全く異なるものだ。
純粋な恐怖、得体の知れないものに対する恐ろしさからくる緊張だった。
「……お前、いつもこんなもん見てんのか?」
「そうだよ。それが俺の日常」
ちらりと様子を窺った八雲の表情は穏やかで、ともすれば薄らと笑みを浮かべている。恒人の方へ向ける視線は普段と変わりないもので、それは安堵に値するものではあった。
だが、これが日常ということは八雲はどれだけの脅威を日々感じながら生きているのかと、恒人は恐ろしくもなる。
ごくりと恒人は唾を飲み下して、緊張を少しでも緩和させようと大きく呼吸をした。
「……恒人、準備はいい?」
八雲の真剣な声に、はっきりと恒人は頷いてみせる。
「最初の道を開けるから、そこからはさっきも言った通りあいつらを避けて真っ直ぐに走ってね」
「真っ直ぐ……わかった」
「あ。あと」
八雲が思い出したようにもう一度口を開き、恒人はその言葉の続きに耳を傾けた。
「絶対に振り返らないで。何があっても」
先ほどよりもはっきりと強く言い含めるような言葉に、恒人は緊張と共に頷く。
何にせよ、恒人に今できることは八雲の言葉の通りに行動をすることだけだ。それが唯一、この状況から脱出を果たす可能性のあるものだった。
従わない理由はもちろんない。加えて、他の誰でもない八雲が言うことだ。特にこの手の状況における八雲の言葉ほど、信用に厚いものを恒人はこの世で他には知らない。
そうであるならば、やることは一つしかない。
「……じゃあ、いくよ?」
「……ああ」
八雲は刀の柄を軽く撫でてから恒人に声をかける。恒人の言葉に頷いた八雲は、無駄ひとつない動作で正面に向けて一閃を放った。
恒人の目にはいつ刀を抜いたのか、今はその刀身が鞘に納められているのかそうではないのか、何ひとつはっきりと映ったものはない。
「行け!」
鋭く冷たい八雲の声を受けて、恒人は弾かれたようにその場から真っ直ぐに走り出す。
先の一閃で恒人の向かう方向はすっかりと異形の姿は無くなっていた。おそらく全てあの一閃によって祓われてしまったのだろう。
考えるまでもないことだが、とてつもないことだ。これが彼の仕事なのだとは言っても、やはり八雲だからこそ出来る所業なのだろう。
恒人はそんなことを考えながら、自分自身の身体をひたすらに動かし続けた。
最初こそ一閃の衝撃を受けて異形は動きもしなかったのだが、そのうちそれらも再び動きを取り戻し始める。人間とは全く異なる形や構造を持ったそれらは、恒人の想像も及ばないような動きで襲いかかってきた。
ただ飛びかかってくるような単調な動きであれば、恒人にも回避をすることは可能だ。体力にこそ自信はないが、これといって運動音痴というわけでもない。
斜め前から飛びかかってきた、蛸のようにも思えるぐねぐねとした不定形の生き物をかろうじて避けながら、恒人は八雲の言葉の通りにただただ真っ直ぐ走る。
前からも後ろからも真横からも、嫌な気配と圧迫感、そして異形の影が迫って恒人は何度も立ち止まりそうになった。
だが、その度に背後から鋭く澄んだ金属音が響くと、恒人が恐れを覚えた何者かはその存在をこの世から散らしている。
八雲がしたことなのだろうことは間違いなく、それを意識する度に恒人の中には振り返りたい衝動が生まれた。しかし次の瞬間には八雲の「絶対に振り返らないで」という言葉を思い出し、衝動を抑え込む。
そしてやはり、ただただひたすらに真っ直ぐ前に走り続けた。
どうしてこんなにも異形が集まっているのだろうか。走れど走れど行く先には異形の姿があり、減るどころか増え続けている。
「どうなってるんだよ、これ!」
足を止めることも振り返ることもせず、恒人は後ろにいるはずの八雲に対して声を張り上げた。
「いいから走れ!」
普段とは様子の異なる八雲の鋭い声が飛ぶ。
恒人は学生の頃にも、これほどのことではなかったが不可思議な異形と行き合ったことがあった。
その時に恒人を助けたのもまた八雲だったが、異形を祓う八雲の様子はやはり今と同じく冷たく淡々と、そして時に鋭く言葉を発していたことを思い出さずにはいられない。
もう二度とあんな経験はないだろうと思っていたのだが、人生何が起こるかわからないものだ。
しかし、そんな感慨に浸っている場合ではもちろんない。
恒人は変わらず走る。目の前に姿を現した、自身の身体よりも数倍はあるだろうぬめりとした全身を動かす異形の横を必死にすり抜け、さらに姿を現した鋭く長い牙を持った動物めいた異形を躱し、ただただ走った。
背後から、真横から、ほんの少し後方の側から、やはり異形の気配は感じられるのだが、それについては先ほどと変わらず、後方からの鋭い音と共に放たれているのだろう八雲の一閃によって仕留められる。
肩で息をしながら、それでも恒人は走った。まだ気配はある。まだ影はちらつく。
異形の脅威は去っていないことは、あまりにも明白だった。
八雲の視界を借り受け、気配すらも察知できる現状において、恒人がそのことを把握するのはあまりに容易い。
まだ、まだ、まだ、足りていないのだ。
けれど恒人の身体の方が悲鳴を上げた。人体には限界というものがある。身体に精神は納められているが、連動をしているというわけではない。
気は焦り、どうしようもなく切迫しているにも関わらず、限界を迎えてしまった身体は望むような動作を行うことができず、それどころかほとんどが使いものにならなくなりつつあった。
このままではだめだ、逃げられない。
恒人の気ばかりが急く。周りももう見えない。気配を感じ取りにも感覚が遠く感じられた。
息が、苦しい。酸素が身体に足りていないという感覚だった。
──どうしよう、このままだと。
そんな焦りというよりは、絶望を感じた時だ。
「頭を落とせ」
八雲の鋭い声に、なけなしの動作で上がっていた頭を地面の方へと向ける。
すると頭上でひゅんと風を切るような音が鳴った。何事かと思ったが、次の瞬間に前方から圧迫するような気配が消えたことで状況を把握する。
八雲の一閃が恒人の頭上を掠めて飛んだのだ。
恒人はその切羽詰まった状況に、そして一歩間違えば自分の首が飛んでいたかも知れない状況にぞっとする。否、ぞっとすらできやしなかった。
だが、その時に気がつく。
目の前には本当に、文字通り異形の姿はない。ついに一団の果てに辿り着いたらしかった。
「八雲!」
「そこを動くな」
走れと言ったり、動くなと言ったり、恒人としてはややこしい限りではあったが、八雲は瞬間の最善を果たすべく行動しているということは見るからに明白でもあるため、文句を言おうという気にはならない。
動くな、そう言われて恒人はその場に静止しながら、ほんの少しだけ八雲がいるだろう方向に視線を向ける。
再び八雲の「絶対に振り返らないで」の言葉が思い出された。恒人の視界には、先ほどまでとは比にもならないほど、大量の異形の姿が映る。
蠢き、殺意を発し、この世に生きる全てを呪うそれらは、別個の存在でありながら同時に一つの集合体でもあった。
「……っ!」
振り返ってしまって初めて、八雲の忠告の意味を知り恒人は息を漏らす。
こんなものを見て、正気でいられるはずがない。今にも気が狂ってしまいそうな、吐き気を催すような異形たちの姿を八雲は恒人に見せまいとしたのだ。
それを、恒人は無下にした。結果としてそうしてしまった。
「もう終わる。終わらせる」
罪悪感と恐怖、そして異形の殺意と呪いが混ざり合いその場にとどまることすら危うくなっていた恒人に、八雲は冷ややかにしかしはっきりと告げる。
終わりを告げる声は凛と響き、この場の悪き気配を追いやった。構えたままの手には得物たる日本刀が握られ、冷たい視線は件の別個とも集合体とも称することができる異形を射抜くように見据えている。
冷たい視線は明らかに異形を怯ませ、そんな現状を誤魔化すかのようにそれは大きく咆哮した。
響き渡る咆哮は恒人の全身を恐怖で震えさせる。これまで休みなく走り続けていた反動も重なって、震えは全く収まる気配がない。どころかより一層の恐怖を恒人に刻みつけようと牙を剥いてくるのだから、厄介なことこの上なかった。
八雲の視界を借りていることも影響としてはかなり大きい。本来視るはずのない存在を視て、気配を感じ続けるのだから慣れていないことを続けて疲れないはずがないのだ。
恒人の様子に反し八雲は疲れを見せるどころか、息のひとつすら乱すことなく立っている。ただ当たり前にそこに存在し異形に対して寸分ほどの油断もなく、相対していた。
今しがたの自身の言葉を体現するように八雲は抜き放ったままの刀を構えている。その姿は人でありながらも絶対的な優位に立つ捕食者のようでもあり、異形は変わらず八雲のことを必要以上に警戒している様子だった。
じりじりと巨体で距離をはかりながら、八雲を警戒し続けて恒人の方には意識すら向けようともしない。
ある意味では舐められているとも言えるのかも知れなかったが、恒人としては標的があからさまに自身から逸れていることはありがたいことだった。
それでもやはり異形を視界に入れるという現状はあまりにも恐ろしく、始終を確認しておきたいという気持ちとは裏腹に視線はどうしても逸れがちになってしまう。
だがそんなことは、あまりにも瑣末なことだ。
八雲は異形の警戒の動きになど素知らぬ顔で、一瞬のうちに体勢を構えへと移行する。そして次の瞬間には地面を蹴り、あっという間に異形との距離を詰めた。
静寂の中、金属質な鋭い音がひとつ。そして次には異形が崩れ落ちる大きな音が鳴った。
それだけで全てが終わったのだ。
恒人の視界には最期の足掻きなのだろう、異形から溢れた恨みや妬みがどろりと混ざり合っていくのがはっきりと映る。
『お前は逃げただけだ』
『何もしていないくせに』
『ただ見ているだけの役立たず』
『見ているのなら、助けてよ』
声が、恒人の感覚を襲い揺さぶった。
──これは、こいつらの、声。
「恒人」
異形たちの声を遮ったのは、刀を鞘に納めて恒人の隣に立った八雲だ。
自身の名前を呼ばれていると承知できているにも関わらず、あまりの恐怖と衝撃と重たい感情に当てられて恒人は声ひとつ発することもままならない。
その様子を察したのだろう八雲は、恒人の手を強引に引くとそのまま無理矢理に自身の方へと身体を向かせる。
「よく聞いてね、恒人」
しっかりと言い含めるように八雲は言葉を紡いだ。恒人の狂わされてしまった感覚にも、当たり前のように響き染み込んでいく。
やっとのことで恒人がひとつ頷くと、八雲が小さく微笑んだ。
「ああいうのを視るときはね、逃げないことが大事なんだ。心の隙があったらつけ込まれてしまうから」
それは八雲の、この視界を制してきた彼の忠告だった。
「大丈夫。恒人は一人な訳じゃないから」
穏やかに、しかしはっきりと八雲は告げると恒人の方を見つめる。
恒人はその視線を受けて、八雲の言葉を何度も何度も反芻した。
──逃げない、こと。一人じゃない。
八雲が紡いだ言葉たちは、確かにはっきりと恒人の糧になる。今度は大丈夫だ。
恒人は視線を八雲から、異形の方へと向ける。相変わらず恨みがましい声は聴こえていたが、それだけだ。
覚悟を持ち、真っ直ぐに見つめてみると、よく分かる。異形たちはもはや、声を上げることで精一杯だ。それ以上、人間を──恒人を──害するだけの力は残っていない。
だが、このままではこの異形は禍々しい存在のままで終わってしまう。あまりにも居た堪れない、恒人がそう思ったときだ。
「……最期は穏やかに次へ向かってほしいよね」
八雲はぼそりとつぶやく。そして刀をすらりと引き抜いてから、淡々とした色の瞳を異形の方へと向けた。
「この次では穏やかに」
凛として落ち着いた声がこの場に響く。
そして声同様に落ち着いた、しかし無駄のない動作で八雲は異形を斬った。それは斬り捨てるというよりは、祓ったと表現する方が正しい。
美しく、ある意味では無慈悲なそれによって異形はこの場所から、この世から存在そのものを失っていく。
目の前の不可思議を見つめていた恒人の視界が急にぷつりと途切れ、次の瞬間には今まで同様に静かな何も見えない世界のみがあった。
急な変化に恒人は目を擦って、何度も瞬きを繰り返す。
「効果切れ、ってところかな」
答えを発したのは刀を再び納めた八雲だ。
八雲の用いた何かしらの効果が切れたらしい。恒人はほっと息を吐き出す。
それは間違いなく安堵の息だった。終わったのだ、そう感じるのには申し分ない。
恒人はその場にへたり込むと、八雲を見上げて苦笑した。
「お前、いつもとんでもないもん見てんだな」
「恒人からすれば、そうなんだろうね」
見下ろす八雲もまた苦笑する。そして手を差し出すと「立てる?」と少し首を傾げながら尋ねた。
「サンキュ」
恒人は遠慮なく八雲の手を掴むと、それに頼って立ち上がる。そしてずっと手に持っていた八雲からの預かり物を差し出した。
「これ、返すな」
「うん。ありがと」
八雲は手元に戻った今日の戦利品を見て、満足そうに目を細める。これを手にした瞬間から、実際的な時間としてはそこまで立っていないのだろうが、恒人としてはそれはとてつもなく前の出来事のように思われた。自分もそこにいたはずなのに、だ。
それでも、無事に非日常から日常へと帰ってきたのだと実感する。それは身が置かれた状況はもちろんのことながら、八雲の普段見ているものを垣間見るという意味においても、全ては終わった。
不穏のひとつも帯びない静かな夜は、ただ二人を包んでいる。
ここにはただ、変わりない日常だけがあった。
