人ならざる道を戻し

──何かに呼ばれたような気がした。
誰かに手を引かれているような、背中を押されているような、そんな感覚だった。
オスカーは得体の知れない何者かから招き寄せられるようにして道を歩いていく。
この道を、オスカーは知らない。全く、知らない。
知らないはずの道を、それでもオスカーは迷いなど一つもない足取りで進んでいく。いや、進まされていくという方が適切かも知れない。
そこにオスカーの意志は関与せず──関与させてもらえるものでもなく──足を動かす身体はどこへ行こうとしているのかすら分かりはしなかった。
オスカーの鮮やかな青い瞳から、少しずつ光が失われていく。彼自身の気持ちや意志が排除されて行っていた。
──こっちに行かないと。
そんな導かれる感覚だけがオスカーのことを満たしていく。それ以外のことはもう何も頭に入らない、何も思い浮かばない。
そのうちにオスカーの足は不可思議な場所へと踏み込んでいく。
それまでのオスカーの通ってきた道のりは、いわゆる山道であり参拝のた目の道といってもいい。
だがこの辺りはそれと近しい場所ではあるが、どう考えても気配が異様だった。ほんの少し先までしか見えず、ここがどこかなど何も伝わってこない。
普段であればおかしいと、違和感を覚えるところだろう。
しかし、今のオスカーに周りは何も見えていない。
わかっているのは、何かが呼ぶ方へ行かなければならないという意識のみだった。
行く道のこともわからない、周りのことなど見えやしない。
それでも呼んでいる声を無視をしてはいけないのだと、何故か当たり前のようにそう思っていた。
誰がすれ違っても気がつかない、誰かの声は耳に入らない。
──早く、早く、呼ばれる方へ。
焦るようにオスカーは足を動かし続けた。
もうすでに、人が踏み入るような場所ではなくなっている。
相変わらず霞む視界はあたりの様子を確認することを拒んでおり、人の道でもなければ獣の道ですらない人ならざる者たちの道が奥へ奥へと伸びていた。
その道は緩やかに傾斜しており、さながら黄泉へ続く道だ。奥へ奥へと足は進む。
だが、さらに足を踏み出そうとしたオスカーの腕を、しっかりと掴んで制する者がいた。
後方から引き留めるようにかけられる力に、オスカーは反射的に振り返る。その瞳には光はなく、くすんだガラス玉のような薄青い瞳が何一つの感情も帯びることなく、彼を引き止めた主を見つめていた。
「そっちは、駄目だよ」
彼はこの場には不似合いな黒地のスーツでそこに立っているはずなのに、どうにもこの場にふさわしい何かを帯びている。
しっかりとオスカーの手首を掴んだまま、ぴたりと動かない。もちろんオスカーは動こうともがくが、やはりその動作は許されなかった。
それほどまでに力強く明確な静止の力を向けて、ただただオスカーが落ち着くのを待っている。
「そっちに行ったら、もう戻れない。君に大事な人がいるなら──」
その言葉にオスカーの動作がぴたりと止まった。困惑するような、躊躇するような様子にオスカーを静止している彼は薄く笑みを浮かべる。
「大切な人と、会えなくなっちゃうよ」
口にされた宣告はオスカーの何かをぐさりと抉り、目を大きく開かせた。その瞳はこれまでのように濁った虚なものではもうない。澄んだ輝きを取り戻し、表情も虚なものから本来の快活さを感じさせる生き生きとしたものへと変わった。
「え……ここ、どこ?」
「やっと正気に戻ったかな?」
腕を握る目の前の男をオスカーはじっと見上げる。
「あ、の……はい」
「じゃ、ここに用はないね?」
「ない、です」
「それなら帰ろう。君には大切な人がいるんでしょ?」
「はい」
ほんの少し微笑むだけで腕を引くと、謎の心当たりもない道を彼は踵を返して歩き始めた。オスカーは引き連れられて道を戻っていく。
「あの……すみません」
「どうかした?」
背中からオスカーが声をかけても、男は振り返らない。
「えと……危ないところを、ありがとうございます。あなたの名前を……教えてもらっても?」
「気にしなくていいよ、偶然見かけただけだから。名前?」
そう言葉を返してからやっと彼は振り返る。
「神来社八雲」
そう言って薄く微笑む八雲の姿は、オスカーにまるでこの世とあの世の間にいる人のように思えた。